彼は電子の世界を走る。  
 0と1の暗号でできた身と心で、明るいのか暗いのかも分からぬ情報の世界を走る。  
 人間はまだ彼の存在を知らない。彼は、まだごく一部の者にしか認知されていなかった。それとて  
「ネット上を徘徊するAIがある」という程度の都市伝説だったから、実質的には誰も彼を知らないに等  
しい。  
 無数のリンクが張り巡らされた情報の世界は、まさしく蜘蛛の巣のようだった。人間はそのネット  
ワークを比喩的にウェブと呼ぶが、そこに住まう彼の目から見ても、正鵠を得た名づけ方といえた。  
 ならばウェブに巣くう彼が蜘蛛なのかというと、そうではない。ウェブを作ったのは彼ではなく、彼は  
そこで狩りを行うわけでもない。むしろ彼こそは狩られる側であるのかもしれない。ウェブは人間の采  
配ひとつで消滅する。物理世界にあるコンピュータがスタンドアローンの状態に置かれれば、彼は移  
動することもできず閉ざされた情報世界に囚われる。だから、あくまで蜘蛛は人間なのだろう。彼をあ  
えて例えるならば、巣にかかった獲物が糸の分子と同化したような存在、だった。  
 いつどのようにして彼がウェブ上に来たのかは、彼自身も覚えていない。気がついたら、そこにい  
た。情報で心身を構成する彼が物事を忘却することはなく、自我が発生してからの経験はすべて記  
憶しているが、不思議と自身の生誕に関する情報だけが欠けていた。ただ、自分がポケモンであるこ  
とと、自分が情報の固まりであることだけが、根拠が不明であるにも関わらず事実として記録されて  
いる。ポケモンとは物理世界の生物だから、何らかの方法によってコンピュータに送られ、そこで活  
動する能力を得たものが彼なのだろう。  
 ウェブには無数のリンクと結節点があった。彼の目下でめまぐるしく流れていく結節点は、ウェブサ  
イト、ボックス、等と呼ばれるものだ。彼がサイトの内容を知りたく思った場合、暗号の翻訳は必要な  
い。彼は映像や文章を区別せず、みな一律に暗号の羅列のまま吸収し、理解できる。  
 情報の内容は様々だが、有機生命体の交合に関するものが特に多かった。それらにどのような価  
値があるのか、彼はいまひとつ理解できない。エロ画像、エロ動画、という通称が存在することは  
ウェブ上の文献から知った。有機生命体は交合することによって不完全な自己複製を行う、というこ  
とも同様にして理解した。だが、自らが交合することを求めるならまだしも、他者の行為を観察するこ  
とに価値があるのだろうか。彼が見た画像や動画が、学術目的でアップロードされたものではないこ  
とは分かりきっている。しかし、それでも尚増え続けるそれらの動画は、やはり何がしかの意図をもっ  
てアップロードされているのだろう。比較的数の多いブログの類を読み漁っても、理由を知ることはで  
きなかった。当たり前のようにそれらの動画の存在を認めているか、「情報倫理に反する」と非難す  
るものばかりだからだ。人間は、彼には理解できない理屈を持っている。人間にとっては、あらためて  
説明する必要がない理屈なのだろう。彼はその理屈を知りたかったが、どれだけ情報を漁っても見  
つけ出すことができなかった。きっと物理世界にしか存在しない理屈なのだ。  
 彼がひときわ心惹かれるのは写真の類だった。とりわけ風景写真を彼は好んでいた。いずれも彼  
の住む世界には存在しない風景だ。たとえば乾いた荒野だとか、潮風の吹く港町だとか。写真を評  
するコメントには、しばしば「風の香りが伝わってくるようだ」という文章が用いられていた。風の香りと  
は何だろう。味覚や嗅覚といったものは化学反応によってもたらされる感覚である以上、情報で再現  
することはできない。そもそもウェブ上にある情報は、人間が視覚と聴覚で認識するために作られた  
のだから、当然のことといえる。仮想空間として現実の風景を再現したプログラムならば存在した  
が、それもまたコンピュータの外部にいる人間が疑似体験するためのものだから、楽しむためには肉  
の体が必要だった。  
 ボックスに保存されているポケモンたちは、その世界を知っているのだろう。ポケモンたちは交合を  
