深い深い、木漏れ日も差さない程に深い森の中である。先日の雨のおかげで、咽返るような 
緑の匂いが立ち込める森の中、地面をミミズのように這い回る、太い木の根を飛び越える 
小さな影があった。 
 初夏の季節である。それにも関わらず、日の差し込まないこの森の冷たい空気のおかげで、 
彼の口から漏れる吐息は白い靄となっていた。彼は必死に逃げていた。何故必死かと言えば、 
逃げないとヤバいからである。捕まるとヤバいからである。 
「ぜぇーにぃーくぅーん」 
 背後から響いてきたその声に、彼は小動物のように身を震わせて背後を振り返る。しかし、 
見えるのは焦げ茶色の曲がりくねった樹の幹、そしてそこから欝蒼と生い茂る緑の葉ばかりで、 
その声の主の姿は見えない。 
 一拍遅れて、奥の方で何かが飛び立つような音が聞こえてきた。恐らくこの森に住むヤミカラスあたりが 
ただならぬ気配を察知して逃げ遂せたのだろう。その音が聞こえて来るということは、 
奴が――彼のことを追いかけてくる恐ろしい存在が、すぐそこまで迫っているということに他ならない。 
「あぁもうっ。何でこんなことに……!」 
 彼はその表情に焦りを顕にしつつ、再び樹の根から根へと跳躍を開始した。地面に降り立つことが 
できないのは当然である。しっとりとぬかるんだ地面に降り立てば、当たり前のように 
足跡が残ってしまうからだ。足跡が残れば、当然のように追跡者はその足跡を追ってくるだろう。 
そして彼を――ゼニガメのことを捕まえて、そして…… 
 想像するのも恐ろしくなって、ゼニガメはぶるぶると首を振った。 
 とりあえず小さな泉さえ見つけられれば、と彼は思う。そうすれば足跡も残らないし、 
水中に潜って奴のことをやり過ごすこともできるはずだ、と。 
 幸いなことに、先日雨が降った。よく周囲を観察すれば、樹の幹を伝う細い細い水の流れを 
見つけることができる。それはぬかるんだ地面に集まり、いずれ一本の太い流れとなって、 
この森に点在する泉のどこかに流れ着くはずだ。 
 焦るな――。そう自分に言い聞かせながら、彼は自身の胸元に前肢を置いた。堅い甲羅の 
感触を挟んでも、自分の心臓が強く脈打ってるのが感じられる。何度か深呼吸を繰り返してから 
目を閉じる。暗闇の中に微かに響くせせらぎの音。森の命とも言える、血脈の流れを確かに感じて、 
「みぃー」 
 ヤバい。 
「つけ」 
 咄嗟に目を見開いて顔を上げるが、 
「たぁーっ!」 
 前方から勢い良く『滑空』してくるフシギダネを前に、ゼニガメはまともな反応さえする 
ことができずに、その豪快な体当たりを食らうハメになった。 
「ふぶっ」 
 ずしゃぁぁぁと泥を跳ね飛ばしながら、ゼニガメを下敷きに二匹の体がぬかるんだ地面を 
滑っていく。ゼニガメのつるつるの甲羅のおかげかその勢いは中々収まらず、哀れな 
逃亡者である彼の後頭部が地面を這う太い幹にぶつかったところで、やっとその運動エネルギーは収束した。 
「もうー、そんなわざとらしく逃げなくたっていいじゃないー。この森の中の 
 追いかけっこで、私に勝てたこと無いくせにー」 
 事実であるからしてまっこと悔しい。後頭部から響くように広がる痛みに顔を顰めつつ、 
涙目でゼニガメは腹の上にちょこんと乗っかった追跡者――フシギダネのことを睨み上げた。 
「も……もーちょいだったのに……」 
「えっへへー、どうせどこかの湖の中にでも逃げようと思ったんでしょー?」 
 どうやらバレバレだったらしい。悔し紛れの言葉も呑み込んで、惨めな姿を晒すしかない。 
「そう思って、一番近い湖の方に来てみたんだけどー……大当たりだったみたいだねー」 
 実に愉しそうに笑いながら、フシギダネがその体をゼニガメにすり寄せてきた。 
体を覆う甲羅のおかげでその肢体の感触は感じないものの、甲羅からはみ出した 
彼の頬に、ひんやりとしたフシギダネの頬の感触が押し付けられる。 
 種族的に考えれば、ゼニガメとフシギダネの走る速さはほぼ同一である。だが、 
フシギダネにはつるのムチがある。それを生い茂る樹の幹に絡み付けて、振り子の原理の 
要領で縦横無尽に飛び回るのだ。小柄な体は森の中の様々な障害物を避けるのにも都合が良い。 
 勝てるわけが無かった。 
「さー、はじめよーよ。ね?」 
 フシギダネが、屈託の無い笑顔をゼニガメに向けた。これがいわゆるオママゴトであるとか 
かくれんぼであるならゼニガメも大人しく首を縦に振るだろう。だが彼は凄まじい勢いで 
首を左右に振った。樹齢二千年森の大樹のてっぺんからバンジーごっことか、彼女の遊びは 
