例えば、道端で。  
「おっはよー! かおる! ンッ」  
「うわあぁぁッ!?」  
「あーあ、ほっぺにチューしたくらいで真っ赤になっちゃって。そんなに嬉しいの?」  
「お、お前なぁ!」  
 或いは、教室で。  
「ほれほれ」  
「どわあぁぁッ!?」  
「んっふっふ、こうして毎日刺激していれば、かおるもやがては立派な巨乳のおねいさんに…」  
「いや、頼むから人前でこういう事をだな」  
「え、じゃあ誰も見てないところでならおさわり自由?」  
「…うりゃっ」  
「痛ぁッ!? ちょっと、蹴ることないでしょ!」  
 ともなれば、研究所では。  
「隙ありっ!」  
「ぅわッ…!」  
「うくくっ、この引き締まっていつつもやわらかなお尻がお尻がっ」  
「わ、バカ、よせって、そんな――あッ!?」  
「あ……ご、ごめん。冗談のつもりだったんだけど…」  
「ひ、人のパンツの中に手ェ突っ込んで冗談で済むかよッ!?」  
「いやあたしもね、そんなトコまで触るつもりはなかったんだけど。いやー、なんか…」  
「言うなよ」  
「…人のお尻の穴ってヘンな感触ぅ」  
「言うなっつってんだろ!」  
「あはは、人のを触ったのって初めてだわー」  
「俺だって人に触られンのは初めてだよ! バカァッ!」  
 と、いうように。  
 以前から日常的かつ気軽に行われて来たももこの接触行為が、最近になってエスカレートしつつある事に、  
かおるは深い危惧を覚えている。  
 触れられる事はまあ、実はそれ程不快ではない。勿論羞恥はあるし、あのももこのいやらしいニタニタ笑い  
には純粋に腹も立つが、決して心底から嫌なわけではないという自覚があった。だから、かおるが抱く危惧  
とは身体に触れられる事そのものではない。  
 もしや自分自身、何処か胸の奥底でそれを望んでしまっているのではないか。かおるはそういう疑念を  
感じる事がある。何故ならば。  
 背後を、脇を、目の前を。手の届く範囲の中をももこが通る時、身構えてしまう自分がいる。ももこの手を  
避ける為に、ではなく、それは触られる事を前提とした反応だった。そして予期に反して何もされなかった  
時に感じる、あの微妙な寂しさ。  
「ひょっとして…あたしにさわってほしいの?」  
 もし、ももこにそんな――如何にもももこの言いそうな――事を言われたら、果たして自分はどんな反論が  
出来るだろうか。かおるには、否定の意すら示せずにただ赤くなって俯いてしまうだけの己の姿がありありと  
思い浮かぶ。  
 自身の性に強い反発を抱いているかおるならば、己の身体に対する他者からの干渉には強い防衛意識を  
持っていた筈である。しかし、ももことみやこはその防壁を容易く打ち破り、また潜り抜けた。かおる自身、  
半ば意図的に解放した部分もあったのかもしれない。  
 みやこの唇が寄れば、己も唇を開く。  
 ももこの手指が寄れば、触れられるまで避けようともしない。  
 以前では考えられなかった事だ。ももことみやことに出逢う以前は。今や自分はあの二人に変えられつつ  
あるのだ、とかおるは思う。  
 その言葉や眼差しで。  
 触れる手指の温かさで。  
 舌や唇の柔らかさで。  
 自覚のあるなしに拘らず、二人はかおるの心身の在り方を捻じ曲げる。  
 ももこの都合のいいように。  
 みやこの都合のいいように。  
 そして、当のかおるにとって何が一番の問題かと言えば。  
 そうやって二人の形に合わせて歪んで行く事が、決して嫌ではないという事だろう。  
   
 いつもの研究所。性懲りもなく、いつもの三人。ももことかおる、少し離れてみやこ。  
「ったく、お前の痴漢行為はいい加減どうにかなんねぇのか!?」  
「ちょっと! そんな人聞きの悪いこといわないでよ。親密なスキンシップの一環でしょ? それとも、触られて  
なにか困ることでもあるっていうの!?」  
「触られると困る事があるからじゃなくって、触られるから困ってンだろ!?」  
 毎度の事だが、かおるの口から出る常識的な繰言は大抵の場合ももこには通用しない。かおるの常識の  
遥か範疇外に位置するのが赤堤ももこという女の子である。  
「かおるはそうやって自分の被害ばっかり主張してるけど、あたしの都合だって少しは考えてよね!」  
「…え?」  
 ビシィ、と指を鼻先に突きつけられて、かおるは仰け反った。一方的に身体を弄られた者が、弄った側の  
一体何を考えてやらねばならないというのだろうか。  
「いつの日もいつの日も、惚れてはフラれ! 惚れてはフラれ! あたしの心はもうズタズタなのッ!  
