拾壱:月に吼える
――レッド宅二階 レッドの部屋
「ふああああ……」
目覚まし時計のアラームと共に意識を眠りから浮上させ、ベッドから起き上がる。
上半身裸、形見のネックレスとジーパンのみを装着した姿で大欠伸をしながら、ぼりぼりと頭を掻いた。
「あ?」
ふと、ベッドに目をやると其処に何時も居る筈のもう一人の姿が無かった。
……気の所為か、何時もよりベッドの空白が広い気がした。
「珍しい。アイツ、もう出たのか」
日付はテレビでロケット団解散が報じられた次の日。八月三十一日だった。
頭の隅に引っ掛かりを感じるが、それを気の所為だと処理して、レッドは黒いTシャツに袖を通し、下に降りた。
――レッド宅 居間
「おはようさん」
「あら、おはよう。自分で起きてくる何て珍しい」
居間に下りた時、母親は朝食準備の真っ最中だった。何気無く言われた母の台詞にまたもや引っ掛かりを覚えるレッド。ずっと自分は母に呼ばれる前に自力で起きていた筈で、寧ろ起きて来ないのはリーフだった。
「?」
……きっと間違っただけだろう。テーブルから椅子を引っ張り出して、それに腰掛ける。
沸々と湧き上がる厭な予感。レッドは何とかそれを無視する事に勤めた。
だが、それは出来なかった。
「そう言えば、リーフは? 今日も研究室?」
厭な予感の根幹。リーフの事について。胸中を悟られない様に何気無い会話を装って、普通の声色で尋ねた。
「・・・」
母親は手を止め、凍結した表情でレッドを見詰める。
「母さん?」
何故、其処で黙るのだろう。予感が急速に確信に変わって行く様を脳内で見せ付けられる。
……否、そんな筈は無い。レッドは自分の希望的観測を崩さなかった。
「それは、誰の事?」
だが、それは彼の母親自身の言葉であっさり裏切られた。
「はあ?」
最初、それを冗談だと思った。否。そう思い込みたかった。嫌な汗が全身に噴出して、衣服に張り付いて来る。レッドはそれが不快で堪らない。
「リーフだよ。俺の一ヶ下の妹でアンタの娘だ。俺に全部任せるって言ったの母さんだろ?」
念を押す様に言ってやる。頼むから、冗談だと言ってくれ。しっかり思い出してくれ。アンタの娘の事を。俺の妹の事を。
……お願いだから。
「いや、任せるも何もねえ」
――おい おいおい。まさか まさかまさか。
……言うな。それ以上言うな!
「あなた一人っ子じゃないの」
「――っ!!」
レッドは二階に駆け上がった。リーフの、妹の痕跡を探す為に。だが。
「――無い」
無い、ナイ、ない、無いっ!
彼方此方ひっくり返して探すもその存在の欠片すら見つからない。
箪笥、ベッドの下、本棚、机の中。見当たらない。収納箱の中身を全部ブチ撒けた。
妹の服も、バッグも、化粧品も、書籍も、研究資料も。寝る前にあった筈のその一切が消えていた。
「駄目だ。……糞がぁ!」
レッドは家を飛び出した。ドンカラスをボールから解き放つと、空へ飛び立った。
知り合いに聞いてみる事にした。それに賭けたかった。
「はあ? お前、頭でも打ったの?」
グリーン。馬鹿にした様な顔をされた。今度殴って置こう。……次だ。
「えっと、俺はレッドに妹が居るって始めて聞いたけど?」
タケシ。露骨に戸惑われた。御協力有難う御座いました。……次。
「どちら様ですかそれ? そもそも先輩は一人っ子では」
ナツメ。変な顔をされた。本職エスパーでもお手上げとは。……次。
「私は存じ上げませんわ。何かの勘違いではありませんの?」
エリカ。知らないと言われた。後は誰が居ただろう? 次は……
思い付く限りの知り合いを尋ねて撃沈を繰り返す。ジムリーダーは愚か、四天王にだって尋ねたがそれでも駄目。知っている名前を辿って、それが無くなる迄同じ事を繰り返した。
――居ない
リーフを知っている者が誰も居ない。自分の頭の中にしか存在しない。
何だこれは。何なんだ?
周りの全てからリーフの情報だけが失われてしまっている。
これが世界のルールと言う奴なのか。こんな。こんな……!