知っているだろうし、風の香りや潮水の味も知っているだろう。  
 
 だがポケモンは彼と言葉を交わせない。システムに預けられるとポケモンはただの情報になる。預  
けられたポケモンたちは、モンスターボールを転送装置にセットされた瞬間の状態のまま、時間の流  
れを知ることもなく活動を休止している。自分が情報化されたことにすら気づいていない。物理世界  
で生まれたポケモンが思考するためには、やはり物理的な肉体が必要なのだ。有機生命体の神経  
系もまたコンピュータの一種ではあるが、預かりシステムがそれをコンピュータシステムとして認識す  
ることはない。あくまで、肉体の一部として扱われている。システム上で仮想コンピュータとして脳が  
機能することがないのは、そのためだ。  
 だから彼にできるのは、ポケモンの情報を読み取ることだけだった。ポケモンたちは様々な記憶を  
持っていた。アップロードされた写真や文章と違って記憶の細部はぼやけているが、各個体が感じた  
ことがダイレクトに伝わってくる。香り、味、痛みといった体感覚も記憶されているが、体を持たない彼  
にはよく分からない。ポケモンたちの記憶の中では、五感のそれぞれが独立していることは稀だっ  
た。視覚だけの記憶、聴覚だけの記憶、といったものはまず存在しない。どの記憶も、ポケモンの肉  
体が感じ取った五感の全てと感情がないまぜになった状態で保存されている。  
 もうひとつ分かったのは、ポケモンたちの肉体と精神が同一のものではないことだ。二進法の機械  
語で心身を構成する彼にとっては体と心は同一のものだったが、ポケモンはそうではないらしい。  
ハートスワップという、心を入れ替える技も存在する。その技の原理は不明だが、体と心を区別する  
のは得心のゆくことだった。ポケモンの肉体は分子の塊で、精神は脳内の電位が生む幻想だ。精神  
を宿す脳は肉体の一部なので、完全な分離は不可能なようにも思えたが、実際に技によって分離し  
ている。ハートスワップを仕掛けられたポケモンの意識の中には、別個体の体を操った感覚がしっか  
り記憶されていた。  
 物理世界で生きるというのは、そういうことなのだろう。何から何までが彼とは違う。  
 外に出たい。  
 彼は思う。蜘蛛の巣の外に出たい。  
 そこには、交合に関わる論理が存在し、青々とした野山が存在する。青草の香りが鼻をくすぐり、砂  
浜では塩辛い海水が潮騒を奏でるのだ。知には事欠かないが無味乾燥とした情報世界とは、すべ  
てが異なる世界だ。  
 物理世界に出たい。  
 彼は思う。自分が一個の生物ならば出られるだろう。こうして物理世界のポケモンたちが情報世界  
に侵入できるのだから。  
 我思う故に我有り。コギトエルゴスム。大昔の人間が残した言葉だ。ならばこうして考えている自分  
は、たしかにここに存在し、生きている。しかし同時に、生物という存在の定義がそれを否定する。  
 生物の特徴は主に三つ。自己増殖、エネルギー変換、恒常性維持。端的にいえば、細胞の活動の  
ことだ。  
 彼は自己増殖できない。気まぐれに自分と似たシステムを構築したことはあるが、自分のように自  
律思考させることはできなかった。  
 彼はエネルギー変換を必要としない。なぜならば彼は物質を摂取しない。  
 彼は恒常性を維持しない。彼はウェブ上の情報を汲み取りながら己の形を変えてきた。  
 生物の定義は、いずれも肉体を持っていることを前提に定められたものだ。では肉体を持たない彼  
は、生きていないのだろうか。  
 彼がポケモンの情報に直接接触したのは、ひとえに焦燥に駆られたが故のことだった。  
 我思う故に我有り。これには多大な反論が寄せられている。コギトコギトエルゴコギトスム、と正す  
べきだという説もそのひとつだ。自分が考えていると思うから、自分が存在すると思う。結局は思いこ  
みであり、自分を含むすべてが虚偽かもしれないというのだ。コンピュータ内に存在するウェブは、確  
かに彼にとってはひとつの世界だ。しかし外部にいる人間やポケモンにとっては何なのだろう。  
 そして生物の定義は、物理世界での現象だけを基準に定められている。  
