「いっただっきまーっす!」  
 欲と歓喜とに満ちた声が室内に響き渡った。心底嬉しそうな朗らかな笑顔が、朗らか過ぎて逆に  
腹立たしい。満面の笑みを保ったままで手と口を忙しそうに動かすその姿に、心持ち皮肉を込めた  
視線を送る。  
「…なぁに? いっとくけどあげないからね。あげるっていったのに断ったのアンタなんだから」  
「いらねーよ」   
 山と積まれた洋菓子を庇いつつ軽く睨んで来るその顔に、かおるはうんざりと答えた。別に  
菓子が欲しくて眺めていたわけでは無い。  
 最早いつもの事だが、研究所の出費で菓子類を食べまくるももこの食欲には目を見張らざるを得ない。  
日々大量摂取されるそれらが全て甘いものばかりとくれば、見ている身としては驚きを通り越して気持ち  
悪くなってしまう。研究所の運営がどのようなものかはよく知らないが、パワパフZの主な活動は市街防衛  
であり、市長の要請で出撃する事も少なくない事から、研究所には援助金が、それも少なからぬ額が  
市から出されている事だろう。つまりは市民の税金であり、たとえ比率で言えば極々僅かなものであっても  
その一部がああしてももこの胃に消えて行くのは、一般小市民たるかおるには心寒い光景だ。もっとも  
かおる自身もスポーツチャンネル見放題、という恩恵に与っているわけだが、ももこの菓子類食い放題と  
違ってわざわざその為にチャンネル契約した様子は無いので、その辺りはまるで気に掛けていないが。  
 とは言え、当のももこが言うように、先程ももこが自分の分を気前良く分けてくれようとした  
のを断ったのは、何も市民の皆様に遠慮したからではない。単にももこの食いっぷりを目の前にすると  
食欲が失せる時がある、というだけの事だ。  
 再び笑顔に戻りケーキの塊を口に押し込むももこを見て、じわりと胃の辺りが重くなった。  
もし、何も知らぬ善意の第三者がももこの笑顔を“花が咲いたような”と評したなら、それは貪欲な  
食虫植物の花だと教えてやらねばならないだろう。  
「なあ、みやこ…」  
 対面に位置するももこを横目に見つつ、かおるは隣に座ったみやこに耳打ちした。  
「あいつのああいうの見てると吐き気がするの、俺だけか?」  
「わたしはもう慣れました〜」  
 耳元で響くかおるの声にくすぐったそうに身を捩って答えながら、みやこは手にしたフォークで自分の  
ケーキを突き崩し、一口大の塊をかおるの口元に差し出した。  
「はい、あ〜ん」  
「え?」  
「かおるさん、あ〜〜〜〜ん」  
「あ、あ〜…」  
 何故? と思いつつも勢いに流され口を開いた。程良い大きさのケーキが口の中にそっと押し込まれる。  
軽く咥え、フォークが引き抜かれるに任せる。別に甘いものが嫌いなわけではないし、ももこのいない  
ところで食べればきっと美味しいだろう、と思った。  
 そうしてる間にみやこは自分でも一口食べ、次の一口分を再びかおるに差し出した。最近は何となく  
みやこに逆らえないでいるので、大人しく口を開ける。  
「あ、アンタたち間接キッスじゃない? やーらしい」  
 どうでもいい事にはよく気付くももこが素早く指摘する。言われてみればそうだが。  
「いーだろ別に。缶ジュースの回し飲みすんのと同じだろうが」  
 ぶっきらぼうに言い返すかおるだったが、その顔が次第に赤く上気し始めた。  
「うわ、顔赤くなってる! かおるってまさか、みやこのこと…」  
「え〜!? かおるさん、そうなんですか〜!?」  
「ちち、違う!」  
 意地悪く、或いは嬉しそうな、それぞれの笑い顔を手を振って遮る。キス。回し飲み。二つの言葉から  
喚起されたとある出来事が、かおるの頬をどうしようもなく染め上げるのだ。  
「お、お前があんな事するからだろ…」  
 恨めしげにももこを睨む。しかしももこは何を言われているのか解からないらしく、フォークを咥えたまま  
不思議そうな顔をしている。  
「え? なんの話?」  
「忘れたのかよ!? お前が、俺に…その、キ…キ…」  
「…あたしなにかしたっけ…?」  
「……いいよ、もう」  
 どうやら本気で思い出せないでいるももこから顔を背け、かおるはそっと己の唇に指で触れた。  
 あの時、確かに。ももこと。  
 息と息が。唇と唇を。舌と舌で――。  
 
