俺は目を瞑ったまま、首を伸ばし、細長い身体の中ほどまでを水上に出すと、頭側面から耳のように生えている小さな翼を顔ごとぱたぱたと振って水切りとした。  
まだ陽の昇り切らぬ、空気の澄んだ早朝。青を背にし点々と白を纏った空には、風が柔らかく渦巻きながら、時折誰かの声を運び届けてくる。冬もいよいよ去った春先の、実にいい日和。  
「おはよ」  
翼から錘が消し飛び、軽くなった頭をうんと擡げた所に、そんな、隣から聞き慣れた声が寄せられて来た。  
「おはよう」  
実に慣れた感覚。俺は視線を声の主へと向ける訳でもなく、何気なしに返答しながら、顔を擡げたそのままで閉じていた瞼を見開く。  
そこには空の白色が、悪戯好きの風に煽られ、ゆっくりと流されていく瞬間がただただ映る。棲み処であるこの湖から見上げるそれは、心落ち着く良い全景。  
「いい陽が昇ってるな」  
「ほんと、いい陽。すっかり温かくなったよね」  
降り掛かる陽気の実に心地良いこと。  
大きな森の中にあるここ、俺達夫婦の棲み処である湖も、冬場には透き通っていたり、白かったりな壁が張られることも往々にしてある。  
住み心地自体は全然悪くなくとも、それでも身の冷える思いをするのは苦手だし。これからまた暫くは心配せずにしていられるんだ、と、そう思うと喜ばしい。  
「"ハクちゃん"は、いつ起きたの?」  
「ああ、俺もついさっき……さぁ」  
ふわああ、と欠伸がてら目を瞑り、大口を開けながら、寄こされた尋ね言葉へ返事を向けた。  
続け様には、一通り宙を噛み切り、顔はそのままに横目で、ようやくその相手へと尋ね言葉と横目を差し向ける。  
「リューちゃんはどうして? もう少し寝ててもよかったのに」  
俺が"リューちゃん"と呼んだ彼女は、すぐには言葉をくれず。俺の横目と視線が合うと、顔を背けるように横へとずらす。  
 
「ちょっと、痒いっていうか……さ、むずむずしない? 落ち着いていられなくて……」  
一間空いた末に、小さく擦れた質問を俺へと向けながらも、それは返事を待つことがなく。ざあ、と水面を裂き、俺のすぐ隣へと付いて、その頬を俺の頬へと押し付け、擦りつけてくる。  
これが中々どうして心地のいいもの。お互いの感情も温もりも、何もかもを共有できる、そんな触れ合いの実感がたまらない。  
横目に映るは見慣れた"妻"の姿。空にも似た、青と白の細やかな鱗の上に、煌めく粒を纏ったそれは変わらず綺麗で、同じ種族の俺から見ても別格と思うほどに美しく振舞っていた。  
「そうだな。そういう季節だから……」  
額から伸びた尖角には光球が住み付き、頬は血色よく膨らみながらも、中ほどまで閉じられた虚ろな目には、隠す様子もない抑鬱が垣間見られる。艶やかな笑みが、俺の"むずかゆい"部分をくすぐってくる。  
季節に身体が反応するのは、まだまだ若い証でもあるのかも知れない。  
「俺だって痒いさ……嗚呼」  
水面下にて尻尾を大きく揺らし、先端に二つ連なっている宝珠を、かちり、かちりと、どちらともなくぶつけ合うものの、二三繰り返した次には音もなくすり抜け、勢いのままに、尻尾同士をくるりと絡ませ合う。  
首を曲げ、彼女の顔を真っ直ぐに見つめると、喉奥から湧き上がってくる感覚が、俺の頬に緩やかな膨らみを作った。  
「んふふ……」  
リューちゃんの顔に口を寄せて、頭から生える小さな翼を、すっと舌でなぞる。くすぐったそうに声を零す姿も気にせず、舌をあてがえたまま頬へと、口元へと下降し、その口の中へと舌を押し込む。  
絡めていた尻尾を、くるり、くるりと回し、次第に腹も、喉元もが擦れ合うように、どちらからともなく巻き付いて、身を進んで不自由にする。  
 
