彼がレシラムとともにイッシュ地方を去って、もうどれくらいになるのだろうか。  
すごく長い時間が過ぎた気がする。だけど、鏡の中の私は、彼を見送ったあの時と少しも変わらない。  
鏡を見るたびに、ひしひしと感じる。彼がいない。それだけで、まるで時間が止まってしまったかのように。  
「サヨナラ」  
それは、とても残酷な言葉だ。その一言を聞くだけで、すべての終わりを予感させてしまう。  
あの時の私はただ呆然とレシラムとともに飛び立っていく彼の背中を見つめることしかできなかった。  
あの時、もし私が彼の名前を呼べたなら。彼の腕を掴むことができたなら。抱きしめることができたなら。  
たったそれだけの行為で、彼が予測した未来は変えられたはずなのに、どうしてそれができなかったんだろう。  
やっと彼が解放される。心から分かり合える。そう思った矢先のサヨナラは、私の心をすり減らすには十分過ぎた。  
 
「おい、聞いてんの?」  
男の人の声がする。若干不機嫌そうな声。目の前には男の人が座っている。だけど、彼じゃない。  
目の前の彼――ダンサーのハルオは、トレーナー仲間の一人だ。同時に観覧車友達でもある。  
「あ、ごめん。聞いてなかった……」  
「お前さ、おかしいんじゃね? 最近ボーっとしっぱなし。」  
ハルオが大きなため息をつく。観覧車に乗っている間は、ずっと彼のことを思っているせいで、周りのことが何も見えなくなる。聞こえなくなる。  
だったら乗らなければいいのに。だけど、足が自然とここへ動くのだ。この観覧車に乗ったのも、彼と一緒が初めてだった。だから、余計に乗りたくなる。思い出してしまう。  
あの時の景色、あの時の彼の言葉、息がかかりそうなくらいにまで近づいて「チャンピオンを超える」と告げたときの、彼の悲しげな顔。  
あの顔を見たとき、何か切ない感情が霧のように私の心にかかるのを感じた。きっとその時から私は彼の――Nのことを……  
「なぁ、マシロ」  
ハルオがまた不機嫌そうな顔をする。無理もない。ハルオは私のわがままに毎度付き合わされているのだから。  
この観覧車は2人でしか乗れない。それを知った当時はなんてロマンチックなんだろう、と柄にも無く乙女のように目を輝かせたものだが、今となっては、そのルールが憎い。  
もし1人でも乗ることができたなら、この気のいいハルオを無理に付き合わせなくてもすむのに。完全な密室の中で、彼のことを思い出して泣けるのに。  
突然のサヨナラを受け入れられず、流すことのできなかった涙を、打ち明けることのできなかった感情を、すべて晒すことができたのに。  
「ごめんねハルオ。何度も何度も付き合わせたりして。」  
「いや、別にいいんだけどさ」  
「よくないよ。ホントに、よくない……」  
立ち上がって眼下のライモンシティを眺める。よくないに決まってる。ハルオにとっても、私にとっても。  
「…彼氏のことでも思い出してんのか?」  
真剣な声色でハルオがたずねる。心臓が跳ねた。図星ではないのに。  
違う。Nは彼氏じゃない。そう答えれば終わってしまう話なのに、その言葉を口にすることができなかった。  
プラズマ団の城で彼のすべてを知ってから、どんなに些細なことでも彼を否定するような言葉は口にはできない。  
「そいつのこと、忘れられないのか?」  
返事に困っている矢先だった。不意に後ろから抱きしめられる。背後から私をすっぽり包み込むように。  
ああ、やっぱりハルオは優しい。私の気持ちを汲み取って、慰めようとしてくれている。そう思っていた。  
 
