W:シンオウ二人旅  
 
 
――217番道路 温泉宿  
 その後、トバリを経由して北に進路を向ける事数日。昼夜を問わずに車を走らせ続け、蓄積した疲労は二人共ピークに達していた。  
 そこでダイゴは急遽エイチ湖の近郊にある温泉(兜沼)に車を止めて、体を休ませる事に決めた。ゲームでは雪が絶えない216番道路以北だが、現実ではそんな事は決して無い。寧ろ、夏の暑い時期なので日中の屋外はまるでフライパンの様な有様だった。  
 未だ明るい裡に温泉宿の部屋を取り、身体を汚す垢を洗い流し、同時に溜まった疲れを温泉に浸かって発散させた。  
 そんな湯上りホカホカの状態の二人が戻る部屋は同じ。行楽シーズンのピークなのか、部屋は一つしか空いておらず、それは拙かろうとダイゴは他を当たろうとしたが、シロナがそれを止めた。  
 ……その目に何かを期待している様な妖しい光を見た気がした。  
 ダイゴはそれに警戒しつつも、結局部屋を取る事にした。自分がしっかりしていれば間違いは起こらない……否、起こさせないと根拠の無い自信に裏打ちされた決断だった。  
 
 そうして、数日振りに人間らしい食事を取り、腹を膨らませた二人。ダイゴは日本酒で晩酌をしていて、シロナはそんなダイゴにとある疑問をぶつけてみる。  
「ダイゴさんは」  
「僕?」  
 ぐいのみに銚子の酒を注いでいるダイゴ。部屋着であろうジーパンを着て、上に浴衣を羽織っている。下着に浴衣のみのシロナの声に反応すると、彼は顔を向けて来た。  
「ダイゴさんは、何れは会社を継ぐんですか?」  
「・・・」  
 大学卒業後の進路。親御さんが大きな会社を経営しているのだ。一人息子であるダイゴはそうなる可能性が高い。それとも、それ以外の生き方を模索しているのだろうか?  
 シロナの質問は只の好奇心だったが、ダイゴの心を揺さ振り、決して触れてはならない何かを呼び覚ますには十分だった。  
「っ」  
 部屋の温度が低下したのがシロナには判った。原因は明らか。目の前の男から放たれている負の波動だった。  
「冗談じゃないね」  
 そうして、口を割ったダイゴの言葉には明確な拒絶とそれ以外の恐ろしいモノが含まれていた。  
「あんな魑魅魍魎の世界、金を詰まれても御免さ」  
「でも、御曹司ですよね。跡継ぎとかは」  
 理由は判らないが、ダイゴはデボンと言う会社を嫌っているらしい。今迄顔色を変える所を見た事が無いシロナでも一発で判る憎々しげな顔。まるで呪わしい仇の破滅を願う様な表情はそれだけ恨み辛みが深いと言う事だろう。  
 止せば良いのにシロナはそのダイゴの触れて欲しくない部分を逆撫でしてしまったらしい。  
「俺の知ったこっちゃねえよ」  
「!」  
 それはシロナの知っているダイゴでは無かった。  
 唯判るのは、ダイゴが尋常で無い憎悪を胸に飼っていると言う事だ。全身に感じる寒気に自分が今、冷や汗でびっしょりな事にシロナは気付いた。  
「さっさと潰れちまえば良いんだよ。あんな糞っ垂な会社は……」  
 吐き出し尽くせぬ胸の澱に苛立った様にダイゴが酒を呷る。しかし、その顔は急に酒が拙くなった様に不機嫌さで一杯だった。  
「……御免なさい。興味本位で聞く話じゃなかったですね」  
「そうだな」  
 人間、何が地雷になるか判らない。それを踏んでしまったシロナは早々に謝罪し、場を収めて貰う事にした。そんなダイゴは冷ややかな言葉と視線で彼女を迎え撃った。  
『だったら、態々訊くんじゃねえよ、小娘』  
 ダイゴの顔は確かにそう言っている様にシロナには感じられた。だが、吐いてしまった言葉は飲めないので、シロナはそれに耐え、黙って俯く他無い。ダイゴに対し、僅かの恐怖心を抱いてしまった。  
「おい」  
 そんなシロナの態度に苛立った様にダイゴがシロナを呼んだ。それに顔を上げる。  
「一寸付き合えや」  
 それを見計らってダイゴがシロナに使われていないぐいのみをパスで手渡す。相伴に預かれとのサインだった。  
 
