疲弊した陽は熱を持ったまま空へと落ち、雲へと発火して赤く黄色く燃え盛る。熱を帯びた木漏れ日が、斜めにかかる帳より、飛び火するかのように草の地面へ、ふわりと振り落ちる。  
かつて群れ棲んでいた荒野からは大分離れた森の中。陽が落ち辺りが燃え尽きる頃には常闇の壁が残るばかりのここは、湿気が身を冷やす点を除けば、身を隠すには中々都合の良い場所、だね。  
 
「あれ取ってよぉー! ママぁあ!」  
目前に映る、ふわりと嵩を増した黒く渦巻く体毛が、木漏れ日を吸って強く色付きながらも健気な声を向けてくる。  
「はいはい」  
爪を立て、敷かれ湿った枯れ葉を両後ろ足で一蹴りすると共に飛び上がり、続け様には木の側面を前足で掻き、後ろ足で一蹴りして、高く生っている小粒の木の実を三粒ほど、牙で引き千切って。  
頼まれ物も捕らえると、直後には身体四つほどはあろう高さから落ち前足から着地し、"娘"の元へと戻る。  
頭を下ろし、顎を開いて咥えていた木の実を晒すと、娘は一言と共に、勢いづくであたしの口から木の実を奪い取っていく。  
「ありがとー!」  
この子も、木の上に成る実程度、そう遠くないうちに自分ひとりで取れるようになるんだろうな、と、そう思うとなんだか寂しい。  
「落ち着いて、ゆっくり、食べなさい」  
あたしの言うことを聞いてか聞かずか、娘は腐葉土の地面に木の実を置き、口から小さな炎を吹いて木の実を軽く焦がす。  
 
元居た群れにとってこの子は、存在自体都合が悪かったし、あたしにとってもあまり都合のいいものではなかった。  
群れの優位でも何でもなかったあたしが身篭ったことも、相手が群れの外の、獲物の一匹だったことも、その相手――この子の父親が、あたしの血となり肉となったことも。  
それでも間引かれたくはなく、この子を産み育てるために、群れを嫌い離れるしかなかった。  
例え間違いだったとしても、一瞬でも番いあった彼のため。例え望まれなかったとしても、自力で地に足立って歩いたこの子のため。  
――あるいは、慚愧に堪えることない、あたし自身のため。  
 
身篭ったその時、群れの皆を裏切ってひとり離れたことは、いまだに後悔している。もう一生会うことの許されない敵を作ってしまった、と、そんな恐怖心もあるのかもしれないが。  
ちゃんと説明すれば理解を示してくれる奴は居ただろうし――特に、同じ雌の仲間には護ってもらうことも出来たかもしれない。  
それでも、この子が居ることで群れの発情が止まって、なんてことになったら間違いなく子殺しの対象になっただろう。そうでなくとも、混血のこの子に難癖つけて噛み絞めようとする、かつての仲間たちが容易に想像できる。  
「ママぁー、もうちょっと欲しい!」  
護るため。どんなに都合が悪くたって、この子を地に還しはしない。  
「しょうがないねぇ」  
だからって、過度に甘やかすつもりまでは無いのに。今一強く当たれない点は、考え改める必要があるか。  
柔らかい地面を再び蹴り付け飛び上がり、頼まれた通りに木の実を咥え取って娘へと渡す。  
いいのか悪いのかも分からないが、この子が喜んでいるなら、きっといいんだろう、と。  
「ちゃんと噛みなさい」  
あたし自身も快く、頬を緩めようとする。  
 
