普段なら日が落ち始める頃だろうか。空は明るくも、灰色に覆われていて日が見えず。そこから降ってくる白い粉は、ちらり、ちらりと宙を舞っては落ち、俺や石の地面に雨を染み込ませていく。  
その粉を舞わせる風は、ゆっくりとしながらも冷たい牙を持って。雨が染み込んだ俺の体に、態々一度噛みついてから嘲笑うようにすり抜けていく。  
沢山のニンゲンと、それらの"飼われ"がすぐ側を通り。そいつら二者は時折俺に視線を向けこそするが、歩みを止めず、何も無かったかのように過ぎていくばかり。  
 
森を抜け、丘を降りてすぐのところにあるこの集落。木々の姿が無く石が大量に積み上げられている、ニンゲン達のこの集落。  
飼われの"あいつ"と会ったあの時から、日一つ昇る度に来るようになって。もうどれくらいの期間が経っただろうか。  
最初は苦手で仕方なかった草のない地面、平らな石が敷き詰められた地面も。これでもかと言うぐらい踏みつけて、今ではすっかり体に馴染んでしまった。  
俺自身、何の理由があってここに通い詰めているのか分からない。ただいつものように、積み上げられた石と石の間を歩くだけ。  
狭い道を通り、開けた場所では端から視線を泳がせて、結局何も分からないままふらふらと森に戻るのが常だった。  
 
しかしこの日は、視線がある一箇所に突き刺さって抜けず、足が動かなくなった。  
開けた中央、ニンゲン一匹のすぐ側にいる、赤と黄色のくすんだ体毛を持つ生き物が俺の視線を捕らえていて身動きが取れず。そいつもまた俺のほうに視線を返していた。  
鋭くも、どこか遠くを見ているような虚ろな目で。睨まれているのかはよく分からない。  
体毛のくすみ具合は酷く、あまり穏やかな生活はしていないのだろう。それらも含めて、俺にとって見覚えのある姿だった。  
「ふらりい」  
目の前にいるそいつに、"あいつ"の呼ばれを向ける。  
ニンゲンから貰ったと思われるその呼ばれでも、くだらないとかは今更思うところでもなく。ただ目の前にいるそいつが、以前出会ったあいつであると。  
同族であり、戦闘狂であり、俺よりずっと強い"あいつ"であると。そう分かるならそれでよかった。  
「リーフィア、さん」  
そいつは俺に視線を向けたまま、そう俺の種名を呼んで。そんな声とともに吐かれた息は白く濁っっていた。  
目つきを変えず俺との距離を一歩だけ詰められて、俺も開けた場所の中央にいるそいつに向かって、端から二歩、三歩と距離を詰めていき。地面を一蹴りするだけではぎりぎり届かない程度の距離で止まる。  
辺りを行きかうニンゲンや飼われの奴らは、俺とこいつを避けるように端をほうを歩き。中央には俺とこいつと、こいつの飼い主と思われるニンゲンだけが立っていた。  
「戦おうか」  
俺がそう言ってから前身を低くし構えると、こいつも釣られるようにして、同じように構え。  
俺は続けて石の地面に爪を立て、雨を吸い重くなった体毛を強引に逆立てて威嚇する。  
「勝負しなきゃ、駄目なんですか?」  
こいつは気が乗らないのか、構えこそしたがそれ以上はせずそう声を向けてきて。  
戦闘狂だったあいつは何処に行ったんだ、と思いつつも、言葉を続けて戦うよう促す。  
「理由なんて要らない」  
手強い敵が目の前にいて、戦いたい。こいつより強いことを示せればいい、それだけでよかった。  
理由なんてくだらないばかりで。本当はしっかりした思いもあったのかもしれないが、ただ戦うことばかりが頭を過る。  
「……そうですね」  
やがてこいつは理解を示し、ううう、と唸り声を上げ始めた。  
 
