壱:朝の二人+1
「「行って来まーす」」
「行ってらっさーい」
出勤の挨拶を母に交わし、兄妹は移動手段を腰のホルダーから取り出した。
――モンスターボール
携帯獣……ポケットモンスターの携行容器だ。
開閉スイッチを押し、その中身が姿を現す。
――ボムッ
レッド……ドンカラス。リーフ……プテラ。
ナナシマは迷いの洞窟で捕らえたヤミカラスにとあるルートで回ってきた闇の石を与え進化させたドンカラス。ニビの博物館の科学者に貰った琥珀を復元した絶滅種であるプテラ。……どちらもカントーではかなりレアなポケである事に変わりは無い。
……まあ、薀蓄はどうでも良い。お互い、手持ちの背に乗って空へと飛び立った。
――出勤中 マサラ〜タマムシ間
ゲーム上の処理では一瞬だが、実際マサラと目的地であるタマムシとは結構な物理的な距離が存在する。
当然、この様な会話が発生するのは必然でもある。
「でさあ」
「あ?」
空中を高速移動中なので、叩き付ける風が全身の熱を奪っていく。体感温度はかなり低い。やや後方を飛ぶリーフが帽子を押さえて大声で言う。そうじゃないと空では聞こえないのだ。
「あたしは講義があるけどさあ。兄貴はどうして今日は? コマは空いてたよね」
「研究室に顔出すんだよ。三階生にもなると教授連中に面売っとかないと身動きが取れない。お前もそろそろ行き先決めとけよ」
嘗ては名門と謳われたタマムシ大学。あのオーキド博士もその卒業生として知られているが、此処最近のレベルの低下は目に余る有様であると言う。彼等は其処の学生だった。
「ああ。それは問題無いわ。兄貴の所に行くからさ」
「そうか? なら、今度連れてってやるさ。面倒臭いだろうが、損には成らんぜ?」
レッドの専攻はポケモン資源工学。どうやらリーフの志望も同じ場所らしい。
ここは一丁、兄貴として先輩として面倒を見てやろうと思い至ったレッド。将来の舵を切る大事な場面でそれ位の支援はしてやろうと思ったのだ。
「おーいっ!!」
そんな会話をしていると、後方から誰かの声を聞いた気がした。何かと思い振り向けば、見知った顔があった。
ピジョットの背に乗った青年……グリーンだ。
――グリーン
オーキド=ユキナリ教授のお孫さん。無論、グリーンと言うのは愛称であり、本名は別に存在する。(レッドとリーフも然り)
一年前と数ヶ月前、図鑑編纂の為にマサラを飛び出した、兄妹に取っては敵であり、また幼馴染であった男だ。
「よお。お前らが揃って通学たあ珍しいな」
まあ、今では敵対関係を取る事も無く、お互いに仲の良いお隣さん兼親友だった。
「……そうか? そうかもな」
リーフと話していた時より大幅に抑揚を落として感情がどうにも見えない声でレッドが言葉を紡ぐ。
……別にレッドがグリーンに対して思う所がある訳ではない。家族以外に対して、彼は何時もこうだった。
「そう言うグリーンは? 何時もは会わないでしょうに」
が、リーフは兄の様に誰かに対して反応が変わることは無い。何時もの通りだ。
「ああ。ちょいと学生課に野暮用でな」
「……学割の申請か?」
「いや、提出書類に不備があったってだけさ」
ポケモン進化分類学を専攻のグリーン。レッドと同じく、この時間に授業を入れていない彼が早朝出勤するのは学生課からの呼び出しが原因だった。
「ほんと、最近めっきり会わないわねえ。隣同士だってのに」
「ああ。お互いトレーナーだけやってりゃある程度その辺は好きに出来るんだろうがな」
時間を自由に出来ると言う点ではトレーナー稼業は融通が利くだろう。だが、彼等は今それだけをやっている訳にはいかなかった。
「でも、世の中そうはいかねえさ。だからこそ、大学なんて場所に行って自分の時間を消費してるんだろ? 俺達は」
そうなのだ。トレーナー業のみでは大概は食い繋げないと言う切実な現実が壁として立ち塞がっている。だからこそ、それ以外の食い扶持を持つ事は人生設計に於いて必要な事だった。
「……その辺、どう思ってんだ? なあ、レッドよお」
「・・・」
めっきり口数が減ったレッドにグリーンが話を振る。それに対する答えは三点リーダーだった。……別にレッドは無言と言う訳ではない。無口ではあるがしっかり意思疎通は出来る。少し待ってみよう。
「……餓鬼のまんまじゃ居られないって事だろ。だから、食って行ける職を手に付ける。当然の帰結だ。だが、餓鬼じゃそれに気付けない」
約五秒の沈黙の後、レッドが答えた。
夢を持つのは悪い事ではない。が、それだけでは足りないと気付いたからこその今なのだとレッドは言う。成人している人間が安定性を求める事は至極当然で、それは自分達も例外ではないのだと。
「子供は真っ直ぐだからね。だから、トレーナーとしての大成を望み、多くは散って逝く。一分以下の狭き門なのにね」
ニッポン国の抱える闇だ。トレーナー志望の人間は年々増加傾向だが、夢破れる者がそれ等の99%を占めると言う実情と、リタイヤしたトレーナーの受け皿となるべき法や職が存在しないと言う信じられない状態が国内でずっと続いている。
そう言った社会の爪弾き者の多くが犯罪に手を染め、社会問題となっている。トレーナー崩れが行き場に迷い、ロケット団に身を寄せていたと言うのは有名な話だ。
……無論、この三人はトレーナーとしては成功している稀有な例だが、他人事だと笑っては居られなかった。
「夢とか可能性とか、不確かな物に縋れなくなる。……大人に成っちまったって思うぜ」
「大人に成るって事は汚れるって事。だって、もうまっさらな頃には戻れないでしょ? あたしも兄貴も。グリーンも、さ」
歳を重ねる度に見えない物が信じられなくなり、最後には恐怖すら抱く。それを悔いたとしても時は戻らない。身体に染み付いた経験と言う穢れは決して拭えないからだ。
「違いねえな」
……随分遠く迄来ちまった。良く考えれば、やっぱりそう考えざるを得ないグリーンだった。
「だからこそ」
レッドが沈黙を破る。
「あの夏の日々は俺達にとって掛け替え無い物だって、信じてるよ。無茶やって、馬鹿やって。少なくとも、俺は自分勝手な糞餓鬼に半分戻れた。……お前はどうだ? グリーン」
「あ――」
今度は逆に質問を投げ掛けられた。それについてどう答えて良いものかグリーンは悩む。レッドのその言葉には今の自分達に纏わる様々なモノが含まれている事が判ってしまったからだ。
あの一年前の夏の日々……
得た物、無くした物、捨て去ったモノ。色々と思い付くが、少なくともあの頃を境にレッドとリーフが変わった事は誰よりも知っている。側で見てきたからだ。
……否。少し違った。兄妹が変わってしまったのはもうずっと前からだった。
思い出だしたくも無い過去の情景が脳裏を過ぎり、グリーンは頭を振ってそれを心から追い出した。
「そう、だな。……そうかもな」
そう答えるのがグリーンには精一杯だった。無表情である筈のレッドの顔が自嘲気味に歪んでいる気がする。それがグリーンには無性に悲しかった。
「兄貴……」
妹には、そんな兄の心が見えているらしい。沈痛な表情がそれを教えていた。
……これ等から判るのは一つだけ。取り合えず、空を飛びながら通学路でする会話でないのは確かだった。