――お月見山 広場
方々を彷徨った末に、辿り着いた山の広場。空に映える月がレッドを嘲笑っている。
「何処行っちまったんだよお……!」
疲れ切っていた。足は棒の様で、思考力は昆虫並みに低下している。
肉体的と言うより、精神的疲労の方が強い。一日で一生分の徒労を味わった気がする。
辺りはすっかり闇に包まれていて、今が何時かも判らなかった。
一体、自分は何時の間にこのおかしな世界に迷い込んだのだろうか。これが夢ならさっさと覚めて欲しかったが、頭を壁に打ち付けても目が覚める事は無かった。
「リーフぅ……っ!」
頭を抱えて苦悩する。泣きたい気分なのに、天邪鬼な涙腺は反応すらしてくれなかった。
自分の半身が居なくなる事がこれ程の痛みを齎すとは。本当に心が引き裂かれそうだった。失って始めて判る大切な人の価値。リーフの存在かどれだけ大きかったのか、レッドは初めてそれに触れた気がした。
乗りが良くて、やや癖っ毛で、抱くと柔らかくて、酒飲みで、締りが最高で、笑顔が可愛くて、おっぱいデカくて、ポケモンの菓子作りが得意で、喧嘩も強くて、寝起きが悪くて、何時も助けてくれて、癒してくれて、俺の相棒で……
リーフに対して思う事は沢山在り過ぎて一言では言い表せない。脳裏に浮かぶ妹の特徴は多い。それなのに今は妹の顔が思い出せなくなっていた。
……消える。妹の温もりや、想い。重ね合った絆と、愛情が失われて逝く。忘却の彼方に消えて往く。
「――厭だ」
自分の大切な者がどんどん居なくなる。嘗てはギャラドス。自分の慢心と社会の歪みによって。
そして、今回は妹。血を分けた大切な、世界で一番大切な女が理不尽な力により存在そのものが抹消されて往く。
そんな糞っ垂れな世界はこっちから出て行ってやりたかった。
果たして、これが、殺生を重ねた罰なのか。だとしたら、何故自分も消し去らないのか。
それは役目とやらがあるのからか。ファイアレッド……前作主人公としての役目が。
「役目……」
忘我と言った表情だったが、それでもレッドは顔を上げた。
リーフにも嘗ては存在した役目。リーフグリーンの主人公。
だが、今はそうでないから彼女は退場させられた。平等に被る筈だった今作のロールを自分が全て奪ってしまったからだ。
それなら、リーフにもそれ以外の確たる役割が存在すれば、与えてやれれば或いは。
「……ある」
レッドには確かにリーフにしか出来ない役目がある事を見出していた。
本来それは、舞台役者が勝手に振って良いモノでは無かった。
だが、この世界に……否、世界を創り出した神たる存在に彼女に対する一片の慈悲でもあるのなら、それは是非とも叶えて欲しかった。
リーフが存在するに足る役割。それは……
「戻って来いよ……! お前が居なけりゃ俺は……俺はなあ……!」
神には縋らない。以前そんな事を言った自分が阿呆らしくて笑えてくる。
では、都合良くそれに頼ろうとしている今の自分は何なのだと。
……決まっている。それこそが神ならざる人の姿だ。
人間の手ではどうしようも無い超常的な何かを前に人は頭を垂れて祈るしかない。
だが、こんな屈辱で大切な女が帰ってくるなら安いモノだと、レッドは只管祈った。
――俺の相棒を返してくれ、と
「!」
不意に、何かの気配を感じた。自分以外誰も居なかった筈の広場に膨れ上がるその存在感。レッドは自分の勘を頼りにその元凶を探し始めた。足取りは覚束無いが、それでも思考だけはクリアだった。
「リーフっ!!」
月を背にして、彼女は泉の畔に立っていた。レッドが捜し求めていた女は穏やかな微笑を湛えていた。
……でもその姿は幻の様に透けていて。レッドは恐れずに駆け寄った。
「――!」
そして、その姿はその手に抱いた瞬間に掻き消えた。
「あ」
自分の両手を見詰める。抱いた筈のリーフの身体。だが、掌には何も無い。
――何も無い筈なのに
レッドの両腕から先は血でべっとり汚れていた。
「あ、ああ……!」
――バシャ