俺は距離を保ったままこいつの横に回り、こいつもそれに合わせて俺のほうに体を向け続ける。  
場所が悪いのは分かってる。草の地面なら、それを結ばせて相手を捕らえることもできるのに、石の地面ではそれができず、攻め込み辛い。  
飛び掛かれる隙をそう探していると、こいつは俺に向かって炎を吐いてきた。  
牽制としてだったのだろうか、斜め後ろに飛び退き避けて。行き場の無くなった炎は宙を舞い、そこにいた白い粉達を消し飛ばして。  
そんなことに気を向けていると、こいつは瞬く間に俺の目の前まできていて。飛び、前足を振りかざしていた。  
飛び退こうとしても間に合わないだろうか、そう思いながら足に力を込めたその瞬間には、こいつの爪が首筋辺りにめり込む。  
咄嗟に地面を蹴り、体ごとその胴体にぶつかっていき。爪が首筋辺りから外れ、こいつを跳ね飛ばして。  
距離を置きなおそう、と思った直後だった。  
 
ごおお、と俺の体を何かがすり抜け、じりじりと、聞き慣れない音に囲まれて。体じゅうに強く持続的な痛みを作っていた。  
宙を舞う白い粉が、俺のすぐ側に来た途端に消えていく。こいつの吐いた炎に身を焼かれているのだと気付いた頃には、もう体じゅうに力が入らなかった。  
足が関節から曲がり、石の地面に腹から倒れ込む。雨が染み込んで冷たいはずの地面に腹を当てても何も感じない。  
その癖、辺りにいるニンゲンや、飼われの奴らの声ばかりが耳に強く響き。かといって何を言っているのかも分からず、ただ、ガンガンと頭を痛める。  
負けたのか、と、今更冷静に考え始めるが、何か行動を起こせる状態でもない。  
飼われの奴に負けるのは何度目か、三度目になるか。今度こそ俺もニンゲンの元に下ることになるのだろうか。  
そうこう思惑を巡らせて、しかし結論が出る前に慣れない感覚に襲われて、何も考えられなくなった。  
 
 
ニンゲンの強大な力に捕らわれたのか、と気付いたのは、もうだいぶ経った頃だった。  
俺みたいな野生を飼われの奴と戦わせ、弱ったところを生け取りとする独特の捕らえ方。そんな策にすっかりはめられた。  
今いるここは、ニンゲンの所持品である小さな球体の中で、もう俺は立派な飼われの一員となっているのだろう。  
体じゅうを焼いたはずの傷もいつの間にか癒えていて、ニンゲンの末恐ろしい力を改めて実感する。  
しかしながら、不本意にも飼われとしてこれからニンゲンに従っていかないといけないと、そう思うと気が重い。  
飼われの"あいつ"に勝てなかったことまで思考を広げると、次第に悔しい思いでいっぱいになってくる。  
 
そうしていると突然世界が広がり、それと同時に体が重く感じられ、ぐらりと胴体が、首が落ちて。冷たく平らな地面に体をぶつけ、一度だけ軽く跳ね返ってからその地面に腹ばいになる。  
視線を泳がせると辺りは暗く、ただその中に赤と黄色の優しい灯りがぼうっと一つ浮かんでいて。その側には、光に照らされた"あいつ"の姿があった。  
「リーフィアさん、大丈夫でしたか」  
その前足には小さな球体を押さえていて、それが先ほどまで俺自身の収まっていた物なのだ、とすぐに気付く。  
「……ふらりい?」  
状況がよく分からず、腹ばいになったまま視線をこいつのほうに向けて、ただ腑抜けた声を出す。  
こいつはそんな俺に視線を合わせると、小さく微笑んで言葉を続けた。  
「よかった」  
ただ、何に対してそう言っているのかも分からず、俺は顔をそらし暗がりの中に視線を泳がせて、辺りを見る。  
四方と、地面と、空が真っ平らな壁に囲まれていて、風は吹かず、そこそこの広さはあるというのに狭苦しい空間。  
一方ではニンゲン一匹が横になり眠っていて、また別の一方には、壁に大きく四角い穴が空いていて、外の様子が見える。  
ただその外も暗く、点々とニンゲン達の光が映るばかりで。もう日の落ちた頃だったのか、とようやく気付かされた。  
「私、勝ちましたよ」  
そうしているとこいつから言葉を続けられ、すぐ近くにいることを思い出させられる。  
視線をこいつに戻し、灯りを受けて浮かぶその顔を見ると笑っていて。それがかえって憎たらしい。  
「負けたよ」  
不機嫌なりにそう言葉を返しながら、足に力を入れてすっと立ち上がる。  
こいつは以前の別れ際に、俺に対して「今度は貴方を屈伏せしめる」だとか言っていたか。まさか本当にそうなるとは思ってもおらず。  
かといって、できてしまった上下関係を覆すほどに強く威嚇できる立場でもなく。何かしらに対する嫌悪感があった。  
 