優しさがほしいのよ! この手に温もりがほしいのよーッ!」  
「…肉まんでも揉んでろよ」  
「わかってないわねー! そこは肉まんじゃなくって餡まんの方でしょ!?」  
「知るかッ!」  
「大体かおるはね、そうやって文句いうわりには――」  
 長椅子に座るかおるの背後に回り込むももこ。喚き声が耳元の囁きに変わる。  
「学習能力がないのよね。あたしがあんたの後ろをとったら、こうなることくらいわからない?」  
「わぁッ!?」  
 肩越しに這い降りたももこの両手に、膨らみかけの胸が捉えられる。こうなる事くらいはかおるにだって  
解かっていた。解かってはいたが。  
「ちょっ、バカ、やめろ!」  
「うりうり、うりうりうり!」  
「やめろバカこら、触んな…あっ」  
「あれ? なんかココ…」  
 無造作に這い回るだけのももこの指だったが、両の胸に一点ずつ、感触の異なり始めた箇所を探り当てる。  
衣服の上から、中指の先を使って重点的に撫で回す。  
「あ、や、ももこ、さ…先っぽ、触んなって…!」  
「先っぽ? 先っぽって、やっぱココの事ぉ?」  
 かおるの視界には入らないが、すぐ後ろでニィィッ、とももこの顔が笑みに歪むのがよく解かった。  
「ひょっとしてかおる、感じちゃってる? あたしの指で感じちゃってるの?」  
「か、感じてねぇよ!」  
「だってかおるの、こんなにツンツン硬くなっちゃって…」  
「だ、だから、あ…」  
 硬く勃起してしまっているのが自分でもはっきり解かる小さな乳頭を、優しく摘まれる。  
「…かおるって、女の子にさわられてキモチよくなっちゃう子だったんだ。そっかー。うりうり」  
「う、うりうりじゃねぇ! いいからやめ――」  
「あれ?」  
 珍しく、かおるが振り払う前にももこの方から手を放した。振り返ると、己の頭を手で探りながら室内を  
キョロキョロと見回している。  
「あれ? あたしのリボンは? ちゃんと結んでたのに…あれ? あれ?」  
 確かに、ついさっきまでいつものように結ばれていた赤いリボンが無い。かおるも連られて周囲に視線を  
巡らせた。きっと気付かない内に解けてしまい、どこかその辺の床にでも落ちているのだろう。  
「ももこさん、ありました〜」  
 今まで妙に静かだったみやこが間延びした声を上げた。ただしももこのリボンを手にしてはおらず、  
その指は窓の外を指差していた。みやこが指し示す先を見てみると、窓の外の地面にだらしなく広がった  
赤い布は確かにももこのリボンだ。  
「あー! あたしのリボン! なんで? なんであんなところに!?」  
「今日は風が強いですわ〜」  
「あ!? あぁぁーッ!?」  
 研究所の建つ丘の上を駆け抜けるような風が、赤いリボンを攫い上げた。そのまま眼下に広がる街並みの  
空へ、小気味良い程にあっさりと舞い上がって行く。  
「え、うそ、ちょっとぉ!? まってよあたしのリボン〜ッ!」  
 そのまま窓から外に飛び出し、リボンを追って駆け出すももこ。変身してから行けばすぐに追い付けそう  
ではあったが、どうやらそんな事を思い付く余裕は無いらしい。そのまま猛然と丘を駆け下りて行く。  
 
 暫し呆然とした後、かおるは長椅子に座り直した。その隣り、肩を触れ合わせるようにしてみやこが腰を  
下ろす。ももこがいない時だけに生じる、ゼロ距離の密着。  
「……」  
「ももこさん、大丈夫でしょうか〜」  
「…なあ」  
「はい?」  
「…いや、まあ、何でもない」  
 見なかった事にしようと思った。先程見てしまった光景にどう突っ込んで良いやら解からないからだ。  
 ももことかおるがリボンを探していた時、確かにリボンは室内の床に落ちていた。だが、かおるがリボンを  
見つけたと同時にみやこが拾い上げ、それをそのまま、みやこは窓の外へ放り投げたのだ。そして偶然か  
否か一陣の突風が起こり、ももこのリボンは空へと飛んで行ってしまった。  
「ひょっとして、見てました〜?」  
「え? ああ、うん。まあ」  
「かおるさん、お困りのようでしたから〜」  
「ああ、えっと…うん、助かったよ」  
