T:旅は道連れ  
 
 
 今から凡そ七年前の話。  
――シンオウ地方  
 ニッポン国の北方。広大な面積を誇り、悠久の歴史と数多くの自然を有する神話の眠る大地。アルミア地方と隣接しており、トレーナーとレンジャー、二つの人種が混在し、また境界線でもあるのか、決して交わらない稀有な場所でもある。  
 その北の大地にホウエンの御曹司は居た。  
 
――204番道路 荒れた抜け道 コトブキ側  
「はああああ」  
 人が誰も居ない抜け道の近く。移動手段であるレンタカーを降りたダイゴは唸る。  
 ……熱い。暑いではなく、熱い。  
 故郷のホウエンよりは幾らかマシなのだろうが、肌を焼く様な極悪な日差しは陽が高く昇る程に激しくなる。まるで24分刻みの灼熱皿が降って来ている様なゲージの奪われ具合だった。  
「親父も無茶言ってくれたよ、ったく」  
 車のトランクを開いて商売道具である採掘道具を取り出して愚痴る。  
 ……彼のシンオウ訪問の目的は趣味にしている石集めだけではない。  
 出発間際に急遽決まった、樺太(リゾートエリア)の別荘建設。ダイゴの父親であるツワブキ社長の鶴の一声だった様だが、その建設に当たって、土地の下見を息子に依頼したのだ。  
「あんな僻地にブッ建ててどうする気なんだか」  
 滴る汗を拭いながら、ブチブチと文句を漏らす。  
 父親の無茶振りを息子はさっさと実行した。コトブキの空港から降り立った彼は進路を北へ向け、一日半掛けてキッサキに辿り着くと、更に半日掛けてバトルゾーンへ船で渡り、ファイトエリアを東に向かい、更に230番水道を越えてやっと件の場所に辿り着けた。  
 現地の業者と打ち合わせが終わる頃には既に三日が経過していた。  
 そして、父の用事をこなした彼は再びシンオウ本土の土を踏んだ。後は各地を彷徨いながらピッケルを振り、暇があれば地下に潜り石を掘る毎日。野宿や車中泊を繰り返して、今日の採掘ポイントは此処、荒れた抜け道だった。  
「……よっしゃ。行くか」  
 準備を整え、採掘用のツナギに着替え終わった。重量のある山男装備を背中に背負ってダイゴは穴倉に向かった。  
 
 
――カーン、カーン……  
 一言も言葉を発せず、黙々と壁の亀裂にピッケルを打ち付ける。  
 上を見上げれば岩の亀裂から僅かな光が入って来ていて、穴の中は仄かに明るい。  
 それでも刺す様な日差しは入らず、水場も近くにあるので抜け道内部の気温はとても涼しかった。採掘には中々好条件と言える環境だった。……しかし。  
「……外ればっかりだな」  
 振れども振れども出てくるのは石ころばかり。イシツブテの一匹すら出て来ない。偶に出てくるのはドラグライト鉱石だが、ダイゴのアイテムボックスには売る程在庫があった。  
 やはり、塊やエルトライト、メランジェ鉱石は中々お目に掛かれる代物では無いと言う事か。  
「……やれやれ」  
 ダイゴはその場に腰を下ろして、ピッケルを投げ出した。そうして、ポケットを漁って煙草とオイルライターを取り出す。ダイゴが咥える煙草は彼が高校の時から吸っている愛モクで、ボックスパッケージには髑髏が刻まれていた。  
 辺りを見回して、掘れる場所は粗方掘り尽した事を知り、この辺りにして置くかと撤収を考え始めた。奥に見える水路を辿れば、新たなポイントを発見出来るかも知れないが、残念ながらダイゴの手持ちには波乗りが使えるポケが居なかった。  
 ……そんな事を考えていると。  
――ザッ  
「?」  
 奥の方から靴音が聞こえて来た。今迄誰とも遭遇しなかったのに珍しいとダイゴは思った。だから、ソノオ側の出口の方に視線を向けた。  
 暫くすると、その靴音の主が暗がりから近付いて来た。  
「――」  
 その姿を見た瞬間、ダイゴは少しの間呼吸を忘れた。  
 女だった。それも女子高生。何処かの高校のセーラー服を着ていた。中学生と言うには顔も身体も成熟し過ぎている。  
人目を引くであろう、煌きたなびく長い金髪。180には届かないだろうがかなりの長身を誇っていた。  
 そして、ダイゴが最も惹かれたのはその女の瞳の色だ。  
 ほんの少しだが覘いた黄金の瞳。自分の白銀のそれと対を成す様な色彩に何かしらの感情を覚えた気がした。  
「――」  
 女の方もダイゴに気付いた。自分がそうした様にこちらを流し見て来る。  
 そして。  
――にこり  
 女は笑顔を向けてきた。別にダイゴがその顔に心を動かされる事は無かった。だから、ダイゴも社交辞令的に軽く頭を下げてやった。  
 少し足を止めただけで、女はコトブキ側の出口へ向かい、そのまま抜け道を出て行った。  
「・・・」  
 ダイゴは吸いきった煙草を携帯灰皿に捨てると、もう一本咥えて火を点けた。  
 ……シンオウにも結構な美人が歩いているんだなあ。  
 取り合えず、そんな事を考えながらダイゴは散らかした荷物を片付け始めた。  
 