しかしその刹那、不意に、懐かしい匂いが鼻をつんざいて来た。  
群れに居た頃は常々包まれていた、同族の匂い。かつて群れ棲んでいた時の、仲間たちの匂い。  
久しぶりに感じるそれには、心落ち着くような想いが湧いて出てくるものの。落ち着いてなんていられない、とすぐに考え改め、視線を自身の足元へとずらす。  
「どうしたの?」  
この罪無き娘のためにも、遭遇するわけには行かない。  
あたしは、どくり、と身体に鼓動打たせることで、静まりかけていた心持ちを奮い立たせる。  
「ちょっと、移動しよっか。木の実はもう……食べた?」  
口ばかりは柔らかく意図したつもりでも、無意識のうちに声色が暗がりへと身を潜めていた。  
「うん」  
あまり心配させるつもりも無かったのだが、それを察したのか娘も声を暗がりへと追いやり、引き締まった声と共に木の実の種を吐き捨てる。  
痕跡を消すほどのことでもないだろう。向こうだって無用な争いは避けたがるはずだし、あたしや娘の匂いを痕跡を見出せばすぐに離れていくはずだ。  
匂いの流れから察するに、幸か不幸か、群れは風上のほうに居るようだし。気付かれずに離れられるならそれに越したことはない。  
「川に行こう。喉乾いてるでしょ?」  
理由なんて適当でいい。後ろからじりじりと迫ってきている、複数の匂いから、ただ離れるための嘘でいい。  
――それなのに、どうして匂いが強くなってきている? 追われているのか?  
「じゃあ、早く行こっか」  
鼓動が加速度的に早まっていく。一歩、二歩と、八本の足が腐葉土の地面を掻き始める。あたしの四本と、まだ不安定さの残る娘の四本。鼓動が、とく、とくと空気を響かせる事も厭わない。  
がさり、がさりと、風下へ、赤く黄色く濁った茂みを一つすり抜けて。  
「あ……」  
そうした目前には、黒い体毛をさらりと伸ばした、長く巻いた角の同族一匹が、吸い込まれそうなほどに黒々とした眼差しをあたしへと向けながら、尻餅ついて座っていた。  
待ち伏せ、された?  
「お久しぶり、です」  
リーダー、と言葉を続けそうになり、思わず口を紡ぐ。  
過去には憧れすらした、元居た群れのリーダー。今もこいつが群れの"アルファ"ということは、恐らく変わりやしないだろう。  
「久しいな。何も言わずに消えて、今は一匹……ではなさそうだね」  
かっこいいし、優しく落ち着いたこの雰囲気も好き、だった。群れから離れた今も優しくしてくれるかは怪しいものの、仲間思いなリーダーだった、ということは間違いない。  
「そこの子供は、お前の子か? 体毛が嫌に巻いている辺り、純血ではなさそうだな?」  
アルファは、そう言葉にしながら畳んでいた後ろ足を展開し、しっかりと四肢で腐葉土の地面に立った。  
危惧している通りなら、あたしからの返答を聞き次第、即座に娘を絞められてもおかしくなく、答えるべきか、しばし迷う。  
「そうですね……あたしの子ですが、この子の父親まではお教えできません」  
怒るでも、笑うでもなく、強いるならば無表情に。視線を交錯させながらも最低限の説明を済ます。  
心中は全く穏やかではないものの、力量差が歴然とした相手に、視線を鋭く突き立てるのは却って危険なだけだし、と。  
張った四肢からも気を抜き、敵対したくないことを、何とか表現しようとする。  
「ママの"おともだち"?」  
娘が隣から、好奇心のままに向かってくる質問が、それを後押ししてくれるような気がしながらも。  
お前も狙われるかもしれないんだぞ、と、危機感のない娘を多少なり不憫に思う。  
「うん、お友達だよ」  
"友達"、とはいっても、反射的に、考えるよりも先に放った言葉には、あたし自身で呆れ返り、ため息も出ない。  
本当に友達なら、どれほど安心できることか。気を抜けることか。  
「かっこいい! 大きくなったら番いたい! いいでしょ?」  
「うん、大きくなったら、ね」  
取り囲まれたこの状況。あたしも娘も、逃げ場を絶たれ追い詰められた獲物でしかない。呑気に、アルファをかっこいいだなんて、言ってられる場合じゃないのに。  
 
視線を向けるまでもなかった。木々の隙間や茂みの影から、ゆっくりと、それでいて存在を示すかのように音を立てる集団が、四方八方からこちらへと近づいて来ている。  
いずれも白く後方へ湾曲した角と、黒い体毛を持った、懐かしい面々なのだろう。  
最初からあたし達が目標だった、と。それに気付くのがもう少し早ければ、遭遇することなくすり抜けられたかも知れないだけに、悔しくてならない。  
「皆……久しぶりだね」  
あくまで目前のアルファを。追い詰めた獲物を仕留めるべく待ち伏せしていた一匹を視線に残したまま、周囲へ声だけを差し向ける。  
声は無くも、アルファとは打って変わって、皆が敵意に満ちた睨みを利かせあたし達を捉えているのだろう。  
身に突き刺さってくる幾多もの視線が痛く、震え倒れてしまいたい思い。  
それなのに、娘は状況を理解していないのか。横目に様子をうかがうと、初めて出会う同族に、大変な興味を投げかけている。  
腐葉土の地面を、わしゃしゃ、と、四肢を滑らせるかのように、がむしゃらに蹴り付けて。とりわけ群れの若い者――それでもオトナである面々へと寄り、言葉崩れの声をぶつけては飛び退き、相手の反応を待たずして次の者へと駆け寄って行く。  
冷めた視線にさえ気付くことない、無邪気な様が、危なっかしくて仕方がない。  
「あたしは結構元気だよ。ごめんね、何も言わずに離れて」  
どうにかあしらえないものか、と、極力平静を保ち、合わせる顔もないのに、無理して群れの皆に視線を配る。  
しかし誰ひとりとして表情を変えず、包囲を緩めるでもきつくするでもなく、ただ視線ばかりを突き返して来る。  
 
