日が傾き始め、空に浮遊する雲が、赤く黄色く侵食され始めた頃。空には白い翼をはためかせる鳥達が、夕暮れに染まりながらも森の上を飛び行き。沢山の暗い影を森の中へと落としてた。  
あたしは目を覚ますと、草の地面に横向きになったまま、いつも通り隣に視線を向けた。だけど、いつもはそこに居るはずの姿が、今しがた見つからない。  
 
どこ行ったんだろう。あたしは四肢に力を込めて身を起こすと、尻尾をふわりと宙に浮かせて。空気の流れを感じ取ってみると、森に住む沢山の生き物に感化された、沢山の空気達が、乱雑に辺りを飛びまわってた。  
そのまま尻尾を、飛び回るそれに合わせてゆらり、ゆらりと動かし、そうやって落ち着かない空気達をひとりひとり宥めながら見定めていくと。程なくして彼を知ってる目的の空気に辿り着く。  
――ブラッキーね、ちょっと木の実を取りに行っただけで、もうすぐ戻ってくるみたいだ。川のほう、風上だね。  
そっか、すぐ戻ってくるんだね。ありがと。  
空気の知っていることを教わると、あたしは、二又に分かれた尻尾の、その先端で宙に弧を描いて一礼とする。  
――でも機嫌よさそうじゃないっていうか、むすっと、きつい目してたよ。"エーフィ"に危害を加えようって感じだった。  
ふうん、そうなの?  
続けられたその感情は、安堵したあたしに水を差すみたいで気にくわず。あたしは一転、弧を描いていた尻尾を翻して、ぶんと斜めに空を切る。  
問いに答えてくれた空気達は、そんなあたしを見届けると、逃げるみたいに風に戻って。他の仲間達と一緒に、ひゅうう、と木々にぶつかりながらも遠くへと消えて行った。  
何だって言うのさ。臆病だけどいつも優しい彼が、そんな、機嫌悪くたって、あたしに当たる訳ないじゃん。  
変な空気を吸いでもしたのかな。はう、とあたしは喉奥から息を吐いてから、彼の戻ってくるという方向に、木々の向こうに首ごと顔を寄こして視線を向ける。  
 
日が昇る前には、久しぶりに、生温いあの舌で乳房を撫でてくれたっけ。仰向けのあたしを押さえるでもなく、その体毛を優しく前足で掻き分けてくれて。やだ、もう。  
ふと、眠る前のそんなことを思い返すと、悪戯に体じゅうがこそばゆく。何かにくすぐられたみたいに、ぴくんと震える。  
最近は、番い戯れるのも慣れてきた、のかな。ちょっとぐらいじゃ楽しくなれなかったりもするけど。だけど、彼のことが嫌いなんてことは全然ないし。一緒に夜行するようになって、幸せだし。  
夜一つ前の彼は、結局、不満そうなままだったけど。……ままだったけど。機嫌悪そうなのって、もしかして、そのせいなのかな。あたし、一匹で勝手に眠っちゃったんだよね。彼に撫でられて、嬉しくて。戻ってきたら謝らなくちゃ。  
あの時ほんとは、あたし、あんまり乗り気じゃなかったし。マンネリ化してきてる気はするし、結構気使ってくれたと思うのに。  
 
――もしかしたら危害を加えようとしてるのは、貴女ではない、別の生き物かもね。  
浮かれ気味にそんな思考を巡らせてると、小さくも冷やかな声が、頭の中に直接、そうっと響いた。さっきとはまた別の空気に話しかけられたのか、あたし自身がそう思ったのかも分からない。  
あたしに危害を加えそう、だったのは別に気に留まらなかったのに。"貴女ではない"の一言が頭の中で響いて離れない。  
あたし以外に、エーフィがいるの? そんなの聞いてないけど、友達? 雄か雌かは分からないけど、雌だとしてその子、可愛いの? 浮気?  
そんな疑念の言葉が沸いて出てくると、静かながら頭を掛け回る囁き声を、どたどたと追い掛け始めて。あたしの頭を重く押さえつけ、耳ごと地面に向かって垂れ落とさせる。  
ううん、違う。彼の周りに、あたし以外の"エーフィ"なんていないし、大丈夫。だったら、あたしに危害を加えよう、なんて、よく分からないけど。  
そうこう思考を巡らせていると、やがて、がさりと草を掻き分ける音が聞こえて来て。はっと我に返って垂れ落ちた頭をぐいと持ちあげると、そこには丁度、夕暮れの赤みに刻まれた黒い姿が。暗い森の奥からゆっくりと、四肢を歩ませ近づいてくる彼の姿があった。  
 