「あ、お酒……」  
「何? 酔い潰れた女に狼藉働く程下種じゃないよ、僕は」  
 言っている意味は判る。しかし、いきなりそう言われても困る。  
 シロナは困惑しながらダイゴを見ると、彼はそう言った。……先程の空気は何処に行ったのか、今のダイゴの纏う空気や顔、声色はシロナが知っている普段のダイゴだった。  
「それは構いませんけど……お酒は飲んだ事が」  
 シロナが困っているのはそう言う理由だ。一滴たりとも飲んだ事が無い訳ではない。しかし、好んで酒を嗜む程飲み慣れても居ないし、日本酒の様に度数がある酒は殆ど未知の領域だった。だから、酔ってしまった時の自分に責任を持てない。  
 別にダイゴに狼藉を働かれてもシロナとしては構わなかった。  
「……聞かなかった事にするね」  
 いや、其処は構えよ。何考えてるんだ、お前。自分を大事にしろ。  
 ダイゴはそう言って叱り飛ばしたかったが、シロナ相手に大きな効果は見られないだろうから実際に口には出さなかった。  
「……ならこれも人生経験だ。それでさっさと潰れて、寝ちまえば良いのさ」  
「は、はあ。じゃあ、一寸だけ」  
 断れるならばそうしたい所だが、ダイゴの機嫌を損ねたと言う引け目があってそれを撥ね退ける事が出来ないシロナは渋々と言った感じにこれを了承。  
 ダイゴが注ぐ日本酒を抱いた恐怖を忘れる様に一息で呷ると、直ぐにお代わりを要求した。  
「……ふう。口当たりが、結構爽やか。もう少し頂けます?」  
「ああ。どんどんイってくれよ、シロナ君」  
 水口の、それでいて淡い甘さと芳醇な米の香りがとても心地良い。その味が気に入ったシロナはダイゴにもっとよこせと空のぐいのみを渡す。  
 中々酒付き合いが良いお姉ちゃんにすっかり機嫌を戻したダイゴは面白そうに酒を注いでやった。  
 
――凡そ三十分経過  
「んぐっ……っ、ぷはあ」  
「し、シロナ君?」  
 物凄いペースで酒が消費されている。途中から一切言葉を無くし、黙々と酒を呷り続けるシロナの姿に流石のダイゴも不安になってきた。  
 それ位にして置いた方が……  
 そんな言葉を掛けて見るも、やはりシロナは止まらなかった。  
 確かに、万人受けする美味い日本酒ではあるが、飲み慣れない人間が鯨飲すればそれは二日酔いの悲劇を招く。その状態で車に揺られるのはかなりの拷問だろう。しかも明日は船に乗って樺太に渡る予定もある。  
 これは予定の変更が必要か、とダイゴが考え始めた時、シロナはその動きをピタリと止めて、カクンと顔を下に向けた。  
「お、おい? 大丈夫かい?」  
「・・・」  
「駄目だ、反応が無いや」  
 その様子が普通じゃないと踏んだダイゴが声を掛け、肩を揺すって見るも、反応が全く返って来ず、シロナは俯き続けるだけだ。  
「ダイゴしゃん」  
「は?」  
 さてどうしてくれようと思案していると、突然シロナが口を開く。顔は相変わらず下を向いていてどんな表情かは判らない。  
「顔、ゴミ、付いてまふよ……ひっく」  
「あ、ああそう。……取れたかな」  
 そうして、自分の顔に指を指される。俯いた状態でどうやって確認したのか、その秘密を聞き出そうとはダイゴも思わない。  
 恐らくだが、シロナは嘘を吐いている。又はそれは本当で何かを企んでいる。それに嫌な予感を持ちつつ、ダイゴは浴衣の袖でごしごしと顔を拭うとシロナに尋ねた。  
「んー、駄目れふ。こっちに来れ。取ってあげまふ」  
「……ええい、侭よ!」  
 嗚呼、罠の臭いがプンプンする。だが、此処でそれを断っては酔っ払っているシロナが何をやらかすかダイゴは気が気じゃない。  
 面白半分に勧める冪じゃ無かったと悔やんでももう遅い。ダイゴは腹を括ってシロナに顔を近づけた。  
「っ!」  
 ほら、やっぱり来た! ガシっと両腕で首根っこを掴まれて、離脱が不可能になった。  
 そうして、顔を上げたシロナ。顔は真っ赤で、その目には獲物を前にして飛び掛ろうとする食肉目の獰猛さを象徴するみたいな鈍い金色の輝きがあった。  
 その光に目を奪われて動けないで居ると……  
――ちゅう  
「!? ……っ! っ……っだあああ! な、何すんだ君は!?」  
 軽く、触れ合う程度だが確かに唇が重なった。ダイゴは腕の拘束を解いて立ち上がると手の甲で口を拭い、焦った様に叫んだ。この酔っ払い! 通報しますよ!?  
「ケラケラケラ! やっらー! きしゅしちゃっらぁ〜っ!」  
 それをやったシロナは鬼の首を獲った様に喜んでいる。腹を押さえてケラケラ笑い、そしてそのまま後ろにひっくり返った。  
 