ハルオから伝わってくる体温が、急に熱を帯び始める。それを感じた頃には、もう遅かった。  
「忘れさせてやろうか?」  
耳元でつぶやかれ、全身に鳥肌が立つ。拒もうと身をよじるも、なかなか解放してくれない。  
「ちょ、や、やめ……!」  
「あのさ、マシロ。ひとつ忘れてないかい? ここ、密室なんだけど」  
はっとした。ここは観覧車の中だ。例え解放されたとしても、逃げる場所はどこにも無い。  
腰の辺りに固いものが当たるのを感じた。そして、瞬時に悟った。  
私はもう子どもじゃない。だから、男の人がこのような状態になっている意味も、これから自分がされることも想像はつく。  
だからこそ、私は必死に抵抗した。だけど、一少女である私が、青年であるハルオに力でかなうわけがなく、固いシートの上にあっさり組み敷かれてしまう。  
「俺さ、お前と初めてこれに乗ったときから、お前のこと、いいなって思ってたんだ。でも、お前はまだ子どもだし、俺にも節操ってもんがあったし。  
だけど、もう限界。耐えられねーよ。」  
首筋に息がかかった。そのまま胸をもまれ、首筋を舐めまわされる。気持ち悪い。ハルオのことをはじめてそう思った。  
「や…やめっ……!」  
「やめねーよ。…こうでもしないと、お前は彼氏のことを忘れられないだろ?」  
違う、と言いかけて言葉を飲み込んだ。こんな状況におかれても、私はNを否定できない。  
ホットパンツと下着を一気にずらされた後、ハルオは自身のものを解放した。  
初めて見た男の人のそれは、もうグロテスクだとしか言いようが無い。そんなもので貫かれるなんて……  
「俺が忘れさせてやるよ。絶対に、お前をそんな顔にはさせない。だから……」  
ハルオの顔が切なげに私を見下ろす。そして、優しく私の頭を撫でる。Nが去ってから久しぶりに感じた温かさ。  
そのぬくもりは、徐々に私の心を溶かしていった。このままハルオを受け入れるのもいいだろう、と、そう思えるくらいに。  
ハルオは優しい。私を散々犯しつくして、そのまま行方をくらますことはしないだろう。私の心からNが消えてしまうまで、傍にいてくれるだろう。  
だったら、彼の優しさに甘えてしまいたい。もう、辛い思いをするのは、こりごりだ。覚悟を決め、目を閉じた。  
が、その時。まぶたの裏に、Nの姿がよみがえる。  
サヨナラ。Nの背中とともに、この静かで重い言葉が脳に鈍く響き渡る。目を開いた。  
「だめ……やめて………!」  
このままハルオを受け入れてしまったら、本当のサヨナラだ。嫌だ。それだけは絶対に。  
「いやあああああああああああああああ!!!!!」  
力の限り叫ぶ。これが精一杯の拒絶の言葉だった。私はまだ、いや一生。Nを忘れたくない。  
だが、もう遅かった。秘口の入り口を擦っていたハルオの肉棒は、私の純潔を、心ごと貫き、穢した。  
――N……  
下腹部を襲う激痛の最中、祈るように、すがるように、彼の名を呼び、ひたすらに彼を思った。  
 
 
もう一人の英雄。ゼクロムに選ばれし少女。ボクが今まで見てきた人間の中で、彼女は異質だった。  
悪い意味ではない。プラズマ団やゲーチス、またその他の人々とは違うものを彼女は持っていた。  
それが彼女の行動原理であり、彼女の心の芯であり、彼女を構成する糧だと知ったとき、空虚だったボクの心に、何かが芽生えた。  
彼女を強くするものの正体や、ボクの心に芽生えたものが何なのか。その答えを見つけられぬまま、僕は彼女に別れを告げた。  
 
