「ふぅう」
「ぎいい!」
んーなんだろう、夜行する生き物の声だろうかな。気付いた頃には、高く可愛らしい声が二つ、静かな闇夜の森を掌握していた。
今宵は冷え込み、天よりちらりちらりと粉雪が振り落とされる次第なのに、よくもまあ元気なことだ。
「くぅお! こぅお!」
「ぎゅ……う」
まだ若いのだろうか、一匹は随分なはしゃぎ具合。雪がそんなに面白く思えるのだろうか、それとももっと別の事情?
うつらうつら、俺は眠気のままにまぶたを閉じ直し、ただ耳を傾けながら思考を巡らせる。
喧嘩しているように聞き取れなくもないかな、片やノリノリなのに、もう片や消極的に、声の相手を突き放そうとしてるようにも感じる。
茂みだか洞穴だか、二匹の居所は知らずも、ここからはそう遠くない場所に居そうだ。
「ぐぅうん……」
「きゅうう?」
少し探してみようかな。乱雑に飛び交っていた思考がある程度固まると、閉じたばかりのまぶたを早急に見開き、折り畳んでいた足をも叩き起こした。
美味そうな奴らなら、見つけ次第そのまま飛びかかってもいい。くく、と湧き出る笑みは声に成る前に裂いてしまい、気配は雪々に溶かして。俺は草の地面を足音なく歩んでいく。
声の二匹は風上のほうにいるのか、僅かばかり動くと、鼻先に甘い生き物の匂いが突き刺さってくる。
外敵に狙われたらどうするんだか、全く無用心なもんだよ。消極的な声ばかりを返している方はそれを危惧してるのかもなあ。
微笑ましく思いながらも、はしゃぎ続けている片方の声を頼りに、逆風の粉雪を嗅ぎ、時に払って真っ暗な森を歩み続ける。
「ふぃうぅん? くぅ、くーぅ!」
「きゅうう……」
なだらかな下り斜面の先、潰える漆黒の中に、ぼんやりと浮かぶ黄色の光輪が、ひいては二匹の姿をも浮かび上がらせている。
光輪の模様を持つほう、上機嫌にも浮かれた声を放ち続けるほうは、常闇の体毛を纏いて、光輪の他に輪郭程度しか映らぬものの。対する消極的な声の主は、隣からの光を、短くも目立つ薄紫の体毛に煌めかせている。
「くぅうん」
「ぎぎい、ぎー?」
思ったよりは二匹とも成熟してるけど、たった二匹の群れとするにはまだ若いな、何なんだろう。
寄り添い、草の地面に尻餅ついて、俺の視線に気付くこともなく視線と声を交わらせあっている。背の低い茂みに隣接してはいるものの、斜面上方の俺からだとまるで見放題。間が抜けてるけど、匂いも強く鼻に刺してくるし、あれが本当にそうなのか。
この辺りだと珍しい生き物だけど……この、中々可愛らしくはあるんだけど、さてどうしよう。取り分けて美味そうという種族でもないし、もう少し眺めていようかな。
「くん……」
「ぎゅ、きゅ……」
仲間のような、同種の気配はしないし、あんなのでも本当にたった二匹の群れをやっているのか、あるいはちゃんとした群れから抜け駆けでもしてきたんだろうかな。
その首に顔を擦りつけ、中々暖かそうにしている――。そう思った時、ふと現抜かしている俺自身に意識が戻ってきた。
凍える風が容赦なく吹き付けて、俺の体毛を揺らしている。夜中は寒いな、やっぱり寝ていたほうがよかったか。
「くぅ?」
あの二匹も、あんまり長くはしゃいでは居られないのか、心なし落ち着いてきたようにも見える。その身体をぱっと離れ、面と向い合う形で、尻餅を付いて座り直す。
独り身には中々羨ましいというか妬ましいというか。俺もあんな風に、相方を持って一緒に生きたいもんだ。
「きゅーん」
そう思って見つめ続けていると、薄紫の体毛は静かに、前足を折り畳んで草の地面に腹ばいになり。直後にはおとなしく、ただ甘えたかのような声を放って、俺の身体を引っ張り始める。
いや、実際に引っ張られているわけじゃないけど、何だろう、誘われるって言うべきか。
可愛らしいその姿を……支配したいな、なんて。浅はかな考えだ、と苦々しい感情が、ふわりと浮いてしまいそうな俺の身体を辛うじて地に留めてくれる。
ぴんと下腹部に張る感覚も久しい。常闇の生き物も、そんな俺と同じなのだろうか。暗がりの中、一歩、二歩と薄紫の相方へと寄り直すと、腹ばいに座るその背に乗って。そのまま覆い隠して抑えつける。
――おい、おい、そこどけよ、若造が何いっちょ前に番い合ってんの?