「なっ」  
 その様子を見てダイゴが絶句。これは大丈夫なのか、と本気で心配を始めた。  
「あははははは! あは、はー…………もろきゅう」  
「も、もろ?」  
 そうして、シロナは暫く笑い続けた後、電池が切れた様に一切の言葉を失いピクリとも動かなくなった。  
 ダイゴは警戒しながらシロナに近付くと、最早脅威は去ったという事を知った。  
「くー……くー……んふふふぅ……」  
「寝てる」  
 酒量の限界を大きく逸脱したらしい。シロナは顔をにやけさせながら夢の世界にトリップしていた。  
「酒、弱かったんだなあ」  
 今度から勧める相手には気を遣おう。そう肝に銘じたダイゴはさっさと布団を敷き、酔い潰れたシロナをお姫様抱っこして抱えて、寝床へ導いてやった。  
 
 ……その夜。  
「――はっ!?」  
 布団に入って暫くして。ダイゴがうつらうつらし始めた時にそれはやって来た。何者かが布団に侵入し、抱き付いて来ている。  
 これは物盗りや強盗じゃない。もっと性質の悪い何かだ。そう思い、恐る恐る視線を下へ向けていくと……  
「すー……すう……」  
「な、にぃ!?」  
 ダイゴの顔が驚愕に染まった。いや、決してこの場面を想像しなかった訳じゃあない。ひょっとしたらあるかな位に思い、直ぐに自分で否定した事だ。それが現実に起こっている。  
 シロナがしっぽりと抱き付いて居た。寝る時は上は裸と決めているダイゴだが、それでも夏の夜にこうも密着されると暑苦しくて堪らなかった。  
「・・・」  
 驚かせるんじゃないよ、全く。ダイゴはシロナの腕を振り解くと、さっきそうした様に姫抱っこでシロナを彼女の布団へ強制送還した。  
「恐いなあ、ほんと。何かのホラーショウみたいだよ」  
 変な所で叩き起こされて、機嫌が悪い筈なのに、何故かそれ以上に自分の貞操が危機に晒されている気がして体を震わせる。  
 何かそれに伴い尿意を催して来たので、ダイゴは起き上がるとトイレに行って、肝臓で分解した酒を外に放出した。  
「だい、丈夫、だな。うん」  
 そうして、自分の寝床に戻り、闖入者が居ない事を確認して布団を頭迄被り、目を閉じる。今日はもう厄介事は起こらないだろう。そう思ってダイゴは目を閉じた。  
 
「……またかよ、おい」  
 そうして、日付が変わって少しした後に再び怪異に遭遇する。寝ながらにして、一体どうやって近付き、また布団に潜り込んでいるのかその様を想像して、途中で恐くなった。  
 これはもう本当に怪談の域。それをやっているシロナはきっと妖怪なのだろう。  
「糞が。それならこっちも役得だ!」  
 だが、その妖怪相手に泣かされっ放しのダイゴさんじゃあない。腕と脚を絡み付かせる妖怪を調伏する様にしっかりと抱き締めてやった。  
「ぁん……はぁはあ……ダイゴ、さぁん……」  
 これには流石のシロナも大誤算。はあはあ悩ましく酒臭い吐息をダイゴの首筋に吹き掛けながら、それでもシロナは眠ったままだ。  
「これ、朝が恐いなあ」  
 即席の抱き枕をゲットしてご満悦の筈が、ダイゴは難しい顔をしていた。  
 主に、寝て起きた後の言い訳について。それを考えながら、シロナの抱き加減を堪能するダイゴ。女性特有の柔らかさ。鼻腔を擽る甘酸っぱい香り。胸元に押し当てられる乳肉の感触が些か窮屈で、またかなり暑苦しい。  
 寝苦しさの中、彼是考えている裡にダイゴもまた夢の世界に招待された。  
 