 
――夕刻 コトブキシティ  
 抜け道を後にし、着替えを済ませたダイゴ。登山用のトレッキングブーツ、灰色のカーゴパンツに胸元が大きく開いたシャツに柄物のYシャツを羽織り、丸いフレームの黒いサングラスを掛けていた。  
そんな彼の車はバスロータリー近くの信号に引っ掛かっていた。腹が減ったので夕飯にあり付こうと碁盤状の道を走らせていたのだが、どうにも先程から信号に引っ掛かる。法定速度を無視している訳では無いのにだ。  
 中々進まない車。ふと開いた窓から外を見ると……  
 
『待ってえええ〜〜っ!!』  
 
「――あ?」  
 女の声が聞こえてくる。何事かと思い、窓から身を乗り出すと、反対車線の歩道を女が必死の表情で走っている。彼女は長距離バスを追いかけている様で頑張って走っているが、バスはスピードを上げて、彼女を置いて走り去ってしまった。  
「あの娘は、さっきの」  
 その特徴的な容姿を見忘れる筈は無い。先程、抜け道で擦れ違った女子高生だ。  
「!」  
 その様子を見ていると、後ろの車からクラクションを鳴らされた。信号はとっくに青だった。  
「……良し」  
 ダイゴは決断した。直進しようとしたが、急遽予定を変更し右折する。そうして、荒い息を吐く女の近くに車を止めるとクラクションを鳴らした。  
「あ、あなたは」  
 そうして、助手席側から窓開けて身を乗り出すと、ダイゴは言った。  
「Do you need to ride? Sweetheart」  
「……Yes! I want to your help.」  
 少し格好付けて英語でそう言ってみたら、女の方も英語で見事に切り返して来た。随分と乗りが良くてらっしゃる。  
 ダイゴが助手席を開けると女は車に乗り込んだ。  
 
