森から出た所、小高い丘になっている開けた草原。
日は空高くに昇っていて、心地よい光を差し向けてくれている。
後ろからは柔らかい風がするりと耳を避けて通り抜けていく、いい日和だ。
丘の下、遠くのほうにはニンゲン達が群れて住まう集落がある。
隙間なく石が敷き詰められているその集落は俗世とまるでかけ離れており、俺はあまり好きになれない。
あれさえなければな、と思うこともあるが、別にあっても不便ということもないし、見ている分には面白いことも多い。
ここで日の光をこの身いっぱいに浴びながらニンゲン達を観察するのは、ちょっとした楽しみになっている。今日も今日とてそのつもりだったのだが。
「こんにちは」
ふと、先客からそう声を向けられる。
見晴らしもそこそこよく、獲物定めから位置確認まで様々な用途で生き物達に利用される丘なのだし、他の生き物と居合わせることはそう珍しいことではない。
風下から様子もうかがったし、危険な相手なら最初から近づかなければいいだけなのだが。俺はその判断に困り、結局この丘に、この生き物の前に姿を現してしまっていた。
「こんにちは」
その先客の体毛は、赤を地の色とし、首周りや尻尾にはふわりと膨らんだ黄色っぽい体毛を包めている。姿形こそ全然違うが、それでも俺と同族だ。
しかしその体毛はどちらもくすんだ色をしていて、あまり穏やかな生活をしていないことがすぐに分かるし。目つきは鋭く一点を、俺を見据えていて。二言目を向ける余地がない。
少し横にいったほうにはひとりのニンゲンも居ることから、恐らくこいつはそのニンゲンの"飼われ"なのだろう。
敵でなければ軽く談笑しあったりしたいと思ったものだが、改めてその姿を見ても穏便に済みそうには到底思えない。
風下から察した、同族であるということが判断を鈍らせたのかもしれない。普段なら近づきもしない相手であることにようやく気付き、後悔した。
「……戦いましょうか」
しばらくお互いに押し黙っていたものの、その静けさを吹き飛ばしたのはこいつの一言だった。
「嫌だよ、理由もない」
俺がそう返事を返す頃には、こいつは前身を低くして構えていた。
このまま飛びかかられると避けきれないと思い、咄嗟に数歩身を引く。
「戦うことに、理由って必要ですか?」
そのまま俺も思わず構えてしまうが、かと言って手まではださない。
「必要だよ」
上下関係や、あるいは被食者と捕食者といった敵対関係ならともかく。飼われの奴らと深い関わり合いなんてないし、同族なのに敵対することもない。
飼われの奴らは、時に思いがけないことを平気でやってのける怖い面があるが。今のこいつもその面が現れているのだろうか。
「私には、そんなの必要ないです」
こいつはそう言うが早いか、後ろ足で草の地面を蹴り、前足を振りかざしてくる。
跳び退いてなんとか避けるものの、こいつは空を切った前足をそのままに俺のほうを睨みつけ、刹那、炎が俺のすぐ脇をかすめる。
不覚だったとはいえ、狙いが荒く助かった。こいつは再び炎を吐くことはなくじりじりと近づいてくるが、その分だけ俺は身を引き、さっき跳び退いた時にできた距離を維持する。
こいつは――根っからの戦闘狂なのだろうか。
戦うのが好きとか嫌いとかでなく、戦わないと気が済まない、休まらない。そういう奴なのだろうか。
気が進まないが、逃がしてもらえそうにもないし、と。そうこう思考を巡らせていると、すーっと、柔らかくも強い風が吹いた。
幸か不幸か、それはこいつの後ろから俺の後ろに向かっての向かい風で。こいつはそれに乗りもう一度飛びかかってくる。
間に合うかは分からない、ただ足元の草達に念を送り、もう一度、地面を草ごと蹴って跳び退く。
その前足の爪が俺の横腹に引っかかるものの、痛みだけを残しどうにか捕まらずに。そいつは勢いのままに、前足を草の地面に振り下ろして。
直後に、刺激された草達がするりと伸び、飛びかかってきたその足に、胴体に絡みつき、こいつを宙に縛り上げた。
ぐううう、という低い唸り声と、その後ろからはニンゲンが何か指示しているかのような声が聞こえる。
また炎を吐かれる訳にもいかない。そう思い、すぐに草達に念を送り直し、その口周りも縛り付けて黙らせる。
そうしてから俺はそいつの側まで近寄り、すぐさまその喉元に噛みつき、赤い体毛を持ったそいつを草の地面に横倒しにした。