「…どういう事ですか〜?」  
「…えっ?」  
 責めるような声に、ふと我に返る。その手に掲げたフォークの先端にも似た、尖った視線がみやこから  
注がれていた。  
「かおるさん、ももこさんと何があったんですか〜?」  
「…いや、まあ、別に何でもないけどさ」  
「でも――」  
「あ、そうそう! 聞いて聞いて! 昨日、駅前で――」  
 詰問するようなみやこの言葉を遮って、ももこが大声で喋り始めた。しかしみやこはそれを無視して  
なおも喰い下がる。  
「別に何も、何ですか〜?」  
「…何でみやこが怒ってんだよ」  
「だってお顔が真っ赤で――」  
「それでねそれでね! そのイケメンがあたしに――」  
「……」  
 再度みやこの言葉を遮るももこだったが。  
「――ん? んん? んんん〜?」  
 不意に言葉を切って下腹部を押さえながら呻き出し、ややフラつきながらゆっくりと立ち上がった。  
顔が少し青ざめている。  
「ももこ? どうしたんだよ!?」  
「あ、うう、なんだろ、急におなかが…。ちょっと、トイレ…」  
 微妙な前傾姿勢を保ったまま部屋を後にするももこ。どうやら下痢らしい。  
「…はぁ、またかよ。この前も同じ感じで腹壊さなかったっけか?」  
 かおるは浮かしかけた腰を長椅子に沈め直し、ため息を吐いた。心配するだけ損なのがももこなのだと、  
一体何度思った事か。  
「ったく、大体アイツは――」  
「ももこさんのお腹なんてどうでもいいです。そんな事より、かおるさん〜」  
 みやこの声にはまだ尖りが残っている。  
「さっきのお話がまだです〜。ももこさんと何をしたんですか〜?」  
「あ〜、まあ…」  
 かおるは言い淀んだ。何故みやこがこうも拘るのかが解からないし、そもそも“あんな事”を話して  
いいものだろうか。しかし、白状しなければ許されないような雰囲気ではある。  
「どうして教えてくれないんですか〜? わたし一人除け者ですか〜?」  
 拗ねるように、甘えるように、みやこはかおるに身を寄せて迫った。  
「そ、そういうわけじゃ…」  
「かおるさぁ〜ん…」  
 ついには自分の肩に胸を押し付けるように密着するみやこの体温に、かおるは激しく動揺する。  
    
 ももことみやこ、それにかおる。平時における三人の位置取りは大体決まっている。ももことみやこが  
寄り添うような仲良し振りを見せ、そしてやや離れたところにかおるがいる。色々と物議を醸し出しながらも  
三人の中心にあるももこが――大抵の場合、かおるには意味も意義も理解出来ない事柄だが――何らか  
の流れを作り出し、みやこがそれに同調なり意見なりをし、時折向けられる矛先をかおるが適当に受ける、  
という毎日。  
 ところが今。そこからももこの存在を欠いた途端、みやことかおるの位置関係は大きな変化を見せるように  
なった。  
 声が近い。視線が近い。手を握られたり腕を組まれたり、身体のいずれかの部分を意図的に触れ合わせ  
られる。自分の目線より僅かに低い位置から、窺うような甘えるような、熱を持った上目遣いを注がれると、  
かおるは気恥ずかしさの余り何処かへ逃げ出したくなる。太ももに手を置かれた時などは驚きの余りつい  
妙な声が出た。ももこと二人、何かよく解からない話題で盛り上がっている時などに手を取り合って跳ねたり  
軽く抱き合ったりする光景を見て、普通の女の子の付き合いとはああしたものなのか、と思いもしたが、  
それらと自分へのみやこの態度がまるで異質なものであるという事はかおるにも解かる。  
 だから、本当に最近のみやこは何処かおかしい、とかおるは心配になる。この、知らない内に絶対的な  
優位に立たれてしまったかのような不安。何か、自分に関する悪質な冗談を一人で楽しんでいるかのような、  
不気味な圧力。  
 しかし解からない事を考えていても仕方が無いし、その辺りをみやこに確認するのも怖い。正直に答えて  
今のこのイヤな流れをやり過ごそう、とかおるは諦めにも似た覚悟を決めた。  
「ん〜、じゃあ話すけど、結構前に――」  
 