「で、何処に運べば良い?」  
「あ、はい。……えと、さっきのバスを追って貰えれば」  
 乗り込んで来た女に行き先を聞く。女は若干遠慮がちに口を開いた。  
 結構、ハスキーな声。ダイゴ自身も声がしゃがれているので不思議と親近感が募った。  
「あれは何処行きのバスだい?」  
「ハクタイです。あれに乗り遅れたら、次のバスでは家に帰れないんです」  
 バスが何処行きなのか、ダイゴは見逃していた。そうして告げられたのは、シンオウ北部の入り口に当たるハクタイシティ。旭川方面でコトブキ(札幌)からはざっと200kmは離れている。  
「因みに、お家は何処」  
「……カンナギ、です」  
 確かに、ハクタイ行きの長距離バスは一日の本数に限りがあるだろう。次の便では足止めを喰らうという事は、この女の家は更に奥地にあるのだろうか。  
 ダイゴが興味から聞いてみると、女は答えた。  
「カンナギ! 随分遠いな。遠軽方面?」  
「はあ」  
 流石のダイゴも吃驚した様だ。ロードマップを取り出して確認するも、其処はハクタイから更に東に位置していて、シンオウの背骨とも言えるテンガン山を抜けた麓にポツンと存在する小さな町。  
 めぼしい産業は無く、ただ何かを描いた古代の壁画が祀られているだけの陸の孤島。若しくは僻地。彼女はその町の住人らしかった。  
「……良く判った。其処迄は面倒を見るよ」  
「ええ!? で、でもご迷惑じゃあ」  
 少し、考えたダイゴだったが、乗せてしまった以上は後戻りしたくない。どうせ当ての無い旅なので、ガソリン代を見ず知らずの女に貢ぐ位は構わないだろうと納得した。  
 そんなダイゴの申し出に女は露骨に戸惑った表情をしていた。  
「ああ、気にしないでよ。こっちが勝手にやる事だから」  
「……判りました。お願いします」  
 しかし、ダイゴは折れない。自己満足の御節介焼きだから、何も気にしなくて良いと諭すみたいに柔らかい口調で言ってやると、女の方も遠慮するのは悪いと思ったのだろうか、やや遠慮がちにだが頷いた。  
 
「ふふ。そんな畏まらなくても良いさ。取って喰うつもりは無いんだからさ」  
「は、はい」  
 その派手な印象に比べ、随分と大人しい……否、控えめな性格をしている様だ。人は見掛に由らないと言う奴なのだろうか。ダイゴには判らない。  
「あの、乗せて貰って有難う御座います」  
「だからそう言うのは良いってば」  
 改めて女が頭を下げて来た。だが、別にダイゴは本当に礼など欲しくなかったので苦笑する。  
 未だ若干警戒している様だが、それも目的地に着く頃には幾らかは緩和されている事だろう。  
「申し送れました。あたしはシロ「ストップ」  
 そうして、名を名乗ろうとした女の口を強い口調でダイゴは強制的に噤ませた。  
「どうせ、もう会わないんだ。お互い、名前を知らない方が綺麗に別れられるさ。だから、必要無い」  
 一期一会の原理と言う奴だ。別れに際し、余分な情や情報を抱えれば、その瞬間が辛くなる。だから、そんな荷物はお互いに持たない方が良いとダイゴは女に告げた。  
「……クールでいらっしゃるんですね」  
「そう見えるかい? そんな事は無いんだがなあ」  
 目を二、三回瞬かせ、自分の知らない何かを見る様な深そうな目で女が見詰めて来た。  
 女はダイゴの発言を冷血だと感じた様だが、それは間違いだ。彼は只、TPOに応じてコロコロと被る仮面を変えているだけ。ダイゴ自身が良く判っていた。  
   