「……私達、もう"仲間"ですよね」  
「ああ」  
こいつから続けられる言葉も、あまり認めたくはなかったのだが肯定するしかない。  
同じニンゲンの元に集う飼われ同士、仲間となっていることは俺だって理解しているが、それでも気持ちばかりは否定したく、悔しく。  
気を張り詰めさせ、目の前にいるこいつの、次の一挙一動に神経を向ける。  
「私達同じたち」  
「いや、お前のほうが上だ」  
こいつが続けて言葉を放つが、そこに俺が素早く声を挟み、こいつの言葉をぶった切る。  
立場の確認だとすぐに分かる。嫌味でしかなく、そんなことを聞かされたくもない。そんな思いから来た、俺にとってせめてもの反抗だったのかもしれない。  
「ええと、ですけど、言葉……その」  
それが思うより効いたのだろうか、こいつは言葉に詰まり視線だけを俺に向け続けて。  
「俺なんかに態々言葉を選んでくれなくていい」  
俺がそう言葉を貸してやるが、こいつは何も言わずただ固まり。  
「気軽に物言いしてくれていい」  
「あ、ありがとうござ……」  
そう言葉を続けると、こいつは顔をうつむかせ視線をそらし、ようやく一言、小さな声で一礼した。  
急に虚ろげな目になり不安げに言うその様子は、どこか幼稚で可愛らしく悪い気こそしないが。俺の服従する相手がずっとこの調子なら本当に先が思いやられる。  
 
暫くお互いに何も言わず。暗く静かな中、ニンゲン一匹の小さな寝息が頭にガンガンと響き、すり抜けていく。  
赤と黄色の灯りが揺れ、この狭苦しい空間を捻じ曲げようとして。平らな壁達はそんな灯りに釣られて一度歪みこそするが、程なくして元に戻り。  
俺はどうすればいいのか、この場で眠っていいのだろうか、などと思考を巡らせていたところこいつが突然俺に言葉を差し向ける。  
「……ねえ」  
そう言い一歩、二歩と俺に歩み寄ってきて。すぐ傍に付いたところで止まり言葉を続ける。  
「私に従ってくれる?」  
俺を侍らせるつもりなのだろう。こいつは言葉を言い終えると俺の返事を待たずに腹の下までその顔を押し込んで。  
「意のままに」  
俺が体の力を抜くと、そのままこいつの力に押し転がされて、仰向けになる。  
背中を地に付けて、こう寝転がったのはいつ以来だろうか。悔しさなどももう思うところではなくなり、冷めた諦めの心持ちでただ従い。  
こいつは俺の胴体左右に両前足を置き、体を降ろし俺にぴたりとくっついて。俺の腹にその顔をうずめながら、甘えた、くぐもり声を発する。  
「貴方の傍、すごく心地いいんだ」  
侍らせる側としてはさぞ気分がいいのだろう。以前こいつと会った時は、俺がこいつを侍らせていたのだから理解できなくもない。  
ただ落ち付き冷めた心持ちでそのことを思い返すと、一体何が面白かったのだろう、と俺自身分からなくなる。  
「嬉しいか?」  
「うん」  
尋ねるとこいつは即座に肯定して、その顔を俺の腹に擦りつけていた。  
俺の視界には、暗い中ただ空の壁が灯りを浴び、ゆらゆら揺れている姿を映すばかりで。こいつの表情など読みとれず、どうすればいいのか分からない。  
 