「子に罪はないさ」  
そこに割って入ってきたのは、助けてくれたのは。他でもなくアルファ、群れのリーダーだった。  
一声と共に静まる中、風が木々を叩き、木の葉をざざあと揺する。何を言っているかまでは理解していないであろう娘までが――身じろぎを止めてアルファへと視線を刺した。  
「その子は先に帰していいぞ。俺はお前に興味があるんだ」  
場の空気を、流れ来る時を一瞬に固め、どさりと身に圧し掛かってくる。しかしそれはあたし以上に、群れの、包囲網に対して強く重石となった。  
あたしをどう処遇するかは分かなくとも、娘はひとまず大丈夫という保証。  
「――独りで帰れる? ママね、ちょっと"友達"と話し合わなきゃいけないの」  
血生臭い話し合いになるかもしれないし、目前の"友達"だって気を利かせてくれたのだ。あとはこの子が巻き込まれさえしなければいい。  
「えー、ママはまだ居るの?」  
「うん。すぐ戻るから、ね。さ、早くお行きなさい!」  
甘えたそうに、横から上目遣いをくれる娘を言葉で追い立てるのは、あたしだっていい気はしない。  
それでも、せっかくくれた機会に逃がさないという選択肢は、なかった。  
ほどなくして諦めがついたのか、娘が渋々と歩き始める先では、黒毛の包囲網がゆっくりと開き、娘はその隙間から木々の奥へと、静かに立ち入った後、一旦振り返る。  
あたしへとよこされる視線。まだ幼さの残るその黒い小顔には、隠す気もない不安が霞む。  
――早くこの場から離れなさい。離脱しなさい。  
「帰り道ぐらい分かるでしょ? 来た道たどるだけ、大丈夫さ!」  
喉元から飛び出してしまいそうな焦燥感を、言葉にならぬよう懸命に噛み砕く。代わり、空気が察してくれたのか、上方、木々の葉っぱが、ざざあ、と悲鳴を放つ。  
それに驚き慄いたのか、安心したのかは分からないが、娘は、ふう、と小さなため息とともに、目を瞑り身を翻して、姿を消した。  
 
――あたしがこの場で絞められるならば、あの子は、生きていけるのだろうか。  
まだ狩りだって教えていないのに。父親の姿を見たことはなくとも、獲物の血が流れる娘に、果たして獲物が狩れるものか。  
一瞬そう思えど、まだあたしが絞められると決まったわけでもないし、杞憂かもしれない。仮にかかって来られたって、逃亡するなり、返り討ちにするなり、どうにか生き永らえれればいい。  
絞められる訳には行かない。  
 
「――遅くなりました。改めて、お久しぶりです」  
娘も遠くへと消えたところ、目前の雄へと向かい直し、改めて話をしよう、と、そう思っていると。"友達"は腐葉土の地面を四肢で蹴った。  
あたしの横についたと思えば、腐葉土を蹴り直し、二回りほど大きなその身体を横からぶつけて来る。ふらりと崩れるさなか、素早く喉元を噛み締め、横倒しになるついでに、すっかり抑え込まれる。  
「話があるのでは……ないのですか」  
話すまでもなく決裂だった。  
「さあ、な? 俺はお前に興味があるだけだ」  
かつては、この雄に伏されることを望んでいたか。一昔前なら、きっと大喜びできたであろう状況、台詞。  
このような形で伏されることになるなんて、無情だった。  
抗いとして四肢を懸命に動かし、蹴っても、横倒しになったそれは腐葉土を上をむなしく滑るだけ。  
「皆も、一旦引いてくれないか? こいつを逃したりはしない」  
"友達"はあたしの首から牙を抜いたと思えば、今度は宙へと指示一つを渡す。前足であたしの首筋を捉え、逃れられないようにこそされていても、包囲網までは必要ないと判断されたのか。あたしに過度な敵意をぶつけているわけでも無いと、示したいのか。  
分からないからこそ、油断などできやしない。  
 