ボクがたどり着いた島は、ポケモンのみが暮らす無人島だった。楽園のような場所だ。  
僕に与えられた閉鎖的な空間、傷つき疲れ果てたポケモンたち。この世のすべてがそうだと思っていた。それが間違いだったことを心から理解できる場所。  
なにより、そこには人がいない。ポケモンとばかり付き合ってきた自分にとって、人のいない空間は何より心地好い。  
ボクの疲れきった心を癒してくれる場所にやっと出会えた。そう思った。だけど、そう信じるにはなぜか違和感があって。それの正体が分からないまま、幾らかの時が過ぎた頃。  
その時、ボクは眠りに就いていた。日差しが顔を照らす。そろそろ起きなければならないと思った時、鳥ポケモンの羽音が聞こえる。  
オオスバメが引越しでもしているのだろうか? そう思って目を開ける。だが、目の前を通り過ぎていったポケモンは、オオスバメよりも遥かに大きく、勇ましい。甲冑を身にまとっている様だ。  
雄雄しい姿にしばし目を奪われていると、その鳥はこちらへ急降下し、ボクの目の前に降り立った。鎧鳥。近くで見るとそのイメージがいっそう強くなる。  
鎧鳥の背後から、男が現れる。男はボクを見て、一言、尋ねた。  
「誰だい、君は?」  
答えられなかった。人の姿を見るのは久しぶりだったし、人がいない、人は来ないと思い込んでいたため、人が現れたことにかなり戸惑っていたから。  
何も答えないボクに不信感を抱いたらしく、男は顔をしかめ、若干身構えた。そして、先ほどとは違い、少しきつめの口調で告げる。  
「答えられないのなら、それなりの人物だと認識するけど?」  
それなりの人物…不審者として扱うということだろう。確かに、ボクは不審者といってもおかしくはない。  
だけど、彼がボクに向ける眼差しが物語っているような、ポケモンに対する酷な行為をする人物ではないし、するつもりもさらさらない。  
「…ボクは、不審者じゃ、ない」  
「じゃあ、答えられるだろう? 詳しいことは聞かないから、せめて君の名前だけでも教えてくれないか?」  
「…N」  
「エヌ? 変わった名前だな。」  
本当の名前じゃないかもしれない。だけど、物心ついたときからずっとこう呼ばれてきた。正直にそれを告げたら、きっと彼はさらに訝しげな顔になるだろうから、やめておく。  
「…そんなに怯えなくてもいい。君の素性が知れないからって、警察に突き出すようなことはしないよ。驚きはしたけどね。  
僕はダイゴ。この島の所有者だ。珍しい石があると聞いてね、いても立ってもいられなくなって。」  
「…石?」  
「はは、変わってるかい?」  
ダイゴと名乗った彼は、先ほどとは一変して、穏やかな口調になる。ボクが不審者じゃないと認識してくれたのだろうか。  
それにしても…石のことを語り始めたダイゴの顔が、彼女と被った。観覧車に乗ったのは初めてだ、と微笑んだときの彼女と。  
鎧鳥に視線を移す。見たこと無いけれど、彼もポケモンなのだろう。彼の声を聞けば、このダイゴという男がどういう人物なのか分かる。  
目を閉じて、耳を澄ます。そして、語りかけた。鎧鳥はボクに驚きつつも、僕の質問に答えてくれた。  
「彼は…ツワブキダイゴ……。デボンコーポレーションの子息で……ホウエン地方の元チャンピオン……」  
「? 君、一体何を……」  
「石の…収集? そうか、彼は石の収集が趣味なんだね。」  
そこまで聞ければ十分だ。目を開いて、ダイゴへ向き直る。ダイゴは目を丸くして僕を見つめていた。  
「ダイゴ、キミの石に対する情熱はすごいんだね。だけど、ほどほどにしておいたほうがいい。彼、少しあきれてるみたいだ。」  
「え…!? ま、まさか、君、僕のエアームドと会話していたのかい?」  
「エアームド? ああ、彼の名前か。そうだよ。ボクは人と話すより、ポケモンと話す方が得意なんだ。」  
「僕も変わり者だって自覚はあるけど、キミは僕以上の変わり者みたいだね。」  
「変わり者…か。それはいい」  
ただの変わり者だったらどんなにいいだろう。ボクは変わり者じゃない。異端者だ。似ているようでぜんぜん違う。  
だからこそボクに向けられる目は、狂いきった敬愛と、野心と、哀れみばかりだった。…いや、たった一つだけ、違うものがあったんだ。  
 