「……うーん、朝……?」  
 再び尿意を覚えて目を開ける。窓辺からは光が差していた。時計に目をやると朝の六時過ぎだった。  
 ……えーと、何か重要な事があった気がするが何だろう。って言うか、何でこんな暑苦しくて、全身が汗でべた付いているんだろう。胸の当たりも重苦しい。  
 ダイゴは視線を下に下げて全てを思い出した。  
「くー……くかー……」  
 幸せそうな寝顔を晒して眠るお姫様の姿があった。  
「はっ? なっ!?」  
 シロナが自分の胸を枕に寝ている件について。  
 ……そうだった。昨夜はシロナが酔い潰れて、布団に侵入して来たんだった……! そんな大事な事を何で忘れるのさ僕の馬鹿! ……と、悔やんでばかりも居られない。  
 ダイゴはシロナを起こさない様に振り解くと、その彼女の姿に一瞬、ドキッとした。  
 シロナの着ていた浴衣は外れて彼女の布団の脇で皺を作って打ち捨てられていた。  
 そんなシロナは今、下着……黒い面積の狭いローレグのショーツ以外は全く付けていない。ピンク色の乳首はツンと天井を向いていて、紛う事無きパンイチ状態だった。  
「……//////」  
 そうして、良く見れば自分の胸元にはキスマークと思しき赤い痕が何箇所かあった。  
 つまり、何か? 粗裸の女を抱いて寝て、更にキスマークを付けられたって事か?  
 ……何時の間にそんな行為が行われたのかダイゴには記憶が無い。考えても全く判らなかった。  
「……風呂に入るかな」  
 取り合えず、放って置こう。自分の責任じゃあ無い。  
 ダイゴはシロナの浴衣を彼女に上にかけると、更に布団を上から被せた。  
 そうして、空いたシロナの布団を畳んで部屋の端に寄せると、Tシャツを着て、バスタオルと手拭を持ってトイレ序の朝風呂へと出掛けて行った。  
 
「ダイゴさん」  
「何だい?」  
 旅籠を出て車を北に走らせる。煙草を吸っていたダイゴがシロナの視線に気付いて顔を向けると、シロナは真面目な顔で聞いて来た。  
「あたし、昨夜、何かやりました?」  
「……覚えていないのかな?」  
 その顔を見る限り、酒は残っていない様だった。だが、言う冪事は山程あった。ダイゴは顔をヒク付かせながら煙草のフィルターを吸う。すると、シロナは途端に真っ赤に染まった。  
「あ、い、いや! その、あの……//////」  
「まあ、何も無かったからそれで良いさ」  
 どうやら、記憶を失っている訳では無いらしい。と言う事はキスの件は覚えているのだろう。その後の事は不明だが。ダイゴとしては、それは無かった事にしたいのか不用意な追求は一切せず、代わりに煙を吐き出した。  
「はいぃ……」  
 それでシロナは叱られている気分にでもなったのだろう。しゅんと項垂れて身を小さくするシロナが何だか普段よりも可愛く見えた。  
「しかし、幾らか惜しかったがね」  
「! それって……」  
 そんな気持ちがダイゴにそう言わせたのだろうか。それを聞いたシロナは途端に顔を上げてダイゴに真意を問うた。  
「意味は自分で、ね」  
「ふ、ふふ……期待、しちゃいますよ?」  
 だが、やはりダイゴはそれを自分の口で語らない。中々に小賢しいやり方だが、シロナはそれを好意的に解釈する事にした。その証拠に、彼女の瞳の奥には何らかの生臭い情念が確かに宿っていた。  
「さて、どうだかねえ」  
 果たして、これの発言が未来にどう影響するのかはダイゴにだって判らない。しかし、シロナが明確な好意をこちらに向けている事だけは判っている。その瞳が何よりも正確に教えてくれているのだ。  
 嘘や打算は全く含まれない、濁り、それでいて又、澄んだ女の瞳。  
 少しだけだが、ダイゴにはそれが嬉しかった。  
 