力無く、泉に膝を付く。水の冷たさは不思議と感じない。その水面に映し出される自分の姿。余す所無く血塗れだった。死の臭いが激しく鼻を突く。
「うおわああああああああああああああああああ――――っっッ!!!!!!」
月に向かってレッドは吼えた。
「……貴! 兄貴ってば!」
「――っ!?」
肩が揺す振られている。瞑っていた目を開くと其処には見慣れた天井。自分の部屋だった。
――レッド宅二階 兄妹の部屋
「あ、起きた。んもう、吃驚させないでよお。何時も以上に魘されてるし、揺すっても起きないしさあ」
「……ゆ、め?」
顔を傾かせるとほっとした様な妹の顔があった。夢、だったのだろうか。
……だとしたら何て夢だ。相棒の死以上に見たくない光景だった。
「もう日付変わっちゃったよ。夜更かしはお肌に悪いのよねえ」
「日付……」
むっくりと身体を起こす。全身に疲労が圧し掛かっていた。今迄寝ていたとはとても思えない身体の重さだった。
リーフの言葉にはっと気付きレッドが尋ねた。
「今日、何日だ?」
「え、八月三十一日。あ、日付変わったから九月一日だわ」
「――」
それを聞いて絶句した。今朝、確かに日付を確認した。八月三十一日だった筈だ。
「俺、今日何してた?」
「そんなの……あれ」
何で俺は他所行きの服のまま寝ていて、その膝下が水で濡れている? 昼間、一体何をしていた? それは勿論……
リーフに聞いてみたが、何故か彼女は怪訝な顔をした。
「どうしたんだろ。記憶に無い。……そう言えばあたしも何してたんだっけな?」
途端、背筋が寒くなった。どうして、自分の一日の行動を覚えていない?
思い出そうとして首を捻るリーフだが、どうしても思い出せない様だった。
『夢じゃなかった?』
それとも、目の前のこれがそもそも現実じゃあない?
「お前、本当にリーフだよな?」
「はい? ちょっとちょっとこんなエロ可愛い妹が他にいるっての?」
信じられるモノが何も無い不確かな状態だった。自分自身の存在すらあやふやだが、それ以上に目の前のリーフの存在が疑わしかった。
勘繰ってみるも、その反応を見る限り、彼女の受け答えはレッドが知るリーフのそれに間違い無かった。
……だが、未だ確証が無い。
「本当に、ほんとのほんとにリーフなんだな!?」
レッドはその存在を確かめる様に手を伸ばす。触れたのはリーフのたわわに実るおっぱいだった。
「きゃぁっ! い、一体どうしたのよ。……んっ、やばい薬でもやったの?」
一瞬、身体をビクッとさせたリーフだが、レッドを張り飛ばす様な真似はしなかった。
少し、眉を顰めただけで結局レッドの気の済む様にさせた。
「リーフ……」
むにむにむに。掌一杯に捏ねて、揉んで、触って確かめた。
服の上からでも判るこの柔らかさ、90以上あるに違いない質感と肉感。正に一級品。それはレッドだけが知っているリーフの乳の感触に間違いは無かった。
最早、本人として疑う余地が無い事を確認して、途端、レッドの顔が崩れた。
「リー、フ……っ!」
「っ!」
涙を滲ませて、自分に縋り付く兄の様子を見て只事ではないと妹は理解した。
兄の涙など、復讐を決意したあの日以来終ぞ見る事が無かったのに。
「……大丈夫。あたしは此処に居る。居るから」
啜り泣くレッドをあやす様に自愛に満ちた表情で背中を摩り続けるリーフの姿は、まるで若き日の二人の母親の様で、また神々しくもあった。
「何があったの?」
一言だけそう言って、レッドを宥め続けるリーフ。母性溢れる彼女の抱擁に徐々に落ち着きを取り戻したレッドはぽつりぽつりと語り始めた。
「あたしが、消えた、か」
「ああ。誰も覚えてなくて。痕跡すら無くて。捜して、捜して。見つけたと思ったら消えて、俺は蝕まれて……そして、お前に起こされた」
何時もの夢に輪を掛けて最悪な、文字通りの地獄みたいな光景だった。ダークライだってもう少し慈悲のある悪夢を見せるだろうと思わず考えてしまう程の。
「ルールに乗っ取って排除されたのね」
「そう言う事だろう、な。……焦ったぜ。本当にな」
