――ある獲物を丸々一匹頂き平らげた、あの出来事があまりにも遠い昔のことみたいに思える。どのくらいの日が昇って落ちたかなんて分からない。  
あれ以来、仲間達の声一つ一つがずしりと頭を押さえつけ、風に揺らされる草さえあたしの体をつんざき。どんなに些細なことでも、どれもこれもがあたしのことを嘲笑ってるような。そんな感覚に常々襲われるようになった。  
辺り一面がどんなに明るくても、真っ暗で何も見えず。目に見えるものすら虚像じゃないかと疑ってかかるほどに気を滅した日々夜々。  
 
あいつの尻尾についていた、透明感を残しつつも光を失いくすんだ球に、前足を乗せて転がし遊ばせる。  
独りになってこうしてる時だけが、あたしの心穏やかになれる瞬間で。  
それでももどかしくやりきれない悲しみは拭いきれなく、リーダーが心配の声を向けてくれてるようでも、それさえ怖くて、怖くて。  
何処かに助けを求めようと空虚に見る物は、ただ薄黄色く膨らんだ体毛を持つ、獲物の姿ばかり。  
本当なら、もっと嬉々としていいはずなのに。どうしてこう苦しい思いをしなきゃ駄目なのか。  
解消したいけど、その方法も分からない。地面に向かって爪を立ててみても、炎を吹き付けてみても何も変わり映えしない。  
その状況に助けか追い打ちか、くすんだ球から何か声が聞こえてくるような気さえし始める。  
貴方に恋い焦がれてた、なんて、貴方すら否定しそうだね。いっそ本当に否定してくれたらどんなに楽だったかな。  
 
あたしの中に、新しい鼓動がとくとくと打っていること。  
そのことに群れの皆が気付くのは、もう遠くない頃だ、って分かってても。それでも泣くことすら叶わない。  
異端扱いされるのは大丈夫だけど。だけど皆は、群れに居られなくなるそのことを理解してくれるだろうかな。  
貴方の生きた証を、あたしは尊重したい、なんて。そんなこともワガママでしかない、分かってる。  
 
ごめんね……。皆、ごめんね……。  
 
 
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夜の暗い荒野にたたずみ、時折吹く風が背の高い草をなびかせて。あたしの頬や鼻先をくすぐらせる。  
周りにいる群れの仲間達は一刻先に獲物を噛みしめ、辺りに血の匂いを飛び散らせて。そんな美味しそうな匂いがあたしの口から唾液をただれさせて。  
あたしも食にありつこう、と、目の前に横たわっているそれに歩み寄る。  
あたしより一回りぐらい小さなそれは、まだまだ息が残しこちらに視線を向けるが。抵抗も無くおとなしくしていて、ただその尻尾の先についている球が淡い光を零している。  
四本の足はそれぞれ赤く腫れ上がっていて、この状態で逃げられることなんてないだろう。なにせ捕える際に、あたしがその四本の足を噛み砕いてやったんだから。無理ない。  
 
今回の狩りは大成功で、全員が満腹以上になれるほどの収穫があった。  
獲物側の抵抗も強く、仲間のうち二匹は獲物らが放った光の筋を受けて、今頃は体をうまく動かせなくなってるぐらいだけど。そんな風にして逃げられなかったからこそ大成功で終わったのかもしれない。  
群れの数匹には獲物丸々一つが与えられるほどで、かくいうあたしも、この獲物一つを独占してよいとリーダー直々に言われて、当分は何も食べなくても大丈夫そう。  
それにしても「お前はいつも頑張ってくれてるぞ」なんて、あの時の褒め言葉を思い返すと心が弾む。  
リーダーのお気に入りになって、もっともっと言ってもらえればいいな、なんて、そう考えているだけで幸せ。  
 