群れの面々が静かに茂みを超え、辺りから気配を消すと、この場に残るのは、いよいよあたしと"友達"だけになる。二回り小さいとはいえど、そう体格差もないこの獲物を、まさか独り占めしようと考えているのだろうか。  
あたしは牙を噛み合わせ、回りやしない首はそのままに。赤く黄色く燃える空を負い黒く影を纏っている"友達"の顔を、視線で絶え間なくつんざいた。  
その矛先にあるのは、瞳ばかりを煌めかせ、牙を見せつけて来て、全く涼しそうな微笑み。続けざまには、表情そのままに牙を刺したその口で、あたしの首を力いっぱいに捻ってくる。  
「やめ……!!」  
仰向けに変えられ、地面の冷たさが移るは背中の方。身体を巡っていた血が、視界に移らずして宙にて踊っているのか、幽かながらよい匂いが鼻先へと届けられる。  
まるで獲物を屠るかのような、あまりにぞんざいで呆気ない扱い。あたしには、もう優しくはしてくれないのか、と。僅かでも期待していた思考さえ、崩れ落ちるのはあっという間のこと。  
喉元にはこいつの牙がめり込み、絞めるでもなく小さく貫く。こいつとはもう仲良くできない、と諦めはついていし、だからこそ、面白がらせたくはなく口を噤んだ。  
「ほう、強くなったな?」  
一間、喉元から感覚が離れると共に一言添えられ、言葉が終われば再び牙を元へと――丁度大量の呼吸が行き来し、膨らみ張っていた喉元に刺し直される。  
雫の張る目を敵意のままに見開くと、目前に映る黒い耳が、体毛が、ゆらり、歪む。  
敗者への侮蔑なんて、別に珍しくもなんともないと、分かってもいるし、あたしだってそんな気質を持ってるのに、それでも悔しい。  
こいつが"友達"だなんて。ましてや過去に恋い慕っていたなんて。ありえない。最悪だよ。  
 
牙はそのままに、こいつの足爪が、あたしの四肢の間、胸元付近を、静かになぞり始める。多少なり膨らんだ乳房表面を刺され擦られ、酷く痛くても、抵抗する気はとうに失せていた、か。  
じっとしていればこれ以上に痛覚を弄られることもないのだし――反応に裂く神経もなく、ぼんやりと、目前に霞み揺れる黒い耳を見つめるばかり。  
「身体はすっかり母親気分か」  
――娘は、あの子はしっかり巣へと戻れているだろうか。もう心配するような幼さではないと分かってはいるのに、心配性なもんだね。  
あたしが帰り着く頃には、待ちくたびれて眠っているだろう。もう長らくは、あるいは絞められる瞬間まで"友達"と付き合わなければいけなさそうだし。  
はぁ。  
「惜しいね」  
喉元から牙の感覚が、離れ、今度は差し戻されることもなく。視界に映っていた耳は上方へと移り消え、代わり、"友達"の黒く影を纏った顔が、下方より出でる。  
再びあたしの目へと差し向けられる視線。それは霞みながらも、笑っていることは何も変わりやしない。  
「そうですか……はいはい」  
耳に意識を向けるつもりもなく、何を言われているのかも気にしないまま。適当な言葉を"友達"の言葉に噛ませ、あしらおうとする。  
 