その体に絡みついていた草達は俺の力で引きちぎられ、表面に浮いた部分がバラバラと足元に落ちる。
こいつは抵抗として、まだ不自由なその足をばたばたと動かしていて、その度に絡まっている草が浮き、落ちていく。
早く静めないと、と思い、前足の体毛を鋭くとがらせ、その腹を掻っ切ってやろうとした。
殺めるわけでもない、痛みを借りてこいつを屈伏せしめるだけ。
しかしそうした瞬間。こいつは光に包まれてニンゲンのほうにいき、そのニンゲンが前足に持っていた球体に入り込んでいった。
飼われの奴らが戦いから離脱する、というより離脱させられる。ニンゲンの強大な力だ。
俺は構えを解かずにそのままニンゲンを、睨む訳でもなく見つめ続けたが。程なくしてそれは、俺からゆっくりと距離を取るようにして丘を降り、ニンゲン達の集う集落のほうに向かっていった。
草原には雑草の引きちぎられた跡と、焼け焦げた跡だけが残る。
さっきの、前足が振り下ろされた時に付けられた、横腹の傷が後になってヒリヒリと痛む。
おまけにしたたり落ちるほどでもないが血の匂いがするし、恐らく横腹辺りの体毛は赤くなってるのだろう。血の匂いに敏感な捕食者らに狙われないかが気が気ではない。
折角のいい日和なのに、と不服に思いながらも。しかし、ようやく独占できるようになったのだし、目をつむって体いっぱいにその光を浴びることにした。
日が傾き始め、空が赤く燃える頃。光の遮られた暗い森の中をゆっくりと歩いていた。
あんな横腹の傷なんて少し日の光を浴びてればすぐに癒えるし、一悶着あったとはいえ平和な一日だったか。
途中に流れる川で喉を潤しもしたし、後は日が落ちるまでに寝床に戻るだけだ。
夜行する奴らに出くわす訳にもいかないし、いつものこと。
「リーフィアさん、いらっしゃいませんかー」
しかし、そろそろ夜行の奴らが動き始めるであろうこの頃に、何やら聞き覚えのある声が丘のほうから聞こえてくる。
夜行の奴らに狙われ、獲物とされても仕方がないほどの大声で。まず不安がよぎる。
"リーフィア"というのは俺の種名だし、俺のことを呼ぶ声なのだろうか、と次に思い。最後には、声を放つ主の、警戒心のなさにあきれた。
思考を巡らせ声の主を模索してみると、すぐ思い当たる節に行きつく。日が真上に昇っている頃に会った、あの戦闘狂の声だ。
飼われの奴が世間知らずなのは存外よくあることだが、ここまでとなると流石に不憫に思う。
ここから声を返すのはさすがにどうかと考えつつ、日が真上に昇ってる頃の勝負で決着がつかなかったことを思いだし、ふつふつと腹が立ってくる。
最終的にはあいつの判断ではなかったことぐらい分かっているのだが、文句の一つや二つ言ってやらないと気が済みそうもなく、身をひるがえして丘のほうに駆け始めた。
程なく、すぐ近くまで来て、風下から様子をうかがってみるが。その声の主がいるだけで、周囲に他の生き物は居ない様子だった。
飼い主と思われるあのニンゲンの気配すらなく、やや気味が悪い。
ここまで来ておいてまだ悩みどころが多いが、せっかく来たのだしと重い足取りで、開けた草原の丘に出る。
"そいつ"は俺の気配を感じたのか、俺が声をかける間もなく顔をこっちに向けて視線を合わせてきた。
「来てくれましたね」
随分と穏やかな声を俺に向ける。
「こんな遅い頃に騒ぎ立てんな」
空は焼け焦げて、既に暗くなり始めている。草原は持っていた赤みを失い、黒く染まっていく。
夜行の奴らはもう活動し始めてる頃だろうし、あまり目立つようなことはしないで欲しい。
「……負けました」
そうこう思っていると、二言目には勝負の決着をつけられてしまった。
「そうだな」
それを聞き入れたまではいいが、あっさり負けを認められたのが逆に腑に落ちない。
どんな複雑な思いで呼ばれてきてやったと思ってるんだ、と、その一心で言葉に食いつく。
「で、何しに来たんだ。今度は負けないって、か?」
「ご主人は振りきって来ました」
しかし聞いてもいないことを返され、どう言葉を続ければいいのか分からず困り果てる。
「……何しに来たんだ」
「私、『フラリー』と、呼ばれています」
それでも話をそれされ、軽い苛立ちを覚えつつも。自己紹介をされたようなのでひとまずその言葉に乗った。
「……ふらりい?」
「はい」
変な呼ばれだ。よっぽど落ち着かない、ふらふらしている奴だと思われているんだろうか。