「どこ行ってたの? ブラッキー」  
あたしは、平静を装った低い声で、でも疑念ばかりは拭いきれずに尋ね言葉が先行する。  
よかった、ちゃんと戻ってきてくれて。って、安心したくて。それでもさっき聞こえた声が気になって、内心は落ち着いて居られず。  
後ろ足を畳んで尻餅を付き、その場に座りながらも、彼の様子を窺うみたいに視線を突き刺す。  
「それ、食べるつもり?」  
彼、ブラッキーは口に、二齧り、三齧りぐらいじゃ食べきれない大きさの、赤く刺々しい、見慣れない木の実を二つ、枝ごと咥えてた。  
この辺りにはあんまり生ってない、とびきり辛い劇物。好き好んで食べる生き物も居るみたいだけど、あたしも、ブラッキーも好かない木の実。  
まさか、"エーフィ"にあげるの? あたしじゃない、別のエーフィに?  
体すら、びりびりと裂いてしまいそうな、この疑心を。続け様に尋ねてしまいたいその言葉と一緒に、ただ堪えるばかり。  
「俺の退屈な毒より、ずっと効き目があるだろうさ」  
悶々とするあたしをよそに、彼は実の枝を牙で咥えたまま、器用に唇だけを揺らし返事をしてくれて。でも、あたしの聞きたいこととは今一噛み合ってない言葉だった。  
あたしには、ちゃんと返事をしてくれたんだと思うけど、あたしがバカなのかな。  
願う通りであって欲しかっただけ、なのかもしれないけど、ブラッキーの意図がとにかく分からなくて、それなのに分かった振りをしながら話を続けてしまう。  
「その実、あんまり美味しくないよね……」  
「そうだな」  
彼は短く相槌を打つと、あたしの見ている前で、咥えてた木の実二つを、首ごと振り上げて宙に舞わせ、片方の果肉を改めて噛み締めた。  
あたしはぎょっと驚き、目を見開いて注視すると、彼のその牙からは、見るだけでも舌の焼け爛れそうな赤い果汁が滴り、口周りから垂れ落ちて。その黒い首を伝っていた。  
苦しそうな表情してて、嫌いな木の実をどうして? って疑問を感じながらも、あたしは彼を窺い続けて。程なくして彼が一口齧り終わると、  
首ごと顔を落として。咥えられなかったほうの実、がさりと小さな音を立てながら草の地面に落ちた木の実の、その隣に齧りかけのそれを置いて。再びあたしを見つめてくる。  
なんでこんなの食べてるんだろう。その疑問を空気に問い尋ねようと思って、尻尾を持ち上ようとするものの。  
ふわり、と宙に漂わせた途端、見えない何かが一間、あたしの尻尾を捕らえて。次の瞬間には、ぴしゃりと草の地面に叩きつけてきた。  
念の力。それも、初めてなんかじゃない、馴染みある波長。あたしに向けられることは殆どないけど、戯れるとき、たまに掛けてくれる彼の念。  
「ブラッキー……?」  
ふざけてるのかな、って一瞬思って。声だけはすごく低く、不機嫌そうに返しちゃったけど。  
改めて見つめた彼の、その瞳は不思議と鋭くて。触れば、夕に焼けたその視線だけで、体毛を血塗れにされてしまいそうなぐらいに険しさを晒していた。  
怒ってるの? あたしが居るから?  
一片の畏怖が、あたしの体じゅうを貫き、体毛をぶわりと荒立たせる。静かに吹く風は、そんなあたしを更に煽ってきて、耳から首、胴体、尻尾の先へ、草の地面へ、と、流れるように体を震えさせる。  
「その……怒って、ないよね?」  
眠る前に零した不満もあるし。ついさっきだって疑念に押されて、彼の胸中を確かめようと、その目の前で周りの空気に尋ねかけようとしちゃったし。  
別に疾しくなんて無い、って、思いたかったけど。彼に突き立てた視線が、重い頭と一緒にどんどん落ちて。遣り場もなく、彼の足先でようやく止まる。  
違う、ブラッキーはいつも通り、傍に居てくれてる。うん。変な感じだけど、ちゃんと居てくれてる。  
そう言い聞かせたく思いながらも、下方に落ちたままの視線には、前身を落とし、草の地面に顎を付けて。あたしを見上げるみたいにしながらも、強面で身構える彼の顔が映って。  
 
直後に彼は、目前の、その距離から。ざっと草の地面を蹴り、あたし目掛けて飛びかかってきた。  
あたしは咄嗟に身を横に翻して、彼の爪を足先に掠める程度に、なんとか避けるものの。  
すぐに振り向き、通り過ぎた彼に視線を向けても、視界には彼の、黄色い残光がぼんやりと焼き付いて。彼の姿が、見えない。  
――怖いよ。  
がつり、と鈍い音が木々を跳ね返って、あたしの体に入ってくる。そんな音が聞こえるが早いか、ぐらりと体が揺れて、草の地面に、横腹を押し付けられる。  
彼の、続け様の突撃を避けることができなくて、そのまま倒れるしか、なかった。  
心の準備が出来てなかった、っていうのかな。体が、彼を、受け入れてくれない。  
「ごめん、ごめんなさい! だからまって、やめて!!」  
 
彼は、あたしに返事もくれずただ横に立つと、首ごと頭を下げて、喉元を、ぎりり、と強く噛み始める。  
突き刺さってくるその牙は、すごく熱くて、痛くて。それに感化された鼓動が、どくどくと喉元を揺らし始める。息が、できない。嫌。  
無我夢中になって、離れたくて四肢を振り回すと、前足は彼の首元を掠めて引っ掻き、後ろ足はその体を蹴り上げて。ブラッキーのその体がふわりと浮く。  
彼から離れたくなったのは初めてだった。恐怖を感じたのも、そうだった。  
ぐうう、と、言葉にならない彼の唸り声だって、気に留めもせず。あたしは彼の体が浮いた、その一瞬の隙に身を転がし、爪を草の地面に引っ掛けると一蹴り、二蹴りして、彼の下から逃げ出した。  
逃げ足にはそこまで自身はなかったけど、この場に居たくない一心で。背の低い木々を飛び越え、茂みの中に、がさりと身を隠しながら、彼から駆け離れる。  
 