「早く食えよ」  
しかしそう恍惚とした気を一言に跳ね飛ばされ。いい気分だったのにと不機嫌なりに声を返す。  
「いい加減うるさいよ?」  
あたしはそう言い終わるが早いか、首ごとすぐ足元に視線を落として。変わらずおとなしくしているそれを睨む。  
それは身じろぎせず、目を虚ろにあけ背の高い草に何かを見ながら。ただ口ばかりを動かし続けていて、中々に質が悪い。  
「何の恨みがあってぼくをこんなことに」  
あたしはそんな獲物に嫌悪感を覚え、視線をより鋭く尖らせてからそれに突き刺す。  
強い者が弱い者を食す、それだけの簡単なことなのに恨みとかなんとか、意味が分からない。  
「ぜんっぜん、恨みなんて一つだってない」  
ただ早く平らげてしまおうと思考が巡り、そんな言葉を返しだけすると。あたしは顔をこいつに寄せて、その首根っこに牙を刺す。  
黙っていれば本当に美味しそうなのに、もったいない。  
心の中でそんなことを声にしつつ続けざまにぐっと顎ごと持ち上げると、獲物の体は呆気なく宙に浮き、口の中にはじわりと血の味が広がっていく。  
この獲物はばたばたと暴れることもなく、ただじっと固まるだけで。あたしは一歩、一歩と足を動かし始める。  
 
美味しさと、支配している優越感と。  
そんな心地よさに包まれながら群れの外れまで歩いて。程なくして咥えていた獲物を首の力で前に投げ、草の地面に転がさせる。  
ここまで来れば仲間が数歩飛びかかって来ても届かないか。皆に獲物が行き届いてるこんな中、態々横取りにくる奴なんていないと思うけども。  
それでも警戒するに越したことないし、食事は落ち着いて済ませたいし。ようやくそれが叶うんだ、と、そう思うと、思わず口から大きな息が零れる。  
「……仲間の悲鳴に、血の匂いにさ」  
しかし再び、声に恍惚とした気を跳ね飛ばされ、獲物のほうに意識を戻させられ。  
「あー、うん、面白くないよ」  
せっかく忘れようとしてた機嫌を再び掘り起こされて。気に入らないったらありやしない。  
「ねえ黙ってくれない? あたしに逆らえるとか思ってるワケ?」  
そう声を強く突き立て下目に獲物の姿を捉えなおすと、この獲物は寝転がったまま、ただ横目に、鋭い視線をあたしに返していた。  
生意気で仕方がない。絞めてやるだけでは気が収まりそうになく、どうしてやろうかと思考を巡らせる。  
目の前にある一つの獲物、その体じゅうを覆うふわりとした体毛が中々妬ましい、四本の足全てを噛み砕いてまともに動けなくしている、見ただけで分かる雄。  
そんな分かりきったことを再認識すると、草を潰すように横になっているこの獲物に飛びかかり。前足でその喉元を押さえて、鼻先を押し付け、転がすみたいにして仰向けにさせる。  
その体毛は力を込めたあたしの鼻先を包み込んで心地良く、不満がより一層大きくなる。  
「やっと食うのか」  
そんな獲物の言葉は聞き流しつつ顔を持ち上げると、今度はその腹辺りに前足をあてがえて、そのふわりとした体毛に爪をめり込ませていく。  
獲物の目に視線を突き刺し様子を覗うが、その表情は一向に代わり映えせず空虚に何かを見つめ続けるばかりで、本当に面白みがない。  
早く平らげよう、って、そう思っていたはずなのに。どうしてこんな物の相手をしてるんだろう、なんて疑問すら抱きつつも。  
嫌がらせでもしてやろうと思ってこうしたんだし後に引く理由もなく。惰性だけでその体毛、首根っこ辺りに炎を吹きつけてみる。  
その体毛は炎が昇る訳でもなく、じりじりと小さな音を立てながらくすぶって。炎が昇りそうになったら前足で荒く踏み消してやる。  
 
踏み消した体毛からは、ばちばち、と程よい静電気が走り。前足の感覚が一瞬遠のきすぐ戻ってくるのが、また面白い。  
獲物は声一つ上げやしないものの、その表情は苦悶に歪み始めるのが見て取れて。それがさっきまでとは打って変わって、すごく楽しい。  
くく、と嘲り笑いながら、行為を首根っこから下へ下へと動かしていき、下腹部辺りまで繋がった焦げ目を付けていく。  
「……やめろ」  
そうしていると獲物がようやく弱音を吐き始めて、胸が高鳴る。  
「根性だけは強い奴だね」  
炎を吹きつけられるだけでもだいたいの獲物は気をおかしくするものなんだけど。これは中々手強かったな、と思考を巡らせながら。  
嫌悪感なんてどこに消えたんだろう。捕えられた獲物としての一角がやっと現れてきて、そのことが嬉しくて嬉しくて。  
 