 風のように速やかに。影のようにさり気なく。その手口云々より、それを平然と完遂してみせる精神力が  
何処か空恐ろしい。  
「あー、その、ももこの事なんだけどさ…」  
 ももこがいなくなると急に静かになった。  
 肩に寄りかかるみやこの重みと温もりにも慣れて来たが、まったく平常心でいられるというわけでも無い。  
何か話さなきゃ、とかおるは内心焦りを感じたが、その口から出る話題は結局ももこの事だ。  
「あいつってさぁ。何て言うかこう、もの凄くスケベなんじゃないかと思う時があるんだよなぁ…」  
 しかも、この自分に対して。同じ女の子に対してこんな感想を抱く自分ってどうなんだろう、とは思うのだが、  
しかし自分にするようなイタズラをみやこ相手にしているのを見た事はないので、やはりかおるとしてはそう  
思わざるを得ない。  
「そうですね〜、ももこさんは恋多き乙女ですから――」  
 何気なくかおるの腕を取り、みやこが答える。  
「フラれ通しで蓄積した鬱憤が思春期の激しい性衝動と結び付いて、それがかおるさんに対して噴出して  
いるのではないかと推測されますわ〜」  
「…フラれてばっかりいるからなぁ」  
 かおるは軽く溜息を吐いた。確かにももこは恋愛方面では連戦連敗だ。  
「でもさ、あいつ…そんなにモテないのかな」  
 実はそこが、かおるには納得が行かない。言動も内面も規格外のももこではあるし、相互の理解が深まる  
につれて“コイツはアホだ”という認識も深まるばかりではあるのだが、それでも。  
「だってあいつ…可愛いじゃん。すっごく」  
 バカでアホで騒々しくて、幼稚で下品で意地悪で。  
 自己主張が激しい割には大して役に立つ事も無く、それでも時折ビックリするくらいに可愛くて。  
「この前だって、デートだって言って嬉しそうにしてたのに、結局落ち込んで帰って来たし…」  
 出撃後即墜落、しかし直ちに再出撃可が基本なももこにしては、その時は珍しく落ち込んでいて、数日間は  
笑顔を見せなかった。  
「大体さ、これだけフラれ続けてるのに何で懲りないのかね、あいつは」  
 いつもいつも、やれイケメンだ何だと嬉しそうに。  
「いい加減、同じ事の繰り返しだって気付きそうなもんなのにな」  
 何度も失恋して、その度に次の相手を見つけ出して。  
「傍から見てるこっちはたまんねーよな、ホント」  
 あの人が好きだの、この人が素敵だの、殊更自分の目の前で。  
「それでフラれたっつってまた泣くんだもんな。いい加減にしろっての」  
 フラれたくらいで。男にフラれたくらいで。いちいち泣いて見せて。  
「…もし…」  
 もしも。  
「もし…俺なら」  
 ももこが好きな相手が、この自分であったなら。  
 あんな顔、させないのに。  
   
 ぎゅう、と腕を強く掴まれ唐突に我に返り、かおるは慌てて視線を巡らせた。すぐ近く、真顔で見つめてくる  
みやこと目が合う。  
「…もしもかおるさんなら、何ですか〜?」  
「え? あ…」  
 みやこが聞いてる脇で、自分は何を言おうとしたのだろうか。日頃胸の奥深くに押し込めていた筈の何か  
とても厄介な想いが、今までに無く具体的な形で湧き上がって来たような。  
「あ…いや、まあ、毎日男の尻ばっかり追っかけ回して、それでフラれっ放しの不満を俺のところに持って  
来られても迷惑だぞ、って話だよ」  
 愚痴や泣き言なら聞いてやらないわけでもない。だが、男と上手く行かない事で当たられるのは困る。  
優しさだか温もりだか知らないが、日頃追い回しているイケメンどもとやらに期待していた何かを、その代用  
として自分の身体に求められるのは嫌だ。  
 もの凄く、嫌だ。  
「でも、理由はそれだけではない筈です。女の子に男の子の代わりは出来ませんから〜。原因は多分、  
かおるさんにもあるのかもしれませんわ〜」  
「俺の何が――わぁッ!?」  
 思いも寄らない事を言われて身体をみやこに向けたと同時に、蛇のように素早く伸びたみやこの手に胸を  
触られた。反射的に身体を離そうとするが、もう一方の手でガッチリと腕を掴まれているので半身を捩る事  
しか出来なかった。当然みやこの手はかおるの胸から離れないままだ。  