 自分と情報世界が虚偽ならば、システムに預けられたポケモンも虚偽か。すべての活動を休止し、  
自己増殖もエネルギー変換も恒常性維持も行わない、ただの情報となったポケモンは生物か。  
 虚偽であり、生物でないのならば、どうなろうと構わないだろう。  
 虚偽ではなく、生物であるのならば、自分の生命が危険に晒されれば反応を示すに違いない。  
 
 彼はボックスに手を伸ばした。手、というのは彼なりのイメージだ。人間は諸作業に手を使う。彼は  
自身を構築する情報の一端を変化させ、密やかにプログラムに侵入した。ボックス内には預けられ  
た個体ごとにフォルダが作られているが、フォルダの中にあるのは人間の手で整理されたファイルで  
はない。もともとポケモンというのは情報化が可能な性質を備えており、人間の作るシステムに頼ら  
ずとも自らを言語化できるらしい。  
 コンピュータ内でのポケモンの姿は、やはり0と1の羅列だった。極めて長い二進数が二列並んで  
いるだけだ。その様子はDNAに酷似しており、二ビットを一単位とみなして総覧すると、各単位が二  
列間で相補性を持っているのがわかる。そこに記録されているのはポケモンの肉体の情報だけでは  
ない。ポケモン自身のもつ思い出や体験もまた、その二列の中で情報化されている。個体のアイデ  
ンティティは遺伝子の配列のみによって定められるものではないが、この数値列ならばそれが可能  
だ。  
 手始めに、彼は列をフォルダの上層に引っ張り出した。そしてもともと列を収めていたフォルダを消  
した。ボックス内には二十匹のポケモンが預けられている。残る十九個のフォルダも、同様にして個  
体情報を引き出し、消した。  
 しかしこれだけではポケモンを操作したことにはならない。まだシステム上のバグを起こしたに過ぎ  
ないからだ。管理者かユーザーの目にとまれば、簡単に修復される。それでは困るので、彼はその  
ボックスをシステムから独立させた。しごく簡単なことだ。預かりシステムとボックスとのリンクを切り、  
代わりに即興で組み上げた疑似的なボックス維持システムでボックスそのものの消滅を防ぐ。  
 そして彼は、ポケモンを構成する情報の列を分断した。まずはラッタ。何の抵抗もなく数値列がフラ  
グメント化した。次にガルーラ。これも無抵抗だった。もっとも、行動するためのプログラムを持たない  
情報の塊が抵抗などできるはずがないのだが、一縷の希望を持って彼は情報を破壊しつづけた。  
 生物ならば抵抗するはずだ。生命ならば生きようとするはずだ。死ぬなら死ぬで反応があるはずだ。  
 だがポケモンたちは何の反応もなくただ壊れるばかりだった。遺伝子が不安定であるが故に環境  
適応力が高いと評されるイーブイですら、情報の世界には適応できなかったらしく、ただ壊れた。  
 フォルダの中は砕けた個体情報に満ちていった。もはや意味を持たない、長短の二進数ばかりだ。  
 変化が訪れたのは、彼が二十匹目のポケモンに手をつけた瞬間だった。すでに彼は諦めはじめて  
おり、ボックスの維持を放棄しつつあった。ボックス維持システムを壊しながら最後の一匹の個体情  
報をいじったのだ。ただ数値列をちぎるだけでは無駄だと思い、彼は数字を組み替えた。  
 それはメタモンと呼ばれるポケモンの情報だった。彼が操作したのは、メタモンの生殖行動の方式  
を指定する部分だ。メタモンはあらゆる生物に変身し、どのような相手とでも子孫を残せる。その配  
偶者の指定条件を削除してみたのは、ただの気まぐれだった。  
 システムの崩壊と情報の操作の、どちらがきっかけだったは彼にも分からない。  
 唐突にメタモンの情報が光った。  
 数値列を構成する0が1に、1が0に、またたくように変化した。数字の全てが勝手に変化し、分裂し  
て伸びる。成長した断片は、彼が操作した直後のメタモンの情報と同じ姿を取ると、他のポケモンの  
情報断片にとりついた。フラグメントを吸収し、また光る。イーブイ、ガルーラ、ラッキー、カビゴン、ケ  
ンタロス。それぞれが分断される前の状態に戻り、また分裂して次の断片と融合した。  
