]Y:決路
――トクサネシティ ダイゴ宅
雨脚は徐々にだが弱まりつつある。しとしと降り続ける涙雨は雨音となって二人の耳に打ち付ける。ユウキは琥珀色の液体を少しだけ飲んで、酒臭い息と共に呟く。
「……重いですね」
「重く感じられるか」
辛そうに目を伏せるダイゴに感じ入る事は多々あれど、それは口にする事は憚られた。だから、ユウキは正直に言ってやった。
「ええ。安易に同情は出来ないけど、ダイゴさんも辛かったんだなって」
「・・・」
実際にその苦悩を体験した訳では無いのだ。本人しか知らない胸の痛みを解るとは絶対に言えない。カラン、とダイゴのグラスの氷が崩れて音を立てた。
「そして、シロナさんもそれは一緒だったんでしょうね」
「ああ。今更謝って済まされる事じゃないけどさ。……ほんと、シロナには頭が上がらないよ」
だが、理解は及ばずとも共感は出来る。哀れみの気持ちからではない。本当にそう思ったからユウキはそう言ったのだ。ダイゴは力無く笑うと、グラスの中身を飲み干した。
「それでも、好きなんですよね?」
「勿論。……愛しているんだ、シロナを」
訊く事では無いが、それでもユウキはダイゴの本心が知りたかった。
責任とか、義務とかそんな感情で異性と付き合っていくのは難しい事だ。しかし、ダイゴの顔を見る限り、どうやらそうでは無いらしい。無論それもあるのだろうが、それ以上にシロナの事が本当に好きだから、彼は今も彼女と一緒に居るのだろう。
「続き、お願いします」
「判った。……まあ、話の一部は君達自身も知ってる筈だけどさ」
自分のグラスに酒を注ぐダイゴにユウキは続きを強請った。ダイゴの言葉にユウキは少し目を細める。以前通過したこの男とのやりとりが脳裏を過ぎった。
「アレ、ですか」
「そう。流星の滝だよ」
「女絡みのトラブル抱えてたのは知ってたけど、それがシロナさんだったんだ」
「その通り。あれが無ければどうなってた事やら。……寒気がするよ」
困惑気味なユウキに対し、何故かダイゴは少し嬉しそうな顔をしていた。
いよいよ話が佳境に突入する。拗れた関係。再び訪れる覇王と鬼姫の邂逅。その鍵はユウキ達が握っていたのだ。
腐ってたってあんな状態を言うんだろうな。
丁度、マグマ団、アクア団が暴れてた時期だったから憂さ晴らしの相手には不自由しなかったけど。
それでも、戦ってる最中も、石掘ってる時も何かが足りないって思っちゃうんだ。
……曖昧に言うのは止そう。シロナの顔が常にチラ付くんだ。
忘れなきゃいけなかったのに、出来なくて、引き摺って、夢に迄見て……
自分から逢わないって言った癖に、阿呆みたいだよね。
……本当は自分でも判ってたよ。君達にガツンてやられてやっと目が覚めた気がした。
だから僕は……否、俺は……
季節は十月の下旬。白一色に染まりつつあるシンオウ地方。停滞が支配し始めた北の大地同様に、シロナの心も凍り付いている。結局、あれから半年経過したが、彼女がダイゴの情報を得る事は無かった。
方々手を尽したが、ダイゴの足取りは知れず、樺太の別荘も何時の間にかツワブキ社長は手放していた。
その一方でシンオウではギンガ団が暗躍を続け、シンオウ神話の神々を巻き込む大事件が頻発する。シロナはチャンピオンとして、また考古学者としてこの事件に首を突っ込み、最終的にはこの世の裏側にすら足を踏み入れた。
その調査の途中で知り合った少年達。嘗ての自分と同じ様にナナカマドのポケモン研究を手伝う少年と少女。シロナはポケモンリーグでその二人と対峙する事になった。
その結果、シロナは敗北を喫し、今年度を境にチャンピオンを引退する運びとなった。
別にシロナとしては、もうポケモンリーグに未練は無い。確かにずっと憧れの場所ではあったが、其処に君臨し続けたいと言う熱意の様なモノはとっくに枯れ果てていた。
リーグに縛られる限りは考古学者としては身動きが取れないし、何よりもダイゴが嘗て味わった人の悪意と言う奴をその身で知った事が彼女の引退願望に拍車を掛けていた。
枕営業でチャンピオンの座を勝ち取った。そんな噂が突然流れ、当然彼女は激怒した。
暫くして、彼女の無実は証明されたのだが、噂の発信元は結局不明なままで彼女は煮えくり返る腸を自然に冷ますしか手は無かった。
こんな屈辱を味わう為に、頂点に昇った訳では無い。ダイゴが味わった怒りと悲しみを我が事として理解出来たシロナは心を凍らせる。
もうポケモンリーグは彼女にとって意味も価値も無い場所に成り下がってしまったのだ。
――コトブキシティ アパート シロナの部屋
めっきり気温は冷え込み、山の彼方此方は天辺辺りが白く染まり、街路樹の葉も地面に落ちている。降る雪の量は日増しに多くなり、そろそろ根雪になりそうな位に路肩に積もっていた。