その通りな気もするが、そんなしょうもない呼ばれをされ。ニンゲンと関わるとロクなことないな、と思わずには居られない。
「貴方はどう呼ばれてますか?」
こいつは一歩歩み寄り、まるで俺の顔を覗き込むかのように顔を突き出しながら尋ねる。
「呼ばれなんてない、『リーフィア』でいい」
「そうですか」
不機嫌なりに言葉を返すと、こいつは短く理解を示したが。なんでそんなことを聞くのか、俺には意図が掴めず。
俺が何かに騙されているのだろうか、などと勘繰りつつも結局分からず、もう一度向かいに聞きなおすばかり。
「……で、俺を呼びだした理由はそれだけか」
そう声を向けた後、わずかばかりの沈黙が辺りを包む。言葉に詰まったのだろうか。
辺りには、優しくも冷たい暗がりの風が吹き、地面の草や森の葉っぱをさらさらと撫でて。そんな一間を置いてから、今度こそ話を進めてくれた。
「会う事にも、理由って必要ですか?」
「いや」
要するに俺に会いたかった、ということだろうか。それならそうと言ってくれればいいのだが。
理由ばかりはどうにかして避け続けてるみたいなので触れないほうがいいのだろうか、と思った矢先。聞きもしていない理由について続けられる。
「……貴方の傍に居たいです」
服従する奴の気持ちなんて俺には分からないが、負けを認めて傍に付くというのは割とよくあることだ。
ただ、飼われの奴でも、屈伏させられた時の立ち振る舞いなどを理解しているものなのかと意外に思う。
「構わん」
そうしていると、ふと、慣れない匂いがする。
鼻に強く刺しながらも甘く、心地のいい匂い。すぐそこにいるこいつの匂いなのか、と気付くのにそう時間はかからなかった。
初見からして分かっていたがそれまで意識する必要もなかった、こいつが雌であるという事実。それを今になって意識し始める。
こいつは程なくして俺の横まで歩き、体が当たらない程度の位置に隣り合い、足を畳んで、暗い草原に腹ばいになり。
俺も釣られて、その横に腹ばいになって目線を揃えて。お互いの視線が向く丘の下には、暗い中に明るく輝くニンゲン達の集落が映る。
「……私は、強くならなきゃいけないのですか?」
突然、そんな疑問を俺に投げかけてくる。
「はぁ?」
日が真上に昇っていた頃の、あの血に飢えたかのような奴が言うこととは、到底思えなかった。
あのニンゲンにそう教え込まれ自我もなく忠実に従っていただけだとか、そんなことなのだろうか。
「強くなって、それで、どうなるのですか?」
その頃の自分を肯定したいのか、はたまた否定したいのか。理解に苦しむ。
要らなかったはずの理由が、今になって欲しくなっただけかもしれないが。
「強くなるって、お前が望んでたことじゃなかったのか」
そう確認の言葉をかけてみるが返事なく押し黙る。
視線だけをすぐ横に向けてみると、目をはっきりと開けて俺を見据えているそいつが映る。
その表情はどこか空虚で、何かに怯えているようにも見えた。すがりつかれているのかと思うと中々に気分がいい。
「んー……。同族や外敵を屈伏せしめて、保身と、あと子孫を自分以上に強くするため、とかか」
視線を元に、明るいニンゲン達の集落のほうに戻しながらそう言う。
俺だって誰かしらと争いたくはないが、強くなりたいとは思っている。そうすれば捕食者らに怯えることもないし。
「なんですか? それ」
しかし、まるで思い当たる節がなかったのか、素っ頓狂な声を返される。
一々説明すると長くなりそうだ、飼われの奴はこれだから、とため息を一つつき話を切る。
「……飼われの"ふらりいちゃん"にはむつかしい話だったね、悪い悪い」
「バカにしないで下さい」
俺に服従しているかと思っていたところを反抗され、一瞬言葉に詰まる。
怒らせただろうか。視線だけを再び隣のこいつに向けるが、表情などは特に変わっている様子はなく心配する必要もなさそうだった。
「いや、んなことない。飼われの奴らって、どこか幼稚っつーか、好奇心旺盛で可愛いんだよ」
全くバカにしていないと言うと嘘になるが、悪気があるでもない。
「だからバカにし」
「孵ったばかりの小さい子を見たら……」
そのまま言葉を続けようとした所に声を返されてしまう。
思わずこいつの言うことを遮ってしまいどうするか一瞬悩んだが、結局言葉を続けて。
「……"可愛い"って、お前もそのぐらい思うだろ?」
こいつは不満こそあったようだが、ただ黙り、うなずいて肯定して。