「マシロ……」  
自然と彼女の名前が零れ出る。彼女だけはボクを、誰とも違う目で見ていた。それは溶けるような、切なげな、とにかく自分の知識の及ばない不思議な眼差し。  
電気石の洞窟で、フキヨセシティで、リュウラセンの塔で、そして特に王座での別れの時に見せた眼差しは、強烈にボクの脳に刻まれた。  
マシロ、キミはどうしてそんな顔をしたの? どうしてそんな目でボクを見つめるの? キミは、ボクをどう思って……  
「エヌ君? エヌ君!」  
ダイゴが怪訝な目をしている。どうやらまた考え込んでしまっていたらしい。…ボクの癖だ。  
「どうして泣いてるの?」  
「え?」  
指摘されてすぐ、雫が頬を伝う。いつの間に泣いていたんだろう。泣くつもりなんて無かった。そもそも、ボクはどうして泣いたんだろう。  
「あの、これは聞いてはいけないことなのかもしれないけれど…その、マシロという人は、君の大切な人?」  
大切かどうかなんて分かりもしなかった。だけど、ボクはその問いに深く頷いた。  
「彼女は、不思議な子だった。会う度に違う表情をしていて、ポケモンにとても愛されていて。ボクとはぜんぜん違う。  
それなのに、ボクのことを理解してくれていた。…何故かそう思うんだ。」  
ダイゴはくすくすと笑う。初対面の男にこんなことを話すなんて。やっぱりボクはどうかしてる。ダイゴもそう思ったから笑っているのだろう。  
「君は、彼女のことが好きなんだね。」  
「…スキ?」  
ボクが彼女をスキ?  
「少なくとも、僕にはそう見えたよ。マシロさんのことを話している君は、愛しい顔をしてたから。」  
「ボクにはわからない。スキとは何なのか、イトシイとはどういう意味か。」  
「うーん。こればっかりは個人の主観の問題だからなぁ。僕の主観が正しいわけじゃないけれど…マシロさんのことを思い浮かべてごらん。どう思う?」  
マシロ……彼女の姿が浮かび上がってくる。心が震えた。またあの切なげな瞳を向けてくる。王座での別れ。今にも泣き出してしまいそうな、そんな顔。  
最後に振り返ったとき、あれだけ泣きそうな顔をしていた彼女は、泣いていなかった。必死に涙を堪えていた。  
あの顔を思い出すたびに、胸の奥が締め付けられる。罪悪感が押し寄せてきて、涙が出そうになってくる。  
「エヌ君。マシロさんのことを、どう思う?」  
「分からない…。だけど、苦しい。それに痛い。」  
「その正体が、好き、愛しいって感情だよ。」  
「これが?」  
こんなに苦しく、痛い思いをスキ、イトシイというのか。不思議と嫌な気分がしない。こんなに辛いのに。  
「頭で理解しようとしてはいけないよ。これは心でしか理解できないものだ。分からないが正解なんだよ。  
心を頭で理解しようとするとね、どんどん辛くなってくる。仕舞いには、心なんていらない、って思うようになる。  
心をなくしたら何もかも終わりだ。心があるから、人は立ち上がれるし、強くも弱くもなる。」  
この時、分かった気がした。マシロの強さの理由が。あの時ボクに芽生えたものが。それは、「心」という単純なものだったのだ。どうして気がつかなかったんだろう。答えはこんなにも簡単だったのに。  
「それじゃあ、マシロは」  
マシロが見せたあの顔は。ボクと同じなのだろうか。ボクがマシロを想うのと同じように、マシロも僕を想うと辛く、苦しいのだろうか。  
頭で理解しようとしてはいけないよ。ダイゴの言葉が繰り返される。そう、これは心で感じること。僕の心は、マシロのことを―――  
「モエルーワァァ!」  
ボールの中のレシラムが唸る。同時に、心がざわついて、思わず振り向いた。見渡す限りの海。この海の向こうにある大陸で、彼女が泣いている。  
どんな瞬間にも涙を見せなかった彼女が、彼女の心が泣いている。レシラムを通じてそれがひしひしと伝わってくる。ゼクロムと、マシロに、何かがあったに違いない。  
永遠に会うことは無いと思った。だけど。今彼女に会いに行かなかったら、一生ボクは後悔する。  
「ダイゴ……ボク、行かなくちゃ。マシロのところに」  
ダイゴは笑顔で頷く。それを確認したのち、レシラムは飛び立った。彼を振り返ることもせずに。彼女の元へ。  
 
 
懐かしいイッシュは、すっかり夏の装いをしていた。  
だけど、季節が変わり、シキジカやメブキジカたちに変化が訪れたこと以外は、何も変わっていないように見えた。  
崩れ落ちたであろうプラズマ団の城は、ほぼ跡形も無い。ポケモンリーグも問題なく機能しているようだ。  
そして、人とポケモンの距離も変わらなかった。お互いを信頼し、尊敬し、とてもよい関係を築いている。  
ボクが与えられてきた傷ついたポケモンたちは、極少数なのだということに気付かされるくらい、長閑な光景だった。  
世界はボクが考えていた以上に広く、美しい。その広さを知った今や、どうして自分があの部屋がイッシュのすべてだと錯覚していたのか、疑問にすら思う。  
…しかし、いったいマシロはどこにいるのだろうか。  
 