「リューちゃん、好き」  
口を離して、短く声をかけると、互いの細長い身体を、一本しかないかのように捻じり、俺達なりの抱擁とした。どく、どく、と打つリューちゃんの鼓動が身に沁みて、俺の鼓動を悪戯に引っ張り始める。  
慣れたはずの合同も、この季節になる度に真新しさが帰ってくるのだろうか。俺自身の身は、さながら、初めてリューちゃんと番った時のように驚き跳ねていた。  
「今更だよ、ハクぅ……あたしも好き」  
妻の一挙一動が、俺の喉奥を容赦なく刺し絞める。その声には媚びた色が乗り、静かに漂う空気をざわめかせながら、尚も俺の身体を取り囲む。  
目前に映る妻の、青くも薄い鱗を透かした頬は血色よく紅潮を表している。陽を受けて輝く、恍惚染みた柔らかい表情。  
俺がそんなに好きか?  
声にするでもなく、ただ思慮に留めるその言葉が、頭の中でガンガンと暴れ、俺自身を酔わせる。  
「ね、早くぅ」  
そんな俺を知ってか知らずか、悪戯に急かしてくるリューちゃんを――押さえ付けずには居られなかった。  
湖面が、ばああ、と悲鳴を上げる。  
俺が力を込めて引っ張ると、リューちゃんは抵抗の一つもなく、絡み合ったままの胴体も頭もが、全身が、湖底へと沈んでいく。  
 
「さ、おとなしくしてろ」  
響きの鈍い水中での声も、目前に向ける分には何ら問題なし。胴体以下は絡み合ったまま、湖底の岩一つに彼女の頭後ろを押しつけた。  
ここからどう甚振って、支配してやろうか。  
「やぁだよ」  
こんな状況になった瞬間、生意気な口を叩き始める"こいつ"が、なんとそそることか。  
「いつまで強がっていられるんだろうな?」  
絡ませ合った身体を、今一度ぐいと締め直して、下腹部の辺り、俺の突出した性器を、彼女の細やかな鱗に重ね、静かに滑らせ擦りつける。  
「強がってるのは、あんたさ」  
それでも尚、くく、と、紅潮した青い顔に余裕の笑みを浮かべた減らず口。  
「あたしの思い通りにしか動けないのにね。『俺が主導権握った』とか思ってない?」  
出会った当初の、仲の悪さをそのままぶり返したかのように気を逆撫でされる。  
「へぇ、どこの口が言える? 俺がお前に屈してるとでも?」  
「そうでしょ?」  
互いの絡まりうねる尻尾で、水中へと差す陽光の筋を掻っ切り揺らす。双方ともに感情的になっているのは変わりないか。  
かと言って、冷静で居たいと思う訳でもない。普段通りの思考だって残ってはいるが、今暫くは無視して、腹の沸き立つままに、こいつを甚振りたい。  
こんな時期でなければ、リューちゃんを痛めつけることなんてないんだ。  
 
「や、やめて! ちょっと!!」  
俺は顔を伸ばし、こいつの頭側面から生えている小さな翼へと口を伸ばし、牙を刺し入れる。繕いの真似事なんかする気もなく、周囲の水を吸って嵩を増し、柔らかく揺れていたそれを、切断しない程度には弱く、噛み締める。  
「いい反応だな?」  
口を離して視線を引くと、こいつは小さな牙を剥き出し、虚ろだった瞳を一瞬で鋭利に尖らせ、分かりやすいまでの敵意でつんざいてくる。  
続け様には、絡まる身を引き離そうと、舞い暴れるものの、俺だって易々とは抱擁を解かない。  
湖底の岩に、俺とこいつ、双方の胴体が叩きつけられ、細かな鱗の下に鈍い痛みが浸食してきて居座る。  
「いってえ……」  
その勢いで尻尾の先が解けるものの、下腹部までは離すまい、と、きつく締め上げると、こいつはもう諦めたのか、身体を柔らかく力なき物と変化させた。  
「これでも、お前の思う通りにしか俺は動けないって、思っているか?」  
「うん、思ってるよ」  
ぐるりと巻いた胴体の、下腹部辺りには、変わらず性器ごと身を擦らせ続け。急にしおらしくなったこいつを支配下へと置く。  
言葉ばかりは意地張って達者なままでも、その心は服従したかのように、元来の甘え声を戻し入れ、くく、と水を噛み笑った。  
「全く、貴方ってば不憫」  
「哀れまれる謂れなんか、ねえよ」  
思考の中に巻く不服を、ぼんやりと脳裏にて駆け巡らせながら、下腹部の身動ぎを次第に早めていく。こいつの細やかな鱗が、すうっと力になびき窪んで、俺の突出をめり込ませていく。  
「ふぅうん?」  
瞼は変わらず半開きのままでも、その瞳は、上部にて躍る湖面を写し、青き煌めきに浸食されて。全く可憐。  
ぼんやりと見つめながら、続けられるこいつの言葉にただ感覚を向けて。  
「そうしてるハクちゃんが、特に好きだ。あたしに懸命になってくれるのが、さ」  
その一言が耳に入るなり、どくり、と、強い鼓動が俺の身を打った。湖内にて、一本のひ弱な衝撃波が広がり、湖面より差し込む陽光の筋を分解した。  
するり、と、どちらともなく下腹部の締め付けが緩まる。  
「からかうのは止せよ……」  
目前に伏するリューちゃんの下腹部、擦り付けていた部分よりもう少し下方に開いた隙間へと。擦り付ける身動ぎはそのままに、性器を押し込む。  
「もう、限界?」  
欲しい。  
「あ、あ……」  
思考にして巡るのは、同族の、こいつの甘言一つ一つ。  
「じゃ、激しく。お願い?」  
浮かべた雫を即座に水中へと逃がしているかのような、虚ろにも座ることを覚えぬ瞳。その癖、陣腐にも顎を引いて上目に寄こす視線。  
「リューちゃ……ん……」  
 