久々の休暇で自宅に戻って来ていたシロナは浮かない顔で写真を見ていた。
「アンタは、何を思ったの? 何を見たの?」
幸せだった頃の写真。ダイゴとシロナが映り込んだ、カントーでのパーティーの時に撮った物だ。スーツを着ているダイゴ。そして、似合わないドレスを着ている自分の姿。
一体、その銀色の瞳には何が映っていたのか。シロナには判らない。
「もう、あたしにはアンタが何考えてるのか、判らないよ」
時が経過する度に、あれだけ燃えていた感情が冷めていくのが判る。それはとても辛く酷い事だった。
「そろそろ、辛いかな……」
自分の感情が曖昧で、自分でも理解出来ない。諦めた方が楽なのに、そうする事も出来なくて。本当に、自分が馬鹿みたいだった。
「アンタは何処に居るの?」
一目で良いから逢いたい。そんな事を写真の恋人に呟いて見るが、写真のダイゴが何かを言う事は無かった。
――ガタッ
「!」
果たして、それは偶然だったのか。堆く積まれた資料の山の一角が崩れ落ちた。
それを片付けている最中、シロナの目に或る物が飛び込んだ。
「これは」
天界の笛。嘗てダイゴが持って来てくれた両親の形見。それが箱から飛び出してシロナを睨んでいる。
「若し会えれば、答えが見つかる?」
アルセウスへと至る鍵。父と母はそれに挑み命を落とした。だが、苦難を越えて会う事が叶えば、それは今の状態を打ち破る力となるかも知れない。……そんな夢想をシロナは頭に思い描いた。
「お父さん、お母さん……あたし」
このままで居るのは苦しい。ダイゴへの気持ちが薄れて行くのが辛い。例え御伽噺だろうが何だろうが、シロナはそれに縋りたい気分だった。
――数日後 テンガン山 槍の柱
テンガン山山頂に存在する遺跡群。周りは雪一色なのにこの場所だけは何か不思議な力で守られているのか、全く雪が無い。
先人達が時間と空間の神を祀る場所として使っていたらしいが、場所が僻地過ぎる為に調査は行われていない。そして、この世の裏側である破れた世界への入り口があるのも此処だ。
シロナが夏のゴタゴタの間に一度訪れたきりの場所だった。
「此処よね。此処で笛を使えば……」
その入り口近く。床に刻まれた怪しい笛の印の上でシロナは笛を吹いてみた。
この世の物ならざる不思議な音色。人間の精神に作用する様な奇妙な笛の音が周囲に鳴り響いた。
「……何も無し、か」
伝説では道が現れるとの事だが、周囲にそれらしい変化は無い。シロナはがっくりと肩を落とした。
「伝説は所詮、伝説か」
笛が偽物だったのか、それともシロナには資格が無かったのかそれは判らない。だが、両親が命を賭けて求めた結果がこれでは何だか報われない気分になったのだ。
考古学者としても、何かしらの期待を抱いていたのに、この結果は残念過ぎた。
「え?」
何も無いなら帰ろうとシロナが思った時、それは起こった。
「何?」
空気が重い。何か良く無い者がこの場に現れた。姿は見えないが圧倒的な存在感を誇る何かにシロナは戦慄する。
「――っ!!」
突如、目の前の空間が裂けた。裂け目から覗いた姿にそれが何かシロナには判った。
そして、それは裂け目から飛び出してシロナに襲い掛かって来た。
『グギュグバア――!!』
――約二週間後 ホウエン 流星の滝 深奥
ただ、無心にピッケルを振る。ガツン、ガツンとひび割れにピッケルの先端がめり込む度に振動が掌に伝わってくる。
この感触と手応えがダイゴは好きだった。振れば振る度、掘れば掘る程に大地と会話している気になって来る。何が出ようともその成果は求めない。
ただ、石と向き合い、会話したと言う結果さえあれば良い。根気良く粘り続ければ、石は応えてくれる。嘘吐きばかりの人間など、比べるべくも無い。
だからこそ、ダイゴは石を掘り続ける。彼が他人を嫌い続ける限り、この逃避は終わらない。
「?」
だが、彼の意思とは無関係に、強制的にそれを終わりに導く存在が彼の側に迫りつつあった。
カツン、カツン。硬質な靴音が洞窟内に響く。それは自分の履いているトレッキングブーツの音とは違っていて、音は自分の居る方へとどんどん近付いて来る。
ダイゴは動きを止め、足音がする方向をじっと見詰める。そうして暫くすると、二人組みの男女がダイゴの居る空間に足を踏み入れる。それはダイゴの知っている顔だった。
「――やあ。良く此処が判ったね」
「「・・・」」
夏の或る時期に出会った二人組みのトレーナー。マグマ団、アクア団と言う傍迷惑なカルトマニア双方と対立し、死闘を繰り広げ、最後にはとうとうホウエンの神々すら退けた者達。
ユウキとハルカが冷徹な視線を投げ掛けて来た。
「どうしたのさ。態々来たって事は僕に用事だろ?」
「ええ。ミクリさんに頼まれましてね」
