「もうそろそろ、朝方になるか」
「そだね」
あたしは彼の横に付け、後ろ足を畳んで尻餅をついて、その体を彼の側面に寄せる。
まだ真っ暗な森の中、彼の体にある模様が淡く光り続けてあたしの視界を確保してくれてる。
毎日を彼と一緒に過ごすようになって、まだあんまり経ってないかな。
一緒に過ごすって言っても最初は、夜行体質の彼と意思疎通できる時間なんて全然無かったけど。
日が昇り始める頃は彼の無垢な寝顔をただ横で眺めて、日が沈んで真っ暗になったら、彼の見守る傍で眠って。すれ違うことが多くてやきもきしてたっけ。
だけどお互いに少しずつ活動帯を合わせていって。今ではお互い、起きる時も眠る時も一緒。
夕暮れ頃に起きて、日が空の真上まで昇る前ぐらいに眠る、って。そんな習慣がついた。
いいことなのか悪いことなのかは分からないけど、あたしはそのことを喜ばしく思ってる。
「毛繕いしてあげよっか」
何気なしに、彼にそう声を向ける。
たわいない一言、ちょっと気が向いたらいつの間にか口から出す言葉。
「ん、ちょっと待ってろ」
彼はそう言葉を返して、斜向かいぐらいにある背の低い木に一歩、二歩向かっていき、飛びかかって。
程なくして成っていた木の実を三つ、枝ごと咥え採って、あたしの正面に戻ってくる。
「食うか?」
それは栄養の詰まった甘くて美味しい木の実。毒をちょっとだけ中和してくれる効果もあって、日一つ昇って落ちるその度に食べるようになった木の実。
小さい頃は、これの取り合いで二回くらい大泣きしたっけ。二回目の時なんか、喧嘩が収まってみればまともに食べれる状態じゃなくなってたりとかしたし。
なんだか因縁深い木の実だけど、今では仲良く分けあったりとかもする。ちょっと不思議。
「うん、ちょうだい」
あたしは小さい声でそう言って。顔を、口を彼のすぐ前まで寄せておねだりしてみる。
「しょうがないな」
彼はその木の実を、ほんとはただあたしの傍に置くだけで終わるつもりだったんだろうけど、あたしの言ったことを了承してくれて。
一旦木の実を自身の口に入れて三、四回ぐらい噛みしだく。
「ありがと」
あたしは舌を出して彼の口周りをそっと舐めて。程なくして、柔らかくなったその木の実を口移ししてもらう。
それと一緒に味の乗った唾液が流し込まれて、舌に甘い感覚が広がって。
口を閉じようとすると、入りきらず零れた唾液が頬を伝い、首筋を、前足をなぞって。その部分だけ体毛を沈ませた細長い模様を作ってた。
「みっともない」
そんなこと言われても別に気にするようなことじゃない。寧ろ、これで言い訳ができた、なんて心の中でこっそり笑う。
あたしは流し込まれた木の実をある程度噛んで、舌で転がして味わってから。少し遅れてぐっと唾液と一緒に飲み込んで。彼を見据えてから返事をする。
「後で繕ってくれる?」
「ああ」
触れ合っていられる、そのことがたまらなく嬉しい。
あたしは折り畳んでいた後ろ足をピンと伸ばし、立ち上がって。対面する彼の横まで数歩進み、その横に付いて彼の体をそっと押す。
「その前に、あたしが貴方を繕わなきゃだけどね」
彼は押されたのと反対側の足を折り畳み、草の地面に腹ばいになって。首を曲げて顔を、視線をあたしのほうに向けて声を短くくれる。
「頼む」
あたしはもう一度尻餅をついて座り、彼の耳や後ろ首辺りの体毛を舌でといて。続けて前足の爪で丁寧に整える。
ぴりぴりと彼の汗が舌をしびれさせて、心地いい。
彼のそんな汗、毒は、ずっと一緒にいると、やっぱり吸ったり、浴びたりすることってたくさんあるし。ずっと浴びてたらあたしの体が持たないことぐらい、お互いに分かってる。
それでも彼に触れるくらい傍に居たくて。毛繕いだなんてほんとは言い訳だけど、彼だって心地よさそうにしてて、多分満更でもない。
別に彼の体毛が特別乱れてるなんてことないし、寧ろあたしが乱しちゃうかもしれないけど。じかに触れて毛繕いしてくれる、あげるっていうのは、そういうこと。
「あたしってどんな性格してるかな」
繕う前足を彼の頭周りに登らせながら、急な話を振ってみる。
「ん」
「可愛いーとか、綺麗だとか、そんな感じのこと」
ふと気になっただけなんだけど、たわいない一言、ってわけでもない。
今までそう言う話をしたことってなかったし、空気から感じ取ることもなかったから。
「それ、性格って言わねえだろ」
彼の、困惑したみたいなくぐもり声が返ってくる。
「いいから言って」
無茶言ってるかな、ってあたし自身思ったけど。でも気になって仕方がなくて。