どうやら、退場した本人にもその自覚は無い様だった。
……何て恐ろしい事だ。不要と判断された役者は自分が消えた事に気付く事も無く、その痕跡すら残さず消滅させられるのだ。それがこの箱庭の掟だと言うのなら、無慈悲にも程がある。
そして、リーフはそれに一度飲まれた。レッドにとってはまるで心の大半が砕けて消えた様な喪失感だった。
「もうあたしが果たさなきゃならない役目なんて無いって思ってた。だから、消え去るのが無性に怖かった」
以前のリーフの言葉。彼女がそれを察知したのは、消される前の危機意識か、それとも前借主人公を張った経験からか。恐らく、そのどちらか若しくは両方だろう。
「そして文字通りに一度消えたんでしょ? でも、あたしはこうして存在してる。一体、どうして」
それがどうにもならないと判ってしまったから、彼女はレッドに縋った。しかし、一度消えて尚、こうして存在している事がリーフには腑に落ちない様だった。
あの時から、自分には存在に足る役割が無かったのを知っていたからだ。
「思ったんだよ。お前に新しい役割が出来れば、また俺の前に現れるって」
レッドにはそれが納得出来なかった。だからこそ、彼は世界に対しリーフの役割を提示したのだ。彼の願いが叶えられたのではなく、世界がそれを背負ったリーフを気に入ったので彼女は再び存在を赦されたのだろう。
「あたしに課す役目って、兄貴が?」
「ああ。ゲームの駒である俺にそんな権限は無いけど、それでもそうしなきゃって」
あらゆる事象は観測者が認識しなければそもそも存在し得ない。世界の掟に気付いてしまった以上、それは確かに存在する明確な力だ。脚本と言っても良い。
レッドがそれにアクセス出来たのも、単に彼が背負っている役目の重さか、或いはリーフに対する想いの強さか。
……兎に角、彼は脚本を書き換えたのだ。それに伴って舞台に再登場したリーフが再び消える事は無いとレッドは確信している。其処に精査は必要無かった。
「それって一体……」
「……秘密だ」
問題なのはリーフが背負わされと言う新たなロールの詳細だ。本人の意思を無視して兄によって勝手に背負わされたそれを聞く義務が妹には生じていた。
リーフは神妙な面持ちをしていたが、レッドは顔を背け、断固として語ろうとしなかった。そんなレッドの態度が気に入らないのか、リーフが弾けた。
「何それ気になる! 肉奴隷? 性処理肉便器? オナホール!? ペット!? 愛奴!? ……今も十分それに近い事をやってる気がするわね」
「おい。色んな意味でおい」
何でそんなエロ方面に偏ってるんだ。他にもっと相応しい言葉があった筈だ。しかも今の自分はそれに近いって俺はどんだけ筋が入った変態さんだよ。
……レッドには言いたい事が山程あった
「じゃあ、とっとと吐いちまえよお。うん?(怒)」
「ひ、秘密。いや、何れは言うから今は勘弁して」
自分の乳をぐいぐいとレッドの顔を押し付けて、柄が悪い態度で尋問するリーフ。その彼女のこめかみに青筋の十字路を見てしまったレッドは何時かは言うからと許しを請うた。
「むう。しゃあないか」
「ぶっ」
――べしゃ
あっさり承認したリーフは手を放すと、レッドが顔からベッドに着地した。
何れ話すと言うのなら、無理に聞き出す必要は無いと思ったのだ。それ以上に、兄を尋問の名目で苛めるのは妹としては嫌だったのだ。
「はあ。せめてお嫁さん位なら妥協しても良いけどさ」
だけど、やっぱりそれ位は言って置いても良いだろうと、リーフはレッドを見ずにぶつぶつと呟いた。
「//////」
……何故か、レッドは顔の半分を掌で覆ってそっぽを向いていた。
「って、そりゃ無理か。……どしたの?」
「ナンデモナイデスヨ? ハイ」
どれだけ鋭いんだこの女。やっぱり侮れない。
振り返ったリーフが不審そうに見てくるが、レッドは怪しいイントネーションで自分の胸中を最後迄ひた隠した。
この一件を最後に、レッドが相棒の悪夢に魘される事は無くなった。