「何処に行く気だ? なぁ……?」  
その言葉と共にあたしの足が、蹴ったはずの地面に吸いつき離れなくなって。体がぐらりと崩れ、前のめりに、草の地面に倒れ込む。  
何が起きたの、分からない。恐る恐る振り返って、言葉を放つ彼に視線を向けるものの。  
茂みの隙間をすり抜けてゆっくり歩み寄ってくる彼の、その目は、ただでさえ赤くて、夕焼けにも染まっているはず、なのに。嫌に黒く光り輝いてた。  
眼光は、さっきより険しく、切り裂こうといった意思が感じ取れるまでに鋭くて。さながら逃げる獲物に仕向ける、その眼差しのよう。  
どう、して?  
元に戻って欲しい、という希望と共に放ちたかったその"尋ね言葉"は、がたがたとかち合う牙に触れて。あたし自らの口の中で、粉々に噛み砕かれてしまう。  
空気に助けを乞おうにも、尻尾すら持ちあがらなくて。ただ、あたしの眼前にその顔をよこすその仕草を、震えながら見つめ続けるしかできない。  
「そう、いい子だ」  
気なし間延びした声が、宙を漂ってあたしを取り囲み、体をすくませる。前のめりに倒れたまま動けなくなる。  
彼の、雄として雌を屈伏させんとする"本当"が。今まで優しさで包み隠してた、元来の"ブラッキー"がそこにあった。  
 
「いや、いっやぁ! やめでぇ!!」  
反射的に悲鳴が零れる。こんなの、いやだ、あたしの好きな彼じゃない。  
ブラッキーは改めて、あたしの首筋に牙をめり込ませ、ぐい、と力任せに捻ってきて。腹這いになっていたあたしの体は、その力になびき、仰向けに転がされる。  
彼は続け様に。あたしの、宙に浮いた四肢の隙間にぴたりと体を押し込んで。前足で、あたしの耳を地面に押さえつける。今度は蹴り飛ばされまいと、抑え込んできたのかもしれない。  
身じろぎもままならないようにされると、彼はあたしの首筋から牙を外して。代わりにあたしの顔に、その顔を擦りつけ、ぴりぴりと刺す毒汗を塗りたくってきた。  
意図的かは分からないけど、それは目にも染み込んで。つんざくような、目の表面から頭後ろに突き抜けるような痛さを埋め込ませられる。  
「痛ぃい! どいてえ、離れてえ!!」  
ぎゅうっとまぶたを瞑って、四肢を再び振り回すものの。ただ彼の胴体側面の、その体毛を、さあっと爪で引っ掻くだけしかできない。  
そうしてる間にも、絶え間なく刺す目の痛みに煽られて、まぶたから雫が沸き出ると。隙間を縫うように目じりから零れ、耳元に向かって垂れ落ちてく。  
鼓動も治まらず、どくどくと強く打ち続けて。意識が、ぼんやりと霞んでいく。呼吸を整えて気を落ち着かせよう、って思って。喚いたままの口を小さく、それでも閉じずに開き続ける。  
風を唇で刻んで、心持ち間隔長く、はふ、はふ、って吐いて、吸い込むと、辺りに漂い始めた彼の毒、瘴気が渦を巻いて、一緒に入ってくる。  
別に、その毒気に、喉を奥底からぎゅうっと絞められる、そんな苦しさはもう慣れてるし、すぐに引いて気にならなくなる、けど。今の彼はそれすらも許してくれなかった。  
あたしの口に、柔らかい感覚が被さって、塞がれる。彼の口と思しき物が、呼吸を遮り。  
続け様には、辛みの乗った液を口に流しこまれて、瞬く間に口の感覚を奪っていく。開いてるのか、閉じてるのかも分からなくなるぐらいに、遠くに、消えていく。  
かじった赤い木の実を、劇物を、唾液に乗せて押し込まれたんだと、思った。  
「んん、んん!!」  
言葉にならない声を、悲鳴を、せめて伝えたく思って。懸命に、彼の骨身に響かせ、その毛の先々を震わせる。  
そうすると彼は応えてくれたのかな、あたしの耳を押さえるものが一瞬離れて軽くなった、けど。そう思ったら、すぐに別の何かが両耳を捕らえなおして、さっきよりも強く地面にめり込まされる。  
 
ずくずくと刺す痛みを堪えて、目を見開くと。すぐ先には彼の、後ろ足の間にある性器が突き出て。その先端からは、一滴、二滴、生ぬるい雫をあたしの口周りに伝い落としてた。  
その左右から伸びる彼の後ろ足は、あたしの顔の左右に落ちて、耳を踏み押さえて。その前身は、あたしの後ろ足のほうに伸びてってる。  
下腹部辺りから、尻尾の付け根にかけての狭い場所に、前足らしき硬い感覚に押さえられ。尻尾の付け根から少しずれた所、あたしの、性器には、彼の舌らしき温く柔らかい感覚が突き刺さる。  
あ、あ、あ。  
ふうう、みゅうう、と成り損ないの声が。ちゅう、ちゅく、と液が舌に押し潰される音が。それぞれ宙に浮かんで、弱い風に混ざり周囲に漂う。  
痛い。わざとだって、思うけど、痛い。流しこまれた液が、体の中からつんざいてくる。すごく、痛い。  
ブラッキーが、性器を愛でてくれてること。いつもなら心地いい瞬間のはずなのに、ちっとも嬉しくなくて、苦痛でしかない。  
あたしを押さえつけるこの雄は、"エーフィ"を自身の私物にしようと、服従させようとしながら、それが叶わないなら絞めてしまいそうな勢いを持ってて。  
 