「な、何すんだよいきなり――」  
「それです!」  
「…え? どれ?」  
「そのリアクションがいけないんですわ、かおるさん〜」  
 微かに膨らんだだけのかおるの乳房をやわやわと弄びながら、みやこは真剣な表情で言い放つ。  
「そうやって驚いたり恥ずかしがったりする反応が楽しくて、ももこさんは痴漢行為を繰り返しているんです。  
それではももこさんを誘惑しているも同然ですわ〜」  
「…いや、だってそれは…」  
 いくら同性が相手でも――しかも、それがももこであれば尚更――胸や尻などを触られれば驚くし、  
恥ずかしい。当然の反応を返しているだけなのに、それが原因だと言われるとは夢にも思わなかった。  
「そうに決まってます。嫌がれば嫌がる程、ももこさんを刺激してしまうんです〜。ももこさんを痴漢行為へと  
駆り立てているのはかおるさんの方なんですわ〜」  
 犬の前で走って逃げれば興奮して追いかけてくるのと同じです、とみやこは言い切った。  
「……えぇ〜?」  
 そんな事を言われても。  
「じゃあ、何だ。俺あいつに痴漢されても仕方ない、って事?」  
「いえ〜、悲観するのはまだ早いです。かおるさんの反応が面白くてやってる事なんですから、そこを何とか  
すればいいんですわ〜」  
「……あ」  
 じっ…とみやこに見つめられ、かおるは目を逸らした。  
 この視線。軽く微笑みながら注がれる、みやこの眼差し。  
 睨み合いなら誰にも負けない自負のあるかおるだが、この視線には弱い。身体の力が抜けてしまう。  
大抵の場合、こんなふうにみやこに見つめられた後に始められる密接で執拗な接吻を、頭に霞がかかる  
ようなその翻弄感を、もはや身体が覚え込んでしまっているからだ。だから。  
「今から二人で、特訓ですわ〜」  
 何かとても嫌な予感のするその提案に、逆らう事も出来なかった。  
   
「…なぁ、みやこぉ…。やっぱ、こんな事したってさぁ…」  
 長椅子の陰、床に敷いたマットレスの上に、脚をやや開き気味に正座している。これから介錯でもされる  
ような気分だった。  
「遠慮はいりませんわ〜。かおるさんのためですから〜」  
 背後から、みやこの右手が腋の下を通して前に回された。その手が胸に触れ、思わず腋を締める。  
「ダメですよ、かおるさん〜。そういう反応はももこさんを楽しませるだけなんですから〜」  
「ううう」  
 言われて、腕を上げた。腋に挟み込まれていたみやこの腕が解放され、胸の膨らみを這い回る怪しい  
動きを再開させる。  
「そうそう、その調子ですわ〜。そのままじっと我慢です〜」  
「が、我慢ったって…」  
 ももこの痴漢行為がかおるの羞恥や困惑する様を目的としたものならば、その行為を沈静化するため  
には目的そのものを無効化してしまえば良い、とみやこは言う。つまり。  
 
「こうやって触られても無反応でいればいいんですわ〜。ももこさんの場合、抵抗は逆効果ですから〜」  
 かおるの背後から、右手は右の胸に。左手は左の太ももに。  
「触られても無視し続けていれば、ももこさんもその内飽きてしまいますわ〜。でも頭でそうと解かっていても  
なかなか上手く行かないでしょうから、今の内にちゃんと練習しておきませんと〜」  
「り、理屈は解かるけど…んッ…」  
 雑に揉み掴むだけのももことは違い、みやこの手付きは何処までも柔らかだった。僅かな曲線に沿って  
包み込むように手を広げ、優しく、優しく撫で回す。  
「み、みやこ、俺、手はどうしてりゃいいんだ?」  
 中途半端にバンザイしたような両腕の、持って行き場が解からない。早くも混乱し始めている。  
「…じゃあ、わたしの手を掴んでいてください〜」  
「え、でも、ジャマしちゃいけないんじゃ…」  
「無抵抗でいるための練習ですから、敢えていつでも抵抗出来るように構えておいて、そこを我慢した方が  
より効果的かと〜」  
「ううっ、難度高ぇなぁ…」  
 己の胸と太ももとで蠢くみやこの手をそっと掴む。自分の意思で無抵抗でいる、というのは、元から抵抗  
出来ない状態よりも恥ずかしいような気がした。  
