ゴールドは階段の中腹に立っていた。
入り口からの呼びかけに応えて、半身でその声の方を見返している。
ポケモンリーグセキエイ本部の重厚な内装に似つかわしくない、成長途上といった体躯だった。
「待てよ、ゴールド」
驚くべきことに、ゴールドは声が発せられる前に足を止めていた。
第三者から見れば、いきなり呼び止められたとしか思えない状況にもかかわらず、ゴールドは全く表情を動かさなかった。
そしてゴールドを呼び止めた赤い髪の少年――シルバーも、いちいちそれにうろたえる様な事は無かった。
「シルバーか。りゅうのあなにいるという話は聞いてたが、こんなところでどうしたんだ」
「ゴールド、お前が強いことは、もうオレにも分かりきっている。いつの間に、ポケモンリーグのチャンピオンになんかなりやがって……」
シルバーが最も長く旅を共にしているポケモン、バクフーンは、主人の後ろに控えていた。
目線の先のゴールドは、帽子を被っていることを考えても、顔色の読めない人間だった。
いつも苦虫を噛み潰したような顔ばかりしていた主人さえ、以前より感情表現が分かりやすくなっている。
この男も、以前に比べると面差しに精悍さが増してきた。だが、表情を全く変えないところは以前のまま。
「だけどオレは……戦わずにはいられないんだ。お前に挑まずにはいられないんだ」
シルバーはモンスターボールに手をかけた。彼の先鋒、ニューラは今や遅しとボールの中で揺れた。
突然の狼藉者に、セキエイ本部は騒然となっていた。そもそも、今日は挑戦者を受け付けていない日のはずである。
「ゴールド! オレと勝負しろ! こいつらの力を見せてやる!」
ついにシルバーはその言葉を発した。
カントー・ジョウトの両地方において、セキエイ本部のチャンピオンであるということは、
バトルにおいて最強のポケモントレーナーであることと言っても過言ではない。
現チャンピオンであるゴールドは、その肩書きに相応しい戦績を残している。
彼の前に立ったトレーナーは、一人残らず手持ちのポケモンを瀕死にさせられている。
路上のトレーナーから、ジムリーダー、マフィア、そして四天王に至るまでが、彼の前に膝を突いた。
そのゴールドに最も多く挑み、最も多く敗れた男が、シルバーであった。
「い、いけませんっ、あなたは誰ですか!? この方が誰だか分かっているのですかっ。
このセキエイ高原でチャンピオンに野良試合を仕掛けるなんて、非常識にも程がありますよ!」
ハピナスを引き連れたポケモンセンターの職員が、二人の間に割り込んだ。
彼女がシルバーを止めたのは、シルバーの行為を咎める気持ちだけではなかった。
彼女たちは、ゴールドに挑み敗れ去っていくトレーナーとポケモンを、今まで何組も治療してきた。
その中には、完膚なきまでに叩き潰された結果、ポケモンを捨て、トレーナーであることを止めてしまった者もいる。
「イブキさんやワタルさんと戦ったときから、シルバーは成長したのかな」
「当然だ。ここにいるのは、あの時のオレたちではない……あの時はお前に助けられたが、今度はそんな無様な真似は見せない!」
バクフーンは背中が総毛立った。
あの戦い以来、主人の鍛錬は激しさを増していた。ポケモンを戦わせるのみならず、自らを苛め抜いた。
ゴールドに敗北した時に比べれば、どのような苦しみもシルバーたちにとっては手ぬるいものだった。
その内ワタルに感化されたのか、シルバーは高みを目指すことそのものに充実感を覚え始めてもいた。
「いいよ。その勝負受けた。表に出ろ」
「チャンピオンっ、どうしてそんなことを!」
ゴールドは階段を下りた。数段上だった立ち位置が、シルバーと同じ高さになった。
本部のざわつきはさらにひどくなった。前代未聞のことに、周囲の人間と囁きあうばかりで動けずにいる。
「チャンピオンというものは、どんな時でも、モンスターボールを手放すことを許されていない。
それは、こういうことじゃないのかな。ポケモンバトルである限り、相手に背中を見せてはならない、という」
「そ、それは」
「四天王を呼ぶ必要は無い。シルバーがここまで来たのは、僕のため……あとたぶん、ワタルさんとのバトルのためだろう。
だから僕は戦おう。だが、野良試合だからといって、手加減してもらえるとは思わないでくれよ」
「フン、お前と戦うときはいつもこんなもんだろ。それより、手加減などしたらただではおかないからな」
ゴールドとシルバーは通路を歩む。外への道に屯していた職員たちは、潮が引くように前を空けた。
少年たちの瞳は、勝負という炎に照らされてぎらついていた。
それは生命の灯火か、それとも業火なのか。当人たちも与り知らぬことである。
戦局は佳境へ差し掛かっていた。
挑戦を受ける予定が無かったせいか、ゴールドの手持ちには、シルバーが見た事が無いポケモンが混じっていた。
おそらく、ゴールドの最高のパーティではない。それでもゴールドたちは強かった。
一見非力そうに見えた挙動不審なエスパーは、あっさり倒されたように見えて、妙な障壁をいくつも残していった。
空気を濁らせるほどの花粉を放出する巨大花は、障壁に乗じてシルバーのポケモンに状態異常をばら撒いていった。
黒い石から生えた禍々しいゴーストは、“さいみんじゅつ”や“ふいうち”や“いたみわけ”で散々場を引っ掻き回していった。
セキエイ高原の、今は使われていない古いフィールドで、ゴールドとシルバーは対峙していた。
シルバーが、水の奔流に吹き飛ばされたポケモンをボールに収めた。また一匹、ポケモンが戦いに耐え切れず脱落したのだった。
「あんたでもう打ち止めかしら? 手こずらせて欲しくはないけど、あまり簡単に倒してしまうのも、画的に地味でつまらないわね
わたしがバトルだってできるってこと、もっとマスターに見てもらわないといけないんだから」
「調子に乗り過ぎだ。全滅するまでがポケモンバトルだ、確実に相手を仕留めるだけで良い」
「……お望みのままに。せっかく華まで持たせてもらっているのだから、これは期待に応えるしかないわ」
美しくも傲然と戦場に佇むのは、ホウエンやシンオウではチャンピオンの手持ちとして著名なポケモン、ミロカロスであった。
湖の底にその美貌を隠し、ひとたび光を浴びれば、その姿を見た者の荒んだ気持ちを残さず吹き払う、とさえ言われている。
しかしミロカロスは、見た目だけが優れているポケモンではない。
巨体から放たれる強烈な水技、相手の攻撃に対する耐久力、補助技の器用さなど、バトルにおいても高いポテンシャルを持っている。
シルバーの目前でも、何匹もの手持ちポケモンが“ハイドロポンプ”の餌食にされた。