その仕草が無器用なりにも可愛くて。俺は思わず口元をゆるませ、にやりと微笑む。
あの甘く心地よい匂いがより強く鼻に刺す。もっと近くに居たい、と。
「俺にとってのお前が、それだな」
そう言葉を吐き、こいつの首元、暗い中にも黄色くふわりとした体毛に顔を押しこみ、噛みついて。すぐに力いっぱいに捻じ曲げその体を横向きに倒す。
こいつは驚いたのか、びくりと一瞬だけ体を震わせるがそれ以上の抵抗はせず。横倒しにしたその腹を鼻でを押すと、草の地面に自ら仰向けになる。
「私……"可愛い"ですか?」
そんな言葉は差し置いて、俺はただその腹に両前足をあてて。すぐさま強く押さえつけた。
「ぎゅうぁあ」
圧迫された腹の奥から、絞り出したかのような悲鳴。
この世間知らずで幼稚な雌を支配している。そのことを実感させてくれる可憐な声。
「ああ、すごく、可愛いさあ!」
押さえていた両前足を左右にずらし、折り畳んで、仰向けになっているこいつの上に体を置く。
お互いの腹がくっつき、こいつの、どくどくと臓器の打つ鼓動が伝わってくる。
「やめで……えうう」
その体はとても暖かく、心地よく、冷たい暗がりの風も忘れてしまいそうなほどに気を煽られる。
嗅がずとも、甘い匂いが鼻に突き刺さってくる。腹から伝わる鼓動が強く、速くなってくる。悲鳴が頭をすり抜ける。
「負けた奴が、何を! 言ってるんだあ?!」
首をひねり、黄色の体毛を鼻で掻き分けてから再びその喉に噛みつき。下に、地面に向かって強く押さえつける。
こいつの、ふわりと膨らんだ尻尾が後ろのほうで空を切り、ばさばさと音を立てている。
「うえ……う、あ……!」
小刻みに体を揺らし、その度にこいつの口からは言葉にならない声と、小さな炎が零れる。
本当に嫌なら炎を強く吐いて俺を払いのけるぐらい容易だろうが、そうしない理由も察してやる。
「くく……いい子だ」
言葉もそこそこに舌を出し、こいつの頬にあてがえ丁寧に舐めまわす。
小さな炎がすぐ側をかすめて俺の頬をくすぶらせる。
いつまでもこうしていたい。甘い匂いに包まれ、暖かい体に身を擦りつけ、この雌を感じ取っていたい。
そう嬉々としていたが、急にぴたり、と体が止まった。体じゅうに寒気を感じる。
風の中にこいつとは違う別の匂いがする。鼻に付いて離れない嫌な匂い。
こいつを腹に敷いたまま耳を澄ますと、少し距離を置いたところに呼吸の音が聞こえた。それも一つや二つでなく、十数もの数。
いつの間にか夜行の捕食者に狙いを定められていた、そのことにようやく気付き、焦りに駆られる。
「おい、動けるか」
すぐさまくっついていた体を離し、そう尋ねる。
「ん……え……?」
こいつはまるで訳が分かっていない、といった様子で、ただ小さなかすれ声を発するばかり。
「狙われてる、分からないか?」
身の危険を感じ取ってないのだろうか。それとも惚けているのか。
仰向けになったままで首を曲げ、上に立つ俺に虚ろな視線を向けていた。
「……何?」
「敵だ」
すっと立ち上がりこいつの上から退くが、足元が落ち着かずふらふらとする。
草の地面に立っている感覚がなく、まるで浮いているかのように錯覚し。
それでも足にぐっと力を込めて強引に固定し、草の地面に念を送る。
「お熱いねぇ、お二方とも」
程なくして暗がりから草原に、一匹、二匹と姿を表し、輪になって俺達を取り囲んでいく。
「いいとこを邪魔しやがって」
黒い体毛を持った種族の群れ。追い回すことが上手く、逃げても助かる見込みがないだとか言われてる奴ら。
よりにもよって気分をよくしてたこんな時に、と不機嫌にも声のするほうを睨みつけるまではいいが、数に圧倒されて身の縮こまる思いだった。
「わりいね。ま、二匹で仲良く俺達の腹に収まってくれればそれでいいわけ」
隣にいるこいつはまだ仰向けのまま、その言葉を聞いてぎょっと固まり。ようやく周りの捕食者らに視線を差し向け口を開く。
「どういうことですか……?」
「お嬢さんも、おとなしくしてれば苦しい思いはさせませんよ」
血に飢えていたかのようなあいつは、一体どこに行ったのかと思うぐらいに震えていた。
同族なのだし、同じ敵に恐怖を覚えるのは変なことではないのかもしれないが。こんな時ばかり俺と同じだなんて全く役に立たない。
「お前も早く構えろ、死にたいのか!」
仰向けのまま固まっているこいつに、視線もくれずそう声を向ける。
「おうおう、やりあおうってーのか」