――へぇ、絞めるの? このまま?  
頭の中にそんな、嫌に冷めた言葉がささやいた瞬間。ただでさえ縮こまってる体が、より一層、凍りつくみたいに強張って。それでいて、細部に触れる彼の感覚そのものまで、遠退いてく。  
そうだ、機嫌、悪いの、ごめん、気が効かなくて。  
目前に張った彼の性器に、口を近づけようとしても、草の地面に押さえつけられてる両耳が、引っ張って、邪魔して、届かない。  
あたしの知ってるブラッキーは、性器をちょっと弄られるのも好きで、今のあたしにはそれぐらいしか、できないのに。これじゃ、何も。  
ね、繕ってあげるから、機嫌直して。従うから、何でも望む通りにするから。だから、許して、助けて。  
舌を懸命に伸ばしても、彼の、その先端から垂れ落ちる液が、静かにあたしの口を囲うばかり。  
彼の機嫌を取り繕えない。どうしちゃったの、ブラッキー。絞めないで、殺めないで……嫌……。  
 
あぁ、やああああああああ……。  
 
「ああ……さぁ! もっと泣き喚けよ!!」  
崩れてく、壊れてく。毒が回ってきたのかな、力が入らなくなって、"エーフィ"の形をした身に、ただ意識だけが離れず留まる。  
すぐ先の、黒い体毛を纏った姿は、赤い夕暮れを背負って、うごめく血のように、見える、目に映る。  
そう遠くない何処かからは、風達がごうごうと、荒い声を響かせながらも、割り入ってくることもなく傍観してる。  
今更何か外的な事に期待した、訳じゃないけど。でも弱者が強者に食べられるのは至極当然のことだし、一々構ってなんて、くれるわけない。  
 
赤黒い姿が視界の下方に落ちて、同時に、押さえられてた耳の重みも消えて、でも直後には牙と思しき鋭い感覚が三つ、四つ、喉元に突き刺さり、挟まれて。そのまま首ごと、ぐい、と力任せに持ち上げられる。  
頭後ろが地面から離れて浮き上がる、でも体ごと持ち上がらないようにか、腹にも、冷たく鋭い、牙に似た感覚があてがえられる。今すぐにでも絞められる状態。  
抵抗しなくなった獲物って。もう面白くも何ともないよね。後は絞めて、裂いて、頂くだけ。お腹減ってただけなのかな、食事にするのかな。  
エーフィを食べたい、なんてあたしは思わないけど。だけどそれより、今回の食事は"彼"と一緒にできないのが残念だな。  
そんな言葉を意識の中に巡らせていると、程なくして喉元から、彼の牙らしき感覚が離れ、どさり、と首ごと頭が、柔らかい草の地面に落ちる。  
地面は、そんなあたしの頭を一度小さく跳ね返すものの。抵抗しきれず、ただ黙りこくり、支え直してくれる。  
まだ絞めないの? 退屈凌ぎがしたいのかな。気は利かないけど、好きにしていいよ。  
木々の合間から覗く、赤く黄色い空を、ただぼんやりと目に映してると。赤黒い姿が下方から戻り、再びあたしの視界を遮ってきた。今度は彼の、顔だった。  
その額にある黄色い模様は、いつもより明るく光を放ってて。小さめに空けられた口は、がたがたと震えながらも、荒く湿った吐息と共に、唾液を、だらりと垂らし落としてる。  
ただでさえ赤い彼の目は、大きく見開かれて、まるで、獲物の一挙一動も見逃すまいとしてるよう。猟奇的で、それでいて、かっこいい。  
そんな彼の顔を、ぼんやりと見つめ続けると、噛まれてるわけでもないのに、きゅうん、と、体の中から喉奥を締め付けられる感じがした。  
続け様には口元が綻び、笑みを浮かべて。あたしの体が、言う事も聞かず勝手に、そんな身じろぎを見せつけ始める。  
 
彼が念の力であたしを弄んでるのかも知れないけど、感覚もなくて、体に入れる力も今更沸かず、訳の分からぬその身じろぎさえ抑えられない。  
腑に落ちもしないのに、だけど、何だろう、何かが。心の奥底で求めてたものが満たされる思い。  
彼になら、絞められてもいいかな。痛みももう無いし、苦手意識は薄らと残っても、それ以上に喜べる気がする。  
いつも執着してた大切な物事が、"生きていたい"って願いが、ふうっと、急に遠退いて行く感じ。日頃から意識するほどじゃなかったけど、いざ、そんな思いが消えてっても、案外、何の感慨もない。  
ブラッキーはこんなあたしのこと、どう思ってるんだろう。弱りきった視界が、夕の帯びてぼんやり赤く霞み、侵食し始めるものの、そんなことも気にならない。  
草の地面を尻尾の先で引っ掻きながら改めて彼の顔を見つめると、彼の見開いてた目は、中ほどまでまぶたを落として、虚ろな視線をあたしに伸ばして。  
「ご、めん、エーフィ」  
 
――え?  
ごうごう、と吹いていた風がぴたりと止んで、急に辺りが静かになった、気がした。荒く温かい呼吸が、あたしの顔全体を丁寧に濡らして、細やかな体毛を沈ませ始める頃だった。  
「痛かったろ……なぁ」  
訳も分からないうちに彼が続ける声は、あたしの身を心配してくれるもの。  
ぼんやりとしたままの視界を今一度振り払って、目前の顔を見つめ直すと。彼はさっきまでと打って変わり、不安に塗れた、柔らかくも暗い表情を、仰向けのあたしに落としてた。  
興奮冷めあらないのか、呼吸ばかりは荒いままだけど、目を瞑って、口を噤んで、平静を取り戻そうって感じ。  
「嫌いに、ならないでくれ」  
 