「お、飴だ。…ま、どうせももこのだろ。もーらいッ」  
「あ〜ッ!? ちょっとちょっとちょっとぉ〜!? なに勝手に人のキャンディなめてんのよぉ!」  
「ああ、いたのか。いーじゃん別に。飴の一個ぐらいでケチくさい事言うなよな」  
「それはねぇ! 期間限定生産の超〜レアなキャンディなの! 二時間並んで買ったんだからぁ!」  
「飴買うのに二時間かよ? 馬鹿だな。馬鹿の世界だ。…でもまあ、確かに美味ぇなコレ」  
「でしょ? なにしろ限定品なんだから! ってなわけで、返して、かおる」  
「え?」  
「キャンディ!」  
「…いやお前、人が一度口に入れたもんを返されたってどうすんだよ」  
「返して! 今すぐ! かーえーせー!」  
「解かった、俺が悪かった! 今度同じの並んで買って来るから――んむッ!?」  
「んむ〜」  
「ン〜〜〜ッ!? ンンン〜〜〜〜〜ッ!」  
「んぐ…んっ」  
「ん、んむ…ンッ……んぁ…ぁ」  
「ん、…ん? ぷぁッ! もぉ、ちょっとちっちゃくなっちゃってるじゃないのよぉ」  
「…はぁ…はぁ…はぁ…」  
「ん〜? 思ったより大したことない味ねぇ。わざわざ並ぶほどのもんでもなかったかな」  
「……な、何、何すんだ!? 何すんだお前ぇぇッ!?」  
「なによぉ、もとはといえばアンタがあたしのキャンディを取るからいけないんでしょーが」  
「だ、だからって何も、直接、口でッ…!」  
「一度口の中に入れたキャンディはなめ尽くすまで口から出さない! 飴道の基本よ、基本」  
「………」  
「…ちょっと、そんな顔しないでよ。缶ジュース回し飲みするのと同じようなもんでしょ?  
女の子同士なんだから」  
「………」  
「あ、でもあたし、キスするのって初めてだわ。人のベロってなんかヘンな感触ね」  
「………」  
「いやー、まさかファーストキスの相手がかおるだったなんて予想外だったわー」  
「………」  
「…なに赤くなってんのよ! やらしいわねー」  
「………」  
「…かおる?」  
「……最低だ、お前」  
   
「――というわけで。まあ、結果的には俺の初キスはももことなわけだ。ま、一応な、一応。どうでも  
いいんだ、別に」  
 とは言うものの、実際には“どうでもいい”どころでは無かった。  
 あの時、口の中の飴を奪い取っていったももこの舌の感触。  
 ねっとりと暖かく、柔らかくて。飴の香料と混じり合ったももこの息が甘く香って。  
 夜毎の夢に幾度と無く繰り返される、あの瞬間。おかげでその感触を覚え込んでしまったらしく、  
今この時も、自らの唇と口腔はももこの感触を鮮烈に再現している。  
 再び顔が熱くなって来た。しかも真っ赤になってしまっているだろう。かおるは誤魔化すように視線を  
外したが、その背けた頬をみやこに凝視されているのを感じた。  
 と、少しの間黙っていたみやこが不意に喚き出した。  
「……ズルーい! ももこさんズルいです〜!」  
「いやホラ、アイツもう脳に糖分が回りきってておかしく…って、ズルいって何だよ!?」  
「ももこさんがそんな、面と向かってキスしたのでしたら〜…」  
 恨みがましく睨まれる。今日になってよく見る表情だ。  
「わたしにだってその権利がありますわ〜!」  
「…権利って、それを決めるのはお前じゃないと思うけど」  
「わたしだって、ちゃんとしたキスはした事ありませんのにぃ〜!」  
 まるで“ちゃんとしてないキス”ならばした事があるような言い方に突っ込む前に、更なる接近。みやこの  
小ぶりな顔は最早目と鼻の先にある。  
 