「随分と気のない返事だこと」  
それでもこいつの興味は尽きることなく、眼前へと、目前へとその顔を。それこそ、冷たく湿った鼻先同士が押し当てられるほどに近く迫らせてきた。  
赤く黄色く燃え続ける陽の火や、煽り風に叩かれ悲鳴を上げる葉っぱ達の声を、何もかもを遮断するかのよう。  
「前戯は嫌いか?」  
「そんなことはありませんよ」  
あたしは相も変わらず、尋ね言葉を深く考慮することもなく適当に返事を向け、たものの。一言を言い終えた頃に、頭の中からすり抜け離れようとしていた"友達"の言葉を捕まえ、脳裏に引っかけた。  
前戯? ん、え?  
この後本番があって、後戯があるかは"友達"次第としても。あたしに種付けでもしようって算段なのか。  
「これから一体、何をなさるおつもりですか」  
生き永らえられるなら、絞められるよりはずっとましだとは思えど、解放されるのはまだ先になるだろうな、と改めて落胆する。  
それよりも、野良のあたしなんかに構えば、群れの雌達が黙っちゃくれないだろう、と呆れるしかない。その点、包囲網を散らした真意に納得がいく。  
「あまり、気乗りはしていないようだな?」  
あたしから向けた質問には答えることなく、姑息にも質問を返してきて。更に姑息なことに、あたしから言葉を返す間もなく、その身を畳んで、腹を腹へと押し付けてきた。  
心も、身体さえも準備なんてできていない。  
「――やめろ! 離れろ!!」  
雄を意識さえしていなかった身、強引に下腹部を裂いて突き立てられる感覚。久しぶりに放つ怒号。  
瞳から伝い落ちる雫が心なし嵩を増し、頬上部を、耳元をすり抜け、体毛を沈めながら、腐葉土の地面へと落ちる。  
目前に居続ける笑みもまた嵩を増し、その喉奥からは、くつくつと殺し損なった声を零している。  
「ようやくその気になったか?」  
下腹部に突き立てられた感覚が今一度離れ、腹同士が擦られ、乳房に酷い痛みを走らされる。  
"友達"の顔が、視界下方へと消え、代わり、生暖かい感覚で、傷を負った乳房を癒すかのように擦ってくる。一回、二回、繰り返し何度も。  
その、すうう、すうう、と掠れるような音が木々の間を跳ねると、共に、近頃忘れかけていた感覚、高揚感が湧きあがってきた。  
「お願い! お願い……」  
何を伝えたいのか今一分からないのに。ただ、何かを言わないといけない気がした。  
ひりひりと痛みの残る乳房が、下腹部が。痛みもなく、ただやたらと乾く。  
「おねだりか? 何だ、言ってみろ」  
舐め繕う舌はそのままに、下方から向けられる質疑。  
「そんなんじゃ、ない!! 違、う……」  
それは否定すべき、反抗すべき言葉だったのに。怒号のままに放とうとした返事は、突如、喉奥にて噛み砕かれ尻すぼみになる。  
鼓動が、どく、どく、と身を揺すって、感情を煽っていく。どんなに痛くても耐えるつもりだったのに。絞められても致し方なしと覚悟していたはずなのに。  
「や……やぁあああ!!」  
身体じゅうが疼き、乱雑に両前足を振るわせる。友達の後頭部を捕えると、そのまま爪を立て引っかける。  
そんなあたしなんてお構いなしに、こいつはあたしの乳房を繕い続けて――それでも足爪が刺さったことに腹を立てたのか、その舌を一旦引っ込ませると、牙をめり込ませてきて、ただあたしの乳を吸い始める。  
地に足立てた直後の娘に行った"それ"とは、感覚こそ似ていても、受ける衝撃が全く違う。ばらばらに壊れてしまいそうなぐらいに酷く、同時に乾いた身を潤わせていく。  
「だめ……やめてぇえ……」  
「感じる? へぇ?」  
嬌声なんて、らしくない。そう思考では嘆いても、身体はあまりに勝手で、快楽を貪ろうと媚びを増していく。  
風があたしと"友達"とを包み、混ざった匂いを鼻奥へと押し込んでくる。雄の匂いが心地よい。離れたくない。  
目前に揺れ続ける黒く斜陽に焼けた耳が、残る距離を表しているようで、恨めしい。  
 
「なぁ、あなたの、欲しい」  
喉奥からでなく、身体から、無意識のうちに放っていた言葉が、宙にて風の流れを断ち、僅かばかりの時を止める。本当にあたしの放った言葉なのかさえ、疑いたい。  
それでも"友達"は即座に理解してくれたのか。断たれた風が再び木々の隙間をすり抜け流れ始める頃には、その身を今一度あたしの上から退けて、そばに立った。  
この瞬間に、逃げ出そうと思えば、逃げられなくもなかったかも知れないのに、身体は押さえ付けられたままのように重苦しく身動ぎもままならない。ただ、"友達"ともう少し遊んで居たかった。――あたしはほんと、何してるんだろう。  
 
静かに身を起こし、腐葉土の地面に一旦四肢を立て終えてから、前足、後ろ足と折り畳み、身体をかがめて、四肢で立つ"友達"の下腹部へと顔を寄せる。  
四肢に挟まれ、赤く燃える陽さえも遮る暗がりの中。鼻先に、生ぬるく、匂いのよい感覚が、つん、と当たる。  
陰りの中、発色までは見えずとも、雄特有のそれはきつく張って今にも裂けてしまいそうなほど。  
「やってみろよ」  
挑発する声が、今更にもあたしを追い込もうとしてくる。  
目前のこれを噛み絞めれば、一瞬で形勢が変わる。少なくともあたしはそう思うのに、こいつは全く落ち着いたままだった。あたしが牙を突き立てるわけがない、なんて、理由もない信用を置かれてる、のだろうか。  
ただ黙って、あたしは返事することなく前足を半歩進ませる。首を伸ばし、"友達"のそれを、性器を口で、牙で挟む。  
ぴくり、ぴくりと、小さな鼓動を伝えはしてくるものの、ひどく荒れる様子もなく落ち着いてて、ひどく恨めしい。  
噛み切るくらい容易なはずなのに。  
「よしよし、いい子だな」  
熱を持つそれを傷つけぬよう、ただ舌を押し付け、擦り当てて、表面に浮かんでいる粘液を舐め取る。  
毛繕いと同じ要領で、奥から手前へと舌を引いて、それでいて口は繕う物を捕らえたまま。  
 