しょげたみたいなその姿は、苦しそうに、つらそうに、毒気を訴えてるようにも見えて。  
どうしたんだろう、って不思議に思った瞬間、すう、と、ぶつかりながらも、すり抜けていく柔らかい感覚が体じゅうを撫でてくる。  
"共鳴"してる。あたしを食い潰そうとする毒気を、心の奥底で掠め取ってくれて、そのせいかな、わざとらしい呻き声を低く零し始めてる。"ブラッキー"自身の放ってる毒なのに、なんか、バカみたい。  
「従うよ、あたし、貴方に」  
あたしは寝転がったまま言葉を繕うものの。ブラッキーは落ち着かないなりの平静を見せながら、まるであたしを宥めるみたいな、甘い声を返してくる。  
彼は、苦しさを紛らわそうとしてるのかな、あたしの言葉が終わると、返事をするみたいにその舌が、あたしの頬を掴んで、でも噛むわけでもなく、ただ弱々しく愛撫してくれる。  
悪い気はしないんだけど、急に雰囲気が変わって、熱せられてた気が冷めてくみたいで。なんだか、興が醒めてく感じ。  
「いや、従えるとかじゃなくて、ごめん、ほんとに」  
ついさっきまでは、絞められてもいいや、なんて思ってたはずなのに。心持ち、すっかり落ち着くと、そんな辛いのはごめんだ、って。元々の思考が戻ってくる。  
ブラッキーと一緒に居れなくなるのは嫌だったけど。でもそんな不安がいざ無くなるとやっぱり、何か物足りなくて。直前の、絞められそうだった瞬間を思い返す。  
獲物を追うような鋭い目で見下されて。恐る恐る見上げながら、初めて正面から捉えたその姿が、思いがけず、かっこよかったんだ。  
「どうすればいいのか分かんなくなって……」  
あたしを蔑み、粗暴に扱いながら、でもいつも以上に欲してくれて。心の底から嫌ったはずだったのに、真新しく、刺激的で。  
番い合ってからもう結構立つのに、意外と知らなかった一面を見つめ合えたこと。  
そう思考を巡らせてると。さっきまでのブラッキーを、ずっと見ていたかった、って、ふつふつと不満が沸いて、肥大し始めて。  
いつもの優しいブラッキーに戻ってくれたことは嬉しいはずなのに、気が立って穏やかになれない。  
「ねぇ、待ってよ。まるであたしが、貴方を虐めてる、みたいじゃん……?」  
あたし自身の心臓が、彼に向けた文句に合わせるように鼓動を打って、体を強く揺すってくる。それと同じくして、ひっく、ひっく、柄にもなく大きなしゃっくりも喉元から零れ出てくる。  
体制のせいかなって思って、仰向けになっていた体をよっと起き上がらせてブラッキーの隣に立つものの、様態はまるで変わらなくて。  
「こっちが虐められてるんだよ?」  
言葉ばかりは意地張ってみても、目が痛く、急に潤ってくる感覚も降り落ちて来て。横に視線を向けるあたし自身の様子が、惨めだった。  
彼の瞳には。赤い夕を眼光として、雫の中に揺らめかせる"エーフィが"映ってるのかな。せめて可憐だといいんだけど、可哀そうに見られるだけ、かな。  
 
「悪かった、だから……。なぁ俺は、好きなんだよお前が、だけど、護りたいはずなのに……」  
でも、分かってる。優しくて臆病で、ちょっとじれったくて、小さな不満を覚えさせてくれもする、いつもの、遠慮してくれる貴方だから。  
余計に気を使ってくれるその姿は、相変わらず理想とは、ずれてるけど。でも、辛い時には甘えさせてくれる貴方で。その事を改めて感じ取ると、ほっと心落ち着いて、弾んでくる。  
「お前が、離れてくような、気がして……それが嫌で……」  
「ほんとに痛くて、怖くて、逃げたかったんだよ? バァカ」  
そのまま、意地悪しようって思ったのかもしれない。跳ねる心のままに、素直な言葉を紡ぐでもなく並べて。終わり際には、はぁ、と大きく溜め息を吐くものの。  
あたしに寄せてくる隣の視線を見つめるや否や、ひく、と止まぬしゃっくりを見せつけてしまい、なんだか締まらない。  
彼は、心境複雑そうに瞳から光を消し飛ばして、曇らせて。でも何か声を返してくれるでもなく、あたしの様子を窺って。  
程なくすると、ようやく声を、何かを言おうとしてくれたけど。でもあたしは、そんな声の欠片を耳に刺してから、わざと押しのけるように言葉を続ける。  
「いい気分だったのに、早くしてよ。それとも」  
やらしい顔つきに、見えるかな、見てくれるかな。あたしはまぶたを中ほどまで閉じて、口を釣りあげて。わざとらしく、にんまりと笑う横顔を見せつけてやった。  
「あたしを追い回すの、嫌? 従えるの、嫌?」  
「違う、いや、そんなことじゃなくて」  
誘い言葉を投げかけると、彼は必死になって取り繕おうとして、言葉を一つ一つ、慎重に選び始める。あたしはまぶたを開き直し、隣に視線を戻して。そんな姿を、まじまじと傍で見つめる。  
――可愛い。  
毒汗を纏って沈んでる、彼の体毛が。本当は違うって分かってても、まるで恥じらう冷や汗だけでそうなってるように見えて、なんだか愉快。  
「素敵よ? ぶらっきい」  
 