普段から常軌を逸している。そして今日提案された遊びこそ、その常軌の逸し方が常軌を逸しているからだった。 
 その名も、愛の営みごっこ。 
 彼女の両親を恨まずにはいられない。今朝、『昨日の夜ね、私のお父さんとお母さんが――』 
という彼女語り口から始まったそれは、彼の知るオスとメスの生殖行為に他ならなかったからだ。 
彼女の両親が悪いわけではない。一旦そういう行為に及んでしまえば、周囲への注意力が 
散漫になるということくらいは彼も知識の上で知っているし、彼女が夜中に起きてその行為を 
目撃してしまったのもただの偶然に過ぎない。 
 だが、その『偶然』によって引き起こされた彼女の好奇心の後始末を、一向に引き受ける 
ハメになるのは自分なのだ。 
「いや、あのさ、ホント、どーいうことだか分かってんの、フシ? ねえ?」 
「わかってるよー? 愛し合ってる夫婦が、お互いの愛をカクニンするために……なんでしょ?」 
 間違ってはいない、けど。 
 その先、喉まで出掛かった言葉をゼニガメは呑み込まざるを得なかった。自分の腹の上に 
乗っかったフシギダネ、自分のことを見つめてくるその表情のせいだ。『そういう趣味』を持った 
奴なら一発で堕ちてしまいそうな、完璧な表情。僅かに涙で潤んだ瞳、斜め三十度に傾げた首、 
相手の口元からの距離は十センチ。だが彼は、その表情こそ、自分に降り掛かる大災害の予兆である 
ことを経験で知っていた。 
 言葉を呑み込んだのは赤い実が弾けたからではない。細胞レベルの、本能的な警告のせいだった。 
「んぅ……」 
 その隙を突いたのかどうだか知らないが、甘い声を出しながらフシギダネが顔を寄せてくる。 
十センチあった距離はゼロになり、お互いの口同士が軽い接触事故を起こした。 
 こんなフレンチキスなら日常茶飯事だし、ゼニガメは大して動じない。 
「ねえ、ゼニ君。……だめ?」 
 だが、フシギダネが今目の前で見せている表情。先ほどの完璧を超えた、一匹のメスの表情に、 
元々丸い瞳を更に丸くせずにはいられなかった。 
 今まで一匹の友達であったフシギダネを、一匹のメスとして見たのは初めてだったのだ。 
 ――ずるいよなあ、とゼニガメは心の中で思う。甲羅を持つ自分達の種族は、仰向けに 
引っ繰り返されたら起き上がることは容易ではない。その腹の上に誰かが乗っかってきたら 
それは尚更であるから、これは許可ではない。確認の問い掛けなのだ。 
「いやでもあのさあ」 
 が、無駄だとは分かっていても胎を括れないのも当然だと思う。彼女の両親のそれとはワケが違う。 
まだ一段階目の進化も果たしていない、いわゆる『お子様』である自分達がそういう行為に及ぶというのは、 
一体果たしてどういうもんなのか。 
「んー……」 
 そんなことお構いなしに、フシギダネは背中の蕾、その根元から二本の蔓を伸ばす。 
恐らく彼女の両親……というか母親の真似事でもするつもりなのだろう。その蔓の先端が、 
彼の体を這い回る。フシギダネの小ぢんまりとした重量感をお腹に感じながら、ひんやりした 
指のような感触に身を震わせた。 
 その気になれば、四肢と頭を全て甲羅の中に引っ込ませることも彼にはできる。だが、 
何故か――恐らく今までのお遊び中でもトップクラスに危険なオアソビなのに――彼はそれを 
しなかった。いや、できなかった。 
「ふ、フシぃ……。ホント、どーいうことか……分かってんの?」 
 その冷たい感触が尻尾の付け根を這い回り、思わず上擦った声を上げてしまう。そこに 
何があるのか、昨夜はそこまでじっくり観察していたのだろうか。 
「だから、分かってる……ってば」 
 フシギダネが顔を寄せてきて、彼の首筋に厚い舌を這わせた。生き物の体温を感じさせる 
その温かさは、自分の下腹部を這う冷たい感触とは対象的だ。思わず首を引っ込めたくなるが、 
何とか目を瞑るのに留めて、細い息を吐き出す。 
 ――分かってるのなら、何も言うことは無い。と思う。 
「んっと……、ここ、かな?」 
 フシギダネの蔓が、オスの急所が収まった箇所をツンツンと突いてきた。自分で触れるには 
何とも無いけれど、自分でない誰かに……というか、よりにもよってこのフシギダネに、 
しかもお腹の上に乗っかられた状態で、という非常に限定的なこの状況が、彼のオスとしての 
本能を僅かに目覚めさせた。 
「う……、ぅー……」 
「あ、何か出てきた」 
 甲羅の穴からはみ出すように出てきたのは、彼のオスの証だった。それを敏感に感じ取った 