前半戦で弱らされていたとはいえ、このミロカロスが尋常でない実力の持ち主であることは、はっきりしていた。
「フン、もう勝ったつもりになってるんじゃないか?」
「ここから逆転する気かしら。面白いわ。その言葉がハッタリでないのならば、わたしぐらいは倒して見せなさいな」
シルバーも、ミロカロスに負けず劣らず不敵な笑みを顔に乗せていた。
戦況は明らかに不利だった。ゴールドのポケモンは、場にいるミロカロスを含めて三匹残っている。対するシルバーは、
「ご主人さま」
「案ずるなバクフーン、勝算はまだ残っている」
少々強引な手だが、と声にもならぬ声でシルバーは付け加えた。
シルバーに残された最後の一匹、バクフーンは黙したまま前に進み出る。それが彼女の、参戦の合図だった。
「バクフーン、みがわりだ!」
シルバーの指示とほぼ同時に、バクフーンの分身が現れた。驚くべきは、その数だった。
一瞬にして、三体もの分身が場に立っていた。普通の“みがわり”ならば有り得ないスピード。
本体と合わせて、四つの焔がミロカロスに迫る。
「なるほど、言うだけあって技の出も動きも早いわ。それに、そんな“みがわり”の出し方してみせたのはあんたが初めてよ」
「私とご主人さまのバトルに、定石など存在しません。あなたが水だというのなら、蒸発するまで焼き尽くしてあげます」
「常識外れのマスターを仰ぐのはお互い様よ!」
ミロカロスは鎌首を高く掲げて咆哮した。セキエイ高原の山間に、得も言われぬ響きが木霊する。
木霊の尾が消えてすぐに、ミロカロスの後ろに巨大な壁のようなものが出現した。
津波と見紛う程の高さと、嵐よりも重い轟音。“なみのり”で呼び起こされた鉄砲水だった。
「狙う必要など無い、四体まとめて飲み込んであげるわ!」
高原に有り得べからざる濁流がフィールドに叩きつけられ、飛沫を撒き散らしながら走る。
ミロカロスは、生み出した水の頂点に座していた。高みから地面を睥睨する様は、神話の一場面にさえ見えた。
バクフーンの判断は早かった。体力の落ちる分身で、この災害レベルの水を受けることは自殺に等しい。
地に伏せていた分身のひとつが、退避できず圧倒的な質量に押し潰される。残った三つのバクフーンの影は、その先を寄り添い合って駆ける。
あと身体三つ分、二つ分、もう水が届く――ミロカロスが流水の上から命中を確信したのと、バクフーンの一体が高く跳躍したのは、同時だった。
「分身を踏み台にした――?」
「それはただの水の流れ、いつまでも高くはない――今度は私の番です」
白い炎を纏った塊は高く飛び上がって、奔流に担がれて走るミロカロスを見下ろしていた。
二体の分身が飛沫の狭間に飲み込まれて消える。宙に舞ったバクフーンの真下を、崩れかけた水壁の頂点が通り過ぎていく。
ミロカロスは振り返って鎌首を擡(もた)げた。バクフーンとミロカロスの視線が交錯する。
バクフーンの背は激しく燃え立ち、揺らぐ陽炎がオーラのようにその身を包む。明らかに逃げる前より温度が上がっている。
「“みがわり”で自ら体力を捨てて“もうか”か。随分と無茶をする」
「無茶だ。けれど、最後までここに立っているのは、オレのバクフーンだ」
分身に勢い良く打ち上げられたバクフーンは、天地逆の視界でミロカロスを見据えていた。
時間にすれば、せいぜい一呼吸分しかない。その一呼吸で、溜め込んだ熱を放出する。バクフーンの視界が紅蓮に染まる。
放たれた高熱が爆風を纏って、空気ごと燃やし尽くしながらミロカロスに迫った。
「バクフーン、“だいもんじ”だ!」
炎熱の激流が、崩れ落ちた水流を舐め回した。
ミロカロスの呼んだそれがフィールドから流れ出るのと、バクフーンが地に墜落するのは、ほぼ同時だった。
何かが、地に叩きつけられる音がした。“なみのり”と“だいもんじ”の衝突の余韻が破られた。
「優れたマスターのポケモンは、須らくマスターの意思を体現するべきもの。わたしも、その端くれよ」
いつの間にか、ミロカロスの長い胴がバクフーンに巻きついていた。
バクフーンは拘束から逃れようと、激しく背中を燃やす。ミロカロスの鱗の色が、化学反応のように変わっていく。
人間であれば皮膚や筋肉が剥がれ落ちてもおかしくない熱に晒されながら、ミロカロスは嬉々として顔を緩ませた。
「そんな馬鹿なっ、いったい、何があったっていうんだ!」
「お前のバクフーンと同じことをしたまでさ。ミロカロスは攻撃を飛び越えた。
ミロカロスだって、生まれたときから優雅に水中を泳いでいたわけではない。もっとも、完全にはかわせなかったようだが」
弱った身体で、バクフーンは必死にミロカロスを振り払おうとした。
しかしミロカロスは、蛇のごとくバクフーンを締め付けて離さない。肌が焼け焦げることにも頓着していない。
“だいもんじ”の爆風の余波が、ミロカロスが飛び跳ねた姿をバクフーンから隠してしまった。
たったそれだけの差で、バクフーンの着地後の対応が遅れた。地震と紛うほどの衝撃が地を揺らす。
体勢を立て直す暇も与えず、巨体に似合わぬ素早さで、ミロカロスは獲物を捕らえていた。
「マスターは仰られた。確実に仕留めよ、とね。あんたを逃がしはしない、ここからぶち込まれたら、あんたは助からないわね」
「このっ、離しなさいっ、いい加減にしないと、あなたを蒲焼にしてしまうわ!」
「冗談を、火傷するぐらいがわたしには丁度いいの」
ミロカロスは首を自らの長い胴と、それに絡め取られているバクフーンに向けた。最早ゴールドはミロカロスに指示を出さなかった。
無反動の水の大砲に、予備動作は無い。いつバクフーンの炎が涅槃の如く消し飛ぶかは、その射手にしか分からない。
足掻くバクフーンを無視して、ミロカロスは目ぶりだけで攻撃を宣告した。
シルバーはフィールドに走り出していた。立ち止まっていられなかった。止める事が不可能だとしても。
水と泥に塗れた地を踏む。顔を向けることができなくても、足音だけで誰が来たか分かってしまう。
「ご主人さま、き、来てはダメです!」
シルバーとバクフーン。主従の距離は遠かった。人間の足では詰められない遠さだった。
厳しい旅を続けてきたシルバーやゴールドでも、ポケモンとは生物としての次元が違う。
それでも、ただ身体が衝動で突き動かされるままに、泥を跳ね上げ、息を飛ばしてシルバーは走っていく。
ミロカロスは、そのまま“ハイドロポンプ”を放った。岩盤をも抉り砕く水弾が、ミロカロスから迸る。
「その通り。あなたはここに来てはいけない」
無機質な合成音声がした。すぐに鈍色の塊が横から飛来して、シルバーを撥ねた。