一間だけ空いてからブラッキーは、色んな液が混ざってぐっしょりと濡れたあたしの、その頬に、隣から頬を重ねて、強く揺さぶってきた。  
中途半端に離れてたから、くっついた直後はひんやり冷たいものの。すぐにお互いの熱で温かく、心地いい物になって。体毛の中に沈んでいた匂いも、心浮かれてかな、少しずつ宙に舞い始める。  
毒汗の苦みを帯びた匂い。唾液や吐息の腐敗した匂い。劇物の辛い匂い。涙の塩っぽい匂い。潰れた草の匂い。血の錆びた匂い。――雄特有の甘ったるい匂い。  
そんなどれもこれもが、折角感覚の戻ってきたあたしの鼻を始め、目や口など、体じゅうを勢いよくつんざいてくる。再び機能できないように、元の雰囲気に、戻してくれる。  
「やだ、やめて」  
ひく、ひく、と、相変わらず止まないしゃっくりも、抑えることすら億劫になる。首筋にある噛まれた跡に、バチバチと痛みが走る。  
いつもと変わらない、甘い空気が、瘴気の中に渦巻き始める。主導してくれる、その気に、なったのかな。  
 
あたしはブラッキーの隣から、二歩、三歩、彼の前へと体を進めると。視線は前方に向けたまま、四肢でしっかりと草の地面を押さえつける。  
とく、とく、と、小さな鼓動が乱れ模様を打ってる。小さく開けた口が、閉じられない。酔い始めた素敵な心持ちだって、すぐに分かる。嬉しい。  
あたしは空気に何か尋ねる訳でもなく、尻尾をすっと持ち上げて、その先端をブラッキーの顔に、頬に伸ばして、あてがえる。  
更に、痛む首筋に無理言って、後ろを振り返り、ブラッキーのその顔を見つめてみると。彼は、あたしの尻尾を追った先、後ろ足付け根と尻尾付け根の間辺りに、ぼんやりと赤い眼差しを突き立ててた。  
「スケベ」  
閉じきれない口はそのままに、まぶたばかりは懸命に瞑って。彼にあてがえた尻尾を離し、一度、二度、宙に揺らめかせつつ。地面を押さえる後ろ足同士の、その距離を気持ち大股に開き、見せつける。  
尻尾付け根の下方から液がただれ落ち、だらり、と、後ろ足の裏をを伝っていく感覚。  
彼に押し込まれた劇物が流れ出てるのもあるけど、違う、あたしの奥底から溢れ出てくる液。こんなのを、まじまじと見つめられてるなんて、そう思うとすごく恥ずかしい。  
「お前が、か?」  
彼がそのまま返してくれた言葉が、そんな思いを、余計にも、一層大きく増幅させてくれて。湿ったままの顔が、強く熱せられる。  
誤魔化そうと、ぼんやりと視線を上に伸ばすと。木々の隙間から遠く空に映る、赤く黄色い模様が、次第に藍色の暮れ模様に侵食され始めてた。  
彼の体色にも似る暗がり。あたし達の活動時間。もう、始まってた。  
 
あたしは、首を降ろして背をまっすぐに伸ばす。  
直後には、じり、と、草の地面を蹴り潰す音。あたしの尻尾を押し倒し、背に飛び乗ってくる重荷。  
挟まれて身じろぎの取れなくなった尻尾には、濡れそぼった冷たい感覚を突き刺さしてきながらも。とく、どく、と、柔らかく熱い心臓が、強い鼓動で話しかけてくれる。  
「だぁめ! ふぁ、ぅぁん……」  
どん、どす、と、骨が皮越しにぶつかる音。わさわさと、尻尾や体毛の擦れ合う音。がたり、がくり、と、牙が震えてかち合う音。  
「エーフィ……えーふぃ、ええふい!!」  
改めて放たれる彼の毒が、あたしの体に染み込んで。こそばゆさと、熱気を伝えてくれる。  
後ろ首に彼の牙を刺され、続け様にはその舌で、首の体毛を逆撫でされると、不意にすうっと、体から力が抜けてく、いつもしてくれる"繕い事"。気持ちいいのは、気持ちいいけど、こんな、時に。  
「や、や、そんな、強引なの! んぁ、あ!!」  
「いい声だぜぇ、ああ、もっとぅお!!」  
勢いのままに、前足が関節から、かくん、と折れ曲がる。支えを無くした前身が、彼の体重に負けて。ぐらり、顎を草の地面に付けるように倒れ込む。  
指を握って草に触れることはできても、体を立てなおすだけの力が、でない。背に乗っかる彼の体が、心無し、前方にずれ落ちてきた感じで、急に重たくなる。  
それでも後ろ足だけは、ぴんと張ったままで崩れず、彼の体重を懸命に支える。すう、すう、と、傾斜のついた背中を揺すられ続けると、温かくて、気持ちよくて。今更入れ直す力も沸いてこないのに。  
ぴんと張ったあたしの後ろ足側面に、彼の後ろ足らしき感覚が重なって、ふらり、と力なく揺れることを感じ取ると。草の地面から、"ブラッキー"を奪い取れたことを改めて実感できて、楽しい。  
――このまま"ブラッキー"を独占して居たい。折角乗っかってくれたその体を、地面にも、他の誰にも、明け渡すもんか。  
あたしはそんな思いだけで、力の入らぬ体を、必死になって崩れないように固める。  
「よく、気張るじゃないかぁ……!」  
そんなあたしの様子を嘲笑う、彼の声も、余裕無く尻すぼみに立ち消えしていく。声も擦れ擦れで、ただそれでも、あたしを貶めることだけは忘れてくれなくて。  
「当たり前で、しょ?」  
それでいて、揺する彼の鼓動は、刺激し過ぎないよう、少しずつ、少しずつ早くなってくるんだから。性器同士の擦れ合う感覚が、時を追うごとに短くなってくるんだから、意地悪。  
ブラッキーは、ただ丁寧に行ってくれてるんだと思うけど。焦れったく、一瞬じゃ満たしきれない中途半端さが、かえってあたしの喉奥を絞めつけてくれて。その煽りでかな。しゃっくりする度に、口から飲み込みきれない唾液が零れ落ちて、草の地面を湿らせる。  
「きゅ……!」  
ゆさ、ゆさ、と、弱くも小気味好い律動に乗せて、尻尾ごと背を体毛を、彼の全体重に擦られる。背の低い草が、あたしの緩んだ顔表面を、首元をくすぐってくる。  
やがて、後ろ首を撫でてくれる彼の舌が、べたり、と温い唾液を塗りたくってきて。言葉にならない声が、がるる、と、後ろ首をすり抜けて、あたしの、ピンと立った耳に突き刺してくる。  
ブラッキーの様子が、ちょっとずつ変わってきてる。一語一句聞き漏らすまいと、意識を耳に向けて、ぴくり、と耳を一瞬だけ揺らすと。彼は、前足であたしの両耳を押さえつけて、撫でるように遊び始める。  
「ぶらっき……早くぅ!」  
「気を急くなよぅ。まだ、まだ……こんなもんじゃ……ぁ……!」  
満たされない思いの代わりに募ってくる、恍惚とした酔いの感情。夢中になってくれる、愛してくれる貴方を、どこにも逃がしやしない。  
貴方に支配されてて、それでいて、あたしが貴方を支配してる。早くその支配から逃れたいって考えながら、一方では、ずっと、貴方を支配していたい、って思える。  
まともな思考が戻ってこない。ぴん、と張ったままの、感覚があるかも分からない後ろ足を、彼に揺すられ続けたから、それで狂ってきたのかも、分からないけど。  
ただ、ねっとりとした感覚だけが、互いの体毛同士をくっつけて、離れ辛く強固な物に仕立て上げる。  
そのせいか、体を揺すられる音が、じゅう、ぎゅう、と。不快でもなく、ただ嫌な色を帯びていく。くう、ひゅうん、と懸命に心地を訴えると、ぐう、がうう、と紡がれてない粗雑な声を返される。  
気持ち大股に開いてるこの後ろ足を閉じてしまえば、ちょっとは落ち着けるかもしれないって思ったけど、そうする気にもなれない。  
このままだと壊れちゃう、早くしてよ。嬉しくて、嬉しいけど。我慢したくないのに、我慢しちゃうの、ねえブラッキー、もう少しなの、お願ぃい……!  
 