 只管、北に向けて進路を取る。ゲーム中では表示されない高速道路に乗っての高速走行。もう砂川を越えたので道中は半分と言った所だろうか。  
「じゃあ、お兄さんは大学生なんですか?」  
「ああ。ホウエン大の一年」  
 車内では来歴語りで盛り上がっていた。年齢が近い所為か、一端話に花が咲くと、直ぐに二人は打ち解けた。  
「ホウエンですか。遠いですね。……あたし、内地にすら行った事無いんですよ。修学旅行以外で」  
「僕もそんな感じだね。今は大分自由に出来るから、冒険序に北に来たんだよ」  
 ダイゴは結局名を明かさないので、女はダイゴを『お兄さん』と呼ぶ事にした様だ。何と無くそれが気恥ずかしいダイゴだったが、言われて悪い気はしなかった。  
 女は学校行事以外ではシンオウの外に出た事は無いらしい。だが、大学入学迄はダイゴもそれと一緒だった。彼の父親は株主会などで頻繁にホウエンの外に出向く事が多いが、その息子がそうであるとは限らない。  
 大学生になって時間がかなり自由に使える様になった事で、漸く彼もホウエンの外に出る決心を固めた。それが彼の言う冒険であり、シンオウ旅行の真の目的でもあった。  
「で、君は何で乗り遅れた訳?」  
「はあ。お恥ずかしながら、研究のレポートを喫茶店で纏めてる間に時間が過ぎてしまって。慌てて追ったんですけど」  
 ダイゴが気になったのは女がバスに乗り遅れた理由について。どうやら長距離バスには乗り慣れている様なので時間を誤るとは考え難い。何か面白い事でもあったのかと聞いてみると何やら真面目な話が返って来た。  
「その歳で研究か。偉い事だね。因みに、何の」  
「いえそんな。あたし、年明けに受験なんです。シンオウ大の考古学部志望ですけど、師匠が試しにレポートを提出しろって」  
 見た目は大人びているが、中身は普通の女子高生らしい。年明けにセンターを控えるという事は高校三年生か。  
 その歳で既に研究のイロハに手を染めるとは、末は研究者かインテリ色の強い職業を選ぶのだろうとダイゴは純粋に感心した。  
「中々厳しいお師匠さんだね。受験勉強も忙しいだろうに」  
 そう言えば、高校の地学の師匠も決して厳しくは無いけど、考古学的な彗眼に満ちた人物であった。あの人が自分をピックアップしてくれなければ、只の放蕩ドラ息子として終わっていただろうと感謝の念に堪えないダイゴ。  
 師匠は元気にしているだろうか。そんな事をダイゴは思った。  
「いえ、好きでやっている事ですよ。出来次第では下駄を履かせてくれるとか何とか」  
「はは。何処の世界でもある話だな」  
 それを聞いてダイゴは一寸だけ笑った。そりゃあ、誰でも必死になるだろう。  
 受験に便宜を図ると言うのは並みのコネで出来る事では無い。女の師匠は大学でもかなりの地位に居る人物である事は想像に難くなかった。  
 
「お兄さんは何を研究してるんです?」  
「僕? 専攻は地質学。今は古生物学を齧ってるけど、最終的に何になるかは判らないね」  
 女の言葉にダイゴが答える。火山の国であるホウエンは地質学が割りと盛んである。しかし、地質学とは言ってもその裾野は広く、多領域に渡る境界学問である。  
 今のダイゴは専ら化石等の知識を増やしている最中だが、何時その興味の矛先が変わるかは本人にも判らなかった。  
「地学! あたしも必死にやってますよ。考古学には必須ですから。でも、あんまり頭に入らないんですよね」  
「それは向き不向きでしょ。僕は石が好きだから、地質学部に居るんだけどね」  
 そのダイゴの言葉に女が喰い付く。心なしか、目がキラキラしている様な気がする。  
 趣味が重なった人間を見つけられて嬉しいのか、兎に角その顔は笑顔で一杯だった。  
「あたしも好きなんですよ。ポケモンの御伽噺とか、伝説。それを解き明かしてみたいなあって」  
 女が何に成りたいのか、最終的に何をしたいのか聞く程ダイゴも野暮じゃない。好きこそ物の上手なれの言葉通り、好きじゃなければ続けられない物好きな商売である事は間違い無かった。  
「好きだから、か。まあ、頑張りなよ」  
「はい。ありがとうお兄さん」  
 そして、それは自分自身がそうだと言う事を当然ダイゴは知っている。  
 激励する言葉が喉を通過するも、それが誰に向けてのものかはダイゴにだって判らない。  
 ただ、女はそれに嬉しそうに微笑んだ。  
「悪い、ちょっと補給させて貰うよ」  
「あ、煙草……未成年、ですよね」  
 窓を開けて、煙草のボックスを取り出して咥えた。それを見た女は珍しそうに覗き込んで来た。別にそれを咎める様な視線は感じない。  
「そうだよ? 誕生日来てないから未だ18」  
「不良ですか? お兄さんって」  
 オイルライターで火を吐けた。口元で明滅する蛍火の様な煙草の火。車内を煙草の臭いが包む。  
 もう一寸で19に届く所だが、それは先の事だ。何れにせよ、軽犯罪法違反である事は変わらないが、ダイゴは大人びた風貌をしているので、高校時代から吸っているが外でそれを咎められた事は一度も無かった。  
「そうかもね」  
 そして、不良かどうかと言う台詞については曖昧に濁した。若さ故の過ち、若しくは血腥い武勇伝について、それを語って恐がらせたくは無かった。  
 
