序:厭な夢  
 
 
――赤い  
 只管、赤い光景が広がっている。  
 飛び散っている肉片。噎せ返る血の臭い。  
 
『……嗚呼、吐き気を催す様だ』  
 
 眼下に横たわるのは、相棒の姿。青い鱗が血の赤に染まって、大きな傷口からは白い骨が見えていた。  
 ……致命傷だ。  
 
『どうして、こんな事に』  
 
 誰も見たがらない地獄の様な光景。  
 ……目を背けたい。駆け出して逃げてしまいたい。  
 でも、どうしてか足は動かなくて。  
 
「――――っ!!」  
 
――悲鳴を上げる寸前にはたと気付いた。  
 
『ああ。こりゃ夢だ』  
 
 ……そうして、俺は何時もの様に自分の悲鳴で起こされる。  
 
 
「……う、ぬ……っ」  
   
 瞼を開けると其処には見慣れた天井があった。窓辺からは秋の日差し。外からはオニスズメの囀りが聞こえている。  
 自分の部屋。どうやら毎度の如く、見たくも無い昔の夢に魘されていたらしい。  
「……あー、朝か」  
 目覚めからして最悪。あれから何年と経つが、自分がこの悪夢から解放される兆しすら見えない。スリーパーですら食中りを起こしそうな夢だ。正気なんてとうの昔に何処かへ投げ捨てた気がする。  
 ……何時になったら枕高くして寝れる事やら。  
 
『レッド〜! ご飯出来たから、リーフと一緒に降りてらっしゃ〜い!』  
 
 と、階下から母親の声が聞こえて来た。  
 ……デカイ息子と娘に朝飯を用意してくれる母の愛に感謝。呼ばれた青年……レッドは上体を起こそうとした。  
「――あ?」  
 が、体は重石を括り付けたみたいに動かない。……それもその筈だろう。  
 
「――くー……くー……」  
 
 すやすやと寝息を立てる一つ下の妹……リーフがレッドの体に四肢を絡みつかせていた。  
 
「・・・」  
 この様な事は日常茶飯事だから兄は慌てない。器用に組み付いた妹の腕や足を解いて、パンイチ状態で起き上がり、ベッド脇に立つ。  
 否、正確にはパンイチでは無い。彼の胸元には蒼い鱗が括り付けられた簡素なネックレスが光っている。それを除けばレッドはトランクス一枚だった。  
 ……体全体が汗でべた付いている。生臭くて、甘ったるい臭いすらしている。恐らく、昨夜のハッスルの残り滓に違いない。  
 レッドは床に乱雑に放り投げられていた自分のジーンズを拾って履くと、Tシャツを脇に抱えて階下に降りていった。  
 
――マサラタウン レッド宅 リビング  
「では、頂きます」  
「はいどうぞ。召し上がれ」  
 シャワーを浴びて汗を軽く流して、母親の作った飯にありつく。普通の白米に味噌汁、焼き魚、納豆、そして漬物。一般的なニッポンの朝のスタイルだ。  
「お父さん、再来月には一度帰るって」  
「何時ものペースだな。もぐもぐ……っ、今は何処に? アイスランド?」  
「デンマークよ。……グリーンランド」  
「僻地だなあ」  
 しっかり租借し、飲み込んでから母に答えるレッド。噛みながらの受け答えはマナーが悪い。  
 彼の父はポケモン学者。嘗てはフジ老人に師事し、その彼が一線を退いた後にオーキド研究所に移った来歴を持つ。  
 一年の殆どを海外で過ごし、偶にフラっとマサラに帰ってくる。  
 過去に一度、両手に札束満載のアタッシュケースと共に帰宅した時は犯罪に手を染めたのではないかと家族を不安にさせた事もある。  
 ……そんな事情で彼の家は半ば母子家庭だが父親が行方不明と言う訳ではない。  
「それで、リーフは?」  
「? むぐむぐ……っ、爆睡中」  
 妹の話題が出た。レッドは黙々と食事を続けた。  
「あの子、今日は朝から講義でしょ? 欠席は駄目よ」  
「俺に言わんでくれ。寝てるアイツに言ってくれよ」  
「あの子の事は全部あなたに任せてる。お兄ちゃんでしょ? フォロー位しなさいな」  
「……そうだけど、さ」  
 レッドが箸を止めて少し顔を顰める。母の言う『任せている』と言う言葉は一般的に言われている兄妹のそれではない。レッドもそれを理解しているからこそ、反論は出来ない。  
「ちゃんと起こすのよ?」  
「へいへい……」  
 若干、渋々と言った感じにレッドは頷き、茶碗の米を一気に掻き込んだ。  
 