まず真っ先に思い浮かんだライモンシティへ降り立つ。その瞬間、変わらないと思っていたイッシュの微量の変化に気付いた。  
人々や、ポケモンたちは何も変わらない。変わったのは…あの観覧車?   
嫌な予感がする。あの観覧車で、マシロを壊してしまうような出来事が起こってしまった、そんな予感がして、無意識に駆け出していた。  
久しぶりに見上げた観覧車は見た目こそ変わらない。だけど、変わってしまったことが一つ。ボクが去る間際まで、確かに2人乗り専用だという記述があったはずなのに、今はそれが無い。  
泣き叫ぶマシロの声が聞こえる。ああ、間違いない。この円形の乗り物が、マシロを壊してしまったのだ。  
「なぁ…君。乗らないのかい? なら、そこ、どいてほしいのだが。」  
後ろから聞こえた声の主は、エリートトレーナーだった。あからさまに迷惑そうな顔をした彼だったが、顔色は若干青ざめ、小刻みに震えている。  
未来など見なくても、彼がこの乗り物に好意的でないことはよく分かる。  
…そうだ。彼だったら知っているだろうか? この観覧車が、二人乗り専用では無くなった理由を。  
「…あの。」  
「ん? 僕になにか?」  
「ボクの記憶が正しければ…これは2人乗りしかできなかったはずなのに、何故今は違うの?」  
「…君、知らないのか!?」  
エリートトレーナーは驚愕し、そして狼狽する。口にするのも憚られるらしい。  
「教えて。ここで何があったの?」  
「あ、あー…。あ、あんまり大きな声では言えないんだけど……」  
彼は咳払いをする。そして、つぶやくような声で、言葉を押し出す。  
「ちょっと、ね。事件があったんだよ。そう、事件だ。」  
「事件って?」  
「そ、それも言わなくちゃいけないのかい!? わ、わ、悪いんだけど、僕の口からは言えそうに無い、いや、言えないんだ! すまない。  
どうしても知りたいって言うのなら……ほら、ライモンジムの隣に掲示板があるだろう? あそこに事件の記事があるからそれを見るといい。  
そ、それじゃ! 僕は観覧車に乗らなければならないから、失礼するよ!」  
そそくさと観覧車に乗り込む彼の背を見送り、とりあえず言われたとおり掲示板に目を通す。  
左上に大きく切り抜きされた新聞記事は、嫌でも目に付いた。その下に掲載されている園長の謝罪文やその他などは一切目に入ってこない。  
それだけ、その記事は衝撃的だったのだ。ボクの心の揺らぎを感じ取り、レシラムが不安げに唸るほどに。  
 
『ライモン遊園地観覧車内で強姦事件! ライモン警察署は、園内スタッフからの通報を受け、観覧車内で少女に性的暴行を加えたとして●日未明、ダンサーの男を逮捕した。  
男は観覧車が2人乗り専用だという規定を悪用し、少女に観覧車内で淫らな行為を迫ったとされる。これをうけ、ライモン遊園地は―――』  
 
強姦という行為がどういうものかは知っている。…男が力ずくで女の貞操を奪うこと。女を穢すこと。その悪質な行為とマシロを結びつけることができなかった。結びつけることを拒否していた。  
強く、気高く、綺麗なマシロが、男の手によって穢されたなんて信じたくない。動揺を誰にも悟られたくなくて、帽子を目深に被る。それでも、心が静まることは無かった。  
覚束無い足のまま観覧車へ向かったボクは、そのまま無意識にそれへ乗り込んでいた。乗員規定が本当になくなったのだ、と、実感する。  
外を見る気力も無かった。まだ真実を整理しきれていない自分の心に、無理やり入り込んでくる、マシロの傷ついた心。  
マシロの泣き声が脳裏を突き刺す。頭が痛い。そしてたびたび聞こえる荒っぽい息遣いと、下劣な男の声。  
 
「いやあああああっ! あっ、あぁぁっ!!」  
マシロの上にドレッドヘアーの男が覆いかぶさっている。男の手が肌蹴た胸を揉みしだき、口はその頂点や首筋を舐め回す。  
硬いシートには、血の混じった愛液が滴り落ち、ぐちゅぐちゅと卑猥な音がその根元から聞こえる。  
「ほら……もっと喘げよ。感じろよ……! っく……!」  
「あああああぁぁぁっ!! やぁっ! も、もう、やめ……!」  
必死に懇願するマシロをよそに、男は腰の動きを早める。その意味が分かってしまう自分が恨めしい。…絶頂が近いのだ。  
「おねが……! 中は…中はやめ………!!」  
「嫌だね……うっ…!」  
「やめてええええええええええ!!!!」  
男の動きが止まる。いっそう悲痛にマシロが叫んだ後、男はようやくマシロから離れた。  
服は破け、体中に赤い痕や傷、そして、女の大事な部分から白濁を垂れ流し、放心状態となったマシロの目は、生気を宿していなかった。  
「お前…最高だよ。こんないい体してんのに、お前の彼氏……エヌとか言ったっけ? そいつ、お前を抱かなかったんだな。」  
「え……ぬ………?」  
「恨むのなら彼氏を恨めよ。俺はそのひでぇ男を忘れされる為にヤッたんだ。な? 気持ちよかった――」  
卑劣な男の腕が再びマシロに伸びたとき。観覧車の扉が勢いよく開く。…そこからはもう、形容したくない。  
男は警察に連行された。マシロは駆けつけたライモンジムリーダーに保護された。前身を毛布で包まれたマシロはやはり生気を失っていて。  
 