そう戸惑っていたところ、急に、心地のいい匂いが鼻を刺した。  
甘く、それでいて通り過ぎた後も鼻の奥をうずかせる匂い。以前会った時に侍らせた雌の匂い。  
もう一度支配したいと、思いだしたかのように頭の中を言葉が巡るものの。この雌に従うしかなく、強く反抗もできず。一度忘れたはずの悔しさが再び募っていく。  
俺の足や、尻尾や、耳はぴくぴくと動き、宙を緩く掻いたり、平らな地面をなぞり。何かもどかしく、満たされない思いが体に強い鼓動を打ちこませ。  
一方でこいつも落ち着かないのだろうか。程なくしてこいつは、くっつけていた体をもじもじと動かし、俺の腹に前足を、舌をあてがえて毛繕いを始める。  
「ん……ありがとう」  
こいつの爪は俺の体毛に引っかからず、すり抜ける感覚ばかりが伝わってくる。  
ただ繕われるほど身だしなみが整っていないなんてつもりはなかったし、こいつの爪のすり抜け具合からして実際にもあまり乱れていないのだろう。  
「貴方の言ったことにどきっとして、素敵な方なんだから」  
こいつは俺の上からそう声を向けてきたが。言葉に詰まったのか、ただ復唱するばかりで。  
「……だから」  
 
「ねえリーフィア私のこと好きって言ってよお願い私は貴方が大好きでそれで強くなったのにだけどなんで貴方そんなに落ち着いていられるのさ?!」  
一間空いたと思えば、急に言葉を大声でひっきりなしに向けてきて、体を力任せに擦りつけられ。  
俺は思わずびくりと体を一瞬震わせるものの、こいつの意図が分からずただ唖然とするしかなく。そうしている間にもこいつは忙しく言葉を続けてくる。  
「嫌あ! この、ねえどうして分かってくれないの答えてよ貴方は私だけの物じゃなきゃ駄目なのおおお!!」  
そんな言葉の後に、熱い感覚が俺の腹に突き刺さる。爪や牙でも突き立てられたのだろうか、と。そう思うが早いか、血の匂いと、何かが焼け焦げる匂いが鼻に刺す。  
「おい、落ち着け」  
痛いのをこらえてそう声をかけてみたが、こいつも、俺も混乱していて。  
炎を吐かれるわけにもいかないが、そもそもこいつに敵意はないだろうし、しかし血の匂いがして、と、思考が纏まらない。  
「あなだなんで死んじゃえばよがっだのにごのばがあああ!」  
「ふらりい!!」  
前足を顎の辺りに振り下ろされたりと、尚も俺の上で暴れるこいつに声をそう強く突き刺すと、こいつはぴたりと動きを止め。  
きつく言いすぎただろうかと不安に思いつつも、そのことを尋ねるわけでもなく。暗い中、再び一間の静けさが戻ってくる。  
「うええ……ごめんん……」  
頭が冷えたのだろうか。さっきとはうって変わり、案の定、勢いのないしょげた声を漏らされて。申し訳のない気分になってくる。  
何か複雑な思惑でもあったのだろうが、それを一声で否定するとは、我ながら、従う者として成っていない。  
今まで他の奴らに服従したことなんて無かったのだから、と思考を巡らせ自身に言い聞かせようとしても、どこか納得がいかず。  
「私のこと嫌いにならないでええ……」  
こいつからそう続けられた言葉にも、ろくに返事できず。ただお互いに落ち着くのを待つばかりだった。  
「息を吸って、吐くんだ」  
「うぅ……あ、あ……がふ、ごふ」  
呼吸が乱れたままのこいつに、ひとまず整えるよう促して。こいつは俺の腹に顔をうずめなおし、大きく呼吸をしていた。  
こいつは泣いているのだろうか。ついさっき作られた腹の傷口に雨が沁みこみ、その部分を強く熱する。  
 
