陸:愛を注ぐ責任
「・・・」
目を閉じて黙祷するレッドを横目に見ながら、リーフもまた思い出していた。
こんなに真剣に祈りを捧げられるなんて、余程相棒を愛していた証だろう。
リーフはそう信じて疑わない。
そして、想いの深さなら自分も決して負ける気はしないとも。
相棒を貰った当初は散々文句を言った気がする。
「やだやだあ! こんなのよりプリンが良い!」
まあ、子供……それも女の子にありそうな駄々だった。だが、それもリーフの気持ちになればそうだろう。世界で一番醜いと言われたポケモンを半ば押し付けられたのだ。
あれが無ければリーフが確実に投げ出していたのは確かだった。
「これなあに?」
「図鑑だよ。パパが各地で仕入れたポケモンの情報を纏めた物なんだ」
あれとは父親が纏めたポケモンのデータの資料を見せて貰った事だ。
図鑑と言うにはおこがましいポケモンの詳細な図解が載っただけの紙束だったが、その一部は現在のポケモン図鑑の礎になっていると知った時は大層驚いた。
「ほら、リーフ。これを見てごらん」
「んー? ――わあ」
そんな事よりも衝撃的だったのはとあるページに記されたポケモンだった。
「凄い綺麗! ねえねえお父さん! これ何て言うの!?」
「これはミロカロスって言ってね。世界一美人なポケモンさんだ」
慈しみを司り、見る者全ての荒んだ心を癒すと言われる逸話があるポケモン。その存在を知った時のリーフの衝撃は凄かった。
だが、それ以上に衝撃的だったのはそのヒンバスとミロカロスの関係だった。
「世界一ぃ? ねえねえ、リーフも逢えるかなあ? そのミロ……何とかさんに」
「逢える可能性は高いね。だって、リーフはもう持ってるだろう?」
「??」
「ミロカロスはね。ヒンバスが大きくなった姿なんだよ」
進化条件……美しさを重点に慈しみを以って育てましょう。
「ええ〜〜!? うっそだあ!」
「本当だよ。多くの事例を見てきたから間違いない。……リーフもこの子に会いたいなら、しっかり可愛がって育てるんだよ? 美容院行ったり、渋いお菓子を上げたりね」
「む、むうう……」
どうにもリーフは信じられなかった。あの格好悪い魚がこんな綺麗に化けるなんて、まるで醜いアヒルの子の様だったからだ。
しかし、父が嘘を言っているとも思えなかった。何て言ってもポケモンの研究を仕事にしている人だ。その知識は誰よりも深いに違いない。
「……分かった。頑張って、可愛がる」
「良い子だなリーフは。お兄ちゃんも龍鯉伝説を夢見て……かは知らないけど、コイキングを育ててるんだ。頑張りなよ」
何やら上手く誘導された気がしないでも無かったが、あの美しいポケモンが自分と居るのだと考えると幼いリーフのテンションは不思議と上がって来た。
その日から一転してリーフは木の実栽培に夢中になった。父の言うヒンバスの美しさを磨く為にカントーでは普及していないポロックやポフィン作りにも手を出し始めた。
その実験台になったのは主に自分と兄貴。毛艶をなるべく消費しない為に、幼少の兄妹はポロックやポフィンの失敗作を食べて腹を壊す事が日常的だった。
美容院にだって通った。それだけでは足りず、自分でグルーミングの技術を学んだり、お隣のナナミお姉さんから教わったりもした。
そんな涙ぐましい努力の甲斐あり、リーフが小学校に入る頃にはヒンバスは見事ミロカロスへ進化を遂げていた。
全ては進化の為に。その副産物として、料理作り(ポケモン用)の腕はその年齢からは郡を抜いて上手かった。
小学中学年に入り、兄が図鑑編纂を断った事を切欠にリーフもまたそれを断る。
レッド程バトルが得手だった訳ではないし、グリーン以上のポケモンの知識は持ち得ない。自分にあるのは料理の腕だけなので、内心ほっとしている部分もあった。
それから少しずつだが、リーフもバトルのいろはを学び始める。やはり、血は争えないモノで、一年も経過する頃にはレッドと比べても遜色無いトレーナーへと成長していた。
――マサラに双神威(ふたつかむい)ありき
……そんな変な二つ名で呼ばれたりした事もあった。
……只管に愛情を以って接して来た。本当はバトルにだって出したくなかった。相棒が傷付くのが耐えられなかった。
それでも、少しでも兄の側にあって自分の実力を周りに認めて欲しかった。
『嗚呼、あたしってば相棒を道具として使ってる』
そう思った事も一、二度ではない。それでも、相棒は自分を信じて戦ってくれた。
……それならば。
「道具を道具として上手く使ってやるのが、トレーナーの宿命」
リーフはそう思い込んで自分を欺く事にした。……道具だ何て欠片も思っていない癖にだ。
そして、時は移ろいあの事件がやってきた。
――兄が、無二の相棒を失った
その時のレッドの憔悴振りと言えば見ているこちらが泣きたくなる程に酷かった。やせ細り、満足な受け答えすら出来ない。意味不明なうわ言を繰り返し、夜中に大声を上げて飛び起きて、トイレに駆け込み嘔吐する。半分病人の域だった。
とてもじゃあないが、数日前にあった目出度い事とその証を表に出せる状況ではなかった。
兄のギャラドスが死ぬ丁度二日前だ。相棒のミロカロスが何かを大事そうに抱えていたのだ。 見た瞬間にリーフはあ、これはと思った。
それはポケモンの卵だったのだ。実物を見るのは無論初めてで、途方に暮れている所に丁度通り掛ったオーキド博士が