「こんな仕打ち……あんまりだ!」  
窓ガラスを思い切りたたく。揺れを感知した観覧車が、アナウンスとともに動きを止めた。  
とめどなく涙が溢れ出た。“人の心を持たぬバケモノ”のボクですらその心に受け入れてくれた彼女。イッシュで一番優しいであろう彼女に、この仕打ちはあまりにもむごすぎる。  
心を持たぬものから涙は出ない。そう、これはボクの心。何よりもマシロを想う、かけがえのないボクの……。  
観覧車が動き出しても、ボクの涙は止まらなかった。穢され、心を壊されたマシロを想えば想うほど、尚更のこと。  
そうして思いが募るほど、無性に彼女に会いたくなった。  
 
彼女の生まれ育った町は、緑豊かな穏やかな町だ。ここで彼女の心が育ったかと思うと、納得できる。  
複雑な気持ちだった。そのまま、町中へ一歩踏み出す。彼女が歩いた道をしっかりと踏みしめて、マシロの家に向かった。  
すると。記憶と合致する人物が歩いてくるのが見えた。名前と顔が一致した瞬間、彼女と視線がぶつかる。  
「あ……」  
ベル。理想を求めるチェレンとは真逆の、真実を知る者。2人の関係は、ボクとマシロの関係とよく似ている。  
「あなた……どうして……!」  
彼女は目を見開いたかと思うと、きつくボクをにらみつけ、つかつかと歩み寄る。そして、空を裂く乾いた音と、頬に感じる痛み。  
「遅いよ! あなたがもっと早く帰ってきてくれたら、マシロは、マシロは……」  
深緑の瞳から涙をこぼしながら、何度も何度もボクの胸に拳を打ちつける。その振動は、ボクの全身を震わせた。  
「帰るつもりなんてなかった……。だから、ボクは彼女にサヨナラを」  
「あなたは分かってない! サヨナラがどれだけ残酷な言葉なのか、ぜんっぜん!」  
目に雫を溜めたまま、ベルはボクをにらみつけた。その目つきに彼女の強さを感じる。  
「サヨナラって残酷だよ。今までのことを全部終わりにしちゃう、悲しい言葉。なのに、もう一度会える気がして、ずっと待ち続けてしまうの。  
マシロはあなたのことをずっと待ってた。あなたが帰ってきてくれることを信じて、毎日観覧車に乗りに行ってた。なのに…なのに……!  
あなたを失った後のマシロは、前みたいに笑わなくなった。怒ったり泣いたりもなくなった。大好きだったケーキも食べなくなったし、ポケモンバトルだってやらなくなった!  
N、あなた一人のせいで、昔のマシロはいなくなっちゃったんだよ!? どうしてくれるのよおっ!!」  
その場に泣き崩れてしまったベルを、ボクはただ見ていることしかできなかった。下手な言葉なんてかけられない。何か言って、それがさらに彼女を傷つけてしまうのは怖い。  
別れはいつもサヨナラだった。その言葉通り、何もかも突然なくなってしまう。でも、それがボクの心を揺さぶることなんてなかった。サヨナラは心地のよい言葉だった。すべての終わり。  
だけど、彼女たちにとってサヨナラとは。本当の終わりを予感させる嫌な言葉であり、当てのない希望さえも見出さなくてはならない、残酷な言葉。  
何気なく使う言葉が、人を傷つけてしまう。だったらどうすればいい? ボクにはそれが分からない。  
すると。  
「ベルちゃん? どうして泣いてるの?」  
すぐ傍を通り過ぎようとした女性が、泣きじゃくる彼女に声をかける。ウェーブのかかった髪。一目で分かった。そうか、この人がマシロの…  
マシロの母親はベルをなだめ、ボクを見る。彼女もボクが何者なのかが分かったらしい。  
「あなたが、Nさんね。」  
「……はい。」  
「マシロに何があったか、知ってる?」  
「…………はい。」  
「そう。」  
怒りとも悲しみとも取れない、不思議なほど穏やかな声色だった。ベルと同様に、根本的原因であるボクを責めてもおかしくはないのに。  
彼女がなだめた事によってようやく落ち着いたベルを支え、彼女は同じように穏やかに言う。  
「立ち話もなんだから……うちにいらっしゃい。」  
 