 
――リゾートエリア 別荘  
 翌日。樺太の南東の端。僻地の極みと言った場所にあるリゾートエリア。誰かにとっては必要な場所らしいが、それにしたって交通の便が悪過ぎる場所だ。  
 去年と同様に、ダイゴはその場所に来ていた。シロナと共に。  
「ほえええぇ……これが件の」  
「そ。親父の別荘。完成したから見に行ってくれってね」  
 案内された別荘地。その一角にある建物の前に連れて来られ、シロナが感嘆の息を呑んだ。建物の規模自体は然程大きくは無い。しかし、敷地は広くてプールだってある。地価の安いだろう樺太だから、金さえ積めばこれ位の別荘を建てるのは朝飯前なのだろう。  
「別荘……あたしには遠い世界の事で判りませんが、お金ってある処にはあるんですね」  
「あくまで親父の物だ。僕のじゃない。しかし、態々ホウエンから避暑の為に来るには此処は不便だよ」  
 ホウエン経済界の支配者。デボンの社長が建てた別荘。そりゃあ、金が無いと考える方がおかしい事だ。だが、ダイゴは決してそれを誇らない。自分の功績では無いからと、鼻に付く発言をする事も無かった。  
 成金には嫌味な人間が多いが、ダイゴはそうではないらしい。シロナはそれだけでもダイゴを評価したかった。大学でそう言った連中を何人か見ていたからだ。  
「そうですね。シンオウの人間でもよっぽど用事が無い限り、樺太には渡りませんからね」  
「だよね。……君が偶に見に来てくれれば、僕は助かるんだけど」  
 唯、この別荘にも問題が無い訳ではない。南から北の奥地迄涼む為に態々数日掛けて来る価値があるのかと言う話だ。ダイゴの父が社長である限り、何日も会社を休む事は出来ないだろう。  
 それでも、この僻地に別荘がある限り、ダイゴはまた父の命で見に来なければいけない。流石のダイゴもそれは遠慮したい所だった。だから、シンオウ在中のシロナにこの別荘の管理を頼みたいダイゴ。  
「御免なさい。無理です。無い袖は振れませんので」  
「あはははは。はあ。そっか」  
 だが、シロナは断った。シロナは樺太に来る様な用事は常に抱えないし、未だ出会って十日前後の人間にそんな重たい頼みをされて、それに頷く程シロナは軽率ではない。  
 彼の言いたい事も判るが、シロナは責任を持てないのでそれを丁重にお断りした。  
 予想していた答えが帰って来たのでダイゴは乾いた笑いを浮かべてがっくり肩を落とした。  
「……何で建てたんだろう」  
「……さあ、何ででしょう」  
 親父の野郎、無駄遣いしやがって。忌々しい建物を睨みながらそんな事を思ってもダイゴは現実には無力だった。呟かれたダイゴの言葉にシロナも首を傾げるしかなかった。金持ちの道楽についてさっぱり理解が行かなかったのだ。  
 
「さて、じゃあ行こうか」  
「え、もうですか」  
 到着してから一時間と経っていない。敷地周りと何も無い別荘内部を確認した所でダイゴが撤収を宣言する。幾ら何でも早過ぎる。もっとゆっくりしないのかとシロナは言いたいが、ダイゴがその発言を撤回する事は無い。  
「確認しに来ただけだから。って言うか、帰る迄、余り時間が無い。さっさと車を返しに行かないとさ」  
 ダイゴがホウエンに帰る迄、時間が幾分も残されていない。さっさと此処を出なければ船の最終便の時間に間に合わなくなる。端からこの場所で観光を楽しむ気は無いダイゴは一刻も早く樺太から離脱したかったのだ。  
「――そうです、ね」  
「シロナ君……」  
 その言葉に別れの匂いを察したシロナが悲しそうに顔を俯かせた。それに対し、ダイゴはどんな言葉を掛けて良いのか判らなかった。  
 