「かおるさん…」  
「え…?」  
「かおる…さん…」  
「ままま待て!」  
 ゆっくりと顔を近付けて来たみやこの、華奢な両肩を掴んでグイッと押し離す。  
「おかしいだろ! ももこと俺が、その、そうしたからって、何でみやことまで――」  
「…嫌いなんですね」  
「え?」  
「嫌っているんですわ〜!」   
 みやこの大きな目が、じわりと涙で潤い出した。目一杯の涙を今にもこぼれ出しそうにして、大声で  
喚き始める。  
「ももこさんとなら良くてわたしとはダメだなんて、かおるさんはわたしの事を嫌っているんですわ〜ッ!」  
「あ〜、いや、そうじゃなくて」  
「嫌っているんですわ〜! 憎んでいるんですわ〜! わたしの姿が視界に入っただけで反吐が出るん  
ですわ〜ッ!」  
「出ない出ない出ない!」  
「では〜」  
「いや、俺がみやこを嫌いかどうかって事とキスするかどうかは全く別問題だと――」  
「嫌っているんですわ〜! 呪っているんですわ〜! 近日中に法廷に訴えて法的処置を執るつもり  
なんですわ〜!」  
「訴えない訴えない!」  
 子供をあやすような感じで肩を軽く揺すり、泣き喚くのを止めさせる。少し躊躇い、続いて数秒間  
悩んでから、思い切って切り出した。  
「解かった、解かったよ! する! するから!」  
 この状況を収拾するにはそれしか思い付かない。それにももこもあの時――どうしてもそうは思えない  
のだが――缶の回し飲み程度の事だ、と言っていた。    
「ま、まあ…女同士だし、そんな身構える事でも無い……よな?」  
「はい〜、仲良し同士のスキンシップとして当然の事ですわ〜」  
「…さっきまで泣いてなかったか?」  
「はい〜、大泣きでした〜」  
 ニコニコと屈託無く微笑むその様子には大いに疑問だ。が、その微笑みは消え入り、両目が閉じられる。  
小さな唇を僅かに開いたまま動かずに待っているみやこと、その両肩を掴んだままの己の両手を見るに、  
いつの間にか自分から接吻をしなければいけない事になっているらしい。進退窮まるこの状況に、みやこの  
両肩を掴む手が微かに震える。  
(…でも、え? えぇぇ〜? だって、キス…だろ?)  
 いいのだろうか。みやこも――あの時のももこも――も、同性同士の他愛無い戯れ事だと本気で思って  
いるのだろうか。それとも、女の子同士、友達同士の接吻というものは真実ただのスキンシップに過ぎず、  
自分だけが妙に意識してしまっているだけなのだろうか。在り得ない話では無い、とかおるは思った。  
一般的な女の子のメンタリティを欠く自分なら、そういう当たり前の事が理解出来ないという事もあるかも  
知れない。きっとそうなのだろう。第一、これ以上みやこに泣かれるのは辛い。ただでさえ、最近の自分は  
みやこに対して強気に出られないのだ。  
 じっと待ち続けるその唇に、ゆっくりと近付く。それを察知してか、目を瞑ったままみやこの身体がぴくん、  
と動いた。  
 互いの吐息が混じり合い、そして微かに、ほんの微かに、唇が触れ合った瞬間――。  
「ンンッ!?」  
 まるで対戦相手の致命的な隙を見つけた一流格闘家のグラップルのように、みやこの両腕が稲妻の  
速さでかおるの頭部に巻き付いた。吃驚して開いた口に、熱くぬめった舌が蛇のようにくねりながら  
にゅるぅ、と滑り込む。同時に上体に体重を掛けられ、かおるは長椅子の上に半ば押し倒された。  
「ん〜、んふぅ、ん…んん」  
「ンッ! ンッ…ぷぁッ、み、みや…ンッ」  
 意外な程深く侵入してくる舌に総毛立つ。嫌だというわけではなかったが、それでも本能的な危機を感じて  
振り払おうとする。しかし頭と首とにしっかりと回されたみやこの両腕がそれを許さない。大量の暖かい  
何かが、口腔内に流れ込んで来る。みやこの唾液だ、と解かったが、嫌悪感は全く湧かなかった。だから、  
口に溢れそうに感じるそれを飲み下した時に背筋を巡った感覚は、悪寒ではなく別の何かだ。  
 にゅるにゅる、くちゅくちゅ、唇と唇がぬめり合う、舌と舌が絡み合う音が聞こえる。身体の力はいつの間にか  
抜け切っているのに、それでも時折ぴくんぴくんと波打つのは何故だろう。鼻から抜ける甘ったるい声が、  
己のものである事が信じられない。  
 