「きゅ、きゅん! きゅう……vv」
ゆらり、幻惑するかの様に、煌きを増しながら揺れる光輪。それと時同じくして溢れ始める二匹の嬌声。
あーあ、気持よさそうにしちゃって。からかいにあの場まで行ってしまおうか、とも思考が巡る。
「くぅう、ふぅうんv」
常闇が下方の横顔に舌をあてがえ、吹き付いた雪を払うかのように一舐めし、そのまま薄紫の耳に、煌く牙を押し当てて。ゆらり、小気味よく風を切り刻み始める。
絶対入ってるよなーあれ、そこどけないなら俺と代われよ場所。
受け側の尻尾が身体と身体の隙間から這い出てきたと思えば、そのまま常闇の尻尾に絡みに行ってるし。恥ずかしい、を通り越して呆れてくる加減だ。
仲良いんだろうな、それは十分分かったから、さっさと俺に気付いて逃げ失せろよ。痛がったりとか別にいいからさー……。
「きゅわあ! ぎぎゅ……んんv」
この距離、暗がりだと表情までは見て取れないが、そんな影ばかりの物を楽しみにしてるんだろうか、俺の目は。お前らに視線が突き刺さったまま離れてくれないのは何なんだよ、畜生。
どうにも煮え切らない心持ちが、俺自身の四肢先端を、ぐぐ、と草の地面にめり込ませる。
「ふゅ……く、くん! ふゅう!」
甘く誘われるままに身を行使する姿は、こう客観視すると不憫にも映るもんだ。あの常闇は、もう逃げることもできず疲弊させられるばっかりなんだろう?
そう、別に羨ましいなんて、ないさ。
「きゅう……v」
異種族なのに俺にまで届いてくる引き込みの声を、無視さえすればいい。
――四肢で地面を蹴ればすぐにでもあの目前に飛び出せるだろうし、そうすればその、華奢な薄紫を従えることぐらい軽いだろう。
あの常闇と争ってまで、従えたいとは思わないし、場面としても、どっちも乗り気にはなってくれないだろうし、出て行く理由もなさそうだけど。
「く、ん、くぅ、ううん!!」
既にして終わりそうになっているし――鼓動を早めるその身体も、すぐに精根尽きて倒れこむばっかりなんだろうな。
「ぎゅう、きゅう……!」
俺もそんなふうに倒れてみたいもんだ、なんて被虐的な願いも一瞬思い浮かぶ。
そう、ぼんやりと暗がりに霞みながら鼓動する、二つの輪郭を眺め続けながら、変わらず身に吹きつけてくる冷気に音なく欠伸を返していると。つんつん、と、すぐ後方から誰かが、ちょっかいとして俺の首筋を押してきた。
俺としたことが、周りの気配にはさっぱり意識が向いていなかったか。後方は風下とは言え、すぐ後ろに来られても気付かなかったなんて不覚。よほど見入ってたんだろうか。
はいはい何でしょう? と、何気もなく振り向くと鼻先に当たるは脂ぎった毛々、蒸すような嫌な匂い、漆黒の中に浮かぶ輪郭は、湾曲した角二本を取って付けた捕食者の顔を二つ――。
「――ぎぎいいい?!」
え、ちょ、食われる?!
俺はそう思うが早いか、横合いの茂みに飛び退いてから、身を隠せているかも分からず、ただ雪々に溶け、並行するよう風に乗って風下へと駆けた。
匂いはあっという間に遠くへ引いていく、追ってくる気配はない。割とあっさり逃げられただろうか、少しすると駆け足を緩め歩みとして。
「きゃきゃきゃ♪」
「くっくうww」
その刹那、捕食者の代わりに愉快そうな笑い声が迫り、俺の身体をすり抜けていった。ああ、遊び相手にされただけなのか、と気付いて、ただただ落胆する。
いや、いや? 襲われないほうがいいに決まってるけどさ。なーんか、あの捕食者らも二匹揃って、だったしさ。なんなの?
優れぬ心持ちの原因は他でもない。もうあいつら爆発しちまえばいいんじゃね?! 天から雷でも降り落ちてさ……!
ああ、我ながらいい案だ、番う奴ら皆爆発しろ!
はぁ。
ため息一つ、粉雪を払いながら視線を持て上げると、暗がりの中、心なしか黒の空が青く色付き始めているように映った。
獲物とされたくない一心で駆けたせいか、凍えていた身体が火照り、気なし心地良い感覚もある。
いい物も見れたし。そう、いい物が見れたんだよ? 最後まで見ていたかったけどさ。後は享受しながら、日が昇るまでぐっすり眠っていたい、休まりたい。
あの後常闇と薄紫の奴らは、今頃捕食者に見つかって逃げ惑ってでもいるだろうか。それならいいザマ。
くく、と黒い思考と共に呼吸を落ち着かせる頃、風が運んでくる、生き物の声。さっきまでの声とはまた違う二体一対の声。
あー、皆楽しそうだな、ほんと。喉奥に刺さる感覚がえらく悲しい。
――なんで俺はこんなに心苦しいんだよ?