 夜。一日でシンオウ〜樺太間の往復と言う強行軍を終えて、二人はキッサキに帰って来た。車に乗り込み、南に進路を取る。  
 その最中。ぽつりとシロナが零した。  
「遠い、ですね」  
 口元には煙草。真っ暗な窓の外をじっと見詰めていた。ガラスに映ったその表情は暗かった。  
「そうだねえ。遠いねえ、樺太は。こっからコトブキ迄は更にだけどさ」  
「そうじゃなくて……」  
 ダイゴにだってその表情の意味は判る。だが、それに敢て気付かない様に見当違いな事を言ってやる。もう遅いだろうが、これ以上余計な情を募らせて別れが辛い物になる事を避けたいダイゴなりの気遣いだった。  
 しかし、それはあくまでダイゴの勝手であって、シロナにそれが通るかは別の話だ。溜め息混じりに煙を吐くシロナの顔は明らかにがっかりしていた。  
「ホウエン?」  
「ええ。北と南。……遠いですよ」  
 別に取り繕う必要は無かったが、シロナの表情を目の当たりにして、どうしてか胸が締め付けられる様だった。だから、ダイゴは正解を言ってやった。  
 そして、シロナは更に悲しそうな顔をする。うっすらと涙が滲んでいる様なその顔。ダイゴは何かを悩む素振りを見せ、ハンドルから手を放して腕を組む。そうやって少しの間考えた。……考えたが、良い返答は浮かんで来なかった。  
「どうにもならんねえ」  
「ならない、ですよねえ」  
 結局、それだけしか言えなかった。堪える様にギュッと目を瞑り、煙草で胸の苦しみを紛らわせるかの様なシロナの姿。  
 心を揺さ振られるその姿にダイゴは何とか平静な振りを装う。それでも、手を差し伸べたいと言う欲求だけは蓄積されて行く。  
『厄介な女に目を付けられた』  
 そんな事を思ってみるも、胸の高鳴りだけはどうしもようも無かった。  
 
 
――コトブキシティ ロータリー前  
 夕刻。途中で仮眠を挟み、辿り着いたシンオウ最大の都市は、傾いた日差しに晒されて彼方此方に影坊主を伸ばしている。車を返却し、山盛りの荷物を両肩に担いだダイゴは同じく大荷物を抱えるシロナと向き合う。  
「明日のこの時間には、未だ空の上かな僕は」  
「・・・」  
 オレンジ色に仄染まる二人の横顔。飛行機の出発時刻は明日の正午過ぎ。凡そ二時間掛けてカントーへ飛び、それから乗換えを行ってホウエンのカナズミ空港へと向かう。  
 接続便が何時に出るかでそれは変わるだろうが、シロナはそんな事に興味が無い。何とか、再びの別れの瞬間を先延ばしにしたかった。  
「さて、僕の十代最後の冒険はこれにて。石はちっとも掘れなかったけど、それでも楽しかったよ。……有難う、シロナ君」  
「はい」  
 終わりを告げる様に図れるダイゴの謝辞。そいつを聞きたくないシロナは耳を塞ぎたい気持ちで一杯だった。そんなどうでも良い言葉を寄越すより、もっと欲しいモノがある。  
 あの温泉宿での出来事はそれが発露した結果だ。そして、シロナはもう自分自身を抑える事が出来そうに無いし、自重する気も更々無かった。  
「で、君はどうする? 僕はもう一泊して明日に備えるけど」  
「あたしは」  
 さて、何と答える冪か。恐らく、この場での受け答え次第で自分の未来が全く変わるであろう事をシロナは予見している。人生の岐路と言う奴だろう。  
 シロナの腹はとうに決まっている。問題は何処でそれを言うかだが……  
「途中迄なら送ってけるけど? まあ、家の前迄は無理だろうけどもさ」  
「・・・」  
 シロナの家はシンオウ大に程近い場所にあり、バスに乗って十数分と言った場所にある。近いと言えば近いが、ダイゴもバスに乗って迄見送ろうとは思っていない様だ。  
 此処で要求を捻じ込む冪か。……否、未だだ。未だその時ではない。  
「さ、行こうよ。暗くなっちゃうよ?」  
 出方を伺うシロナ。そして、チャンスが到来。ダイゴが後ろを向いた隙に、シロナはその背後に近寄り、Yシャツの裾をギュッと握った。  
「シロナ君」  
「ダイゴさん……」  
 それに気付いたダイゴが振り向いた。  
 ……もう此処迄来てしまった以上、後戻りは不可能だ。脈打つ心臓が胸を破って飛び出しそうだ。ありったけの勇気を込めて、シロナは頬を桜色に染めつつ、女の魂と心意気をダイゴに叩き付けた。  
「奢って、くれませんか?」  
「え」  
 今迄行動していてダイゴは全くこちらに興味を注ぐ素振りを見せなかった。そりゃ、紳士的に振舞われて悪い気は一切しなかったが、それが十日近く続けば拷問に近いもどかしさが募る。  
 そして、それ以上に女としての自信を無くしてしまいそうでもあった。そちらに気があるのを知っている癖に、知らない素振りをされる。  
 もうそんなのは嫌だったのだ。  
「ホテル、奢ってくれませんか?」  
「――」  
 だから、ストレートに欲望を言葉で伝える。どれだけ想っていても、口に出さなければ相手には伝わらない。別離が避けられないと言うのなら、せめてそれ位は叶えて欲しかった。自分をしっかりと見て欲しかった。  
「あたし、このままじゃ……このままじゃ……!」  
 既成事実と言う名の罠に訴える事。女としては真性に外道な手段。シロナ自身も承知している事だ。しかし、もう彼女には己の体位しかダイゴに対する武器は持っていない。  
 己の女の肉体を楔として、また鎖としてダイゴを打ち抜き、縛る。  
駆け引きと言ってしまえばそれだけの話だが、そんな手に訴える程に、シロナは女としてダイゴに抱き締められたかった。  
 