後は、あたしの思い通りに動く、素敵な玩具になってくれるんだ。  
くくく、と止まらない笑いをようやく噛み砕いて。それでも口が緩み、自身の顔に満面の笑みが浮かんでいることがよく分かる。  
これの燻された体毛からは、色気ある香りが、煙となってあたしの鼻を包み込む。一匹の雄として、獲物相手に疲れたあたしを慰めてくれるだろうかな。  
そう期待しながらこの獲物、こいつの後ろ足付け根辺りに顔を寄せ、前足をぐいと押し込める。  
「やめ……このやろ……」  
こいつは小さくぼやきながら四肢をふらりと動かしてるものの、まともな動きはせず不自然にぐにゃりと曲がるばかりで。本当に可愛い抵抗。  
意識を戻して前足に力を込めると、押し込めたその部分には力の通りに動く異物があった。  
覆っている体毛を爪で少しかき分けて、その異物を風の下に晒し出し。暗い中、太い枝のような物が視界に映る。  
直接前足をあてがえてみると、温かさと、とくとくと打つ鼓動が伝わってきて。何か分からない、ただ気を惹かれて。  
この異物は別に珍しい物でもないはず、群れの雄どもにも見られるし。でも仲間相手にこうやってまじまじと見つめたり、触れたりはしないし。  
何のためにある、みたいなのもちゃんと分かってるつもり。それ以上の興味だってあるし話に聞くこともあるけど、機会がなくて。  
それであたしは、今の、この機会を喜んでるんだ、って。  
そう気付くが早いか、あたしはまるで誘われるみたいに口を開けて。まるで毛繕いをするかのように、その異物を前足で撫で、舌で舐め始めてた。  
産毛も生えてなく、何のために毛繕いみたいなことをしてるか、意義なんてない。あたしの詳しくない世界がある、ただそれだけ。  
 
「あっあ……」  
こいつは口を大きくあけて、途切れ途切れに、喘ぎ声を零し始める。  
雄共通の弱点だって言われるぐらいのことはあるみたいだ、爪を立てたりするわけでもない、この程度でも気に障るらしい。  
「へえ、やっぱり雄って不憫だね……」  
群れの雄どもにも、リーダーにさえも同じことが言えるだろう感性。それをもっと知りたい。  
その後ろ足があたしの頬に当たるものの、強い感覚はせず、その足は何もなかったみたいにすぐに落ちる。  
「悔しいでしょ? 同情してあげる」  
異物を前足で撫で繕いながら、反感を煽ろうと言葉を差し向けて。  
こいつの続ける喘ぎ声が心地よく。あたしはわざとらしく、きゃは、なんて笑い声を零してみる。  
敵に捕えられたあげく弄ばれるなんて、さぞ不快なことだろうけど。それでも激しい嫌悪を見せず恍惚とする具合なんだから、ほんとに雄って奴は不憫。  
「文句言ってみな」  
あたしには到底理解しきれないけど、かといって興味も収まらない。  
期待いっぱいに言葉を待ってみるものの。耳に聞こえるのは、止まない喘ぎ声と、ただ草が風に撫でられる音ばかり。  
次第に焦れ、腹の奥から何かを吐き出してしまいそうな気に襲われて。あたしは繕う前足と舌を止め、身を乗り出して。こいつの顔に鋭い視線を突き刺してみる。  
映ったこいつは目を閉じたまま、代わりに口を小さく開いて、荒い呼吸と一緒に唾液を零し流していた。  
群れの仲間らにすら見たことがない、そのぐらいみっともない姿。こんな姿を見れるなんて、本当に心躍る玩具。  
「なあんだ、何も言えないの?」  
そんな言葉の後には一間置き、それでも何も言わないこいつを確認してから。  
その顔にふうっと軽い炎を吹き付け、続けてぺろりと一舐めしてから、その首根っこに再び牙を刺す。  
 