すると俺の声が効いたのだろうか。捕食者の声が響く中、こいつは急に跳ね起き、俺の側に立って後ろを向き、身構える。
「そっちは頼む」
何かに気を煽られたのだろうか、低い唸り声をあげていて。戦わないとおさまらない、元のあいつに戻っているようだった。
「かかれえ!!」
捕食者の群れの、恐らく一番身分が高いであろう者の声が、暗がりの丘に大きく響く。
それと同時に前のほうから二匹が飛び出してきて、その前足を振りかざしてきた。
それを見るが早いか、俺は前足の爪で草達を勢いよく引っ掻き。刺激された草達はするりと伸びてその二匹に纏わりつこうと飛び出して。
一匹は、それが後ろ足に絡まってすぐに草の地面に突っ伏しそのまま地面に縛りつけられるが、もう一匹は飛び退いてそれをかわし捕らえられず、宙には草達がぶつかり合って何も入っていない草の塊ができる。
後ろからは、この暗がりの丘に赤と黄色の光を灯されるが、特に気を向けていられる余裕もない。あの戦闘狂に任せるしかなく。
飛び退かれ捕らえ損ねた一匹に視線を合わせつつ草達に念を送り直していると、その一匹の横に、外周の輪から四匹が加わる。
その五匹は、お互いに距離を置きあい、うち三匹が地面を蹴ってそれぞれの方向から再び飛びかかってきた。
再び地面を掻き、草達をするりと伸ばして差し向けるが、今度は誰も捕らえることなく宙に絡まって。
一匹と一匹の隙間に、慌てて飛び込み回避を試みるが、胴体と後ろ足に捕食者の鋭い爪が刺さり。それはすぐにすり抜けてくれたものの、それぞれの部位に強い熱さが残る。
更に待機していた二匹がそれぞれ牙をむき出しにして飛び出してきて。咄嗟に体毛を鋭く逆立て、片方の前足を振り上げて一匹の顔面を、片目を切りつけ退かせるが。もう一匹が俺の懐まで潜り込み、即座に喉を噛みつかれる。
後は捻じ伏せられて、食われて終わりか、と、そう察した瞬間。ごおお、と、すぐ側を赤と黄色の光が、強い炎がかすめる。
その炎は、俺の喉を噛んでいた一匹を包み込んで、焼き焦がして追い払い。先に飛びかかってきた三匹もそれを避ける形で飛び退いて。
最初に地面に縛りつけた一匹を除く、他の捕食者全員が、地面を蹴って一っ飛びするだけでは届かない程度の距離を俺達から取り、ぐるる、とただ低く唸る。
体の痛みを堪え、俺も牙をむき出しにして睨み返すが。程なくして外周の輪から、一つの声が響く。
「さがれ」
戦いを起こした声、一番身分が高いであろう者の声だが、今度のその声は低く、落ち付いた物だった。
俺達の前にいた五匹はその声を受けると、後ろを見せることなく外周の輪に引きさがっていき。代わりに声の主が一歩、二歩と輪の内側に入ってくる。
俺も、いつの間に側に戻っていた戦闘狂も、同時にその姿を睨む。そいつは俺達に目を合わせつつも、地面に縛られていた一匹の側まできて。その身を縛っていた草を爪で裂いた。
ようやく解放された一匹も俺達を見つつ外周の輪まで退き、それらが済んだ頃にもう一度声を放つ。
「引き上げるぞ」
その視線こそ俺達を見続けていたようだが恐らくは、輪を作っている群れの仲間らに向けて言ったのだろう。
たくさんの視線はやむことなく、しかしその輪はだんだんと広がっていって。纏めていた声の主が体の側面を見せるように走ると、その輪も後を追うように走り、この丘から去っていった。
やがて周囲には光がなくなり真っ暗になり、ただ、下にあるニンゲンの集落が輝きわずかな視界を保ってくれる。
真っ暗な風がすーっと吹き、傷口を荒く撫でながらすり抜け、ようやく捕食者らを追い払えたことを実感する。
一匹の片目を潰すことができたし、こいつの炎に焼かれた奴もいるし。日がいくつか昇って沈むぐらいまでは、もうあの群れには狙われないだろう。
途中で獲物とすることを諦めてくれたのは、俺達から得られる栄養より、俺達から被る被害のほうが大きいとでも判断してくれたからだろうか。賢明な奴がいて、助かった。
後ろ足や胴体からは血がしたたるが、そう深い傷でもないらしく。ひとまずは助かったことを喜ぶべきか。
「お前強いんだな」
程なくして、すぐ側に、隣にいるこいつにそんな声を向ける。
「……ありがとうございます」
こいつは少しばかり荒さが残る呼吸の、その隙間に言葉を挟んで俺に向けて。一間置き呼吸を整えてから声を続け。
「でも、貴方のほうがやっぱりお強いです」