彼女が差し出したコーヒーが湯気を立てる。手馴れた手つきで砂糖やミルクを足す彼女を尻目に、どうしていいかわからないボクは、じっとコーヒーを見つめていた。  
「コーヒーは嫌いだった?」  
「あ、いや。そうじゃなくて………」  
マシロの母親を前に、マシロのことをボクが口に出してもいいのか、躊躇っていた。  
親らしい親なんていなかったボクに、親の気持ちなんて分かる由もないけれど…娘が穢されたという事実を知って、ボクと似たような気持ちになっているだろう、とは分かる。  
マシロのことを聞きたい。そして、彼女に会いたい。2つの気持ちが交錯し、葛藤していると、彼女が口を開いた。  
「あれからマシロは部屋から一歩も出てないわ。3日は何も食べなかった。1週間経ってやっと、私を部屋に入れてくれた。それから1週間、マシロを抱きしめて眠る日々が続いて。  
2週間経って、私に話をしてくれるようになった。」  
「そう、か……」  
マシロの傷は想像以上に深い。いや、想像なんて出来るものか。ボクは男だ。穢される恐怖、穢された嫌悪感やその後の大きな傷の痛みを味わうことは一生出来ない。  
なぜマシロに会いたいと思ったのだろう。しばらくは母親ですら拒絶していたマシロが、ボクを受け入れてくれるはずない。  
「ボクが来たのは、間違いだったみたいだ。」  
情けなくて、悔しくて、また涙が出そうになった。ベルの言うとおりだ。何もかも遅すぎた。  
「……それはどうかしら。」  
返ってくるとは思わなかった答えに、驚いた。顔を上げる。彼女は頬杖をついて、ボクを見ている。マシロと同じ、まっすぐな瞳だ。  
「で、でも、ボクは、マシロに会う資格なんか……」  
「誰かに会いたいと思う気持ちに、資格って必要? だったら、人と人との出会いなんて存在しなかったはずよね。  
…間違いだったって後悔するのは、マシロに会ってからでもいいと思うわ。」  
だけど。彼女は続ける。声色が急に真剣になった。  
「マシロの心の傷は、あなたが帰ってきたからって、治るようなものじゃない。少しずつ、時間をかけて癒していかなければならないの。  
N君、もしあなたがただマシロに会いに来ただけだというのなら、あなたをマシロに会わせる事は出来ないわ。反ってあの子を傷つけてしまうもの。」  
彼女の一言一言が身に染みていく。言葉を反芻していくうちに、彼女の思いが分かった。彼女はボクに期待しているのだ。  
「それでも、マシロに会う?」  
大きくうなづく。ダイゴのことを思い出した。ボクにスキとイトシイの意味を教えてくれたあの人。  
こういう時に、使う言葉なのかもしれない、と、不意に思った。  
 
 
 