「んー……」
彼がそう悩み始めるとあたしは尻尾を宙に揺らし、何も言わなくても空気から読み取ろうとした。
彼、思ったことは正直にちゃんと言うのに、絶対そうだって思ってることでも言い切らず謙虚にも同意を求めてくる、そんなところがあるから。
姿形の変わった後も分け隔てなく接してくれて。だけどその頃の彼の思惑――あたしを屈伏させて侍らせたい、とか。そんな感じの空気を漂わせてたから、もっとガツガツしてて強気なのかな、って思ってたりもしたけど。
本当はもっと、"繊細"、って言うのかな。思惑と戦って、悩んで、結局どうすればいいか分からなかった。それが彼だから。
本能の行きつく先なんて皆同じなのに。"本当"の彼はそのことだって気にかけてくれて、優しくて。
でも空気を読みとる間もなくして返ってきた言葉は、あんまり心地のいいものじゃなかった。
「"意地悪"、かな」
「どういうことさ」
だからって怒るわけじゃないけど。そんなつもりなくても、ついついきつい返事になって。
ほんとあたしって物を問うのが下手で。彼の機嫌を損ねてないか、言ってから不安になる、けど。
「……怒ってる?」
彼は身を固くして、振り向くわけでもなくただ短く、そんな風なぎこちない声であたしの様子を窺った。
その体にある模様は光を抑えて、まるで気を張り詰めさせてるみたい。彼も不安がってた。
「ううん」
とにかくあたしは怒ってないって、ちゃんと否定して。それから両前足で彼の背中を挟んで、身を乗り上げる。
さっき木の実を食べた時の、唾液の伝った跡が当たってその背中を湿らせるけど、気にしてない。
柔らかくもピンと立った彼の耳に後ろから舌をあてがえ、弱々しく光るその模様を丁寧になぞりながら次の言葉を促す。
「……それだけ?」
「いや、さ。お前って結構大胆だよな」
大胆って言われても、自覚はなかった。
「一緒になるまでは、もっと臆病でおとなしい奴だって思ってたけど…… 」
「嫌?」
今一はっきりとしない彼の口ぶりがなんだかもどかしくて、空気の感覚に意識を向けてみる。
周りの空気は彼の感情に感化され、浮き足立って落ち着かない。それは嘘ほんととかじゃなくて。あたしに大胆でいて欲しい、ってこと。
空気の教えてくれたそれは何だかおかしくて、思わずくすりと笑う。
「ふうん、そういうのが好きなんだ」
ぐい、と顔を彼のすぐ横まで持っていって、彼の落ち着いた目を間近に捉えてからそう聞き直した。
「……ああ、うん」
少し間が開いて、でも彼は否定しなかった。大胆でいて欲しいって、それが望みなんだ、って。
あたしが空気から教えてもらった、ってことも彼はきっと分かってて。だからって何か言われるわけでも責められるわけでもない。
もうあたしのことを大分理解してくれてて。それが嬉しくて気が高揚する。
浮かせていた尻尾を彼の尻尾にきゅうっと巻きつけて、絞めて落ち着かせようとしてみるけどかえって落ち着かない。
確かに大胆に出るには、あたしの変な感性は便利かもしれないし。彼と一緒にいられるなら、って、思わずにはいられなくて。
「……お前さ、結構寂しい時期があっただろ」
そう喜々としてると、彼の、細々とした不安げな声が向けられてくる。
彼の"本当"には所々に穴が開いてて、その穴から控え目に本能が覗いてる。その本能には抵抗しきれないことも理解してるはずだけど、それでも優しい彼は抗おうとしてる。
だから遠まわしに、"嫌いなら逃げて"、みたいなことを言いたいんだと思う。ほんとバカみたい。
姿形の変わった後のあたしはほんとに寂しくて寂しくて、だからこそ一緒になれた。でも別に、寂しかったのはあたしだけじゃない、そうだよね。
「うん、今日も番おうよ?」
気付いたらあたしは、彼の続ける声を掻っ切って、そう短く言葉を差し向けてた。
番おう、なんて言葉にしたことが後から恥ずかしくなってきて、巻きつけてる尻尾をいっそう強く締める。
でもそんなこと言われる彼も、恥ずかしくて仕方ない、きっとそう。
それに恥ずかしいっていうのは悪いことじゃない。誰にも見せたくない、言いたくない、そんなことだけど。だけどそんな思いを共有できるって素敵なことだから。
「……このスケベ」
あたしは彼の言葉を無視して、顔を、頬をその暗い後ろ首に押しつける。
毒汗の匂いがいっそう強く感じられて、鼻をつんざいて。
それでも離れずにいると、それはすぐに喉の奥にまで広がっていって、じきに全身をピリピリとしびれさせ。刺激された目からは勝手に涙が流れて、彼の体毛に染み込んでいく。