のか、フシギダネが視線を彼の下腹部へと向ける。体色とは対照的な、ピンク色のそれをじっくり 
見られて、穴にでも入りたい気分だった。残念なことに穴を掘るは覚えていないので、 
顔を背けるに留めておいた。 
「い、いや。そんな見ないでって。ホント……。あ……、ぁー」 
 俯くように首を曲げて、フシギダネがじーっとそれを観察している。何故か彼のオスは 
その状況に更に興奮し、その鎌首を擡げてムクムクと成長していってしまった。 
 恐らくオスの性器を間近で見るのは初めてなのだろう。その初めてが、彼の種族のモノで 
あるのなら視線を釘付けにしてしまうのも仕方が無い。 
「う……わ、すごーい……。こんなにおっきいんだ、ゼニ君のって……?」 
「いやおっきいっていうか種族的に考えれば多分普通くらい……って別に比べる機会も 
 無い、ケドっ……!?」 
 何かの感情をごまかすように、彼が早口で捲くし立てるが、その言葉は下腹部から 
這い上がってきた感覚に途切れてしまった。フシギダネが、冷たくてツルツルしたその 
蔦を彼の根元からゆっくりと巻きつけてきたのだ。 
「ふ、フシ……ぃ……」 
 弱々しい声でゼニガメが鳴く。彼だって一応年頃の範囲には入っているし、自慰行為くらいは 
普通に経験がある。だからフシギダネのその行動の先に、何が待っているかくらいは容易に想像が 
ついてしまうのだ。 
「うぁ……あ、あぁ……」 
「ゼニ君の……、あつ、っ……、んっ……」 
 巻きつけた蔓をゆっくりと上下させながら、フシギダネも年齢に似つかわしくない鳴き声を上げる。 
完全に欲情してしまったその怒張の先端は、フシギダネの柔らかいお腹に軽く圧力を掛けていた。 
「えっとね……、こうやって……」 
 そのままフシギダネが体重を乗せてくる。そのお腹から下腹部に押し潰されるようにしながら、 
ゼニガメの性器が彼女に密着した。 
「――――!!」 
 彼はぐっと目を瞑り、その柔らかいお腹の感触とやわやわと動く蔦の感触に身悶える。 
自分の種族のアレの大きさと、彼女の『営み』の知識が完全では無かったのは幸いだと思った。 
彼女の体がゼニガメの肉棒を迎え入れれば、文字通り身を裂くような激痛が襲うだろう。 
「こーやってね、ママが、上になって、動いてて……」 
 熱く膨れ上がった自身の怒張、そこを拙く蔓が扱く度に微かな水音が響き渡る。自分の先走った 
粘液だけではないだろう。ゼニガメの方から軽く腰を動かしてみると、ぴっとり密着した互いの 
下腹部が、ぬるっと擦れ合わさるのを感じた。 
 フシギダネは草タイプだ。近寄ってみれば微かに甘い匂いが立つのは極自然なこと。だが、 
ゼニガメはこれほどまでに濃く甘い匂いを彼女から嗅いだことがない。 
「んっ……、んんっ……」 
 目の前のフシギダネの表情を見てみれば良く分かる。きゅっと目を閉じて、緑色の頬には 
血が通っているのか、微かに紅が差している。彼女が腰を振るたびに漏れる吐息が、 
自分の荒くなった呼吸と交じり合う。 
「フシ……っ、フシ、ぃぃっ……!」 
「んあ、ぁ……、ゼニ、くんっ……」 
 フシギダネの背中まで抱けない自分の前足が、少しだけ恨めしく感じられる。自分の一番 
敏感な部分が彼女の柔らかい下腹部にぴっとり埋もれ、互いのどちらのものともつかない 
粘液にぐっしょり濡れていた。お互いの体の間に入り込んだ彼女の蔦が這い回る。ぬちぬちと 
淫らな音を立てながら、狭くて柔らかいその空間を蠢いて、根元から先端まで這い上がるような 
圧力を与えてくれる。 
 自分の手で慰めるのとは違う。自身の意思とは無関係に与えられる刺激、自身のものでは 
ない温かみ、呼吸音、愛おしさ―― 
 今までに味わったことのないゼニガメが、絶頂へと駆け上がるのにさして時間は掛からなかった。 
「くっ……ぁあっ! イっちゃ、うっ……!」 
 上擦った悲鳴と共にゼニガメの体が、限界まで腫れ上がった逸物が跳ねる。軽くフシギダネの 
お腹を押し上げながら、溜まりに溜まった雄の欲望を解き放つ。リズミカルに下腹部が震えて、 
それに合わせて密着したお互いの体に白い粘液をべっとりと吹き付けていった。 
「ふぁ……、ゼニ君……、あつい……のっ……」 
 目の前のフシギダネの体に、メスの体に、自分の汚液をぶちまけてている――。その 
恍惚感に呆けたような表情を見せながら、ゼニガメは長い射精を繰り返す。一方でフシギダネも、 
ゼニガメの上で小さく体を震わせながら、軽く背を反らすようにして暗い森の天井を見上げていた。 
 