そのまま塊は激しい横回転とともに“ハイドロポンプ”の軌道に割り込む。
水弾と衝突した塊は雷鳴のような唸りとともに、水滴の散弾を辺りに撒き散らした。
ミロカロスは一瞬、驚愕を顔に上らせたが、すぐに腹立たしげな声を張った。
「ドクトルっ……どういうつもりよ。一体誰の断りであんたは」
「マスターは“ジャイロボール”であなたの攻撃を止めるよう命じられた。既に勝負は着いた。
あなたはあのままでは間違いなくこれを殺していた。それはマスターの望むところではない」
鈍色の塊りに見えたものは、ゴールドのジバコイル、ドクトルだった。
無機質なジバコイルの赤い瞳を、ミロカロスは憎憎しげに睨んだ。そのまま無言でバクフーンを放り出す。
フィールドには水蒸気に混じって、焦げ臭い匂いが漂いだしていた。
「……忌々しいわ。水や草でもないくせに、わたしの“ハイドロポンプ”を耐えるなんてね。
さすがはバトル専用に調整されただけはあるということかしら?」
「そう拗ねるなミロカロス。これは僕の、お前への指示が良くなかった。お前は間違いなくやってくれたよ」
ドクトルに続いて、ゴールドもフィールドに下りてきた。
ゴールドはミロカロスを労い、ドクトルに衝突されて泥中に転がっていたシルバーを見た。
自分の体重より格段に重い物体の体当たりを食らって、身体に相当なダメージを負ったらしい。
バクフーンは結果的に“みがわり”による消耗だけでバトルを終えたため、シルバーはポケモンよりもひどい有様だった。
「ご主人さまっ、無理に立たないでください、御身体に障ります!」
「お前が……オレを心配できる立場かっ……」
「すまないな。お前にあのまま突っ込まれると、至近距離からミロカロスの攻撃を食らってしまう。さすがにそれはまずい。
こいつはミロカロスになったとき、既にある程度レベルがあったものだから、自分の力を把握しきっていない所があるんだ」
立ち上がろうとするシルバーに、ゴールドは声をかけた。
ゴールドは不思議な心地だった。思い返せば、シルバーとはワカバタウンを旅立つ頃からの付き合いだった。
いつも顔を合わせるたびに、ところ構わずポケモンバトルを仕掛けられ、ゴールドも懲りることなく勝負を受けていた。
これまでバトルは全てゴールドが勝利を収めており、敗北したシルバーはすぐに去っていくのが普通だった。
碌に会話をしたことが無く、第一印象が最悪だった人間と、特に受ける必要が無いバトルをしていた。
そんな関係を、これまで自分が違和感無く受け入れていたことに、今更ながらゴールドは驚いていた。
「結構前に、ポケモンへの信頼だとか、愛情だとか言ってた気がしたが、どうやらそれが行動にも出てきたんじゃないか。
以前のお前であったら、絶対止めに入ることはなかっただろう。止めるのが妥当かどうかはともかくとして」
「……オレは、間違っているというのか?」
「分からない。それは僕ではなく、お前たちが判断しなければならないことだと思う。
ただ、もしミロカロスが僕の手持ちの最後の一匹だったなら、僕はミロカロスを止めなかった。お前とバクフーンは死んでいた」
ゴールドは表情を変えずに言い切った。冗談とも本気とも取れる声音だった。
いつになくゴールドは饒舌になっていた。普段なら、バトルで負かした相手に挨拶以上の声など掛けないはずだった。
「立ち話はそこまでに、マスター。負傷しているのはポケモンたちも同じ。ポケモンセンターに帰るべき」
「そうだな……ドクトル、シルバーを乗せてくれるか。乗り心地は良くないが我慢しろ。バクフーンは……歩けるな」
シルバーは露骨に嫌そうな顔をしたが、自分ひとりで動けないと分かると、黙ってドクトルに身を任せた。
バクフーンは、シルバーがジバコイルの反重力ユニットに乗せられるのを黙って見ていた。
主人の惨状のためか、それとも主人の好敵手と普段より近い位置にいるためか、どう行動したらいいか分からない様子だった。
それでもシルバーを乗せたドクトルが移動し始めると、その後ろをついて歩いていった。
「マスター……」
「ミロカロス、お前はどうなんだ。火傷してしまっているようだが」
ジバコイルたちが行ってしまうと、ゴールドは再びミロカロスへ目を向けた。
ゴールドの位置からでは上手く捉えられなかったが、バクフーンの攻撃を完全にかわし切っていないように見えたのだ。
急を要する容態でない限り、ゴールドはポケモンの負傷や病状を自分で確認するようにしていた。
それは、ポケモンだけを供に各地を冒険するうちについた習慣であった。
ポケモンセンターは非常に便利な施設であるが、いつでもどこでもポケモンセンターに駆け込むことはできない。
洞窟や海の真ん中でポケモンが体調を崩したときのために、ポケモン治療する道具を常備するのは、トレーナーの常識だった。
バトル中でも使用できる治療薬は、そういった需要に応えて開発されたものである。
「その、治療は後でいいから……他の子がポケモンセンターで治療されてる間、わたしに付き合ってくれないかしら。
中途半端に火傷なんかしたものだから、ちょっとアレで……ほ、ほら、今回わたし頑張ったでしょ、一番相手倒したでしょ」
「……確かに、センターでの治療は後回しで良さそうだ……が、一旦センターには戻る。その後に何とかしてやろう」
ミロカロスは甘えた目でゴールドを見ていた。よく懐いているポケモンには、一般的に見られる仕草であった。
しかし、その仕草が意味しているところを理解できるトレーナーは、ごく限られた者しかいない。
「眠れないの? 目が冴えてしまっているなら、わたしが寝かせてあげても構わないわ」
「……遠慮しておきます。眠りたい気分でもないので」
セキエイ高原は、全ての施設がポケモンリーグのために存在している場所であった。
人間用の住居すら、職員の宿泊用以外存在していない徹底ぶりである。
ゴールドがポケモンリーグ本部に戻ると、本部は平常運転を再開した。
傷ついたポケモンはポケモンセンターで治療され、シルバーは病院に担ぎ込まれた。
ポケモンリーグのレベルとなると、バトルの余波で怪我をする人間も出てくるためである。
「あなた、自分のマスターが心配なのかしら。人間も不思議なことをするものよね。
わたしたちの怪我は、殆どあっという間に治してしまうのに、自分たちの怪我は同じようにいかないんだから」
詳しい検査は後日、ということになっていたが、どこか骨折してしまったのは確実らしい。
日が落ちると、病院の早い消灯時間に合わせてシルバーは眠らされた。しばらくは病院生活が続くのだろう。