「珍しい石の為に滝を上っているに違いない。此処しか思い付きませんでしたよ」
ミクリが負けた。……そんな話をダイゴは風の噂に聞いていた。そして、それは恐らく真実なのだろう。この二人のどちらかがそれを為した。そう直感的にダイゴには判ったのだ。
「へえ。それで、何を吹き込まれたのさ」
「実に簡単な事ですよ」
「貴方を打倒し、洞窟から引き摺り出してくれ、と」
ダイゴにとって問題なのはこの二人がミクリに何を頼まれたかである。その目を見る限り、遊びに来た訳では無い事は容易に判る。
そして語られたそれは中々に物騒な言葉だった。
「僕と、死合を希望すると?」
「「!」」
ダイゴの目を見た瞬間、二人は声を上げそうになった。ミクリから事前に忠告は受けていたが、いきなり命のやり取りを持ち出してくるとは普通じゃない。顔は笑っていたが、その目だけは今にも殺しに掛かって来そうな程の敵意に満たされている。
「断る。受ける理由が無いよ」
「そっちに無くともこっちにはあるんです」
しかし、幾らダイゴであっても顔馴染みをあっさり始末してしまう程闇に囚われてはいない。だから、実際にそうなる前に早々にお引取りを願いたかった。
だが、ユウキだって餓鬼の使いではない。しつこく食い下がる。
「くどいな。断固として拒否するよ」
「逃げるんですか? またそうやって」
これ以上機嫌を損ねるな。ダイゴは苛立った様に言うと、ハルカが決定的な一言で以って返す。
「――何?」
途端、ダイゴの顔が醜く恐ろしげなモノに変わる。周囲の空気がモノクロに染まりノイズがちらつく様だった。
「あたし達だって、進んで貴方と戦おうとは思わない」
「じゃあ、どうして。厭ならやらなけりゃ良いのにさ」
「でも、貴方の不逞で女の人が泣いてるなんて言われれば、直ぐに只事じゃないって判りましたよ。だから話を聞いて、受けようって思ったんです」
ダイゴの発する瘴気に蝕まれながらも、ハルカは気丈な態度で喋る事を止めない。事実を突き付けられたダイゴは逆に耳が痛くなった。
「そうか。話したのか、アイツ。……口が軽い奴だな」
「詳しくは聞きませんでしたよ。興味も無かった。でも、アンタのそれは現実逃避だって俺にだって判りますよ」
二人が何処迄事情を知っているのか。もうそれは問題では無かった。ユウキの言葉が更に深く胸に刺さったダイゴは腸が煮え繰り返りそうだった。
「・・・」
「その方、未だ貴方の事諦めてないんです。なのに貴方は居場所も告げずに逃げ回り、耳を貸さずに取り合わない。……卑怯です」
卑怯者。現実逃避。言われた所で、それは全て正しいので何も言い返せない。その所為でシロナは泣いているのだ。
「好き放題言ってくれるね。他人事だと思って」
「ええ、実際そうです。だから好き勝手言いますよ」
だが、ダイゴにだって言い分はある。そうでもしなければ狂いそうだったのだ。否、もうとっくに一部はとうに狂ってしまっている。何も知らない癖に。只の偽善者の癖に。ダイゴは彼等の正義面が不愉快だった。
そして、二人にはダイゴの苦悩も興味の外らしい。甘えるな、とそんな事を言いそうにしていた。
「貴方がこのまま戦わずとも、外に出てくれるならそれも良し。そうじゃないなら、戦ってくれる迄、ずっと粘る覚悟です」
「それは、流石に厭かな」
ハルカの言葉を受け、ダイゴは自分が挑発されていると感じた様だ。本来ならば取り合わないが、此処迄虚仮にされて黙っている事はもう出来ない。ダイゴは決心する。
「判った。どうしてもって言うなら、付き合うよ」
「おお」「あ、ありがとうございます!」
元チャンピオン。鋼の覇王の名に懸けて。ダイゴの言葉を聞き、二人の顔が綻ぶ。
「唯、僕に其処迄言ったんだ。負けた場合は覚悟してくれよな?」
「「え」」
しかし、次に続いたダイゴの言葉に綻んだ二人が凍り付く。土足で他人の不可侵領域を汚したのだ。ダイゴの憤りは正当化される。
「コンクリ抱いてキナギ辺りの海に潜って貰おうか。鉛玉も十分に差し上げよう」
「……ハッタリだよな? そうだよな?!」
「そ、そうに決まってる! 決まってる……かも?」
踏み入ってしまった以上、其処には生死で以っての決着以外は在り得ない。ユウキ達が勝つのならそんな未来は無いが、若し負ければダイゴは本当にそうするのだろう。
笑顔で殺しに掛かって来る様なダイゴに二人はそれが冗談だとは流石に思わなかったらしい。やらなければやられる。もう二人は勝つしかなかった。
「じゃあ、始めよう。二人共掛かって来な!」
命を賭けろ。覚悟を決めろ。それが出来ないなら、その首は貰い受ける。
――Do or die.Get ready?
ポケモントレーナーのユウキとハルカに勝負を挑まれた!