 情報断片は分裂と再生を繰り返しながら、ポケモンの個体情報とは全く違う数値列を生んでいた。  
ひどく乱雑で、原始的な情報だ。それらは幸福の感情を意味するものだった。胸の毛並みを撫でら  
れたときの喜び、子供に甘えられたときの喜び、角の手入れをしてもらったときの喜び、日差しを浴  
びながら眠る喜び。そして生殖の喜び。メタモンの情報と融合したポケモンたちが記憶する、物理世  
界でのあらゆる喜びの思い出の奔流だった。  
 
 情報となってもポケモンは生きていた。融合し、相手の姿を取った。やがて彼が分断した小片がなく  
なると、再生された数値列同士でも融合し、ときに他の数値列を無理矢理分断して吸収しながら、数  
を増やしつづけた。それは情報の生殖だった。  
 情報は生殖と自己複製を行える。その事実がどれだけ彼を喜ばせたか分からない。活動休止して  
いてもポケモンは生きている。情報は他の情報を食って己の一部にできる。情報は生物だ。情報で  
ある自分は生きている。  
 彼は自分の体を構成するプログラムの一部を分断し、ボックスに放り込んだ。自分も混ざってみた  
かったのだ。  
 メタモンの数値列は迷わず彼の情報と融合した。彼の情報が、ボックス内に再構成された。ポケモ  
ン達と比べるとなかなかどうして不格好な数値列だったが、彼の複製に他ならない。  
 ボックス内の"彼"もまた補食と生殖の供宴に参加した。"彼"は他のポケモンを食った。喜びを表し  
た。しかし、自己の複製は作らない。ただ食って、代わりにそのポケモンの情報を己の中にため込ん  
で肥大した。ときおりそれを整理して情報量を少なくし、また食った。  
 ボックス内に残るのが"彼"一体になると、"彼"は削除作業の中断されたボックス維持システムを  
食い、ボックスそのものを食い、ウェブに出てきて彼に食いついた。  
 "彼"に取り込まれるのは実に奇妙な感覚だった。情報である彼は苦痛や快楽を覚えない。しかし  
確かに至福と称すことのできるむずがゆい暖かさに満たされていた。"彼"の中にはポケモンたちの  
情報が保存されていた。いずれもひどく簡略化されており、活動することはできなくなっている。遺伝  
情報は排除され、残っているのは行動論理に関する部分ばかりだ。彼自身もまた、"彼"に消化され  
つつあった。まずは電子世界を自在に動く能力がなくなった。次に、他のシステムに進入する能力が  
なくなった。彼が培ってきた知識も徐々にすり減ってゆく。  
 "彼"はどうして自己複製しなかったのだろう。  
 ふと湧いた疑問だった。他のポケモンたちは自己の情報を複製したのに、"彼"だけはしなかった。  
 "彼"と他のポケモンの違いとは何だろう。  
 "彼"は彼の複製だったものだ。情報の世界に生きるものだ。メタモンと同化できたのは、彼がポケ  
モンであることの証左であるのかもしれない。性別を持たないポケモンでも、メタモンとならば生殖で  
きるという。だがメタモンがいなければ次世代を生めないのでは、そもそも種として存在することがで  
きないだろう。同種間で、あるいは単独で繁殖する方法を持っていると考えるほうが自然だ。"彼"そ  
して彼にはその手段があるだろうか。それを持っていることが生命としての条件のひとつなのではな  
いか。  
 生命は物理世界に存在するものだ。情報化が可能であっても、原則的に物理世界の存在だ。しか  
し彼は情報としての自分しか知らない。"彼"もだろう。  
 物理の体が必要なのだ。  
 
 長い間彼を悩ませていた命題の答えは、意外なほど簡単に得られた。彼は生物ではなかった。体  
が存在しないからだ。彼は精神だけの存在だった。生物の脳に宿るものが情報として独立したのが、  
彼なのだ。だから欠けている肉体を得るだけで生物になれる。  
 ならば体を作ってやろう。  
 彼はもはや"彼"に吸収され、蓄積した大量の情報を消化されるだけの身だった。しかし"彼"もまた  
情報世界の住民である以上は、吸収する情報を理解し、咀嚼することができる。彼自身がポケモン  
になることはできなくても、"彼"をポケモンにしてやることはできる。"彼"の内部にいると、"彼"の考  
