「エーフィ」
「何?」
彼に呼ばれて、短く声を返す。
「こうなることは分かってたのか」
「うん」
彼は視線を逸らすみたいに、前を、どこか遠くを見据えていて。
「避けることだってできたはずだろう」
現状に納得してないのか、そんな風にあたしに声を向ける。
真っ暗な森の中、彼の体にある模様が優しい光を放ってあたし達の周りを照らしてくれてる。
彼はあたしを仰向けに押し倒した状態で、あたしの体の左右に足を置いて。
こうなっちゃうことはちょっと前から空気が教えてくれてた。彼の言う通り、あたしが彼を避けることだってできたはず。
「ブラッキーは、こうしたかったんだよね」
だけど、そういうのもいいかなって。いつもは避けてたところだけど、今回は受け止めてみたくなった。
「いや……いや、だから、うん、その」
「……なんて、ね」
取り乱す彼がなんだか面白く、くすりと笑って。
あたしは尻尾をゆらりと宙に舞わせて、空気の感覚を読みとってみる。
空気は彼の思念に影響されて、乱れ、不規則に流れていた。
「ブラッキーは、あたしのこと好き?」
「聞かなくても分かってるだろ」
あたしが声で聞いても、彼は嫌そうな口ぶりでそう言い、答えるのを拒む。
今まで彼の周りの空気を感じ取ってきてて、別に言ってくれなくてもどう思ってるかなんて分かってるけど。
「言って」
ただ、直接言って欲しくて、そうお願いして。一瞬の間が開いてから彼の言葉が返ってきた。
「……好きだよ」
彼は瞼を少し落とした虚ろな目で、それでも視線はあたしの目を見据えたまま動かない。
分かってても、こう言われるのはすごく嬉しくて、ちょっと恥ずかしい感じもして。あたしの気分を高揚させる。
「もう一度言って」
ずっと聞いていたい言葉。別に意地悪するわけじゃないけどそうせがんで、今度は間髪を容れずに言葉を返してくれる。
「好きだよエーフィ」
暖かく柔らかい彼の体が落ちてきて、あたしを包み込んでくれる。
小さい頃じゃれ合ったみたいに無心で居られる訳でもないけど、怖いことなんてない。
彼から感じ取れる優しさ、それとその内にある願望、どっちをとっても嬉しかった。
「ありがと」
あたしはそう小さく声を返し、そのまま彼の首元に鼻を押し付ける。
少し嗅ぐと、ツンと刺すような独特の匂いがした。彼の汗であり、本来ならその身を守る毒。
あまり嗅いでいると体調を崩すけど、こう改まって嗅いでみるととても甘い香りがする。
口を当てがえて誘われるままにペロリと舐め取ると、舌の表面が毒を嫌って熱を帯びる。
「お、おい」
そんなことしてると、彼の困惑しているかのような、張りのない声が差し向けられて。
「大丈夫だよ」
本当に大丈夫かはちょっと怪しいけどあたしはそう答える。
暖かさもあって、ただ離れたくなくない。そのままぐい、と顔を押しうずめると、じきに顔全体がむず痒くなってくる。
それでも、これが彼なんだ、と思うと、辛い事もなかった。
少しの間はお互いそのままで居て。淀んだ空気は辺りを落ち着かせながらも、彼の思惑を運んであたしに伝える。
「……エーフィ」
「うん、何?」
あたしがそう聞くが早いか、彼の舌があたしの頬を軽く撫でる。
愛撫されてるのかただ繕ってくれてるのかよく分からないけど、心地いい。
「……お前を、俺の物にしてしまいたい」
「スケベ」
空気の教えてくれた、彼の願望のほうが今し方前に出て来始めた。
でも悪い気はしないし、寧ろ彼の物になったらどうなるのかとか、そう思うとなんだか楽しみで。
「その、他にどう言えばいいか分からない、お前が欲しい……」
「あたし、物じゃないんだけど」
彼の言葉を思わず強く突っ撥ねながらも、恥ずかしさを紛らわそうと自分の細い尻尾を彼の尻尾に軽く絡ませる。
からかってるわけじゃない、もっと、過激な言葉が欲しい。
彼は、うう、と声を詰まらせて。一時の間が開いてからようやく言葉が返ってきた。
「まだガキだった頃は、なあ、もっと近くにいただろ」
あの頃はお互いに姿だって変わらず、何がよくて何が悪い、みたいな物心もついてなかった。
しょうもないことで喧嘩して泣きじゃくったりもした。
「しょうがないよ」
あたしだって本当は、あの頃みたいに無心でじゃれ合いたい。
でもいつからか他の生き物の思惑や、これから起こりうるであろう事なんかを空気から感じ取れてしまうようになって。
最初はあたし自身が勝手に思ってるものだって、そう信じてたけど。脳裏を過る光景はどれもこれも本当で、他の生き物のことをずっと警戒するようになってた。
「そんなこと……あの頃みたいに、近くに居たい!」
あたしは目をつむって、こくりと頷く。あたしのことを大切に思ってくれてた生き物が、いよいよ一歩踏み込んで来てくれたんだ。
今までは彼のことも警戒してた。でも、もうそんなこと思わなくてもいいんだよね。
彼も成長して毒を持つようになってから、毛繕いとか過度に他の生き物と近づくことは避けてたみたいだし。あたしたち、似た者同士なのかな。
あたしは目をつむったまま自身の尻尾を、絡ませていた彼の尻尾から少し浮かせてもう一度空気の感覚を読みとる。
再認識した彼は禍々しい空気を纏っていた。ちょっとした野心を持った、いつもの彼だ。
「なあ、その、いいだろ……?」
さっきあたしが頷いたのが見えなかったのか、それとも彼もあたしの言葉を聞きたかったのか、彼はそう言ってあたしの耳を押さえつけた。
彼の吐く息があたしの顔をかすめる。彼は落ち着くことを次第に忘れ、言動が粗暴になってきている。
「何したい?」
あたしだって、もっと近くに居たい。空気の感覚も本当は分からなくていい、ただ近くに居たい。
さっきの毒が回ってきたのかな。胸は破裂してしまいそうなぐらい鼓動を打って、喉の奥を絞めつけて。だけどこの苦しさが嬉しくて、楽しい。
「エーフィ」
彼ならきっとあたしを受け止めてくれる。ちょっと都合の悪いことも、何もかも。
あたし、そんな彼のことを欲しがってたんだ。支えてくれて、支えてあげたい。
「ブラッキー……うん、あたしもこういうのちょっとだけ憧れてた」
求められて、求めて、なんだかよく分からないけど、そのうち理解できるようになると思う。
今はただこうして、お互いを認め合って居られればいい。
「うええ……エーフィイイイ!!」
「えぁ……や、ぁぁ」
彼の口があたしの耳の付け根辺りにあてがえられて。優しく、甘く噛んでくれる。
あたしがそれに近いことすると毒がどうとか言うのに、なんだかずるい。だけど、幸せ。
あたし自身の変な感性が仲間内に知れ渡った時も、彼は分け隔てなく接してくれた。
でもあの時は彼の内の思惑なんかを察知して、それでもどうすればいいか分からずただ距離を置くことしかできなくて。
あれからずっと、他の生き物たちにも一歩距離を置いて孤独だった。でも本当は寂しいのは嫌で、ただどうしようもなく独りだった。
だけど彼と一緒にいれば独りじゃない。ずっと一緒に居たい。
言わなきゃ通じないのは分かってる、彼はあたしじゃないんだから。だけど、ほんとに言っちゃうのはちょっと。
――好きだよブラッキー。