 不意に、ももこの舌の感触が浮かんだ。しかしそれは口の中を蹂躙し続けるみやこの舌で掻き消されて  
行く。ももこの舌は口内の飴を奪うだけで去って行ったが、みやこはかおるそのものが狙いだからだ。  
 並びを確かめるように、一つひとつ、舌が歯の表面を撫でる。それが済むと歯の裏側を。次に歯茎の  
隅々まで。  
 まるで口腔内の全てに己を刻み付けるかのように、執拗に、執拗に、執拗に、執拗に――。  
「――ぷぁッ!」  
 どれくらいの間、貪られていたかは解からない。ゆっくりと身体を起こしたみやこに見下ろされながら、  
忘れていた呼吸を整えるべく息を荒げた。口を閉じぬままのみやこの、その薄桃色の舌の先端から、  
唾液が糸のように垂れ続けている。同じく舌先でそれを受けながら、呼吸が静まるのを待つ。  
「…はぁッ……ぁ……み、や……あぁぁ…ぁ…」  
 全身が甘く痺れている。みやこの名を呼ぼうとするのだが、舌が縺れてまともな声にならない。  
 見下ろすみやこが目を細めて――笑う。  
 初めて見る、その笑みが。獲物の体内に潜り込む鏃のような、その舌先が。  
 口一杯に残る粘膜の温かさのせいか酷く曖昧になった心の片隅で、かおるは呟いた。  
   
                                                   怖い。  
   
「はあぁ〜…とうとうかおるさんに唇を奪われてしまいましたわ〜」  
「………………………………いや、その表現はおかしい」  
 まだドキドキしている。口の中では未だにみやこの舌が蠢いているような感覚があり、頭部はみやこの  
細い腕に締め付けられているかのようだ。仰向けに横たわって天井を眺めたまま、“取り憑かれる”のって  
こんな感じかな、とかおるはやや外れた事を考えた。  
「あの〜、かおるさん…?」  
 嬉しそうに身を捩じらせていたみやこだったが、ふと真顔に戻り、恐る恐るといった感じでそっと身を  
乗り出して来る。  
「もう一度…いいですか…?」   
 確認の呈を取りながらもそれは既に決定事項のようで、みやこが再び覆いかぶさって来た。唇を半開きに  
しながらゆっくりと下降するみやこと目が合う。  
「み、みやこ――」  
 待って、と言いかける前に、唇が塞がれた。またあの蹂躙が始まるのかと思い、思わず歯を食いしばる。  
 だが、今度の接吻はずっとずっと優しかった。  
 歯の表面に触れたままのみやこの舌は動かない。待っているのだ。多少の躊躇はあったが、かおるは  
固く噛み合せていた歯を開いた。最後の防御を抜け、舌先が滑り込んで来る。が、貪欲で暴虐な筈の  
その舌先は、またもや動かずにいる。やはり、待っているのだ。  
 今度は何故か、躊躇は無かった。口の奥に縮こまっていた舌をそっと伸ばし、かおるは自ら、  
みやこの舌に触れ――  
 