そう、くすりと笑ってから、俺にその身を寄せる。
ふわりとした体毛が体側面に触れる。さっき戻っていた戦闘狂は本当にどこに行ったのか、穏やかにもその頬を俺の首筋辺りに擦りつけながら。
「どこがだよ」
俺一匹だったらあのまま食われてただけだし。俺を助けるだけの余裕があったこいつのほうが強い、そのことは固いだろう。
しかしそう思えば思うほど、ふつふつと疑問が湧いてきて腑に落ちない。
日が昇っていた頃の勝負は俺の勝ちだと、確かに俺だってそう思っているのだが。それなのにさっき逆転したのは何があったというのか。
強いて言ってもせいぜい、近くにあのニンゲンが居なかった、ぐらいだが、と思考を巡らせていると。
「貴方に従いたいです」
と、脈拍なくそう声を向けられた。
俺とどっちが強いかなんて、こいつにはどうでもいいことなのかもしれない。
あるいは気が向かない中、あのニンゲンに仕向けられていただけなのかもしれない。本当はもっと、こんな風に落ち着いた奴なんだと思うと悪い気はしない。
しかし酔っていた気が、今さっきの争いですっかり冷めてしまい、どうにも乗り気になれない。
「悪い、それは少し」
こいつの方からも血の嫌な匂いが刺してくることが、気を冷ますことにますます拍車をかけ。応えられないことが申し訳なくすら思えてくる。
こんな場所で戯れなければ、血にまみれることもなかったのに、と今になって後悔した。
「……一緒に居ても、いいですか?」
そう言葉を向け直されて、しかしどう返事をすればいいのか分からず。黙ったままこれからどうするかを考え始める。
もう真っ暗なこの中でも、下の、集落の輝きに向かって行けば簡単にニンゲンの側まで戻れるだろうし、こいつは特に心配することもない。
しかし俺独りで寝床まで夜道をさまようとなると、中々に不安が残る。別の捕食者にまた狙われたら、独りで、ましてや浅いとはいえ傷持ちで無事に切り抜けられるとは到底思えない。
「日がまた登るまで、ここにいてくれるか」
「はい」
聞かれたことには結局答えないままに尋ねる言葉を向けるが。こいつは俺の声を聞くやいなや、すぐに言葉短く受諾してくれた。
さらさらと風が吹く中、こいつは俺の傍につき、胴体や後ろ足の傷を舐めて癒してくれる。こう手緩く侍らせるのも悪くないか。
優しく丁寧で暖かく、傷口に刺すこともなく心地よい。
思わず顔をほころばせながらも、必要以上に言葉を向けることもなく。ただそれが済んだらこいつの傷も舐め取ってやろう、なんてことを思いながら。
ニンゲン達の、輝きの止まない集落をお互いに見つめ、日が昇り始めるのをひたすらに待った。
日がようやく昇り始め、弱い赤の光が空を、この丘を焼く。
普段は暗い頃を眠って過ごしているため感覚が分からないだけかもしれないが、この時を随分と長く待っていたように思う。
優しい風がするりと抜けていき、心地よい光が差し。俺はそれらを体に纏って傷の回復に意識を向ける。
まだお互いの体から血の匂いこそするが、傷口がふさがってきているのか、鼻が慣れたのか。すっかり気にならなくなっていた。
暗い頃には分からなかったが、辺りには引き千切られた草や、炎に焦がされくすぶった跡が点々と散らばっていて。捕食者らを追い払ったのは夢なんかでなく本当にあったことなのだと、改めて思い知らされる。
助かったその後から今まで、俺とこいつはずっと寄り添い合っていて、かといって特に言うほどのことをしたわけでもない。精々傷を舐め合い、荒れた体毛を繕ってやった、その程度だ。
「明るくなり始めましたね」
すぐ傍からそう、どこか暗く儚げな声がかけられる。
「そうだな」
相づちを打ちつつも、俺だってそれが分からない訳ではない。
こいつはどうあっても飼われでしかない。あのニンゲンに従い、時には身を投げ出す覚悟だってしているはずだ。
何を思って俺の元に来たのかなど、分からないところもあるが、ニンゲンを恋しく思い始めたのか。そうでなくとも長く経たないうちにニンゲンのほうに探し出され、こいつは元の場所に戻るのだろう。
日の光を浴びながらもそう思考を巡らせていると、突然光が遮られ体に寒気を覚える。
遮られた光はすぐに戻ってくるが、嫌な予感を感じて日の差す方向を、空を見ると。一匹の大きな鳥が、まさしく俺達めがけて飛んで来ている。
その姿は夜行するはずの捕食者で、日の昇るこの頃に何故出くわしたのかも分からないまま身構える。が、傍にいたこいつが俺より一歩前に出て、俺を抑止するかのような形になる。