格好だけでも彼の体毛を繕い続けようと、顔をうずめたまま前足を彼の頭の辺りに差し向けるものの。それもうまく動かせず、悪戯に彼の耳を撫でてぐにゃりと曲げるだけ。
「エーフィ」
そんなあたしを、不憫に思ったのかは分からない。
「うん」
あたしはちょっとだけ顔を離して、上向いて声を返す。
涙で霞んでるその視界には、真っ暗な中彼の光がぼんやりと浮かび周囲や彼の体に滲んでた。
「悪い……いっつも、ごめん」
急に申し訳なさげに、彼からそう声を向けられる。あたしのこと、悲しくて泣いてるんだ、って。そんな風に思われたのかな。
別に悪い気はしないけど、誤解されてるならそれは解いてあげなきゃいけない。
あたしは彼にもたれかかってた体を起こして、彼の横に付き直して。目をつむり、彼の横顔に頬を付けてそっと擦る。
「あたしのほうこそ貴方にたくさん助けられてるし、さ」
どくどくと、脈が強く打つ。
一瞬だったけど、すごく長く思えた静かな時間。
「……だから謝んないでよ」
そんな時間の後にはそう言葉を付け足して。まだまだ素直になれないあたし自身がちょっと悔しい。
気を紛らわすわけじゃないけど頬擦りを続けて。唾液の流れた跡が、涙の伝った跡が、彼の頬を濡らして。やがてお互いの頬の体毛が絡み付く。
こうしてると頬がだんだんとむずかゆくなってきて、あたしはよりいっそう強く頬を擦りつける。
分かってる、こんなことしても毒気を帯びて余計に悪化するだけ。でも、すぐ傍に彼が居ると思うと嬉しくて、嬉しくて。
「……これからも、こんな俺と一緒にいてくれ」
そんなことを続けてると彼は唐突にそう言って、その体であたしの体を横から軽く押す。
催促してるんだ。彼もまだまだ奥手なところもあって、どうすればいいか分からないみたいにすること多いし。
あたしは押された反対側の足を折り畳んで、さっきの彼みたいに草の地面に腹ばいになる。
「うん、好きだよブラッキー」
もうちょっと強気になってくれてもいいのに、ほんと甘くて。でもあたしはそういう所が大好き。
心が踊り、呼吸がまばらになって。喉の奥から声にならない声が漏れる。
日が昇っちゃうと、こう言うところを他の生き物たちにも見られたり、狙われたりしちゃうから。ブラッキーのことは特別だって、そう思いたくても、どうしても周りを警戒して無防備でいられなくなるから。
だから、まだたくさんの生き物たちが落ち着いて静まり返ってる今のうちに、って。いつもそうだし、今回も、言葉に出すじゃないけどそんな風に彼を急かす。
「もう少ししたら、丁寧に繕ってやるからな」
「うん」
木々の隙間から見える遠くの空には、赤っぽく焼けただれた色が侵食を始めていて。まだ間上は真っ黒だけど、もう少しすればここも真っ赤に染まって、焼けた後には青く明るい空だけが残る。
目と鼻の先に置かれた彼の足、そこにある模様は淡く緩急のある乱れた光を放っていて。まだまだ暗く静かな森の中には全然馴染まない。
そのくらい不自然な彼の光は、見ただけでもその高揚感が伝わってくる。お互いに同じ思いを共感してて、心がこすれ合ってる。くすぐったく、痛くて、幸せ。
「……ふ、くぐ……!」
空気から感じ取れることも多いけど。直接目で、鼻で、耳で、肌で、舌で、心で。この身いっぱいに貴方の好意を受け止めたいから。
繊細な貴方を思いがけず嫌がらせたり、傷つけちゃうかもしれないけど。それでももっと近くに居たいから。
「んや、えぅ」
貴方が思う通りの言動ができるように。貴方の邪魔をする"本当"を傍で感じて、それを本能と争わせないよう少しでも手助けしてあげたいから。
だから代わりに、あたしのことをもっと知ってよ。独りで居た頃がどんなに寂しかったか、分かるとかじゃなくて、その身いっぱいに感じとって欲しい。
「だいじょぶ、かあ……」
貴方と一緒にいてもいなくても、暗闇に苦しくて潰れてしまいそうなあたしを。全部教えるから、支えて欲しい。
まだまだ貴方は頑丈な柱じゃないかもしれないけど、あたしが上から留めて、しっかり補強してあげるから。だからあたしのたった一つの足場になってよ。
「へぇき」
あたしには貴方しかいないから。あたしの"本当"を、何も言わず認めてくれるのは貴方だけだから。
離れたりなんてしたら、ただひとり苦しくて、潰されて死んじゃうから。
「おねがああいぃ、もおっと」
大丈夫、貴方が怖がることなんてないよ。
ずっと一緒だから。その黒い体毛も、辺りを漂い始める貴方の瘴気も、何もかもが魅力的で。
だからちょっとぐらいの我侭――いいよね。