それに対してバクフーンたちは、ポケモンセンターの治療で、既に出歩けるほど回復している。
といっても、シルバーの面会時間が過ぎてしまった今は、センター内でじっとしている以外にやることが無かった。
「あなたの主人はどうしたのですか? ここに帰ってきた後、すぐにまたどこかへ出かけてしまったようですが」
ほんの数時間前は、互いの主の思いを背負ってバトルに望んだ二体も、手持ち無沙汰な様子だった。
空気を濁らせるほどの花粉をばら撒く巨大花――ゴールドのラフレシアは、マスターが外出したまま帰ってこない。
シルバーのバクフーンは、明日の面会時間までご主人さまと会うことができない。
折悪しく、他のポケモンたちは、少しでも回復を早めるために寝てしまったようだった。
「知らされていないわ。でも、だいたい予想はついてる。きっとミロカロスの相手をしてあげてるんでしょう。
ほら、あなたに水鉄砲打ち込もうとしたあの子よ。あなたにつけられた火傷が疼いたのね」
「……何の相手ですか。火傷の治療なら、センターに任せてしまえば」
「明日にでも、あの子に直接聞いたらいいじゃない」
バクフーンは怪訝な顔をした。ミロカロスの傷が、ポケモンセンターに運ぶ程の重症でないことは分かる。
しかし、他の手持ちはポケモンセンターに治療させているのに、彼女だけ治療させないのは奇妙な行動である。
ラフレシアはつっけんどんな返事をした。あまり聞かれたくない風だったので、バクフーンは話題を変えた。
「あなたは、あの人と出会ってから長いのですか?」
「まぁ、それなりかしら。あなたは、あなたのマスターと付き合い長いんでしょう。わたしとマスターよりも長いらしいわね。
わたしのマスターが故郷を旅立ったときに、あなたたちと初めてバトルしたって聞いたから」
「……そうですね。色々な事がありました。あの頃とは、私も、ご主人さまも、随分変わりました」
バクフーンは、ぽつぽつと自分たちの旅について話しだした。
話によれば、旅は危険と苦難が多くを占めていたが、バクフーンの語り口は終始懐かしげだった。
勝利、敗北、克服、挫折、その繰り返しを、かけがえのないものとして、いとおしげに語っていた。
ラフレシアは、わずかに相槌を打つ以外は聞き役に徹していた。そのうち、話は今日の戦いまでやってくる。
「私は……ご主人さまとともに、あなたの主人にバトルを挑んでいます。回数は、もう人間の手では数えられないぐらいです。
恥ずかしながら、あなたの主人には一度も勝ったことがありません。私の不徳の致すところです」
「話には聞いていたわ。こうして顔を合わせて、戦ったのは今日が初めてだけど」
バクフーンは首を下げた。ラフレシアの顔が近くなる。ラフレシアは黙っていた。
二体とも二足歩行のポケモンで、背丈はバクフーンが丁度人間の大人、ラフレシアが丁度人間の子供と同じくらい。
どちらからともなく、センターの無機質な白い壁に背を預ける。立っている時より、二体の距離が縮んだ。
「今日は、あなたの主人は、普段連れているポケモンをバトルに出しませんでしたね。
……あのジバコイルには、“ブラストバーン”とか打ち込んだり、“10まんボルト”とか打ち込まれたことがありますが」
「わたしのマスターは、数も種類もたくさんポケモンを育てていらっしゃるの。
だからわたしは、あなたみたいにマスターと旅をした思い出は、あまり多くないわ。バトルだってあまりやったことないし」
「あれで、あれで実戦経験が無いというんですか。嘘でしょう?」
バクフーンは流石に驚いたようだった。
見た事が無い顔ぶれだとは思っていたが、バトルそのものの経験がそこまで少ないとは思っていなかった。
ゴールドの指示があったとはいえ、そんなポケモンに良い様に翻弄されたとは、俄かには信じ難かった。
「あの子――ミロカロスがあなたに言った事、覚えているかしら。『わたしがバトルだってできることを――』って。
あれは、そういう意味なの。わたしたちは、本来バトルするためには育てられていない。
そのせいか、ミロカロスはバトルのために育てられたポケモンには、妙な対抗意識を持ってる。
バリヤードとミカルゲは、普段から変なこと口走ってる連中だから、よく分からないけど」
驚きを通り越して、バクフーンは絶句していた。
あの強大な水技の応酬、咄嗟の回避――ミロカロスの戦いが目蓋を過ぎった。
言われてみれば、ミロカロスの挙動は、常識的なポケモンバトルのそれとはとても言えない。
“みがわり”の同時破壊。フィールドをまったく気に掛けない攻撃。明らかなオーバーキル。
最後の“まきつく”を利用したとどめにしても、自分の身体を巻き添えにしかねない危険な手段だった。
トレーナーズスクールの教師が見たら、絶対に手本にさせないような戦い方である。
それでも、現にシルバーの手持ちは、バクフーンを除いて残らず“ひんし”にされた。
「でも、正直あなたの“みがわり”からの行動は、あの子より型破りだったと思うけれどね」
「そ、それはそうかも知れませんが……」
かつて、シルバーはゴールドに言い放ったことがある。
『今のオレが勝てない理由、きっと見つけ出し強くなる。そしてお前に挑む。その時は、持てる力全て出して負かしてやるさ』
その理由は、どこにあるんだろうか。
ゴールドとの戦いが進むうちに、シルバーたちは強くなっている。
今ではトレーナーとの野良試合で負けることは無くなった。強さで言えば、ジムリーダーにも引けを取らない。
だが、ゴールドとの差は、追っても追っても、むしろ少しずつ開くばかりのようだった。
「どうして……どうして私たちは負けたの……」
「納得いかないかしら? 持てる全てをバトルに捧げてここまできたというのに、わたしたちなんかに負かされたのが」
「えっ、あ、そのっ」
バクフーンは自分の呟きに気付いていなかったらしい。
思わぬ奇襲を受けて狼狽する様は、ミロカロスとバトルしていた時の鬼気迫るものとは、明らかに違っていた。
その顔を見て、ラフレシアは唐突に心のある部分がくすぐられるのを感じた。
嗜虐心というべきか、それとも洒落気か、酔狂というのが相応しいだろうか。
「これからわたしが言うことを、聞くか聞かないか、聞いて信じるか信じないかはあなたの自由よ。
所詮あなたとわたしはマスターを違えるものなのだから、信じてくれとは言わない。でもね」
ラフレシアはバクフーンの目の前に立った。大きな花弁の下から、バクフーンを見上げる瞳がのぞく。
バクフーンは落ち着きを取り戻してからも、ラフレシアに返す言葉が見つからなかった。
無言を肯定と解釈したのか、ラフレシアは再び口を開いた。