絡まったまま、離れるわけでもなく暴れ浮上し、口を添え合い、尻尾を絡ませ、直後には離し、下腹部への斬撃へと切り替える。  
頭が湖面より上にある時だけ、ばしゃしゃ、と絶え間なく続く音。頭が水中に沈んでいる時だけ、ごおおお、と絶え間なく続く音。頻繁に入れ替わり、まるで俺達の感覚を狂わせようとしているかのよう。  
幽かでもいい、漂わせたく放つ、俺とこいつの擦れ声は、瞬く間に裂き消され目前の相手にも届かない。  
波が、俺達の交流を絶とうと、悪戯に身の隙間へと入り込んでくる。絶たれたくない一心で身悶え、求める焦燥感が肥大化していく。  
湖面に何度となく身を叩きつけるにも関わらず、鱗がぱさぱさと水気を失い、身体を硬く乾されたかのよう。  
ふゅ、きゅう。  
辛うじて聞き取れる声は、意地の欠片も無い、甘えた感情を伝えてくる。  
呑気にしているお前が欲しい。お前の血肉に浸かりて、この身じっとりと潤したい。  
「ハクぅう……」  
たくさん支えてもらったし、たくさん頼られたし、これからも続く関係。もう長きを共に過ごしながらも、情操飽くこと無く一緒に居られるのも、お前だからなんだ。  
リューちゃん。  
嬉しいよ、心地いいよ。だから、もっと――。  
 
ばしゃしゃ、と弾かれ宙へと散り浮かぶ雫達は、ただ静かに辺りを煌めかせていた。  
 
 
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それからどのくらい経ったか。大した量の風も過ぎ去ってはいないであろう刻。  
俺達はようやく、絡ませていた身をほどき、離し、水上へと運んだ首に、顔に向かって、疲弊した視線をぶつけ合う。  
「へへ……」  
それとは別に、遠く森の奥より、さまざまな方向より刺さってくる幾多もの視線がこそばゆい。  
「ごめんな」  
「ううん」  
リューちゃんは、そんな俺の様子を察してくれたのか、ゆっくりと俺の顔にその顔を寄せる。  
角側面に妻の鼻先が当たり、目前に小さな口が映り、視界が暗く霞む。何をするつもりだ、と思うより早く、その舌で丁寧に俺の片目を舐め始めた。  
「あ、ちょ、やめ……くふふ」  
取り急ぎ、舌に触れられたほうを瞑っても、瞼の上から繕いの真似事なんてくすぐったく、喉奥から小さく息が零れる。  
本来の効能とは違えど、こそばゆさを取り払おうとしてくれたそのことが、また嬉しい。  
「……楽しかったよね、今度もまたやろう?」  
一瞬、舌が引っ込んだと思えば、こそばゆさをぶり返そうと、確認の言葉を悪戯に、小さく差し向けてくる。  
「ああ……またやろう」  
 
リューちゃんとしても、もう暫くはこうして居たいのかも知れない。悪い気はしなくとも、こっちからも悪戯をしてやりたい、と、今一度静かに顔を離す。  
水上へと浮かばせた顔同士を見合わせ、寄せ直し。今度は首から胴体にかけての部分を一周緩く、くるりと絡ませ。近づく口同士を、丁寧に重ね合わせた。  
まだ陽は真上にさえ昇り切らぬ昼前。落ちていくまでの長い時間を、二匹、のんびりと過ごしていけると、そう願って。  
 
 

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