「ううう〜、デスマッチだったわー…」  
 やや憔悴した様子で腹を擦りながら、フラフラと部屋に現れたももこ。何事もなく座るみやこと、長椅子の  
隅に半ば寝転んだまま赤面しているかおるを交互に見やる。  
「……なにしてんの? かおる」  
「な、な、何もしてねぇよ!」  
「なに怒ってんのよ」  
「そ、それより、腹の方はどうなんだよ」  
「んー、ま、治まったかな?」  
 案外ケロリとした様子で歩み寄ってくるももこに、かおるは何故か大きな安堵感を感じた。  
 しかし危なかった。舌が触れたと思った瞬間みやこが素早く身を離し、そして何事かと思う間も無く  
ももこが部屋に戻って来たのだ。器用にも、かおるは赤面しながら冷や汗をかく。自分ではももこの接近に  
全く気が付かなかったので、もしみやこが離れなければ何を見られていた事か。  
「さて、と。じゃあ、俺帰っから!」  
 逃げるなら、ももこの帰還で空気が変わった今しかない。かおるは素早く立ち上がった。通路まで出て、  
部屋の中を振り返る。今の今まで腹を壊していたにも拘らずに残りの菓子を食べているももこと、その  
ももこの無駄話を穏やかに微笑みながら相手するみやこ――の姿がない。  
「かおるさん〜?」  
「うわっ!?」  
 背後にいた。  
「な、何?」  
「その〜、ごめんなさい…」  
「あ、うん。まあ…別に嫌ってわけでもないけど」  
 口の中で渦巻くみやこの感触が未だに残っている。  
「でもよ、ももこもそうだったけど、お前も…普段女っぽい事言ってる割には、あんまりキスするのとか  
抵抗ないのな」  
 飴欲しさに人の口に舌を突っ込むももこ。騙まし討ちのように、スキンシップと呼ぶには余りにも苛烈な  
接吻をくれたみやこ。二人とも理解の外、かおるの常識の範疇外だ。  
「ももこさんもわたしも、自分の欲望に忠実なタイプですから〜。でも…」  
 ちらり、と室内に目をやる。ももこはまだ一心不乱に菓子を食べている最中だ。そのももこがこちらを気に  
かけていない事を確認してか、みやこはかおるに顔を寄せた。  
「抵抗がないからではなく、我慢が出来ないだけですわ〜」  
 チュッ、と頬に優しい感触。軽く触れた唇が離れる時、少しだけ、小さな舌が頬を舐めた。  
「したいから、するんです」  
 そう言って、ニッコリと笑うみやこ。小さく濡れた頬に手をやりながら、かおるは何となく頷いた。それは  
友達同士という関係から逸脱してはいないだろうかとも思ったが、それでもみやこがそう言って笑うのなら、  
それではそれで良いような、良くないような。  
 
 数日後。いつもの研究所の、いつもの三人。  
「じゃ〜〜〜んッ! 期間限定スペシャルバージョン!」  
 何やらロールケーキのようなものを皿に乗せ、嬉しそうに踊るももこ。何がどうなっているからスペシャル  
なのか、かおるには何一つ解からない。どう見ても普段ももこがよく食べているものと同じに見える。  
「自腹よ、自腹! たまには自分で買わないとね!」  
 一人で盛り上がりつつ、ケーキナイフを慎重に振るうももこ。目分量で5等分にし、一つひとつ小皿に  
分けていく。  
「博士のと、ケンとピーチの。こっちはかおるとみやこの分で…って、しまったぁッ!あたしの分がなーいッ!?」  
「…だろうと思ったよ。5等分にしてるし」  
 受け取った小皿をももこに返し、かおるは軽く笑った。  
「俺はいいよ。せっかくの自腹なんだろ?」  
「……か、かおるぅ……!」  
「いや、そんな顔されても」  
 ケーキ一片で、まるで奇跡の顕現を目の当たりにしたように感動されても困る。  
「博士たちなら実験室の方ですわ〜」  
「じゃあ、持ってってあげますか! あ、そうだ、かおる!」  
 運ぼうと手にした盆を一度置き、フォークを手に取るももこ。自分の分のケーキを一片、かおるの口元に  
差し出す。  
「せめて一口だけ! あ〜ん」  
「……えー」  
「かおる! あーんってば!」  
 