「あなたとあなたのマスターの間には、共に戦う以外の関係も、必要ではないかしら?」
「ご主人さま。少し、お話ししたいことがあるのですが」
シルバーとバクフーンは、若草の薫る29番道路を歩いていた。
ジバコイルと衝突したときのシルバーの怪我も、日常生活に支障無いほどまで治っていた。
ワカバタウンから、このまま足の向くまま西へ進めば、ヨシノシティにたどり着く。
そういえば、この先ではじめてゴールドとバトルしたんだったな、とシルバーは思った。
「何だ、バクフーン」
シルバーは、振り返らないままバクフーンに言葉を返した。声にいつもの歯切れが無かった。
不器用でつっけんどんなシルバーも、バクフーンやゴールドと出会った場所には、思うところがあったのだろうか。
あるいは、ウツギ研究所で言われたことが、今更になって気恥ずかしくなってきたのかもしれない。
シルバーは身体が動くようになると、半ば飛び出すようにセキエイ高原を後にした。
そのままの足でチャンピオンロードと26番道路を南下、トージョウの滝を越え、27番道路を経て、ワカバタウンへやってきた。
ゴールドに何度目かの敗北を喫して以来、思いつめた表情のシルバーに、バクフーンはやきもきし通しだった。
そもそも、何故今更ワカバタウンに来るかも、バクフーンは知らされていなかった。
「どうして、ご主人さまはあんなことをおっしゃられたのですか。ご主人さまは、私が邪魔になりましたか」
シルバーが無言で研究所の扉を叩いたとき、後ろについていたバクフーンは吃驚した。
強引に研究所の中に入り込み、ウツギ博士にバクフーンの引渡しを申し出たときなど、
引き渡されるバクフーンとしては、ミロカロスの大波に下敷きにされた心地だった。
それでもバクフーンは、ぎりぎりのところで逃げ出さずにいるシルバーの背中を見つめるだけだった。
今までシルバーは、自分から言い出したことは絶対に曲げたことが無かったから。
唐突に奇妙な感覚がして、バクフーンは俯いた顔を上げた。
上げた顔が、遠くなったウツギ博士の視線とぶつかった。ウツギ博士は、しばらくの間、黙って主従を観察していた。
「そんなことはない。けれど、オレは、お前を盗んだ」
ウツギ博士は、シルバーの申し出をはっきりと断った。
そのバクフーンはきみを慕っているから、返さなくていい、とだけ言って、あとは何も語らなかった。
「そうです。私は盗まれました。だから、ウツギ博士に返すのは当然ですか。
ご主人さまから……いや、人間から見たら、私たちはそういうものなのかもしれませんね。
でも、もしそうなったら、返された私はどうすればいいんですか。そういうこと、考えていましたか」
シルバーは胸やら腹やらに棘が刺さった心地がした。このバクフーンは、こんな物言いをする奴だったろうか。
ウツギ博士からよくなついていると言われたが、今のバクフーンは、手を伸ばすのが躊躇われる場所にいるように感じられた。
「だいたい、どうして今になってウツギ博士のところに戻ってきたんですか」
「……いつかは、戻って謝っておかなきゃいけない相手だろう」
「それは否定しません。ですが、本当にそれだけの理由で、ご主人さまはあそこにやってきたんですか」
シルバーは足を止めた。かなり早足で歩いていたためか、もうヨシノシティは目と鼻の先にあった。
道中には何人ものトレーナーがいたが、シルバーたちはことごとく無視した。
トレーナーたちも、見るからによく育ったバクフーンを従えているシルバーには、あえて勝負を挑まなかった。
「どういう意味だ、それは」
「……ご主人さまは、セキエイ高原で入院して以来、おかしくなっています」
「言いたいことがあるなら、はっきり言ってみろよ」
シルバーはバクフーンの方へ身体を向けた。バクフーンに進化したばかりの頃は、シルバーの方が幾分背が小さかった。
それがいつしか、一人と一匹の背丈は同じくらいになっていた。バクフーンの背中が、ぱちりと火花を立てた。
「ご主人さまは、私たちがゴールドに勝てないから、弱腰になったのでしょう。
それで、私のことが重荷になったから、今になって私を研究所に返そうとした」
バクフーンの言葉は、シルバーは唖然とさせた。が、すぐにシルバーは激しく言い立てる。
「黙れバクフーンっ、お前に、オレの……知った風な口を聞くな!」
「ええ、そうです、分かりませんよ! 私は、ご主人さまが強さを求める理由なんか知らない……」
シルバーが最強のポケモントレーナーを目指す理由は、当人以外誰も知らなかった。
シルバーは誰にも語らなかった。ゴールドどころか、自分のポケモンにさえ、その動機を明かしたことが無かった。
シルバーは、ひとりで強くならなければならなかった。そう自分に言ってしまったから。
「私たちは、私たちはただ、あなたが強さを望むから、ここまでやってきた。
あの、白くて、味気ない研究所から私を連れ出して下さった時から、私の望みはあなたの望みだった」
「だからお前は、知った風な口を聞くなと言ってるだろうっ」
「あなたは、あなたとゴールドと、どちらがポケモントレーナーとして上だと思っていますか。
今すぐセキエイ高原に飛んで、もう一回ゴールドに挑戦できますか。私たちと戦って、ゴールドに勝てますか。
いや、私たちのせいで勝てないのなら、私たちを捨てて、別のポケモンを捕まえて育てて、ゴールドに勝てますか」
「黙れ、黙れバクフーンっ!」
シルバーは叫んでいた。無意識に握り拳を固めていた。そのまま右腕を振り上げようとして――振り上がらなかった。
バクフーンは、主人に決して逆らうことの無いポケモンだった。
たとえここでシルバーに殴りつけられたとしても、病み上がりの主人に反撃するようなポケモンではなかった。
それを、シルバーも長い付き合いのうちに分かっていた。それでも、腕は上がらなかった。上げる気になれなかった。
バクフーンはシルバーの様子をじっと見つめていたが、やがて溜息をついた。
「……最強になれないのなら、私なんか必要ないですよね」
「なに、何を言っているんだお前は」
「ご主人さまがウツギ研究所に忍び込んだのは、最強のトレーナーになるためのポケモンを手に入れるためだった。
でも、ご主人さまと私ではゴールドにさえ勝てないから、ご主人さまは私を手放そうとした。
私は、ご主人さまが最強のトレーナーになるための道具だから、これ以上強くなれないのなら、もう」
バクフーンは言葉を続けられなかった。シルバーがその肢体に突っ込んできたからだった。
シルバーの体当たりを、バクフーンは微動だにせず受け止めた。肌理細かい柔毛に、シルバーは顔を埋めていた。