こいつの口から零れていた唾液とともに、温い血の味が舌に乗り、口の中を温めて。  
あたしはそのままの体制で身を乱暴にひねり、横向きに、仰向けにと寝転がって。こいつを腹の上に乗せたところでその首根っこから牙を、顎を外す。  
「もうちょっと楽しませてみろよ?」  
そんな言葉を突き刺しつつこいつの顔に視線を向け直してみると、存外辛そうでなく、寧ろ軽い笑みを浮かべ始める。  
四肢の動かないこいつに首を掻かれることも、ど突かれることもないだろうし。それなのに、こいつにとって何が可笑しいのか分からない。  
不安を拭いきれずとも、あたしが優勢には変わりないんだしと笑みを返してやる。  
「くく……」  
こいつは何を思うのか、小さく声を零しながら身を擦らせ体を登らせて。あたしの喉元に口をあてがえると力なく噛み始めた。  
一瞬、背筋が凍るまでの恐怖を思うものの。鋭さのない歯が喉に優しくめり込み、離れて。強張った思いと共にほぐされていく。  
苦しく、嬉しくて。あたしの目は思わず瞑らされ、口は裂けんばかりに、勝手に開く。  
「うやあああ……」  
絞められてる訳でもないのに、まるで絞ったみたいな声が喉奥から零れて。直後には、気がすっと降りて楽になる。  
瞑った目からは雫が零れ、ただぼんやり、恍惚とした心持ち。そんな状態でもこいつの動きは止まず、あたしの胸辺りに舌を這いずらせる。  
「ね、ねえ、あたしのこと知ってるの……?」  
普段刺激されるようなことない部位。不思議と心地いい感覚が、あたしの目に絶やさず雫を浮かばせやがる。  
気恥ずかしい思いが、あたしを四方八方からつんざいて。それでも飽き足らず刺す場所を吟味してるかのように体を痛ませる。  
尻尾には生ぬるい感覚が降りて。あたしの腹の中から体液が零れて、地面まで伝ってるんだ、って。そんなことはすぐに分かった。  
「敵の習性なんて、一つ二つぐらい知ってて、とうぜ、ん」  
こいつは、返事かも分からないそんな言葉の直後に、異物をあたしの腹の下ぐらいに突き立てて押し込み、体を強く激しく揺さぶり始めて。  
「……こんな形で役立つのは、不本意だけどな」  
どちらのとも分からない唾液が、ただ、だらりと首筋を伝う感覚が残る。  
「えぁ、んんぁああ!! やんあああ!!」  
体じゅうにバリバリと痺れが走る。顎が外れそうなまでに口が大きく、勝手に開く。あげたくもない嬌声が、喉の奥から零れる。  
雌としての本能なのかな、分からない。何時の間に、玩具でしかなかったこいつを受け入れる、その心持ちが完成してたみたい。  
こいつの口から吐かれた息は、あたしの顎を、口周りを、耳を。顔中を包み込んで体毛を湿らせ。その温もりがあたしを更に上気させてた。  
「やあぁん……あああん!」  
口を閉じれば声も出ないって、そう願って見るものの。一度大きく開けた口は言うことを聞かず、喉奥からの声を噛み砕いてくれやしなくて。  
雄に支配されたこのザマが悔しく、こんな媚びた自分自身が嫌で、憎くて、それでももっとこうしていたい、って。  
無心に抵抗する足も尻尾も、次第に落ち着き、恍惚と宙に浮かぶばかり。  
 
こいつのふわりとした体毛と、あたしの短い体毛とが擦れ合って。炎を纏った時以上に熱い。  
一頻り体を揺さぶられ、呼吸も喘いで、吐いてで。ようやく吸えた空気は涼しくて、美味しい。  
背中を付けてる草の地面は、一段落した後でも擦れ続けてるように錯覚させられる。  
「雌も不憫だねぇ……くっく」  
腹の上から声を差し向けられ、すっかり支配された身なんだと思い知らされて。だけど、それもいいかな、って思い始めてた。  
こいつの唾液があたしの頬をくすぐって、それでも強い抵抗できないあたしがいる。腹の奥底には、ひりひりと鈍い痛みが残ってて。それが心地いいのに、何か満たされない。  
「この……」  
途中でやめないで欲しい、なんて願いながらも言葉にできなくて。不服ばかりが声として零れる。  
「ぼくの最期を見届ける奴が、少しでも話の通じる奴だったのは、幸いだったかも、な」  
 