 ももことみやこの共通点。それは、かおるの気持ちをよく無視するという事だ。仕方なく、実に仕方なく、  
かおるは口を開いた。みやこと比較してやや雑な手つきで、ケーキが口に突っ込まれる。甘くて美味しい。  
が、どうしてスペシャルなのかはやっぱり解からない。  
「あ、ちょっと待って。ほっぺについちゃった」  
「え?」  
 頬に手をやるより早く、ももこが唇を寄せて来た。そのまま頬――口の端の近く――に付いたクリームの  
欠片をぺろりと舐め取る。  
「もッ…!」  
 余りにも唇に近かったので吃驚した。自分でも異様に感じる程の速度で顔が真っ赤になる。が、文句を  
言おうとした時には既にももこの姿は通路の陰に消えていた。実験室で何やら怪しげな作業をしている  
博士らの元にケーキを届けに行ってしまったのだろう。  
「……ったく!」  
 己の赤面を誤魔化すかのように、憎々しげに呟く。最近どうもももこの前では赤面してばかりいるような  
気がする。  
 ふと視線を巡らすと、ケーキにフォークを刺したままジッとこちらを凝視しているみやこと目があった。  
どうやら今の光景を目撃されていたらしい。じわじわと危機感が込み上げて来る。  
「あー、まったくももこのバカにも参るよなぁ。人の顔にくっついたのまで食いたいってんだから、あの  
食い意地はもう病気――」  
「かおるさん、あ〜ん」  
「う…」  
 来た。来ると思っていた。かおるは苦笑を浮かべる。苦が8で笑が2ぐらいの、苦しい笑顔。  
「あー、もう! お前らは仲良しとか言って喜んでやってるけど、これ結構恥ずかしいんだぜ俺――」  
 べちょ。という嫌な感触に口が止まる。手にしたケーキをかおるの頬に塗りたくりながら、実に嬉しそうな  
みやこの笑顔が横目に見えた。  
「……あのー。何やってんですか? みやこさん」  
「まあ〜、かおるさんのお顔にクリームが付いてしまいました〜! 大変ですわ〜!」  
「……ですわ〜じゃないだろ…」  
 この後の展開は解かっている。抵抗も無駄だという事も良く解かっていた。はあ、と両肩を落として、  
腕を首に回してくるみやこの成すがままになる。  
 べろり。べろり。かおるの左頬一杯に広がったケーキの成れの果てを、陶然と舐め取り始めるみやこ。  
既に綺麗に舐め取られた部分も、そうでない部分も、唇と舌とを精一杯駆使して舐られる。  
 何度も、何度も、繰り返し繰り返し。  
 今後もずっとこんな感じなんだろうな、とかおるは身体の力を抜いた。それは事態を受け入れる覚悟  
ではなく、受け入れざるを得ないという諦観。  
 だからというわけではないが、かおるは左腕をみやこの細い背中に回した。それは自分でも特に  
意識しないままに取った何気ない行動だったが、軽く背中を抱かれた瞬間、みやこは弾かれたように  
身を離した。丸く見開いた大きな瞳と目が合う。  
「あ…いや、特に何ってわけじゃなかったんだけど…」  
 おずおずと手を放し、引きつった笑いをみやこに向ける。  
「つい、手が、その…ごめん」  
 暫しの沈黙。驚いたままだったみやこの表情が、ゆっくりと蕩けて行く。  
「…か、かおるさぁん…」  
 ヤバい、今のは不味かった。と、かおるは己の失敗を悟った。みやこのスイッチ、その決定的な何かを、  
自らの手で入れてしまったらしい。  
「み、みやこ? 待て、落ち着――」  
「かおるさぁ〜んッ!」  
「うわっ!?」  
 猛然と飛び掛ってきたみやこに押し倒される。もう頬どころでは済まない。  
 額、瞼、耳たぶ。鼻先、顎や首筋。あらゆるところを舐められ、吸い付かれ、咥えられ、甘く噛まれる。  
頭と首にしっかりと抱きつかれ、薄い胸同士が密着し、両脚の間にはみやこのふとももが割り込んで  
来ていた。ほぼ全身に感じる、みやこの体温。柔らかさ。  
 こうしている間にももこが戻って来たらどうしよう、という考えが一瞬だけ頭を過ぎったが、しかし。  
(…まぁ、いいかぁ…どうでも)  
 今度は半ば意図的に、みやこの背中に両腕を回した。同時に、熱い吐息と共に滑り込んで来たみやこの  
舌先を自らの舌で探り当て、そっと絡め合う。  
   
 甘い、クリームの味がした。  
                                                         終わり  
 

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