人間にとっては少々熱い、炎ポケモンの高い体温がシルバーを包んだ。
「言うな、それ以上言うな、オレは、お前を、手放す気は無いから……」
「どうして、あの時言ってくれなかったんですか。一言だけでよかったのに……私を譲ってください、って」
それより後の呟きは、意味を成していなかった。
「で、どうしてこうなるんだ」
ヨシノシティにある、ポケモントレーナー用の宿泊施設の一室で、シルバーは呟いた。
「そんな目で私を見ないでください。私は別に、あなたの道具でも良かったんですよ。
共に強さを追い求めるというのも、私はなかなか気に入っています。
ただ、それだけでは嫌なだけでして。もっと別の形の関係がある、という事を教えてあげたいだけです」
精神的にいろいろあって疲れたシルバーは、日も傾かないうちに宿を確保した。
部屋の扉を開け、電気も点けずに寝台に倒れこむ。スプリングが軽く弾む。白いシーツに皺がよった。
安宿であったが、野宿を続けていたシルバーにとっては、久しぶりのまともな寝床であった。
その背中に柔らかい重みが圧し掛かる。うつ伏せに倒れこんだシルバーに、何かが覆いかぶさっていた。
咄嗟に手で振り払おうとすると、見覚えのあるものがシルバーの手を押さえていた。バクフーンの手が上に重ねられていた。
「言ってくれましたよね。私を手放すつもりは無いと。撤回するなら今のうちですよ」
「……撤回はしない。が、それとこれにどんな関係があるんだよ」
「もう一度ゴールドに挑んで負けたらどうしますか。今度はゴールドにでも私を押し付けてみますか」
後ろ髪にかかるバクフーンの吐息は、むっとした熱と湿っぽさを持っていた。
「お前は……本当に、一体どうしたんだ。会話になってないぞ」
「あなたにとって私は、ゴールドを打ち負かすための道具だったから、こんな思いをしなきゃいけないんです。
ゴールドたちにバトルで敗れる度に、私はいつ捨てられてしまうんじゃないか、気が気ではありませんでした」
シルバーは虚を突かれた顔をした。シルバー自身、バクフーンを戦いの道具のように扱っていたことは自覚していた。
しかしシルバーは、バクフーンを手放そうという発想を、この間まで頭に浮かべたことが無かった。
いきおい、バクフーンがシルバーに捨てられることを意識していた、ということにシルバーは気付いていなかった。
「誰かと共に戦うことは、あなたが教えてくれましたね。今度は私の番。これからやることは、私が教えてあげます。
私があなたをどう思っているか、身体で教えてあげます。だから、あなたも本当の気持ちを教えてください」
背中で感じたバクフーンは、シルバーが思ったより柔らかかった。
バトルや鍛錬のときと違った姿に、新鮮な驚きが広がっていく。
同時に、さっき路上でバクフーンに抱きついたことが思い起こされて、シルバーはひとり赤面した。
バクフーンは、うつ伏せに倒れこんでいたシルバーを仰向けに引っ繰り返した。
そのまま寝台に両手を付いて、シルバーにくちづける。当然、一人と一匹にとっては初めてだった。
自信満々な態度だったくせに、顔を近づける動作が恐る恐るだったのが、なんだかおかしかった。
「……お前、誰かに入れ知恵されただろ。オレはこんなこと教えていないし、あの博士が教えるとも思えない」
「お嫌ですか」
シルバーは肺にあたりに閊(つか)える感じがしていた。こんな感触はいつ以来なんだろうか。
以前にあったのか、なかったのか、それも分からない。あの日以来、強くなること以外を忘れ去ってしまった。
「それで、聞いておいて返事を待たないってのはどういうことなんだ」
「それはいけない子。いったい誰に似たんでしょうね」
シルバーが短い物思いに耽っている間に、バクフーンは体勢を変えていた。
バクフーンは覆い被せていた身体をずらし、シルバーの服を器用にいじる。
五本指は伊達ではなかったらしく、さして手間取らずに暗めの青い着衣を引き剥がしていく。
さしものシルバーにとっても、この行動は想像の範囲外だった。
「おいバクフーン、お前、自分がやっていることが分かってるのか」
上半身を寝台から起こしたシルバーは、バクフーンを押し返そうとして、はたとその動きを止められた。
バクフーンは抵抗していない。ただ下からシルバーを見上げただけだった。
バトルの時のような、相手を威圧する眼光ではないのに、シルバーは自分が気圧されたのを感じた。
「そんな目で私を見るな……だと。フン、それはオレの台詞だ」
「そうですか。それでは遠慮無く」
バクフーンは目を伏せて作業に没頭した。どうあっても止めるつもりはないらしい。
肌が火照りだしていた。炎ポケモンゆえの放散熱を浴びているせいか、それとも血の巡りがそうさせたのか。
バクフーンの首周りから、パチパチと軽い音を立った。シルバーの肉茎が姿を現していた。
「人間にしては、結構体温高くなってますよ。どうしたんですか」
「それはお前のせい……つっ、勝手にオレの身体にっ」
「ああごめんなさい。私の舌は、人間のそれと比べると刺激が強いらしいですね」
バクフーンの舌が、シルバーの肉茎を軽く撫でる。
既に血の流れ込みだしていたそれに走る触感に、シルバーはびくりと背筋を揺らせた。
こんな状況で興奮していることに、シルバーは自分のことながら信じがたい思いがした。
バクフーンと旅をしている間、このような近い距離で触れ合うことも無くはなかった。
トレーナーとして、バクフーンに自ら道具を使った応急処置をしたことなら、思い返すまでもない。
野宿の寒さに堪えかねて、バクフーンを抱えて眠ったこともある。今までと一体何が違うのだろうか。
バクフーンの口内は熱かった。
人間のそれより明らかに長いバクフーンの舌が、シルバーの肉茎をそろそろとさする。
自分の毛並みの手入れをするより慎重に、粘膜と粘膜を触れ合わせていく。
シルバーの喉から呻きが上がった。その意味を推し量るように、バクフーンはシルバーの顔を見上げている。
またそんな目で見られた。
バクフーンの不恰好な愛撫は、だんだん効果を表してきたようだった。
シルバーの顔色を窺うことで、バクフーンの右に出るものはいない。じくじくとした温みがシルバーの身体に滲んでいく。
もとより禁欲的な生活を続けていたシルバーは、その感覚に抵抗する術を知らない。
声を出してしまいそうになるのを、口内でかみ殺すのが関の山だった。
バクフーンが小休止を入れてシルバーの顔を見つめる。
肉体的な刺激が治まると同時に、まじまじと視線を受けてしまう気恥ずかしさを、シルバーは感じていた。
何故か、バクフーンに真っ直ぐ見つめられるのが面映い。まるで全てを見透かされているような。