こいつは最期を悟って、それでも死なない自身がいて、自棄になってるんだろうかな。  
それを嘲る訳でもなく、ただ可哀そうだった。あたしみたいなのに捕まらなかったらもっといい生を送れただろうし、と。  
そう思ったところで、はっと腹の上にいる雄に意識が戻る。  
「……ぼくの生きた証なんて、残らないんだろうけどさ……!」  
情けは要らない、そんなこと分かってる。あたしとこいつは捕食者と被食者で、それ以外にない、そのはず。  
なのにあたしは、この雄に何を求めてるんだろう。再び揺すられる身、熱されて、玩具に、されるがままに。  
「や、あああぁぁ……」  
鼻先にいい香りが、獲物とも血とも違ういい香りが刺して。  
宙に浮いてたあたしの足は、感覚薄くも、がくりと地面に吸い寄せられるように。こいつの背中に落ちる。  
揺れる身が激しさを増し、お互いの耳や足なんかが、びくりびくりと跳ね始めてた。  
「だめ、だめ! ひゃあう!!」  
「くぐ……ぅうう!」  
悲鳴か嬌声かも分からない、お互いに言葉にならない声を叫ばせる頃、どっと何かが、こいつの異物からあたしの体に流しこまれた。  
それは腹の奥から染み込んで、あたしを蝕もうとする。それでも、いつまでも感じ取っていたい温もり。  
恥ずかしい気持ちを紛らわせるためか、開いてる口から舌が浮かび上がって。舌先で宙を懸命に掻く。  
 
なんとなく分かってた、でも初めて知った雄の魔性。  
腹からどくどくと伝わってくる鼓動が、次第にあたしの鼓動と共鳴し始め。こいつが身を揺らすたびに鼓動がずれるものの、あたしの鼓動はそれに付いていこうと間隔を早める。  
体じゅうの気力は絞られ、こいつの体毛から流される電気が追い打ちをかけてきて。それでも好ましく思え、弱々しくも誘いの声を仕向ける。  
こいつはそれに応えるみたいに、四肢を動かせないとは思えないほどに振舞い続ける。  
「もう、もたない……」  
興奮が過ぎて、体のどこかが破裂してしまいそうな。そんな不安さえ今一恐怖として感じ取れない。  
ただこのまま眠ってしまいたい、そのくらいの疲労感がどしりと降りかかってくる。  
沈みかけるまぶたを留め、意識を保とうとするものの。恥じらいと幸せに押さえつけられて思考を巡らせることも叶わない。  
夢現、飲み込まれるのも、いいかな。  
吹く風はさらりと草を撫で、沸き出させた音であたし達を包み込み。まるで世間から隔離してくれてる様。  
 
 
そうこうしてた所。こいつの体がすっと宙に浮いたと思えば、そのまま距離を置いた地面まで吹き飛ばされた。  
「大丈夫か」  
直後にかけられたその声は、くぐもってはっきりとせず。それでも誰の声かぐらいはすぐに分かる。  
「え……」  
リーダーが、あたしに乗ってたあいつを咥え上げて投げ飛ばしたんだ、と。  
急なことで。ただ呆然と、仰向けのまま身を固める。  
「まぁ、事故にしては嫌気を感じたほうだろう」  
リーダーはそう言って、あたしの顔をそっと覗きこみ視線を合わせてくる。  
いつもは、凛々しくも優しい光を持ってるその目なのに、この時リーダーの目はどことなく曇ってるようにも見えた。  
「気にするな。俺もすぐ忘れるだろうし、お前だって忘れればいい」  
 
あたしはただ、言葉の一つ一つが理解しきれなくて思考を巡らせるばかり。  
あたしの邪魔したことを、悔いてくれてるのかもしれない。それでも助けようとしてくれた、のかな。でも、助けられるほどのことでもなかったはず。  
そんなあたし自身の、不断な心持ちが嫌で。誤魔化そうと首ごと視線を横に逸らすと、少し離れた所から仲間二匹の視線があたしの目に突き刺さる。  
「あの"獲物"が絞められないなら、俺が絞めるだけ代わるが、どうする」  
そんなあたしを見かねたのかも分からない、リーダーが、食事を促すような言葉を続けて。  
「え、あ……」  
リーダーの声にはっとなって、投げ飛ばされたあいつのほうに急ぎで視線を向ける。  
二歩飛ぶぐらいのところに、長い草を押しのけて寝転がっていて。その尻尾の先に付いている球は弱々しい光を放ち、体は微かに震えてた。  
「ありがとうございます、大丈夫です、あたしのことは……」  
リーダーにお願いすれば、簡単に絞められるだろうけども。  
少し前までなら、声をかけられるだけでも嬉しくてついお願いしてしまいそうなことなのに。あたしはただ、丁寧に断るしかなく。  
「分かった」  
リーダーはそう短く言ってから後ろを向き、一歩ずつ群れのほうに戻っていく。  
尻尾が揺れて、足が浮いては離れて。リーダーのそんな後ろ姿がいつもは愛らしいはずなのに、なぜだか腹が立った。  
魔に食されたあたしが悪いんだ、って振り払おうとしてもどうにも収まらず。姿の見えなくなったリーダーを虚に描き爪を立ててみる。  
爪は宙を切り、その虚を裂くものの。手ごたえもなく、大きく溜息を吐くぐらいしかできなくて。あたし本当に何してるんだろう。  
 