辺りに吹く風は、おとなしく、さああ、さああ、と静かな声で、木々の葉っぱと何等かの話を交わしている。  
笑っているのだろうか、あたしのことを。別に、どう思われようと勝手だけどさ。  
あたしだって、憎き相手のご機嫌なんて、態々取り繕う必要もないのにさ。  
はっきりとはしなくとも、力量差の大きいであろう相手に歯向かって、この場で絶える訳にもいかないんだって、分かっているんだから。  
ただ屈服させられ、不本意ながらも従っているだけだ、と、頭の中に響かせ、あたし自身を納得させようとする。  
「ありがとう……ございます」  
くぐもり、今一はっきりとしない言葉しか浮かばせられないが、騒がしさの失せたこの周辺でなら、十分に聞き取れる程度だと思う。  
「ああ、俺も中々いい」  
"友達"の、こいつの一挙一動に、憎たらしささえ覚えるのに、身体はあたしの指示なんて受け付けず、ただ繕いごとを続けるばかり。  
ただでさえ大きく張っていたそれが、口内で尚も膨張し続ける。舌を這わせるにも窮屈で、段々と緩く動作を遅く引き伸ばしていく。  
 
娘にも、包囲網の誰にも見せたくない光景だろう。本当は遠巻きに視線を突き立てられているのかもしれないが、この場静かに、他の生き物なんて気配さえ感じられない。  
木々をいくつ超えれば生き物と出会えることか。包囲網だってそれほど遠くまで行っていないだろうとは思えど、さながら、この森には最初から、あたしとこいつの二匹しか居ないかのよう。  
強いるならば穏やかな風達が、ゆらり揺れる木の葉達が、陽に燃やし尽くされるのを心待ちにしているぐらい。  
そんな中でも静めやしまいとしているのか。はす、はす、と、こいつの呼吸ばかりが漂い、とく、とく、と鼓動が身に打ち、ざわめき具合はまるで変わりやしない。  
「さて、物足りなくなってきた」  
喜んでくれているのだろうか。頭上を越えた後方から零される声は、何も隠すことなく感情を表している。  
案外、何時まで経っても慣れないものなんだろうか。咥え扱かれるくらい、他意なく繕われたりもしてただろうに。  
と、そう思っていると、舌をあてがえていた、膨張するそれが急に引き抜かれ、口内が綺麗に空く。  
黒い体毛が目前から退き、斜陽に焼ける木々達が再び視界を占領する。こいつは一歩飛び跳ね、あたしの後方へと回り込むと、あたしが振り返るのと同じくして、その身体を圧し掛からせてきた。  
あまりに湿っぽく荒い呼吸が、耳元へと吹きかけられる。横目に映るのは、見るからに上気した黒毛の顔。  
何をされるかなんて想像するに易かったが、それに抵抗する気も起きない。  
「いい目に、いい身体だ」  
横目に見合う同士でも、こいつは隠す気もなく感情を呼吸とするのに対し、あたしはただ黙り従うしかなかった。  
身体の準備が整ってない、なんて、こいつだって重々承知だろうに。こんなあたしで何をしようっていうんだ。  
 
――きうぅぅう!  
そう思考する直後には、下腹部へと刺さる感覚。無理やりに押し込まれ、裂けてしまいそうな激痛。  
さっきまでは口内で繕っていたそれが、今度はあたしの膣内へと侵入してくる。身体が接着し、あたしの背とこいつの腹とが離れなくなる。  
前足が間接から折れ、地面に腹を押し付けられる。こいつの鼓動が、余りある力で身体を揺すり浸食してきていた。  
「いいねぇ、子持ちの癖に初々しさがある。実にいいよ」  
そんな言葉の後には、ふうう、と、頭後ろ辺りから熱風を吹き付けられ、あたしの顔を柔らかく包む。  
黒い体毛の上に乗り、斜陽の中に同化しながらも揺れ踊る炎は、身体を固く強張らせるあたしを、優しくほぐしてくれる。  
「だって……何回も番った訳じゃ、ない……」  
悔しく、憎いはずでも、こいつからの貰い火に心を沈ませる余裕は、まだあるのだろうか。顔の温かく火照る感覚が心地よく、瞼を落とし――下腹部の痛みを忘れようとした。  
気持ちの悪い鼓動は、そのうち気にならなくなるさ、と。 そんなことないと分かっているはずなのに、一時しのぎでもいいからそう思っていたかった。  
――かつてに番った"あいつ"とだって、たった一度で子を成してしまったんだ。経験も薄い身、久しぶりの雄が嬉しいのかもしれない。  
どんなに悪く思っても――そもそも"あいつ"とだって印象なんてよくなかったのに――同族の雌と雄でしかないんだから、変なことは全然ないか。  
「へえ、楽しむのは初めてか?」  
ひゅうう、と吹く風と共に、頭から感情が丸ごと全て抜け落ちるかのような、妙な虚無感が降りかかってきた。  
「あぁ……や、やぁ、やめろ……!」  
ぎぎぎ、と身の、肉の軋む音が無情だった。  
牙を強く噛み締め、湧き出る声が宙に零れぬように。代わり、瞳より酷い量の雫が爛れ頬を通り、腐葉土の地面へと伝う。  
くぅうん……きゅるる……。  
「みっともないな」  
くつくつと、わざとらしく声にするこいつには、一体どんな思惑があるのか。  
身体が悲鳴を上げたがっている中、斜陽を受け煌めくこいつは、そうっと、あたしの目元へと、優しく呼吸を、炎を吹き付けてくれる。  
雫が蒸発するのはあっという間でも、再び零れ始めるのもあっという間のこと。  
あたしはそんな、一々世話されなくたって全然大丈夫なのに。子供を扱うかのようなそれはあまりにも屈辱だった。  
ただでさえ、番わんと、この身抑え込まれているのに。  
「いや、だって……だってぇえ!!」  
駄々をこねるかのようで――懸命に、抵抗、という名目で身動ぎし続けて居たかった。  
吹く風に乗って、風下すぐそこより届く雄特有の匂いが、判断を鈍らせている気がする。  
「くう……ワガママ言いやがるな」  
あたしが身動ぎする度、下腹部奥部に広がる、微かな擦れ具合を、もっと強く感じたい。  
 