バクフーンの口腔から、銀色の糸が垂れていた。その先はシルバーの肉茎に繋がっていた。
淫靡で倒錯的なささめごと。無味乾燥な寝台と部屋の中で、自分たちだけが浮いている。
頬が熱い。どうしてこんなに顔が赤くなってしまうのか。
「何だか、真正面からあなたの顔を見るのは珍しいですね。いつもは同じ方向を向いていますから」
「……今頃気付いたのか、お前は」
いつもは、バクフーンがシルバーの前に出てバトルで戦うか、バクフーンがシルバーの後ろに付き従って歩くかで。
長い付き合いだと思っていたのに、向かい合うくらいのことで、背筋がむず痒くなる。まるで新米のトレーナーとポケモンだった。
再びバクフーンは奉仕を始めた。やっていることが常軌を逸していても、その様子は真剣そのものだった。
ふとシルバーに、悪戯心のようなものが湧いた。それに従って、自由になっていた両手を、バクフーンの耳に添える。
「ぶぁふっ」
「ぐああっ、だぁあっ、あつ、熱い、熱いだろうがっ」
「いいいきなり何するんですかっ! もうちょっとで、あなたを消し炭にするところでしたよっ」
シルバーの手が触れたからか、バクフーンの炎袋が緩んでしまった。
漏れ出た口火に晒され、悶絶しそうになるのをかなり必死で堪える。幸いにもシルバーの肉茎は無事だった。
「み、耳はその、何と言いますか」
「刺激に弱い。敏感だ」
「……はっきりと言いますね」
「婉曲に言ってどうする」
バクフーンは目を伏せて、もぞもぞしている。シルバーから反撃を食らうとは思っていなかったのか。
シルバーとしても、ここまでバクフーンが敏感に反応するとは思っていなかった。まだ肉茎がひりついていた。
自分のポケモンとはいえ、わざわざ火を浴びに行くほど物好きではない。消し炭というのも、誇張ではないと知っている。
「こ、今度からは気をつけてください」
「……触られるのは嫌か」
「え、そ、それは」
答えを待たずにシルバーは手を伸ばした。
「ひゃあぅうぅっ!」
「今まで耳に触ったこともあったはずなんだが、こんな反応は見た事が無い。どういうことなんだ」
口が離れている今だとばかりに、シルバーはバクフーンの両耳をもて遊び続けた。
さっきまで身体を好き勝手いじくり回されていた反動か、バクフーンの反応を愉しむために、触り方を変えてみたりした。
理屈で言い表せないが、シルバーはとても愉快な気分だった。
「もうっ、私の耳で遊ばないでくださいって、気をつけてって言ったそばから」
バクフーンは息を荒げながら文句を言っていた。
勝手に頬が緩んでしまいそうな感情が、シルバーに入り込んでいた。胸がくすぐったくなるようなそれが、つい口を開かせる。
「お前もなかなか可愛らしいところがあるじゃないか」
その台詞が放たれた瞬間、バクフーンはまじまじとシルバーを見つめた。きょとん、という擬音が相応しい顔だった。
バクフーンの反応のせいで、言ってしまってからまた決まりが悪くなる。からかうつもりで言った言葉が、シルバーにも効いてしまった。
「あの……あなたも、そんなこと言うのですね」
「いや、これはだな。この……やっぱり取り消す」
「そんなっ、私、さっきのよく聞いてませんでしたからもう一回言ってください!」
「だあぁあっ! どうしてこうなるんだ! こんなのオレじゃないっ」
じたばたするシルバーと食い下がるバクフーンが静かになったのは、しばらく経ってからのことだった。
「何だかもう……想定通りに行かないどころか前途多難な気がしますけど、今日は最後まで付き合ってもらいますからね」
「最後までって、やっぱりお前誰かに入れ知恵されたんだな? お前にそんな発想があるわけが」
「確かに、全部自分で考えたわけではありませんけど……最終的にやることにしたのは、私の気持ちですから」
バクフーンの虹彩に真っ直ぐ射抜かれると、ゴールドに勝利するよりも、バクフーンを翻意させるほうが難しいのでは、という思いさえした。
命令すれば行動だけは止めるだろう。無理矢理モンスターボールに押し込んでも、止めることは出来る。
それをしてしまうのが、シルバーには躊躇われた。バクフーンはシルバーに『私の気持ち』と言った。
バクフーンがシルバーに対して、自分の意思で何か働きかけたことが、今までにあっただろうか。
性格的に、バクフーンは自己主張が無いわけではない。ただ、それをシルバーに向けたことが無いだけだった。
「まったく、オレのポケモンながら……お前のことだ、言い出したからには聞かないんだろうな」
「物事は始めてしまえばこちらのもの、です。あなたに初めてバトルに駆り出された時も、そんな感じだったじゃないですか。
研究所を出てすぐにゴールドとのバトルになって、そのままなし崩しに……」
「ええい、過ぎてしまったことをぐちぐち掘り返すな! そういう場面じゃないだろうが!」
今のシルバーの顔つきからは、バトルに臨むときの険が取れていた。バクフーンは素直に、自分の主人が可愛らしいと思った。
もっと見てみたい。今まで中々あらわにならなかった、そういうところを見せて欲しい。でも他の人には見せたくない。
「それでは参りますよ。覚悟はよろしいですか」
「もういい、いつでも来い」
半ば破れかぶれになっているような態度が引っかかったものの、バクフーンは仰向けに寝かせたシルバーの上に跨った。
最初から上手く行かなくてもいい。バトルの方だって、最初はお粗末なものだった。
きっとシルバーとならばやっていける、やっていけるようにする。
照準をゆっくりと合わせる。
バクフーンが全身から発散する熱に中てられて、シルバーの肌はひどく汗ばんでいた。けれど、その熱気が心地よい。
上に乗られている体位が癪と言えば癪だが、それはそれで、自分に従うばかりだったバクフーンの態度と対照的で、シルバーの興奮をそそった。
バクフーンの中は、焼けるような粘膜が絡みついてきた。体の割に、そこはひどく狭く感じられた。
一人と一匹は歯を食いしばって声を出さないようにしていた。変な声を出してしまったら、また横道にそれてしまう。
自分の不器用さには、いい加減気付かされていた。それでも、身を交わしていたかった。
苦しくても、狂気の沙汰に見えようとも、もっと繋がっていたかった。
バクフーンが上体を傾ける。シルバーに顔を近づける。
シルバーは片手で自分の身体を支え、もう片方の手でバクフーンの背中を撫でた。滑らかな手触りが、無性にいとおしかった。
「熱く、ないですか?」
「……何がだ」
「もうっ、私に言わせる気ですかっ」
抽送を行うような余裕は無かった。包まれているだけで、流れてくる感覚が飽和しそうだった。