 ハクタイ迄後一歩と言う所に来た。だが、其処から先は高速を降りて、下の道をえっちらおっちら行く必要がある。  
 強行軍が過ぎたのか、ダイゴの腹の虫が餌を寄越せと吼えていた。  
「そろそろ腹も減ってきたな。寄ってく?」  
 丁度、高速のサービスエリアの看板が見えたので、同乗者に指でそれを指して尋ねた。  
「お願いします。……そろそろ、トイレの我慢が」  
「……そりゃ大変だな」  
 少しだけ、女の顔が赤くなっていたが、それだけ事態が逼迫していたのだろうか。何にせよ、正直に言ってくれた事を労う為にダイゴは車をサービスエリアに走らせた。  
――道中 サービスエリア  
 トイレ休憩を兼ねた食料調達。サンドイッチと缶コーヒーを三本ばかり抱えて、レジに並ぶ。同乗者の女が会計を済ませている所だが、財布と一緒に出した定期入れから文字が覗いている。  
 悪いとは思ったが、ダイゴはそれを読み取った。  
「(シロナ、ね)」  
 きっとそれが女の名前だろう。知って何になる訳でも無いが、何故かダイゴはその名前を頭に刻んで置こうと思った。  
 
――カンナギタウン 村長宅前  
「忘れ物、無いかな」  
「大丈夫みたいです」  
 話していれば長い道中もあっと言う間だった。もう陽はとうに暮れて夜の闇が辺りを覆っているが、指し示され辿り着いた家の前には仄かな明かりが燈っていた。  
 かなり大きな日本建築風の屋敷。蝦夷には似つかわしくないそれは、この家がかなりの名家である事を証明している様だった。  
「今日は有難う御座いました。……あの、本当に寄っていかれませんか?」  
「ああ。一期一会って言うでしょ? もう二度と会わない訳だしさ」  
 車を降りて、お互いに向かい合う。周囲からは虫の音が聞こえて来て、二人の別れを哀しんでいるかの様だった。  
 女……シロナは送ってくれたダイゴを引き止めたい様だったが、ダイゴはそれを頑なに拒む。これがお互いにとって一番良い別れ方だと信じているみたいだった。  
「あ……そう、ですか」  
「む」  
 途端、シロナの顔が曇り、俯いてしまう。涙を我慢している様なそれにダイゴは罪悪感に囚われそうになる。  
「そんな顔をしないでくれよな。困っちまうよ」  
「だって」  
 一度決めたそれをダイゴは譲りたくは無い。しかし、シロナも行って欲しくないと言う様な表情でダイゴを銀色の目を射抜き続ける。  
 