それなのにこいつは、もう少しというところであたしの背を擦り――身体に絡む性器から解放した。  
「え……」  
「さて、お遊びはこの辺にしておこう」  
こいつはくすりと笑う声色そのままに、下腹部が急に軽い。引き抜かれたのだと把握するのは一瞬のこと。  
――性器が下腹部から抜け落ちても尚、摩擦跡がひりひりと刺激し続けて来るこれは、何なんだろうか。  
「うぅ……」  
身体じゅうが、がくがくと震えて、腹ばいに座ったまま立ち上がることもままならない。  
このまま暫く、快楽の跡に浸って居たい、なんて。そんなことしてるだけの暇もない、と、失念することなく分かっているのに。  
「お疲れかな?」  
本来なら喜んでいい、労いの言葉。あたしの背中から重荷が退くと、こいつの足爪が顔のすぐ横に。片側に二本足双方が纏まった。  
「全然! ご心配なさらず……!」  
――行ってしまう。  
それでいいんだ、災厄がようやく去っていくんだから。  
「群れに戻ってくるなら歓迎するさ」  
――行ってしまう。  
身動ぎもままならぬ中、あたしは必死になって、何を訴えたいんだろうか。  
「待て……待って……!」  
身体はそのままに首ごと顔を捻り、片角を腐葉土に押し込むような形で見上げる。  
"友達"の目は、垂れ落とされ穏やかそのもの。悪い気なんて微塵もなかった、ということを伝えたかったかどうかは露知らず。  
あたしの視線を見下したこいつは、ただ小さく口元を綻ばせ、微笑んでくれた。  
――あたしだって、貴方だってまだ、でしょ? ――煮え切らないよ。  
「お前には強く入れ込んでいる」  
"友達"が地面を蹴ってから、木々の奥へと去っていくのはあっという間だった。  
 
斜陽も失せた木々の合間、いよいよ青く黒く、焼け切った灰へと姿を変え始める頃。  
ただの一匹になったあたしは、動きたくない、と自らで縛りつけている身体をなんとか浮かばせ、がくがくと震える四肢で地に足つける。  
後ろ足を張ると、下腹部の摩擦跡がまだ疼く。後に残ったのはぼんやりと輪郭の見えない憎悪ばかり。  
遊んでたのだか、遊ばされてたのだか。最中には、さぞたくさんの空気が流れていったのだろうが、どれほどのものか。記憶上の空気は皆が止まっていて、流れたはずの空気は想像さえ付かなかった。  
娘はもう泣き疲れて寝ている頃かもしれないんだ、と。忘れかけていたそれをふと思い出す。  
 