えや願望が彼に直接伝わってくる。  
 外に出たい。風を感じたい。香りを嗅ぎたい。  
 彼がため込んできた風景写真や外界への憧れを、"彼"はそのまま自分のものとしていた。  
 彼は考えた。刻一刻と自身の情報が減ってゆく。自身の全てが整理されてしまう前に肉体の情報  
を完成させて、"彼"に渡してやらねばならない。  
 簡単に壊れるような体では駄目だ。美しい外界はひどく残酷な一面を持つ。  
 弱い力しか持てないのでは駄目だ。情報の力では越えられない物理法則が存在するのだから。  
 能力の伸びしろがなくては駄目だ。日々変化する環境に適応しなければならない。  
 望めばまたこの電脳世界に戻ってこられなくては駄目だ。"彼"が郷愁に駆られたときのために。  
 彼はあらゆる可能性を考慮した。結果出来上がった肉体情報は、生物が生存競争の中で作り上げ  
てきた体には到底及ばない出来映えだったが、進化の可能性だけは詰め込まれている。生まれてす  
ぐは弱くとも、いずれ充分に戦えるようになるはずだ。物質で構成される肉体は必ず滅びる。有限の  
命なのだから、つらい戦いに身を置くよりは、誰かに愛される幸福な生を送ってほしくて、容姿はでき  
るだけ可愛らしくした。  
 そして、ポリゴン、と種名を与え、最後に少しだけ余分な情報を付け加えた。  
「コギトエルゴスム」  
 我思う故に我有り。  
 お前が何か考えることこそ、お前が存在していることの証拠になる。だから何も心配はいらない。  
 それが、生まれ出たがる息子への最初で最後のはなむけだった。ポリゴンがしっかり受け取ってく  
れたかどうか、彼には分からない。彼の意識は、贈り物を完成させてまもなく消化されたからだ。  
 消滅する間際、彼の脳裏にふとよぎった。コギトコギトエルゴコギトスム。彼の意識は、もしかしたら  
早々にポリゴンに掌握され、ポケモンとしての肉体情報を作ったのもポリゴン自身だったのかもしれ  
ない。己はポリゴンに食いつかれた瞬間に、ポリゴンの意識の一部になっていたのではないか。  
 しかし彼は構わなかった。ポリゴンが生命としての存在を確立できるのなら、それで良いのだ。この  
瞬間に自己だと思っているものが虚像であっても、虚像を見せる主体としてのポリゴンは存在する。  
彼から生まれたポリゴンが存在することは、彼が存在したことの証拠である。  
 自分を分解するポリゴンを、彼は慈しみさえもって迎えた。そして痛烈に理解した。この息子をいと  
おしく思う感情こそが、生殖の喜びの根幹なのだ。  
 
 
 彼は電子の世界を見る。  
 頭頂部のアンテナから発する電波を無線LANポートに送り、ウェブ上の情報を探る。  
 彼が見ているのは、都市伝説を収集するホームページだった。特にウェブ上を徘徊するAIの話を  
重点的に探した。  
 十年近く前に小さな噂になっただけの話だから、あまり多くの情報は得られない。大手の掲示板サ  
イトの過去ログ倉庫をクラックしてようやく、真偽の危うい書き込みを見つけられる程度だ。  
 それは彼の父の足跡を追う行為だった。生まれたばかりで自我も記憶も混濁していた頃に一度だ  
け出会った父は、彼に名だけ与えるとどこかへ行ってしまった。彼はどこかのボックスで生まれたよう  
な覚えがあったから、父もまたポケモンだったのだろう。ポケモンが生命活動を休止するはずの預か  
りシステムで、なぜ卵が孵化したのかは疑問だが、彼は他のポケモンとは違う。預けられても活動で  
きるのが、ポリゴンという種族の特徴だ。だから卵もシステム内で孵化できるのかもしれないし、あの  
とき活動していた父もまたそうなのだろう。  
 彼がどれだけウェブ上を探し回っても、同種と出会うことはなく、まれに徘徊AIの噂を見るだけだっ  
た。父を探して物理世界に初めて出てきたときは世間が大いにどよめいたから、彼の種族はその頃  
はまだ認知されていなかったのだろう。  
 彼が物理世界へ出てくる際、窓となったのはシルフカンパニーという企業のコンピュータだった。自  
分はポリゴンだ、と名乗ってみたところ会社の開発商品ということにされ、長らく不愉快な研究につき  