「……あー、判った解った! こいつをやるよ!」  
 それに負けた様に叫ぶとダイゴは少しだけ決定を曲げる事にした。  
 シャツの胸元のポケットに手を突っ込んでそれを握ると、シロナの手に握らせてやった。  
「え、これ……煙草、ですか」  
「と、ライターね。それ、僕のお気に入りなんだ、大事に持っててくれよ」  
 渡されたそれが最初何か判らなかったが、車内で男がそれを使っていた事をシロナは思い出した様だ。何処にでもあるような古ぼけたオイルライターと、そこそこ珍しい銘柄の煙草。ダイゴにとっては馴染み深い高校時代からの愛用品だった。  
「持ってろって」  
「だから、再会迄預けるって事。……きっと、来年も僕はシンオウの土を踏む。運が良ければ、逢えるだろうね」  
 しかし、こんな物を渡されてもシロナとしては困る。彼女に喫煙の嗜好は無いのだ。一体何がしたいのか訊くと、ダイゴは言った。  
 要するに、再会を祈願しての願掛けだったのだ。  
「! そ、それはこの季節ですか? 場所は!?」  
「待った! 其処迄は決めてない! そもそも来ないかも知れないしね」  
 それを理解したシロナの瞳が輝き、一気に捲くし立てる。だが、それは未だに定まらぬ未来。ダイゴ自身もどうなるか判らなかった。  
「・・・」  
「だから、運さ。でも確率があるだけマシだろう。色違いに出会うよりは簡単だよ」  
「そうですが……」  
 確かに、男の言う通りである。それがどうにも体良くあしらわれている感じがして食い下がろうとするシロナだったが、結局適当な言葉は出て来なかった。  
「さて、僕はもう行くよ。君も受験、頑張ってね」  
「は、はい! あの――」  
 これ以上、ダラダラと時を過ごすのは良くない。ダイゴは決心するとシロナに背を向ける。背中越しに掛かるシロナの言葉。  
「また、お会いしましょう。お兄さん」  
「フッ」  
 再会を願う声だった。それを背に受けて、ダイゴは鼻で笑った。  
 ……縁があるならば。  
 ダイゴは車に乗ると、シロナを残し、その場を後にした。  
 
 ……その後、期限のギリギリ迄シンオウを彷徨ったダイゴは借りた車を返却し、ホウエンへと戻って行った。  
 そうして始まる大学生としての忙しい日々。時折、シロナの顔を思い出しては、一夏の思い出を噛み締める。  
 確かにあの女との出会いが一時のスパイスとなっていたのは確かだったのだ。  
 
 
――数ヵ月後 カンナギタウン 村長宅 居間  
 季節は師走。大地の全てが白一色に染められていた。それはシロナが高校最後の冬休みに入る少しばかり前の事。  
「・・・」  
 受験生ともなればこのシーズンは熾烈な追い込みを強いられる。シロナも例外ではなく、過去のセンター問題集と格闘中で、その眉間には皺が寄っていた。  
 前回の模試の判定はB。師匠であるナナカマドの下駄は当てにしたくは無いので何とかA判定に持って行きたくてシロナは釈迦力になって知識を詰め込んでいた。  
「ねえ、お姉ちゃん」  
「あによ」  
 そんな時、妹に声を掛けられたシロナは必死の形相を崩す事無く、問題集にしがみ付く。  
 流石にこんな時に姉の邪魔をする程命知らずでは無い。そうするのには当然、理由があった。  
「煙たい」  
 それはシロナの周囲に充満する煙草の煙だ。視界が白く濁り、咳を催す程に煙っていたのだ。  
「あっち行きなさい」  
 灰皿から煙草を拾って咥えて手で追い払う。本当に邪魔な様だった。  
「むう! おばあちゃん! お姉ちゃんに何か言ってよ!」  
「無駄じゃ無駄。学校では吸わない事を約束しておるし、今は大事な時期じゃ。大目に見てやりな」  
 そんな姉の素行の悪さを祖母に訴えるも、その祖母はと言うと完全に諦めた顔をしていた。カンナギの長老である彼女が匙を投げたのだ。それはもう覆らない事態だった。  
「何て理屈よ、それ! お姉ちゃん、すっかり不良だよ!」  
 昔は真面目だったのに何時から姉は変わってしまったのか?  
 心当たりは無いが、夏休みのやや終盤。お盆過ぎ辺りに何か親切な人に出会ったとか聞いて暫くしてからだろうか。姉が喫煙に手を染めたのは。  
 それは周囲を驚かせたが、学校で吸う事も無く、受験勉強の合間に偶に吸う位だから周囲は特に強硬な態度は示さなかったのだ。  
 只、此処数日修羅場が続いているのか吸う本数は確実に増えていて、妹は心配だった。  
「あー、もう」  
 だが、姉はそれを聞く気は無いのだろう。なら勝手にしろと、ほんの少し姉を妨害してやる為にテレビのスイッチを入れて彼方此方チャンネルを変えてやるも、姉は微動だにしなかった。  
「あ」  
 そうして、とあるニュース番組が画面に映し出される。それに興味を惹かれた様にシロナの妹は母音の一つを喉へ通過させた。  
「?」  
 シロナにはそれが気になった。答え合わせの最中なので、集中力が切れてしまったのか、自然と興味がテレビに移る。  
 