そうしてどのくらい経ったか、俺もこいつもようやく落ち着いた。  
体制はそのまま変わらず、ゆらゆらと灯りを受けて歪む壁も変わらず。  
ただ、こいつの甘い匂いに釣られ、遅れながらも言葉を返す。  
「お前のこと、好きだよ」  
そんな俺の言葉を聞いたこいつが、ぴくりと体を震わせた気がした。  
「その体じゅうを噛んで支配してやりたいぐらいだけども、それが叶わないだけの強さを持つお前が憎い」  
「貴方のほうが強いよ、前は守ってくれたし」  
思う通りに言葉を向けると、こいつは謙虚にも否定してそう言葉を返す。  
以前の、夜行する捕食者に狙われた時は、守ったどころか俺が守られた具合だというのに、何を言いたいのか分からない。  
「……そんな貴方にずっと憧れてて、寂しかったんだよ、もう会えないなんて思っても……うあああ」  
その後に続けられた声は、どこか悲痛で、俺の胸に直接突き刺さる。  
しかしよく考えるまでもなく、同じ飼われの奴同士で慰めあったりもできるだろうし、と。  
「そんなの。紛らわしてくれる"仲間"がいるだろ」  
そう思って言葉を返すものの、軽率だった。  
「ほんとは私のことなんてどうでもいいんでしょ?! ねえ!」  
こいつの気に障ったのだろうか、強い声を再び突き刺され。  
俺はどう声をかければいいのか分からず、ただ言葉に詰まるばかり。  
「いや、好きだって、その……」  
そうしていると、こいつの前足が俺の体を登ってきて、頬までたどり着いたところで爪を立てられる。  
変に弁明しても余計に怒らせるだけだろうし。傷を負わされるわけにもいかないが、従う相手の機嫌が悪いのも困り、半ば諦め気味に声を押し出す。  
「気が済むまで、いたぶるなり泣くなり、好きにしてくれ」  
しかし、そう声を続けてもこいつの爪に傷をつけられることはなく。  
さっきの言葉はこいつにとって気に入らなかった物だろうが、今度は暴れることもなく。その爪で静かに俺の頬をなぞり、首辺りにはぽたぽたと雨を降らせていた。  
意地悪を言うつもりではなかったのだが様子は変わり映えしない。あの頃の強気な戦闘狂は本当にどこにいったのだろうかと、ただ大きく息を吐く。  
反面で、これも悪くないなと思う俺がいてどうすればいいのか分からず。言葉の一つ一つを頭の中で紡いでみても、どうにも声とならず。困り果て、言葉をそのまま差し向ける。  
 
「返事はしなくていい」  
俺の上から尚も雨を降らせ続けるこいつに、そう断りを入れてから、たくさんの言葉を続けた。  
「俺、前に会ったあの時から、お前のことをずっと探してたみたいだ。もう会うこともないって忘れたはずだったんだけど、諦めきれなかったのかな」  
自分語りなんて俺らしくないなと思いながら、鼻に刺す甘い匂いに気を酔わせ。  
僅かばかりでもこいつに理解して欲しいと、そう願う。  
「偶然また会えたお前は、まるで変わってないようで案外変わってた。それでもお前と会えて嬉しかったし……負けたのは悔しいけどさ」  
灯りで歪んだ、狭く暗いこの空間で、もっとお互いを認め合えるのではないかと。  
俺達ふたりだけ、とはいかなくとも。邪魔する物も、警戒すべき相手もいないこの空間で、心の内をぶつけあえるのではないか、と。  
「上下関係抜きにこうやって一緒に居られることが嬉しい」  
そうすればこいつも、俺も、もっと穏やかに生活できるようになる、そんな気がした。  
「だからずっと傍に居てくれ」  
そんな言葉を最後に俺はようやく声を止ませ、俺の頬をなぞるその前足に、軽く舌をあてがえる。  
「うん、ずっと一緒……!」  
そうすると、こいつの顔がいつの間に、俺の顔すぐ横まで登ってきていて。俺が出した舌に口を寄せ、すっと舌を重ねられる。  
こいつのふわりとした尻尾は、ばさばさと宙を切り。その音が、すぐ傍にいることを実感させてくれる。  
 