『良し。そう言う事なら儂が預かろう! 儂も卵に触れた事は余り無いのでな。これは良いデータが……いや、ちゃんと預かるぞ? うむ』
……そんな事を言いながら卵を持って行ってしまったのだ。
レッドのギャラドスとリーフのミロカロスは非常に仲が良かった。育て屋に預ければ即行で卵が出来そうな程に。今迄見つからなかったのが逆におかしい位だった。
今思えば、これは自分の死期を悟ったギャラドスが自分の血を残そうとした結果なのでは無いか、と勘繰ってみるも、それは本人達にしか分からない事だった。
……何れにせよ、こんな状況のレッドにギャラドスには残し形見が居ると言う事を伝えればどうなるか分かったモノではない。
リーフは結局、この事をレッドが落ち着く迄、黙っている事にした。
番を失って夜に泣いている相棒の姿を見てしまったと言うのも理由だった。人間もそうである様にポケモンも同じく悲しいのだ。
それから少し経ってレッドは大分落ち着く様になった。しかし、以前の様な感情は消えうせて、何処かが壊れてしまった事をリーフは妹として理解した。
その原因を作り上げたロケット団を大層、恨んだりもした。ギャラドスを殺した事もそうだが、兄の笑顔を奪った……否、殺した事は絶対に許せない。
リーフはレッドが自分に向ける笑顔が何よりも好きだったのだ。だが、所詮は小娘である彼女が出来る事は何も無かったのだ。
そして、リーフは引き続き博士に卵を預かって貰う様に頼んだ。新しい命を育てる精神的余裕は彼女にだって無かったのだ。
……そうして、とうとうリーフにも別れがやって来た。そして、それは今の兄妹の原型が出来上がった瞬間でもあったのだ。
どうもミロカロスの様子が芳しくない。最初は只の風邪だと思った。だが、違った。日を追う毎に弱り、とうとう自力では動けなくなる。
美しかった鱗は艶を失い、ボロボロと剥がれ落ちてくる始末だった。
ポケセンへ連れて行き、診断を受け、返って来たジョーイさんの答えは意外なモノだった。
――ポケルス感染
そんな馬鹿なとリーフは思った。
ポケルスはポケモンに寄生する微生物郡の総称で、発症確率は凡そ1/22000。そして、例え感染したとしても害を成さず、寧ろ得られる努力値が倍になる益を及ぼす存在だと習って知っていたのだ。
だが、ミロカロスが感染したものはそれらとは一線を画す危険なモノだった。
形態はポケルス様だが、他個体への感染力が無く、感染個体の細胞の複製機能を用いて自身の複製を作り出し、最後には細胞を破壊する。
……完全にウイルス感染だった。しかも、この複製の際に生成される毒素の強さと爆発的な増殖力は死病と言っても差し支えない程のモノであった。
前述の通り、本来のポケルスは毒性が無く、感染個体は勝手に免疫を作り出して自力で治ってしまう。だからこそ、ワクチンや抗生物質と言った物が存在しない。
それはつまり、治療不可能と専門家から死亡告知をされたも同義だった。
……更に恐ろしい事に、だ。
今迄、毒性を持つポケルスは発見された事が無い。今回のこれにはポケルスに似た特徴はあるものの全くの別物である事。致死性が高く、感染力が無い事からこの致死性ポケルスが何者かに創り出された可能性が高い事が示唆された。
つまり、ミロカロスは何者かが起こしたバイオテロの犠牲者である可能性があると言う事だった。
一体自分に何が出来るのか。リーフは力無く項垂れた。直る見込みの無い相棒を死の瞬間迄看ていてやれと言うのか。今直ぐ姿も分からない犯人を捜して治療法を聞き出せば良いのか。
……考えが纏まらない。リーフは相棒が苦しんでいる家に帰るのが精一杯だった。その足取りは明らかにふら付いていた。
それからリーフは手を尽くした。最新の薬、民間療法、効き目のありそうなあらゆる方法を試した。そして、挫折した。
寝ずの看病を続け、倒れそうなりながらも、レッドや母に支援されながらそれでも頑張り続けた。グリーンやオーキド博士の手を借りたりもした。
『愛情以って、しっかり可愛がって育てるんだよ』
子供の時、父が言った言葉を実践する様に踏ん張り続けた。
だが、それでも神は応えなかった。
数日に渡り続いた地獄の様な臨終の苦しみがとうとう終わった。それは奇しくも一年前にレッドのギャラドスが死んだ日だった。
医者が見守る中でミロカロスは息を引き取った。
体の大部分の肉が壊死し、腐り落ちた凄まじい状況だった。慈しみの化身とも言われるミロカロスがそんな醜い姿を晒して死ぬ。
……こんな残酷な事があるだろうか。
臨終を告げられた瞬間、張り詰めていた糸が切れた様にリーフは意識を失った。限界はとうに超えていたのだ。
数日眠り続けたリーフが目覚めた時に、最初に目に入って来たのはテーブルに置かれた相棒の遺灰が入った骨壷と、剥がれ落ちた虹色の鱗だった。
「――――ッッっ!!!!!!」
リーフは泣いた。慟哭した。今ならば兄の気持ちを理解出来る。声にならない声で只管に泣き続けた。
後の顛末は大体がレッドと同じだ。塞ぎ込み、笑顔を無くした彼女は兄と同じ道を辿る。
『あはは……もうポケモンはいいや。可愛がる程に、別れは辛いって判ったから、さ』
こうして、リーフは兄と同じくポケモンから足を洗ったのだった。
リーフはその騒ぎの後、オーキド博士に卵の処遇についてこう言った。
……無期限に預かって下さい、と
一心に愛され、またそれに応えた彼女の相棒。遺された鱗は、今も彼女と共にある。