煩く容赦のない二つの悲鳴が、暗がりに静まり始めた森じゅうを同時に裂いてから少し経った頃。あたし達は月明かりの下、草の地面に寝転がって、腹を見せ合うように向かい、閉じかけの虚ろな目に眼差しを突き刺し合ってた。  
まるで傷口が腫れ上がったみたいに、擦られた跡がじんじんと痛み続けるものの。体を離した今でも彼に支配されてるみたいで、存外、心地がいい。  
口を小さく開けて唾液を垂れ落としつつ、しゃっくりに体をぴくりと震わせながら、ぼんやりと正面の黒い生き物を、ブラッキーを見つめ続けてると。あたしより先に体調を回復させたのか、一声を向けてくれる。  
「木の実、食うか……?」  
そう言うが早いか、彼は今一度、体をよじって、齧りかけてた木の実を、劇物を前足で手繰り寄せると。あたしの返答を待たずにその劇物を一口、二口齧って自身の口に含む。  
ふと、彼が前足を伸ばした先、齧りかけてた木の実の側に、齧り跡のない木の実もあったと思ったけど。どたどたしてる時に踏んじゃったのかな、もう一つのそれは潰れて、赤い果汁を草の地面に吸わせ、刺すような匂いを漂わせてた。  
「う、ん」  
あたしは横になったまま、視線を彼に戻して顎を引き、同じく寝転がってる彼に一瞬だけ上目を見せつけてやると。目を瞑り、首を伸ばして彼の口に、あたし自身の口を当て重ねた。  
直後には、体に刺さらんばかりの劇物が流しこまれてくる。分かっててもやっぱり辛くて、まともに食べるなんて、無理だって、改めて思った。  
「やっぱり、食べ切れないな」  
あたしはそんな、はっきりとしない声を向けながら、果肉を一噛み、二噛みだけすると、下がり損ねた彼の口を追い、あてがえ直して。あたしの唾液に混ぜた上で舌に乗せ、その口の中へと押し戻す。  
最初から食べようなんて気もなかったけど、彼が困る姿も、ちょっと見てみたかったから。あたしを虐めるために取ってきたんだと思うけど、別に、貴方にも同じことができるんだからね。  
「んぁ……」  
返されるなんて思っても無かったんだと思う。当のブラッキーは大げさでもなく反応薄くも、しっかりと戸惑ってくれた。ざまあみやがれ、なんて、言うほどでもないけど。くふふ、と、ただ笑い声が零れる。  
「うん……俺も食べ切れないかな。刺激が強すぎたよ、ごめん」  
程なくして彼は、ぐい、と口に含み直した劇物を飲み込んでから、そう声を続けてくれる。責め立てたつもりじゃなかったんだけど、しょげちゃったみたい。  
なんだかんだ言っても、新鮮味があってマンネリ解消には丁度よかったし。それに、嫌がれば嫌がるだけ貴方が好いてくれることも、あたし自身、結構、楽しんでた気がする。  
「ううん、嫌がるあたしも素敵だったでしょ?」  
「ああ、堪らなく可愛かったよ」  
もちろんブラッキーも楽しんでたし。でも、全部あたしの為だったんだって、そのことに気付くと、酔いの感情が沸いて出て、気を高鳴らせる。  
「んもう……」  
 