他の生き物達には悟られまいと、よろめく四肢を慎重に、それでいて足早に歩みを進める。  
苔むした岩肌を蹴って、茂みを一つ、二つ、三つ、四つ飛び越えて、木々に身体をぶつけ、時に角が弾かれ頭を振られても、身体の勢いそのままに進み。  
ようやく到着した、腐葉土の積もる斜面の一部分には、黒く乾いた焦げ跡が残る。娘の日頃からの悪戯なんかではない、まだ真新しいもの。  
それだけでもなく、周囲には幾多もの足跡も、荒っぽく踏み示されており、獲物を捕えた時と同じ匂いもする。  
身を固く静止するしかなかった。  
追われたか、待ち伏せられたかは分からずとも、四、五匹ほどか。指示したのは、他でもないだろう。  
――見逃してくれやしなかった。あたしを敷きながら、分断させたかったの、だろうか。  
群れに居ればまだ、仲間同士で止めてくれたかも知れない。それでもアルファから直接爪牙を下されれば、為す術なんてなかった。  
群れを離れざるをえなかったのに。  
あいつは――あたしを陵辱こそすれ、間引くのはやめよう、なんて、端から思っていなかったのだろう。  
予め待ち伏せて、あたしやアルファの、現地の様子が分かってなかったとしても、"友達"が天高く声を響かしてくれれば、止められたのだろうし。  
 
『群れに戻ってくるなら歓迎するさ』  
頭の中に響くは忌わしい声色。  
今更あたしに種付けして、何になるんだ。もう群れには居ないのに、それでも支配下に居なければだめなのか?  
 
どうしようもなく身を崩し、ただ、焼け焦げ、匂いの充満した巣内に入り込む。  
噛み砕かれて不自然に身を曲げた黒い体毛が横たわっているのは、血でできた敷き物の上。  
もう少し奥には、熱を帯びながらも変わりのない小さな球状の物。この子の父親の、尻尾先端についていた宝珠。  
元々は透明感もあったのだが、今となってはすっかりくすんでしまったそれを、咥えると、"体毛"の腹であろう部分に、そうっと添え置く。  
巣の外、入口まで戻ると、静かに目を瞑り、鼻から空気を弱く長く吸って、そのまま喉へ、口へと。呼吸の要領で移しながらも、喉にて乱暴に摩擦させる。  
口内へと逆流する頃には唾液を消し飛ばす熱気となりて、ただ目前、巣内の脇に置かれている、燃え損ねた黒へとそのまま吐き付けた。  
 
――お還りなさい。  
 
あたしの背や脇をすり抜けて、たくさんの風が入口下方から巣内へと入り込んでいく。  
成り替わって黒い煙が、獲物の焦げる匂いと共に入口上方から零れ出て、木々の葉っぱを燻していく。  
煙や匂いが、瞑る瞼をすり抜け瞳表面を裂き、その隙間から体液を溢れさせ、頬へ、顎へと伝わせる。  
それでもあたしは行動止むことなく、何度も何度も、息を吸って、時に沈む顔を懸命に擡げながら、巣内へと吐き付け続けた。  
この子も、あたしも、あたしと番った、この子の父親も。一体、何のために生きたの……?  
その答えも出ないままに、いよいよ煙も匂いも薄く消え、巣内から熱の感覚が消え失せる。  
今まで有難う、ね。  
 
 
巣の入口から離れるように身を後退させ、ふらり、ふらりと森の中を身勝手に進む足。  
冷たい腐葉土を踏み締め、赤く陽に焼けた木々をすり抜け、向かうは、かつて群れ棲んでいた荒野の方向。  
――あたしはこれから、あの群れに報復しに行くのだろうか。  
そうだとして、壊滅させるのは無理だろうが、あの子と同じ地に還るには丁度いいか。  
 
尻尾根元、やや下方から、体液の感覚が湧き立ち爛れ落ちる。歩む鼓動に合わせ、腐葉土の地面を、たん、たん、と静かに叩く。  
酷く高揚した心持ちは、恨みから来るものだろう、と、そう思い込みながらも、原因がまた別にあるのか、身体の制御なんて効きやしない。  
群れがかつてと同じ場所に居るかさえ分からないのに。こんな惨めな状況で立ち向かって、まともに抗えるものか――。今更不安に思うこともなく、ただ、あたし自身を嘲笑う。  
風が鋭く身体じゅうを裂いてくる。冷たい。  
 
だいぶ歩いたところ、前方より"友達"の影が、ただ独り、歩み寄ってくるのが目に映った。  
泣き崩れてしまいたいのに、まるで身動ぎ効かぬ身体が、構えるでもなく立ち止まるばかり。  
そんなあたしに、"友達"は柔らかい言葉と共に身を翻して、先導するかのようにゆっくりと、視界の中にて歩みを進めてくれる。  
爪が疼き、身体が跳ねる。腐葉土を蹴り、飛び掛かったのかと思えば、ただ"友達"の横へと付き、並行する。  
昔はもっと違う関係だったと思うのに、思い出せない。――今が友達なんだったら、きっと昔も友達だったんだろう。  
にやりと言葉なく笑ってくれる彼が、感覚薄い身体に刺さる。こいつとは結構長い付き合いだった気がする。それ以外に理由もなく、ただただ嬉しかった――。  
 
 

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