「ずっと……」  
どちらが言うでもなく、頭の中ではそんな言葉が響いていて。  
不安とも高揚感とも違う不思議な感覚が纏わりつき、体が重苦しく。ただ辛いわけでもなく、嬉しかった。  
 
 
いつの間に眠っていたのだろう。目を覚ますと俺は、体側面を平らな地面に付け横に寝転がっていた。  
雌の甘い匂いと、血の匂いと、好きになれないニンゲンの匂いが宙で混じり、鼻に刺すわけでもなく降りかかってきて。  
周りは冷たい空気を留めながらも、外から差し込む柔らかい日の光を受け、明るく振舞う。  
すぐ目の前にはこいつの顔があり。こいつはそれぞれの足を俺の腹辺りにあてがえ、背中を丸めた形で眠っていて。  
そんな俺達を包み込むかのように、ふわりとした毛が上に乗っている。誰か生き物が乗っているにしてはやたら軽く、動きもしない。  
ニンゲンの強大な力による何かなのだろうかと思い直してから、かけられていたそれを後ろ足で蹴り飛ばし。  
そのまますっと起き上がり四本の足に力を込め冷たい地面に立って、傍を見下し横になったまま眠っているこいつを視界に入れる。  
目を瞑り、すうすうと寝息を立てていて。耳こそピンと張っているものの無警戒なその姿が中々に可愛い。  
しかしその足爪は血の跡で赤黒く汚れていて。逆らえない物だと、上下関係を改めて認識する。  
俺の腹もあんな風に赤黒く染まっているのだろう。そう思ってからふと身を震わせてみるが、案の定、体毛達は言うことを聞かずただ固まっていて。  
はあ、と音を立てるまでに大きく息を吐いてから、平らな地面を一歩、二歩と踏みつけた。  
 
この空間の壁一つにぽっかり空いている、大きく四角い穴に近づいていき、空間の外を眺めてみる。  
空間の外は、視界に映るところは快晴で、心地のよさそうな光が降り注いでいて。地面には白い粉が積もり、日の光を集めてぎらぎらと輝いている。  
その白い地面に寒気を感じこそするが、日の光には敵うまいと思い直し、体いっぱいに浴びるため外に出ようと歩みを進める。  
しかし空間の端、あともう一歩で外だと言うところで、ごつりと顔正面から何かにぶつかった。  
びっくりして一歩退きその何かに唸ってみるものの、まるで何の姿も見えずただ輝く粉達が映るばかり。  
警戒を解かずに前足を慎重に伸ばすと、やはり、ごつりと前足が何かにぶつかり、宙に止まり。そこには透明で見えない、真っ平らな壁があった。  
ひんやり冷たく、確かにそこに壁があることこそ分かるがそれ以上は何も分からない。  
どうなっているんだ、と後ろ足を畳んで尻餅をつくようにして座り。爪を立てるわけでもなく、ただ両前足でその透明な壁をなぞる。  
もう、あと一歩進めれば日の光を体いっぱいに浴びられるのに。  
「おはよう、そんなに"窓ガラス"面白い?」  
そんなことを思っていると後ろのほうから一つの声が向けられた。  
「ん、おはよう」  
首だけを振り向かせ、声と視線を向けると、さっきまで横になり眠っていたはずのこいつが立ち上がっていて。  
ただ俺に視線を合わせるわけでもなく、前足を自身の口元まで運び赤黒く染まっていた爪を丁寧に舐めていた。  
「……まどがらす?」  
挨拶こそしたが向けられた言葉一つが頭の中に引っかかり。続けざまに、聞こえた通りの言葉を復唱する。  
懸命に思考を巡らせてみても、その言葉が何を意味しているのか理解しきれず。ただ早く把握しなくてはと気だけが急く。  
「え、分からない?」  
「分かるさ」  
意地になり聞かれたことをすぐさま否定するが、そうしたところで言葉の意味なんて分かりもせず。  
一間空き、息を大きく吐いてから言葉を続ける。  
「……ごめん、何のことだ、教えてくれ」  
 