「マシロ、お客さんよ。」  
彼女が扉をノックし、ゆっくりと開く。返事はない。隙間から光が漏れ出ることも。  
僕のほうを見て、微笑んだ。そして扉を開け、部屋の中へ入るよう促される。  
「後は、あなた次第ね。」  
肩をぽん、と叩き、彼女は下へ降りていった。  
恐る恐る足を踏み入れると、部屋の隅にぽつんと一つ、縮こまった人影が見えた。  
うつむいた顔がゆっくりと持ち上がり、ボクの視線と重なり合う。生気の宿らない瞳。だけど、ボクを見つめているうちに、その奥のほうに小さな光が宿るのが見えた。  
「N……?」  
か細い声で、ボクの名前を呼ぶマシロ。本当に久しぶりだ。心に直に響いてくるこの感触。これもイトシイという感情なのだろうか。  
「ただいま、マシロ」  
「ホントに…ホントにNなの……?」  
すっかりやせ細った手が僕の頬へと伸びてくる。だが、触れようとした矢先、はじかれたように手を引っ込め、苦しげな顔でうつむいた。  
「…ボクに触れるのは、嫌?」  
「嫌、じゃ、ない。」  
「じゃあ、どうして?」  
ボクが手を伸ばす。  
「触らないでっ!!」  
威嚇をするチョロネコのようだった。はっきりとした拒絶だったのに、心は折れなかった。むしろ、当然のことだと思った。  
男に穢されたのだ。すべての男に触れられることを拒んだって仕方のないことだ。そうわかっていても、やっぱり拒絶されるのはショックだ。  
「ごめん……。キミを怖がらせるつもりはなかったんだ。」  
「違う…違うの。わ、私……」  
濡れた視線がじっとボクを見つめる。ちゃんと聞いてほしい。そう訴えているかのような瞳。  
「私、自分の気持ち、言うの、苦手だから…、あの時言えなかったこと、ずっと、ずっと後悔してた。  
ホントは行かないで、って、言いたかった。抱きしめて、ちゃんと、私の気持ち、伝えたかった……!  
だけど、もう駄目。私はもう、汚れちゃったから…。汚れた私を、触らないで……!」  
違う。違うよ、マシロ。キミは汚くなんかない。こんなボクですら受け入れてくれたキミが、汚いはずはない。  
ものすごく自然にそう思えた。それを伝えるためにどうすればいいかも、理解できた。そしてごく自然に、ボクはマシロを抱きしめていた。  
「あ……」  
不思議なものだ。本当は、僕自身がそうしてほしかったのに。そうしてもらうことで、誰かに――今はマシロに、ボクを受け止めてほしかったのに、今は。  
「大丈夫。マシロは汚くなんかないよ。綺麗だよ。少なくともボクにとっては、マシロは世界で一番綺麗だ。」  
…あの時のサヨナラは嘘っぱちだ。愚かな虚言だ。マシロに拒絶されるのが怖くて、逃げ出しただけ。それが、彼女を傷つけてしまった。  
だから今。今じゃないと伝えられない。あの時伝えられなかったことを、今、彼女を抱きしめて決意したことを、傷ついた彼女に伝えよう。  
「マシロ、ごめんね。それから…ありがとう。」  
そうしなければ、ボクは…ボクたちは始まらない。終われない。  
世界で一番綺麗で、強くて、優しい女の子。そして、世界で一番イトシイ女の子。ボクは、そんなマシロを―――  
「好きだよ、マシロ。もうキミの傍を離れたりなんかしない。ずっと傍にいて、キミの心の傷を癒してあげるから――キミも、ボクの傍にいて?」  
胸に顔をうずめたマシロが、か細い声ですすり泣く。投げ出されていた手が、恐る恐る僕の首に回った。  
―――ここからボクとマシロの、2人の物語が始まる。  
 
 
あれから、たくさんの季節が繰り返された。そして、何度目かの朝。  
閉められたカーテンを開けると、生まれたてのオレンジの光とともに、マメパトが上空を舞う。水辺でコアルヒーとスワンナが羽音を立てる。  
風が素肌を撫で、寒さに身震いしたのと同時に、自分が一糸まとわぬ姿であったことを思い出した。  
…そう。昨夜、ボクとマシロは、一つになった。  
恐怖とは違う緊張で体を強張らせ、つやのある眼差しで見つめ、マシロはボクを受け入れた。  
ボクが一つ一つ丁寧に彼女の体を愛でることによって、切なげに響くマシロの声は、いまだにボクの脳裏に噛み付いて離してくれない。  
観覧車の中で狂ったように泣き叫んでいたのとは違う、憂いや悦び、その他の感情を取り巻いた嬌声は、ボクを安心させた。  
そして、ボク自身を彼女の蜜壺へゆっくりと押し進める時のマシロの女の表情。きつく締め付ける感覚と、背中についた爪のあとの痛み。  
これまで主を残すための繁殖行為だとしか認識していなかった性行為に、至福の快楽が伴うことに気付かされた瞬間だった。  
それはきっと、相手がマシロだからで。一生を共にすると誓った彼女だからこそ、あのこの上ない悦びを味わうことが出来たのだ。  
「N……?」  
「おはよう、マシロ」  
体を起こしたマシロの肌を、白いスーツが滑り落ちる。その下から現れる、陶器のようにすべすべとした素肌と、やわらかい胸。  
昨夜、飽くほど見て、存分に堪能したはずなのに、見ているとやはり気恥ずかしくなって、視線を反らした。  
「あのね、N。」  
スーツを体に巻きつけ、ボクの隣に寄り添う彼女。自然とその肩に腕を回し、引き寄せていた。  
「私、Nに会えて本当によかったよ。」  
「ボクも、キミに会えてよかった。」  
「…ねぇ」  
「ん?」  
「もう一度…キスして。」  
言われるがまま、口付ける。触れるだけの優しい口付け。新しい朝には、それだけでいい。これからまた、ボクたち2人の物語が始まるのだから。  
タワーオブヘブンの鐘の音が、新しい始まりを祝福するように、辺りに鳴り響いた。  
 
 
 
END  
 
 

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