邪魔だと思いこそするが、そう言葉を向ける前に、ごおお、と物凄い勢いで捕食者が側を通り抜け。後ろ、少し離れた草原に降り立った。
今ので体を押さえ込まれていたらどうするつもりだったのか、そう不満を抱きつつも後ろの捕食者に視線をあわせる。
「フラリー! 何してんの!?」
その大きな鳥は、捕食者は。すぐ側のこいつにそんな声を差し向けた。
しかしこいつのことを、ふらりい、と呼んでいて。敵のはずなのにと訳が分からなくなる。
「ごめん、この方と色々あって」
そんな俺をよそにこいつはそう言って、再び俺に身を寄せる。
その捕食者は、ぎろりした鋭い目を俺達に突き刺して。俺はぎょっとするものの状況が飲み込めず、身じろぎもせずただ固まる。
「その怪我はどうしたのさ? 平気? 大丈夫?」
「大丈夫、この方が助けてくれた」
俺が固まっている中、傍のこいつと捕食者が話を進めている。
「そうなんだ、よかった」
この捕食者は、大きな鳥はそう言い、一間開けてから言葉を続けて。
「ご主人も心配してる、時期にこっち来るよ」
そう言い終わると、首を曲げ自身の羽毛に顔を押し付け、悠長にも羽繕いを始めた。
「来たらさっさと出発するからね、覚悟しなさい」
「そう……」
傍にいるこいつはそれを聞いてか、ただ暗い声を漏らし。しだれた耳が俺の体側面に触れ、元気なくしょげている様子が窺えた。
どう言葉を向ければいいのかにも困り、ただ放っておくこともできず。思っていた疑問を一つ、短く尋ねる。
「仲間か?」
こんなことを聞いたところで気が紛れる訳でもないだろうが、ただ俺の疑問を解消してくれればいい。そんなつもりだった。
「え? あ、はい」
こいつは一瞬何を聞かれたのかと悩んだ様子だったが、すぐにそのことを認めた。
要するに、少し離れた位置にいる大きな鳥も飼われで、しかもこいつと同じニンゲンに従っている"仲間"らしい。
いきなり仕掛けてきたご挨拶も、こいつの怪我が俺の仕業だとでも思ってのことなのだろうか。
本来なら敵対する種族なのだから、仕掛けられること自体は不自然ではないが。少なくとも、構えた俺をこいつが体で抑止したことには納得がいった。
「うちの"ブースター"がさぞ迷惑かけたんじゃないかな、ごめんね」
大きな鳥が、羽繕いを続けたまま言葉だけをそう宙に放つ。
視線一つくれず、まるで誰に言っているのか判断に困ったが。程なくして俺に対して言っているのだと気付いてすぐに言葉を返す。
「気にするほどじゃーない」
傍にいるこいつ、"ブースター"とのひとときも、思うより悪いものではなかったし。
こいつの面倒見たことを差し引いても、言うような損害もなかっただろう。
「ほんと不器用でさ、初対面の奴らにはろくに口も聞けないのにさー」
その鳥はそう言いながらばさばさと翼を羽ばたかせ、首を振るってから、ようやく俺達のほうに視線を向ける。
それは、落ち着きながらも険しい捕食者の目で。何かを思うより先に、咄嗟に身構えてしまう。
「……ねえフラリー、アタシ外したほうがいい?」
俺のそんな様子を察してくれたのだろうか、はたまた別の理由があるのかは分からない。
その鳥が一間置いてからそんな声を続けて。傍のこいつはそれを受け、ただ短く希望して。
「ごめん、お願い」
こいつがそう言うと、その鳥は黙ったまま翼を大きく広げ、丘の下、俺達の場所から死角になる程度のところまで宙を飛んでいった。
丘には俺とこいつだけがいて、まだ赤い日の光が俺達ごと草原を包み込む。
柔らかい風が吹いているようでも空気がどこか重苦しく、言葉に詰まる。
「……リーフィアさん」
どう打開しようかと悩んでいたところ、傍から唐突にそう呼ばれて。俺が視線を向けると同時に声の主は身を離し、俺の正面に立っていた。
何か覚悟を決めたかのような鋭い目で俺と視線に合わせてただ言葉を続ける。
「私は、もっと強くなります。次に会う時には貴方を屈伏せしめます!」
「なんだ急に」
今になって言うことでもないだろうとは思うが、俺のような同族に負けたことがよほど悔しかったのだろうか。
話が通じるにしろ、戦闘狂であることはやはり変わりないのか、と思ったが、続けられた言葉は首をかしげたくなるものだった。
「貴方に見せてもらった夢を追いかけたいです」
「夢って?」
