虫に食われたかのように側面を欠き、それでも尚、優しく光を振り撒くものが、月が。空の、濃藍を表す川に留まり、沈むこともなく、ただ浮かんでいる。
その周りには、木々の葉っぱが、月明かりを遮らんばかりに広がって。薄く、緑色の外線を作っている。
時々、身体がどうしようもなく痒くなる時がある。
疾うに日の落ちた森の中。真っ直ぐ立たせた四本足は、腐葉土を踏み締めさせたまま動かさず、ただ見上げていた顔から力を抜いて、がくりと下ろす。
今は、殆どの生き物がそれぞれの巣内で寝静まった頃であり、また、俺の活動時間でもある。
しかし、誰かに姿を見られるということも無ければ、誰かを見るということだって、それ以上に無い。もしかしたら、そんな因果があるのかもしれない。
笑いもしないし、媚びてくれたりもしない。
俺だって、これを愛でる訳じゃない。
緩やかな斜面に、腐葉土の地面を押さえるように倒れている、一本の木。それに、そっと歩み寄った。
その傍らには、一つの影が、実体なく佇んでいる。
目に映るそれは、尻餅を付き、前足を小さく畳んで、背には、先の分かれた細い尻尾を揺らめかせている。くすりと微笑み、纏う薄紅の体毛を、月光に揺らし、華奢な身体を暗く藍色に煌めかせている。
俺が、恋情募らせている奴だった。
「大丈夫、怖くないから」
まるで楽しみにしているかのような姿を、それでも逃がすまいと宥め始める自分が、何だかおかしい。
俺は目を瞑り、その姿に首を伸ばして、ゆっくりと顔で押す。その影はゆっくりと倒れ、音も無く、俺の胴体の下へと潜り込む。
彼女はそのまま、地面に腹ばいになって、俺に背を向け、顔だけ振り向き、期待か不安かも分からない、複雑な感情を乗せた瞳を輝かせる。
――そんな、影が見える。
分かっている。
そこにあるのはただの倒木だ、と。分かっていても、その影を、追い続けたかった。
どうせ夢中になれば、対した問題ではなくなる、のだから。
「エーフィ……」
虚ろにも瞼を持ち上げ、前足から力を抜き、続けざまに後ろ足からも支えを外す。
喉に、胸に、下腹部に、性器に、固く乾いた木側面が触れる。押し付ける。押し付けられる。
綺麗で繊細な体毛がそこにあればいい――そう思う反面では、穢したくないという願いもある。
涼しく柔らかい風が、身を梳き、体毛の隙間から熱気を掠め取ると、そのまま風下へと走り抜けていく。
彼女が、愛おしい。それだけが本当のこと。
エーフィ。
「俺のこと、好き?」
言葉を宙に漂わせて、身体を押し付けたそのままで、ぐっと後ろ足で腐葉土の地面を蹴り押す。
いやらしい、と、自分でも思う。しかしすぐに、木表面がぱりぱりと悲鳴を立てて、俺の腹を、性器を擦って、そんな虚構を払ってくれる。
好きだったら、いいな。
視界に映る姿は、俺のそんな意を汲み取って、こくり、と小さく頷いてくれた。
本当に?
とく、とく、と、心を跳ね飛ばす音が、それだけでは飽き足らず、静かな耳の中へと這い出て、暴れ始める。たくさんの思考が、言葉にもならず、ただ頭の中に響き続ける。ぼんやりと、閉じるでもなく隙間を作ったままの口元から、だらりと粘性のある固唾が垂れ落ちる。
再び瞼を落としてさえ、身動ぎ止まぬ藍色の影が、視覚に焼き付いたまま離れない。
嬉しい。
俺は再び瞼を落とし、今度は顔も倒木に寄せて、ざあ、ざざあ、と頬を擦り付けた。
そこには、思考を帯びた、小さな、空想の温もりがある。ただそれを貪った。
木屑が頬の体毛を絡めていく。身動ぎに際し、倒木との間に引っかかり、体毛を緩く引っ張る。
ざあ、ざざあ、と、何の音も無かった静かな森に、体毛同士が崩れ、擦れ合う声が響き渡る。
彼女と、俺とで擦れ合う悲鳴は、これとはもう少し、違う音だろうか。
嗚呼。
すぐそこにある影は、所詮は遠い存在。それでも構わない。
この瞬間だけは、俺の下に、可愛く収まってくれるのだから、だから。
「エーフィ……ん……」
音のない嬌声が、頭を中からひっぱたいてくる。ただでさえ擦り付けるように身動ぎを続ける身体が、ぐらり、ぐらりと感覚無くよろめく。
性器を掻き、つんざくかのような感覚が、ひたすらに心地いい。全部、彼女が与えてくれるもの。
口元にある、落ち着かず揺れる感覚は、垂れ下がった唾液が身動ぎに合わせて右往左往するものだろう。そうは分かっていても、この身が、身体が、朽ちていくかのような錯覚が、中々どうして嫌いじゃない。
そのまま崩れ落ちて、彼女の影と一つに、なれないものだろうか。
大好き。
漂う熱気が毒となり、俺の鼻を突っついてから、森のどこか遠くへと、新しい獲物を求めて消えていく。
がくがくと打ち慄く身体は、既に俺の所有から離れて、快楽のままに、彼女の影に揺り動かされる骸となっていた。
貪り酔っても、尚、有り余る心地よさ。
頬は感覚さえ物足りなくなったのか、倒木に首筋まで押し付ける。
腫れ上がって、触感の固くなった性器が、直に酔いを流し込んでくる。
エーフィ。
エーフィ……!
身体が溶けてしまいそう。それも悪くない。溶けて一つになれるなら、それでいい。それでいい……!
「あ……ああぁ……!」
心の打つ鼓動に合わせて、五拍、六拍と、下腹部が、腹周りが、粘性のある液に濡れた。
身体と倒木の隙間辺りから、液が溢れているのか、汗とはまた違う、特有のひどい匂いが鼻を包む。
木側面に当てたままの顔を、尚も項垂れると、すぐそばの前足には、焼きかねないほどに熱く、それでいて湿った空気が、呼吸が掠める。ものすごい量の空気が、喉の奥から口を出たり、入ったりしている。空気の通っていくその感覚が、やたらと重みを持ち、舌を押しつぶそうとしてくる。
俺の感覚だった。
身動ぎが止んだ。俺が所有する身体として、戻ってきた。はずだった。
……まだ、物足りないよ。
誰の声、だろう。誰が言えば、似合うだろう。
頭にふと響く悪戯な言葉は、彼女が言っても、俺が言っても、似合うだろう、不思議ではないだろう。
「……えーふぃー……」
もっと。溶けてしまうその時まで。
ちゅう、ちゅう、と身体と木に挟まれた液の悲鳴が、やがて俺そのものの声となることを望んで――。