――レッド宅 二階 兄妹の部屋(愛の巣、又は牢獄)  
「こう言う時、しわよせが回るのって大抵兄貴だよな」  
 ぶちぶち文句垂れながらシーツに包まった妹様を見下ろすレッド。昨日の痕跡が染み付いたベッドで惰眠を貪るリーフは当然ながら何も身に着けていない。  
 ……左腕に見える虹色の鱗をあしらったブレスレットを除いて。  
『羨ましいとか思った奴、そりゃ大きな間違いだ』  
 レッドさんの心の声だ。リーフの寝起きの悪さは筆舌に尽くし難い。まるで猛獣を相手にする気分になってくる程だ。  
「だから、起こさない様に離れたって言うのにさ。でも、母さんの言う事にゃ逆らえんしなあ」  
 ……ブー垂れてても仕方ない。レッドは覚悟を決めて、リーフのシーツを力尽くで引っぺがした。  
 
「んにゅ……む〜、何よお〜もう〜……」  
 むずかる様子を見せるリーフ。レッドは冷ややかな声を浴びせた。  
「おい、起きろ」  
「――すぅ……」  
「寝るな、起きろ」  
「んう……後、五時間……」  
 こいつ、この状況で二度寝とは良い度胸じゃあないか? しかも、五時間て何だ。正午過ぎになっちまうぞ。  
「起きろっての。一限の講義どうすんだ」  
「寝てる……日数足りてるし」  
「おいっ。母さんに文句言われるのお前だけじゃないんだぞ」  
 どうやら完全にサボタージュする気満々だ。言う事を聞きやしねえ。いっそ、本当に無視してやろうか。……駄目だ。母さんに睨まれる。  
「……あー、どうすっかな」  
「ん〜……そだねえ。……お兄ちゃんがちゅーしてくれたら起きるかもよお?」  
――ピキ  
 若干、はにかみながら眠そうに見てきたリーフに、レッドは一寸苛っと来た。  
 この糞アマ、他人を困らせて遊んでやがる。だから、起こしたく無かったんだよったく。  
「・・・」  
 だがしかし。妹に嘗められっ放しと言うのは兄として看過出来ないモノがある。レッドはベッドの上に上がった。  
 
「ありゃ? えと、本当に……してくれるの?」  
 リーフは何か勘違いし、期待に胸を膨らませている様だ。残念ながら、レッドは其処迄妹に尽くす兄ではない。  
「あ、え? ちょ、ちょっと!?」  
 先ずは仰向けにひっくり返して、腹下に手を入れて浮かせて……  
「尻を上げて欲しいんだけど」  
「こ、こうかな」  
 リーフの眠気は幾らか飛んでいる様だ。しかし、しっかりと兄の指示を聞く辺り、思考能力は寝起きのままらしい。  
 斯くして、リーフはレッドに尻を向ける格好を取った。  
「オッケー。――それじゃあ」  
 レッドは利き腕を大きく振り上げて……  
 
「さっさと起きろや愚妹が」  
 
――バチーンッ!!  
「ふぎゃあああああああっ!!?」  
 たわわな尻肉に勢い良く打ち下ろした。  
 お仕置き、若しくは目覚ましビンタ。補助技を積んでる訳では無いので威力は上がらないが、寝起きの相手には二倍の効果。  
 その証拠に、喰らったリーフは尻尾を踏まれた猫みたいな声を上げている。  
「ったあああ……! あにすんのよ糞兄貴! って、痛い痛い!」  
「素直に起きないお前が悪い。……おら、観念しないと尻が三つに割れるぜ」  
――バシンッ! ビタンッ! バチッ!  
 リズムもへったくれも無いスパンキングの嵐。リーフが音を上げるのは直ぐだった。  
「も、もう解った! いや、判ったからお願い止めて!」  
「……本当に?」  
 ギラリ、とレッドの目が光り、赤い色を宙に残した様だった。  
「起きる。素直に、起きるからさあ……」  
 のそのそと全裸のリーフが涙目で起き上がる。叩かれた尻が少し赤くなっていて、その部分を摩っていた。  
 
「もっと優しく起こせない訳?」  
 着衣を整えながらリーフがジト目で睨んで来た。  
「何を期待してる?」  
 威嚇と見るには随分と可愛らしい目付きだった。レッドの攻撃や防御は下がらない。  
「そりゃあ、ね」  
「っ」  
 フッ、とリーフの姿が消えたと思ったら、その直後レッドの眼前にはリーフの顔があった。  
 すると……  
「――っ!?」  
 レッドがたじろぐ。唇に柔らかい感触が確かにあった。何度も体験しているから間違い無い。  
 ……キス、された?  
「べーっだ!」  
 放心する間、凡そ三秒。さっさと離脱していたリーフはレッドにあっかんべーして、リビングへ降りて行った。  
「……可愛くねえ」  
 今のは完全にしてやられた。尻叩きへのささやかな意趣返しなのだろうが、それにしたって他に遣り様があるだろう。……と、レッドは悔しげに呟くだけだった。  
 
 

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