そんな大それたことを言った覚えはないが、俺の忘れたところで大げさなことでも言っていたのだろうか。
真っ直ぐにこいつの目を見据えるが、本気で言っているらしい。反論しても無駄そうだったので次の言葉を待つ。
「私が世界で一番強くなれば、身を守れて、リーフィアさんみたいなお友達も守れて……」
言葉に詰まり、ただ俺のほうに視線を向ける。
何か漠然としたことを言っているようで、本当はそれがどういうことなのかなんて理解していないのではないか。
そう思いながらもその目をただ見つめ続けていると、こいつは目に雨を浮かばせ。それは赤い日の光を集めて輝やき。
こいつが一歩、二歩と俺のほうに近づいてくると、その足取りに合わせるかのように、その目から輝く雨を零し落とす。
「また会えますよね……?」
酷く崩れた、醜く、なんとも言い難い表情をしながら言葉を続けられる。
まるで俺が虐めているみたいになっていて、あまりいい気もしないが、その顔からは視線をそらさず。それでも一言だけ言葉を返す。
「さあ……」
こいつのような飼われには自由なんてないも同然だし、俺みたいな野生の身はいつ狩られたっておかしくないし。
二度と会えなくても何もおかしくない関係だと言うのに約束できる訳もなく、言葉を濁すしかなかった。
しかしすぐ目の前にあるその顔は、ただじっと俺の目を見据えていて。しっかりとした返答を求めているのがすぐに分かり。思いなおして、頭の中で言葉を選び、もう一言だけ続けた。
「願えるならまた会いたい。俺も」
希望的観測でしかなくとも、願うぐらいなら好きにさせてもらってもいいか。
俺もまた一歩、二歩と歩み寄り、顔を寄せて。こいつの浅い傷口に舌をあてがえそっと撫でる。
「まあ、元気だせ」
嫌な血の匂いももう殆どなく、ただ甘く心地のいい匂いが鼻に刺す。この匂いももう嗅げないのか、と思うと残念でならない。
「つらい中に、痛い中に……貴方が、居で、ぐるるがら」
こいつも何かしら残念に思っているのだろう。強がって堪えているのか、はたまた、自分にそう言い聞かせようとしているみたいな、滑舌の悪い震えた涙声を寄せてくる。
その声は俺の喉を通り、胸の辺りに内側からぐさりと突き刺さり。どくどくと鼓動が高まり、嫌いな感情がこみ上げてくる。
俺はもう少しこいつと語らい合いたかったのだろうか。離れるのが惜しい。
それでもニンゲンの元に下る気は毛頭もないし、かと言ってこいつを無理にニンゲンの元から引き剥がすのも限界があるだろうし。
色々と頭で考えこそしたがどれも言葉にはせず、俺は黙ったまま身をひるがえす。
「……私のこと、また会える時まで覚えていて、下さい」
後ろからは、そんな低く沈んだ声が向けられてくる。
振り向いてもう一度その姿を見たいとも思ったが、俺の何かがそれを許さなかった。
「悪いがすぐ忘れるかもしれない」
俺にできることはただ言葉を向けるだけしかなく。
「お前は可愛いよ、ふらりい」
短く、そうとだけ声を続けると草原をゆっくり歩きはじめて。やがて森の木々に身を隠した。
後ろからは小さく霞んだ声が、ありがとう、と向けられていた気がした。
飼われの身なんて知ったことではないが、後はあの鳥や、ニンゲンらに任せればいい。
住んでいる世界が違うんだ、と自分に言い聞かせていると、丁度さっき居た後ろのほうから、があがあとニンゲンの声が聞こえてくる。
ああだこうだとあいつに言葉を掛けているのだろうが、何を言ってるかなんて俺には分かりもしないし、心底どうでもいい。
次に会う時に、あいつは果たして俺を屈伏させられるものかと、空虚の中に笑ってみる。
しかしもう一度あの匂いが嗅げるなら、それが叶うなら、負けてやってもいい、か。
ふらり、ふらりと落ち付かない足取りを一歩一歩視認しながら、どこ行く訳でもなく森を歩き続ける。
頬から首筋にかけてを生ぬるい雨が伝う。赤い空には雲一つなかったはずなのに、まるで俺の周りだけが雨雲に覆われているかのように、辺りが暗く感じる。
顔は熱く、意識も今一はっきりとせず、まるで自分がここに居ないかのような感覚に陥る。
あいつから何か変な病でも移されたのだろうか。全部錯覚だと、そう思ってみても辺りの風景はまるで代わり映えしない。
こんな状態を夜行の奴らに知られたら身が持たない。傷だってまだ癒えきらないが、次の日が昇る程度まで寝床で待機していたほうがいいだろうか。
ああちくしょう、飼われの奴は本当に面倒だ――