飼われの世界については、俺よりこいつのほうがずっと詳しいのだ。幼稚な奴だとかそんなことも、もう思って居られやしない。  
多かれ少なかれ、こいつに頼っていかなければニンゲン達の強大な力に飲み込まれるだけなのだ、と観念するしかなく。  
「貴方も、結構可愛いところあるんだ……ふくく」  
こいつはそんな俺がおかしかったのだろうか。俺に不似合いな言葉を当て付けてから舐める前足を地面に下ろし、堪えるように笑っている。  
今では俺が、かつてこいつに思っていたように、幼稚で可愛らしい奴になってしまっているのだろうか。  
世間知らずで好奇心旺盛で、まるで幼稚な子供みたいな、そんな奴に。  
「うっさい、早く言え」  
腹立たしい思いもそこそこに、早く教えて欲しい、と次の言葉を促す。  
「えー、どうしようかなー……」  
それでもこいつは何を悩んでいるのか、言葉を濁し。落ち着いた穏やかな表情を見せつつも、その声ばかりが浮き立っていていやらしく。  
次の言葉が返ってこず、じれったい思いで、こいつに尖らせた視線を突き立ててみるが。こいつはそんな俺を見てただ笑うばかり。  
 
一間空いてからようやく、どうすればいいのだと思考を巡らせ始めた頃。この空間の端、視線をこいつの後ろにまっすぐ伸ばした所から、ごおおと大きな声が響いた。  
「ご主人、おはよう!」  
眠っていたニンゲンが、俺とこいつの飼い主が目を覚ました様子で。こいつは俺から視線を外し声を投げかけ、ふわりとした黄色い尻尾をわさわさと振りながら、声のしたほうに振り向き飛びかかっていく。  
直後にニンゲンの、抑え目ながら鋭く耳に刺さる声が、ぐごおお、とこの空間に響く。何を言っているかなんて相変わらず分からないが、もうどうでもいいと言ってられる訳でもない言葉達。  
こいつが飛びかかったのだから、恐らくは悲鳴なのだろうが確証もなく。仮にそうだったとしても助けに入る理由もない。  
しかしそんなことより、ニンゲン達が使うこの独特の言葉に少しずつ慣れていき、理解できるようにならないと飼われの身としてこれから不便が多いだろうと思考が巡る。  
ニンゲンらが俺達の言葉を理解してくれれば問題ないのに。飛びかかっていったあいつの言葉だって、理解されているのか分からない次第なのに。本当に面倒だ。  
俺は視線を戻し、冷たく見えない壁に前足をあてがえなおしてから、もう一度大きく息を吐き目を瞑る。  
住む世界が変わって、これからどうなるか見当もつかない。こいつみたいに変な呼ばれをされるのだろうか等と、不安だって多い。  
こいつに従って、ニンゲンにも従って、俺には自由なんて無いも同然だろうが。しかしそれでも悪い気まではしない。  
知らずのうちに求めていた何かと、それと同じ世界にこれたのだ、と。そう思いながら、透明な壁の外から差す優しく暖かい日の光を、体いっぱいとは行かずともその側で浴びる。  
付けられた傷もすぐに治るだろう。そう目をつむったまま自身の体毛に染みついた匂いを、甘くも鼻に刺すその匂いを嗅ぐと、不思議と浮き足立ってしまいそうな良い気分になれる。  
前の日が昇っていた頃の、殺気立っていた俺自身が、何か物凄く遠い昔のことに思えて。それが自分自身おかしく思ってくつくつと笑いを堪えて。  
このような穏やかさも中々いいものだと、頭の中で言葉を紡ぎ始め。  
「ねえご主人、窓開けてー」  
しかしそんな中、甘えた声が耳に刺さり、意識が引き戻された。  
反射的に振り向き視線を刺した先には、仰向けになったニンゲンの上でバサバサと音を立てて尻尾を振るっているあいつが映る。  
ニンゲンのほうも顔を見る限り笑っており邪険に扱っている様子もなく。俺はそのことに、何なのかも分からない、ただ小さな不満を覚えた。  
 
俺だけいじっていればそれでいいってのに――全くこいつは。  
 
 

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