少し動いただけで、バクフーンの他に何も感じられないこの世界が、蒸し暑い安宿に引き戻されてしまう気がした。
「別に熱くしてもいいんだぞ? ……消し炭は勘弁して欲しいが」
「どっちなんですか、それは」
シルバーは口を噤(つぐ)んだ。思い浮かんだ台詞を今言ってしまったら、勢い余って消し炭にされるかも知れない。
それに、終わって落ち着くまで取っておいた方が、可愛らしい反応が返ってくるとシルバーは思った。
一人と一匹のささめきごとは、もう少しだけ続く。
共に戦う以外の関係をつくる、という点では、どうやら成功したらしかった。
「ゴールドくん、少し気になることがあったのだけど」
ゴールドのポケギアに、ウツギ博士から着信が入ってきた。珍しいと思いながら、ゴールドは着信欄の名前を見た。
二人が使用する連絡手段は、大抵の場合パソコンのメールであった。話題が、ポケモン研究の込み入ったことばかりだったからである。
ゴールドはサファリゾーンの探索中であったが、ポケギアを操作して電話に出た。
「あのさ、この間……なんて言ったっけ、あの赤い髪の少年がさ」
「シルバーですね」
「そう、シルバー、彼がうちの研究所にやってきたんだよね。今度は正面から入ってきたけど。
ヒノアラシ……まあもうバクフーンまで進化してたけど、その少年がね、バクフーンをうちに返したいって言ってきたんだよね」
ゴールドは足を止めた。いきなり立ち止まったマスターに、そばを歩いていたポケモンは、怪訝そうにゴールドを見上げる。
いつもは電話などよりポケモン捕獲を優先するゴールドなのに、今は目の先をワタッコがふわふわ飛んでいても無視したまま。
「バクフーンを……? それで、博士はどうしたのですか」
「うーんとね、結論から言うと、受け取らなかった。話を切り出したときの少年とバクフーンの顔ったらなかったからね。
つい、そのままきみが持っていていい、そのバクフーンは随分きみを慕っているようだから、って帰してしまった。
そういえば、彼はバクフーンをボールに入れずに連れ歩いていたね。きみにも長いこと連れ歩きはやらせているけど……。
ポケモンを直接連れ歩くってことは、人間とポケモンのつながりを、もっと強くするのかもしれないね」
「……モンスターボールは便利です。例えば……ミロカロスなんか、ボールが無ければ滅多に連れ歩けるポケモンではありません。
モンスターボールがあるおかげで、ポケモンと常に近くにいる、と言うよりむしろ、ポケモンを持ち歩くことができます。
けれど、あまりモンスターボールが便利すぎて、人間はポケモンが生き物であるということを、忘れつつあるのではないでしょうか」
電話の向こうのウツギ博士は、うんうん唸って考え込んでいる風だった。
ポケモンが生物である、というのは、だいたいは共有されている常識である。
生き物と定義できるかどうか怪しいポケモンはいるものの、ポケモンが生き物であることを忘れる、という言葉は、かなり奇抜に聞こえたようだ。
「ちょっと突飛な話だな、それは」
「モンスターボールが開発されたことによって、基本的にはポケモンを都合の良い時に出し入れできるようになりました。
ひどい傷を負っていたとしても、動かすのに困るということは殆どありません。大抵はボールに収めてポケモンセンターに行けば元通りです。
さらにゲットする敷居も格段に下がって、多くの人々がポケモンと関わるようになり、トレーナーというものが成立するようになりました」
「そうだね。そこから派生して、パソコンを使ったポケモン預かりシステムが普及している。
今や数百匹のポケモンを持つトレーナーもざらにいるけど、それはこのシステムが無ければ考えられないだろう……」
モンスターボールが大量生産され、普及される以前は、ポケモンを捕獲するということ自体が、特殊な技能だった。
ボールの原型となったぼんぐりを加工する捕獲装置にしても、それを作成するには熟練の技術が必要だった。
それ以前となると、現在の“ポケモンをゲットする”という概念が通用するかどうかも怪しい。
「そのトレーナーという存在が、まさしくポケモンを戦いの道具として使っているのです。
実際、ある程度のレベルを超えると、ポケモンバトルで勝つのはそういうトレーナーです」
「ポケモンリーグの現役チャンピオンが言うと、説得力があるね」
「それに、言うのは少々憚られますが……あのロケット団のような、ポケモンを道具のように扱った実験によって、
初めて明かされた知識が数多くあるのは、博士も承知でしょう」
「その研究成果は、主にきみがロケット団のアジトを潰したときに持ってきたものだけどね」
「要するに、ポケモントレーナーとトレーナーのためのシステムというのは、ポケモンを道具として扱うことを前提にして存在しているのですよ。
僕がやっているポケモンの連れ歩きというのは、そのシステム以前の人間とポケモンの関わり方を、擬似的に再現していることなのでしょう」
「……そのシステム以前の関わり方とやらは、人間がポケモンを道具として扱わないのかな」
「扱わない、というより扱えない、と言ったほうが適切でしょうね。ボール無しでポケモンと付き合うのは、それだけで体力と神経を使いますよ」
「ははっ、それじゃぼくにはちょっと無理かなあ」
突然草むらからロゼリアが現れ、ゴールドに向けてマジカルリーフを飛ばしてきた。咄嗟に連れていたポケモンがゴールドをかばった。
ゴールドはポケギアから意識を離し、ロゼリアに持っていた石を投げつけた。思わぬ反撃を貰い、ロゼリアは逃げ出した。
「あんまり気を抜いてちゃダメですよ、マスター。あの程度、わたしなら何回食らっても平気ですけど」
「悪いな。世話をかける」
あまり自分でも考えを整理しないまま話したからか、ウツギ博士は曖昧な返事をしただけだった。
ポケモンをボールから出して連れ歩くということは、ポケモンをどう扱っていることになるのか。
それは、ポケモンをボールに入れていることと、どう違うのか。
「そういえば、さっきはシルバーの話をしていたそうですね」
「……そうだ。この間顔を合わせたときは、お前も一緒にいたな。あいつらがあの後どうなったのか、という話だった」
「大丈夫ですよ、たぶん。きっと、あのバクフーンと上手くいってますって」
「何でお前がそんなことを断言できるんだ」
「聞きたいですか? マスター」
サファリゾーンの抜かるんだ地面に白い花を置きながら、ゴールドのラフレシアは微笑んだ。
その得意げな顔は、うららかな陽射しに照らされているせいばかりではないようだった。