息をいくつか吐き再び落ち着いた頃。あたしは弱々しい光を放ち続ける"獲物"の側まで歩み寄って、言葉をかける。  
「お腹空いてきちゃった」  
その声を聞いたこの獲物は、身をぴくりと震わせこそするものの、最初と同じ嫌に落ち着いた様子で一点に視線を向け続ける。  
獲物とのお喋りが過ぎたかな、とは思う。群れの仲間達はとっくに食事を終えてるだろうし、あたしも早く平らげないと。  
すぐに移動するわけでもないと思うものの、何かあった時すぐに動けない、っていうのは群れで見てすごく迷惑なことだし、と。  
そんなことを思考しながら、寝転がったままのこいつに視線を下ろし。返事をするよう促してみる。  
「言いたいことある? 聞いてあげるよ?」  
この獲物は四肢の自由がなく、抵抗する気も力も残ってないだろうし。  
敵に情けをかけるな、とは皆からよく言われるけど、逃げられることなんてないしちょっとぐらい大丈夫。  
「体じゅうが痛い」  
獲物は、案の定というか、折れた四肢やくたびれた身を不満としてた。  
視線は虚ろに見えない何かを見つめたままで。そんな姿が中々いじらしく、面白い。  
「早く、食えよ……」  
続けざまにはそんな言葉を付け加えて、ただうなだれる。元より面白くない奴から、面白くない奴に、すっかり"変わった"。  
雄は本当に不憫な生き物だな、と声にせずとも心の中でぼやきつつ。この"獲物"は中々物分かりがよかったな、なんて改めて思う。  
 
「あんた、番ってた雌なんて居た?」  
ふと頭を走った言葉が、そのまま声として口から零れる。  
「いや」  
獲物から返ってくる言葉は、短く暗く、いじらしい漢字を醸し出してて、いたたまれない。  
「そっか」  
反射的に相槌を打ち、遅れて言葉の意味を理解して。この獲物は生涯を楽しめたのかな、なんて。  
すぐ側にある、もうすぐ尽きる命、獲物はそんな中でも生きることを望んでた。  
「食うんだろ」  
その虚ろな目には何を見てたんだろう。あたしに幻想を願うことなんてないだろうけども。  
「うん……」  
あたしはただ、はっきりとしない声を返しながら。顔を寄せ、その喉元を丁寧に舐め取り始める。  
噛み締める場所の確認、いつもと変わらないはずのこれが、今は物凄く怖い。  
「悪くなかった」  
「……え?」  
突然向けられた言葉の、その意図が分からず気の抜けた声が漏れる。  
「早くしてくれ」  
獲物はそれを見かねたのかな、そんな言葉を向けてきて、後にはその虚ろな目が閉じられた。  
あたしは訳も分からず黙ったまま。ただ煽られるまま獲物の喉に牙をあてがえ、力いっぱい噛み絞める。  
噛まれた獲物は抵抗する様子もなく、体じゅうから力を抜いていて。あたしはその柔らかい喉をひたすらに絞め続ける。  
玩具にしておくにはもったいないぐらい、教えてくれた、慰めてくれた。だけどそれも終わり。  
せめて苦しみを感じ得ないうちに、と。心のどこかでそう願いながら。残念に思う何かを振り払いたい一心で。  
 
「ごめん、ね」  
 
空は濃い藍色を表し、その遠くには何時の間にやら淡い光を放ち始めていた。  
荒野に一つの小さな悲鳴が響こうとしたものの、吹きつけられた風に砕かれ消えていくばかり。  
連れ去られ宙に舞った体毛は、空でぱりぱりと電気を走らせ、残忍な風を装飾する。  
『お前と一つになれて嬉しい』なんて、ありもしない言葉が思考の中を横切って。偽善的な解釈だって思いつつも――  
 

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