「――確かに」  
「!」  
 目を閉じて逡巡する事数秒。ダイゴは全てを理解した様に呟くと、また頷いた。その仕草に希望を見た気がするシロナが俯き加減だった顔を上げた。  
「確かに、これで終わりにするのはお互いに宜しくない事かもな」  
「――っ」  
 腐れ縁で済ます段階に既に無い事は判り切っていた。  
 シロナの気持ちについて、ダイゴだって知らなかった訳ではないし、それに蓋を出来る状態では無いと言う事も筒抜けだ。何時からか、女の顔で見て来る様になった彼女を此処迄追い込んだのが自分だと理解している。  
 それでも知らぬ存ぜぬと通して来たのは、単に余計な事に心を砕き、それにより得られる事象に価値を見出せないからだった。簡単に言えば損得勘定だ。  
 そして、それ以上にシロナと言う人間を信じられないからこそダイゴは頑なだった。二週間に満たない期間で相手を正しく理解するには無理がある。信じられないから、理解が及ばないから触れるのが怖い。未知の物に人間が抱く根源的な恐怖に似たモノだろう。  
 だが、それでもダイゴは漢だ。女に其処迄言わせてしまった以上、これを断り、恥を掻かせてしまっては漢が廃る。もう肉体言語に訴えるしかないとダイゴは悟ったのだ。  
「それじゃ、君の気持ちについては最後迄責任を持とう。だから、その道楽に付き合う」  
 顔色を変えず、冷静な振りをしつつ、そんな事をほざく。内心、ダイゴの心は困惑で一杯だった。これ程の短期間で何故こんなに懐かれたのか、首を傾げる。  
 だが、その目を見る限り、金目当てだとか陥れようとか、何らかの悪意は見られない。そうやって幾度も裏切りを経験している故にダイゴは他人決して心を晒さない。それが付け入る隙になるからだ、  
 だが、シロナは違う。純粋に抱いて欲しいと、懇願する女の瞳だった。  
 それに危険が無いと踏んだからこその決断。些かチキンだが、ダイゴ本人としてはその辺りは切実だった。  
「道楽じゃあ、無いですよ」  
「っ」  
 そんなダイゴの苦悩を知らないシロナは何だか嘗められた気がして、ダイゴの胸に倒れ込み、そこにすっぽりと収まった。  
 好き好んでやっているのは事実だが、女の一大決心を道楽などと言う戯言で済ませて欲しくなかった。だから、シロナは潤む瞳に恋心を乗せて、ダイゴのそれを射抜いた。  
「女の生き様です」  
「それは失礼を」  
 覚悟を見せ付ける様に輝く金の瞳。確かに、茶化して良い場面ではない。心が決まっているなら、こちらもそれに対する誠意を見せなければ嘘になってしまう。  
 ダイゴは自分も腹を据えた事を示す様に銀の瞳をシロナに向ける。彼女は嬉しそうに微笑み、体を密着させて来た。  
 
 
 

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