「へえ、凄いなあ」  
「何?」  
 感嘆の溜め息を吐く妹の顔が気になって仕方が無い。それ程に面白い内容なのか、シロナは作業を中断して椅子からを立ち上がった。  
「見てよ、お姉ちゃん。凄いよね、この人。お姉ちゃんとあんまり歳も違わないのにさ」  
 テレビの画面を指差す妹。其処には白衣を着た研究者風の男達が何やら難しい話をしている。その中にシロナは見知った顔を発見した。  
「――」  
 シロナが息を呑む。夏のある日に出会った、自分を車で送ってくれた青年だった。  
『弱冠19歳の奇跡!? 化石復元装置、遂に実用化』  
 画面に張り付く字幕には確かにそう書かれていた。  
 話の概要はこうだ。  
 ホウエンの大企業、デボンとカントーのグレン島ポケモン研究所の合同研究により、ポケモンの化石を復元する機械が開発された。  
 以前にもその様な機械が作られた事はあったが、信頼性と成功率の面でとても実用化には程遠かったが、テレビで紹介されているマシンはその精度が過去のそれとは大きく違った。  
 そして、その開発に大きく貢献したのが、僅か19歳の大学生。デボンコーポレーショングループ御曹司のツワブキ=ダイゴだったのだ。  
 地元では幼少期から神童と呼ばれ、大人達を圧倒していた様だが、テレビに映る彼の顔には一切の感情が浮かんでいなかった。  
「顔もイケメンだし、背も高いし、それに大企業の御曹司? ……きっとこの人、スーパーマンなのね」  
「ツワブキ=ダイゴ……」  
 シロナの頭にはテレビのナレーションや妹の声は一切入って来ない。  
 噛み締める様にその男の名を呟くだけだ。  
「なあに? お姉ちゃん、こう言う人好きなの?」  
 妹はそんなシロナを茶化す様に言って来た。その顔がニシシと嗤っている。  
「……無理無理! お姉ちゃんみたいなタッパのデカい女何てそれだけ恐がらrグハッ」  
 シロナ自身が気にしている高い身長。それを態々指摘して言う辺り妹の性格は悪い。  
 だが、シロナはそれに怒る事は無く、只黙らせる為に妹の喉に抜き手を放つとゆっくりとした足取りで自室へと引っ込んだ。  
「ダイゴ……」  
 電気が消えて暗い室内。暖房を切ってあるので寒々とした空気が身体を包む。  
 シロナはドアに背を凭れさせて、その名前を反芻する。  
 理由は判らないが、どうしてももう一度会いたかった。  
 それでも、何処の誰か判らなくて、日を追う度に気持ちが募って、胸が苦しかった。  
 だから、嘗ての彼がそうした様に煙草を吸ってみるも、堆積する心の澱は煙と共に出て行ってくれる事も無かった。  
 そんな彼が誰なのか判った。シロナは嬉しかったのだ。  
「ダイゴ、さん」  
 シロナが自分の机の引き出しを漁る。ずっと前に預かった珍しい銘柄の煙草。シロナはそれを取り出して咥える。  
 使い込まれたダイゴのライター。今はシロナが大事に大事に使っているそれで火を点けた。  
「ぶっ! ……キッツぅ! 味も香りも飛んでるわこれ」  
 肺に煙が満ちると同時にシロナが咽る。自分の吸うそれとは強さが違い過ぎて頭がクラクラする。賞味期限がとうに過ぎていたので、その味は只管辛かった。  
 
 
 

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