 
 
「はぁっ……、あぁ……」 
 射精を終えて、全身を弛緩させながらゼニガメが荒い呼吸を繰り返している。その表情を眺める 
フシギダネも、口の端から一筋の唾液の線を落としていた。 
 暗い森の中に響き渡る荒い息の音。それはどちらのものとも分からない。お互いがお互いに互いの 
下腹部を、絡みつく粘液を、その熱を感じ合っているだけだ。 
「…………ん」 
 フシギダネが倒れ込むようにしてゼニガメの口を塞いだ。先ほどと比べれば、明らかに体温が 
上がっているのが分かってしまう。――それはきっと彼女も同じだ。彼女も自分の口の熱さを 
感じているのだろう。 
 送り込まれるフシギダネの吐息。ゼニガメは彼女の舌ごと自分の口の中に迎え入れた。きっと 
彼女の母親も、事後にこんなことをしていたのだろう、と彼は思う。 
 でもこれは、きっとそれに習った『ごっこ』ではない。 
「んっ……、んんぅ……」 
 切なそうな声を上げながら、フシギダネがゆっくりと顔の角度を変える。まるで自分の口の 
中を味わうように、彼女の舌が這い回る。 
 『ごっこ』ではない。お遊びじゃない。彼女の雌の本能を感じながら、ゼニガメは遠慮がちに 
彼女の舌に自分の舌を触れ合わせた。 
 誰も見ていない暗がりの森の中、一体どれだけ舌を交し合っていただろうか。 
「……んふ……」 
 ゆっくりとフシギダネが顔を上げて、この森のように深い深い口付けを解いた。いつもの 
フレンチキスではない。互いの唾液でしとどに濡れた口周りを舐めているフシギダネの姿が、 
妙に艶っぽくゼニガメの目に映った。 
「もう……。ほんとーに……」 
「えっへへー」 
 そうしてフシギダネは、くしゃっと屈託の無い笑顔を見せる。先ほどまでのメスっぽさは 
どこに行ったのか、イタズラっぽい笑顔は普段の彼女そのままだ。 
 お腹の上に乗っかったまま、フシギダネが妙に嬉しそうに顔を覗き込んでくる。呆れた 
ように、そしてちょっとだけ恥ずかしそうにゼニガメは視線を逸らした。 
 だが、彼女の口から出た次の一言に、今度こそゼニガメは顔を赤くする。 
 
 
 
「……『本番』は、私が進化してから、ねっ」 
 
 
 
 

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