あたしは、彼の後ろ足の、その隙間に顔を押し込みこじ開けて。剥きだしの性器を見つけると、目を瞑ってから顔を、鼻を寄せてみた。  
毒汗や、真っ赤な木の実とはまた違う、刺すような強い匂いが。ブラッキーの雄としての匂いが、あたしの体じゅうを掛けていく。  
「貴方の子……早く授かりたいね」  
あたしはブラッキーの、濡れそぼったそれに一度、二度、そうっと頬擦りして。そうして粘性のある液を拭き取ってあげると、続けて舌をあてがえ"繕い"の真似事をしてみる。  
「頑張らないと……な」  
貴方の大切な部位なんだ、って、そう思うと愛らしく、たまらなくて、弄んでみたくて。そんな繕いを適当に終わらせると、再び頬を押し付ける。  
「今度、仕返し、あげちゃうから……」  
このまま眠ってもいいかな、って一瞬思ったけど、彼の液が鼻先に纏わりついて息苦しくて。それでも距離を置きたくなくて、顔をちょっとだけずらしながらも彼のお腹に押し付ける。温かい。  
でも、毒汗を顔面一杯に吸っても、顔にぴりぴりと刺すような感覚は微塵もなくて。ただブラッキーのお腹周りに、あたしの顔からねっとりとした感覚を移すだけ。  
目を瞑ったまま改めて頬擦りすると、お互いの体毛が強く絡みついて。ちょっとでも離そうとすれば引っ張られる。  
あたしの体毛ですら、貴方を捕らえたくて、貴方の体毛も、あたしを逃がそうとはしてくれない。どっちも意地悪だけど、それが嬉しくて、嬉しくて。  
じっとしていたいのに、体が少しだけうずいて。それを誤魔化したくて、ぶん、と尻尾を振り、辺りに漂う瘴気を切り払ってみる。  
 
「なんだか疲れたな……」  
彼はそう言いながら前足をゆっくりと降ろし、あたしの大きな耳を掻き分けると、その後ろまで前足を追いやって。顔の左右をしっかりと、それでいて優しく囲ってくれる。  
あたしのことを気遣ってくれる。ちょっとタイクツだけど、甘い空気を吸わせてくれる彼。  
ぴりぴりと刺す毒汗も、今はあたしによく馴染んで、彼の穏やかな心を代弁して。  
「そうだね……。あたし、眠たいよ」  
「ちょっと前に起きたばっかりなのに、な」  
別に彼の体が特別熱いわけでもないのに、奥底から温められる心持ち。嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。  
あたしは前足を畳み。意図はしなかったけど、ブラッキーの愛らしい性器に、撫でるでもなく、ただあてがえて。  
「ずっとこうしていたいのに、ね……」  
力なく、にゅうう、と。どちらから言うでもなく、そんなくぐもり声を零した。  
 
離さないし、離れないよ、ゼッタイ。  
出会った当時、あたしのことを受け入れてくれたし、それだけじゃない。臆病な中にも立派な雄があるし、マンネリ化してるって思ったら、ちょっと工夫してくれたりとか。ほんと、素敵。  
でも、次は負けないからね。卑怯って言われてもいいから、貴方を打ち負かしたい。夢中にさせる支配も素敵だけど、素敵だけど。さっきのブラッキーみたいに、力だけで言う事聞かせてみたいから。  
 
――おやすみ。  
 
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日が落ちて辺りが真っ暗闇に包まれた、月明かりの下。いつも決まってこの広い川まで、暗がりに身を隠しながら水を飲みに来る、ある二匹が。この夜は多少遅れながらも森から這い出て現れると、いつも通りに頭を下げて水を飲み、前足で掬い、身を投げて川に浸かった。  
彼ら。黒い体毛を地に、黄色い光輪を飾る生き物と、青紫の体毛を持ち、先が二又に分かれた尻尾を揺らめかせる生き物のふたり組みは。程なくして川から上がると、身を振るって水気を飛ばし、互いに体毛を舐め繕い合って整えて。  
夜行しているであろう他の生き物達の気配を探るように、彼らは辺りに視線を配ってから。気配の一つも辺りには無い、と確認してから互いの目を見合わせると。  
片や、牙を月明かりに輝かせながら身をぶつけようと。もう片や、くるりを身を翻してそれを避けようと。そんなふうに戯れ始める。  
そうしてすぐに、追い詰めたか、避けたはずみでか。二匹は川のほうへ戻り、浅瀬を蹴り叩き、ばしゃり、ばしゃりと静かな暗がりに音を響かせた。  
そんな自分達のことが、森じゅうに広まっているなど。よもや二匹には知る由もない。  
 
――彼女の体毛、昔はこんな闇の中でも、赤と白を薄く混ぜたみたいな、綺麗な色を放ってたのにね。最近どんどん薄汚れた花色になってきてるじゃん。毒に染まってさ。  
――彼と出会ってから変わったよね、もうだいぶ前だけどさ。昔ほど僕らと遊んでもくれなくなったし。彼と遊んでるのは見てて楽しいけどねぇ。  
森の上空にて、空気達は闇に身を切り刻まれながらも、二匹に気付かれることなく。"彼"の光輪を目印に、微かな月明かりに照らされる森を見降ろしながら、ひゅう、ひゅるる、と言葉を交えていた。  
 
――喧嘩してそのままお別れに、ならなくてよかった。  
ささやかな風の噂達は、くつくつと笑い声を殺し、ただ宙に渦巻きながら、二匹の姿を。捕らえられた片やに、もう片やが覆い被さり、互いに牙の切っ先を煌かせながら取っ組み合いを始める、そんな二匹の姿を眺め続けるのであった。  
 

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