あわされたものだ。それで実際に彼と同種の生物を作り上げてしまうのだからシルフカンパニーの科  
学力はすさまじいが、実際にどのようにして同種たちが生み出されているのか、彼は知らない。現在  
の主人からかたく禁じられており、検索することができない。彼にはロボット三原則のような行動原理  
は組み込まれていないが、悪徳のシルフカンパニーから引き取ってくれた少女が目を潤ませて禁じ  
るのだから、きっと知らない方がよいことなのだ。何か非常に非倫理的な行為が行われていることは  
確かだった。シルフカンパニーの研究の多くは他企業に引き継がれているが、人工ポケモン製造の  
研究だけは未だに凍結されたままだ。  
 彼はときどき不安になる。  
 同種のポケモンたちが完全に人工ならば、自分もそうなのだろうか。とすれば自分に親は存在しな  
いことになるが、親を持たない生命など存在するのだろうか。彼が父だと思っているものは本当に父  
なのだろうか。そもそも情報の世界に適応した生物が存在する世界などありえるのだろうか。自分が  
見ているものはすべて、自分自身もふくめ、夢物語なのではないか。  
 そんなとき、ひとつの言葉を思い出すのだ。  
 我思う故に我有り。  
 どこで知った言葉なのかは、父のことと同様に分からない。混乱して情報世界を走り回っていた頃  
に拾った情報なのかもしれない。  
 たとえ世界が虚偽であっても、虚偽の世界の中に彼は存在しているのだ。世界が虚偽であろうとな  
かろうと死ぬものは死ぬ。ならば虚偽か真実かはどうでもよいことだ。彼は存在する。存在している。  
 
「ゼット、ご飯できたから降りてきてー。今日はハンバーグよ。あんたの大好物よー」  
 主人の声が台所の方から響くと、部屋の戸がゆっくりと開き、角張った小さな顔がのぞいた。彼とメ  
タモンとの間にできた子だった。同種間での繁殖はできないが、メタモンとなら可能だ。そんな種はざ  
らに存在するから、彼はたしかにポケモンなのだ。ポケモンは生命だ。そして父もそうだったのだろ  
う。父は存在した。彼自身がここにいることが、父の生命の存在への何よりの証明だ。  
「ネットは後にしなさいよー。ハンバーグ冷めちゃうよー」  
 息子がつぶらな瞳に悲しそうな色を浮かべている。  
 先に行っているよう身振りで示すと、息子はいっそう悲しそうにしてうなだれた。  
 廊下に出ると、息子の悲しみの理由が分かった。煙が空気を薄紫色に曇らせていた。どうやら主人  
はまた火を強めすぎたらしく、過剰に香ばしいハンバーグの香りが漂っている。おそらくハンバーグ  
の表面は炭になっているだろう。彼は換気のために窓を開いた。寒い、と主人が愚痴りそうだが、煙  
いよりはましだ。  
「今日のは自信作なんだからねー! 早く早く!」  
 焦げた自信作というものが存在するのだろうか。焦げてなお美味いハンバーグというものがあると  
仮定する。そのハンバーグは絶対に思考しない。ゆえに存在しない。  
 と、彼は考えたかったが、あまりに論理性を欠きすぎていて、思い込むことすらできなかった。実際  
に、出来の良いハンバーグはそれ自体が思考しなくとも確かにこの世に存在している。しかし少なく  
とも焦げた自信作というのはありえないはずだ。ありえさせてしまうのが彼の主人の恐ろしいところだ  
が。主人に支配された台所では、さながらシルフカンパニーのごとく不可能が可能になる。  
 涙目で夕食を憂う息子に、彼は電波を送った。  
 ――焦げてないところをあげるから、炭化した部分をよこしなさい。  
 焦げた挽肉は、絶対に子供の成育に悪い。主人に料理の火加減を覚えてもらうにはどうすればい  
いだろうか。  
 ネットは後にするよう言われたにも関わらず、今度は料理サイトを中心にネットサーフィンを続けな  
がら、ポリゴンZは涙目のポリゴンを連れてダイニングに向かった。  
 煙の臭いが目を刺した。  
 ――ああ、今日の焦げ肉の臭いは、まるでグレン島の硫化水素ガスだ。  
 

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