「大体、このマットレス、どこから引っ張り出して来たんだよぉ…」  
 座っている水色のマットレスに視線を落とす。どうしてこんな物が都合良くあるのだろうか。  
「いざという時のために用意しておいたんですわ〜」  
「い、いざって、どんな…あッ? お、おいッ!?」  
 太ももを撫でていたみやこの左手が不意に動き、服の裾に潜り込んだ。そのまま腹部を撫で上げるように、  
上へと這い登って来る。  
「ちょ、ちょ、直接!? みやこ、ちょっと待っ――」  
「ももこさんなら、いずれこれくらいの事はして来るはずです〜」  
「で、でもッ…」  
 左手に力が入り、鳩尾辺りでみやこの手を押さえた。しかし。  
「そんなに恥ずかしがっては、ももこさんの思う壺ですわ〜」  
「それはそうかもしれないけど…」  
「かおるさん――」  
 ふと、みやこの口調に真剣さが混じり出す。  
「お気持ちは解かりますけど〜、今のままではかおるさんはももこさんの思うがままにされてしまいます〜。  
そうならないためにも、今ここで頑張らないと〜。わたしも精一杯協力しますから〜」  
「そ、そんな事言ったって…」  
 嘘だ。絶対に嘘だ。そういう話ではなくなって来ている。その証拠に。  
 首筋に届くみやこの吐息が、今までに感じたどの時よりも――熱い。  
「…み、みやこぉ…」  
 逆らうには遅過ぎる。それ以前に、たとえ頭で拒んだとしても。  
 みやこからは逃れられないという事を、心が既に知っていた。  
「かおるさん…?」  
「………うん…」  
 力が抜けてしまったのか、それとも力を抜いてしまったのかは、解からない。  
 束縛を逃れたみやこの手が心臓の辺りを目指して、ぞろりと這い上がり始める。  
   
 胸の成長が気になり始めたのは、中学に入ってからだ。それ以前に比べると明らかに目立ち始めている  
胸部の膨らみは、一時期のかおるを酷く憂鬱にさせた。  
 先ず態度が変わったのは、兄だった。  
 例えば風呂上りに楽な格好でいると、早く服を着ろ、などと口出しして来るようになった。今更別に  
恥ずかしくないと答えても、そういう問題ではない、と叱られる。最後に一緒に風呂に入ったのは随分前の  
事のような気がする。  
 その他色々、それは殊更よそよそしくなったという程でもないが、その距離感は明らかに離れつつある。  
どちらかと言えばお兄ちゃんっ子なかおるにとってそれなりに寂しい事であり、それが時期的には己の胸の  
膨らみ具合と一致するともなれば、何でこんな物が付いてるんだ、という気にもならざるを得ない。それに  
ブラジャーというのも面倒だ。しかしそれが無ければ無いで、体育の授業などで胸の頂点と体操着とが擦れ  
合う感触が気になって仕方がない。  
 どこまでも鬱陶しい、二つの膨らみ。  
 
 その胸の膨らみを。  
「……んっ…み、みやこぉ…さ、先っぽばっか、触ん…なよぉ…」  
 服の上から優しく撫でる右手はとにかく、服の中に潜り込んだみやこの左手は。  
「ももこさんにも言ってましたけど〜、胸の先っぽってどこの事なんですか〜?」  
 色づきの薄い乳輪の縁を撫でるように、指先が小さな円を描く。  
「だ、だから…そこ…あッ…!」  
 親指と中指で軽く押さえられ、張りを増した突起を人差し指で転がすように。  
「そこじゃ解かりません〜」  
「み、みやこが今…ン…さ、触ってる、とこ…あ、あ、あ、あ」  
 トントンと指先で軽く叩かれ、電流にも似た痺れが全身に走る。もはや上半身の平衡すら保てなくなり、  
背後のみやこに抱き止められていなければそのまま倒れてしまうだろう。  
「かおるさん〜、ちゃんと名前で言ってくださらないと解かりませんわ〜」  
 やたら耳障りに響く自分の吐息と、微かに聞こえるみやこの息遣い。  
「あ…その…ンッ…ち、ちく…び…」  
「乳首がどうかしたんですか〜?」  
「さわ、触られ…んッ」  
「誰のがですか〜?」  
「お……ぁ、俺、の…あぁ、も、もう…やめろってぇ…!」  
「誰が何をやめるんですか〜? 言葉は正しく使わないといけませんわ〜」  
「みッ、ん、みやこが、俺の、ち、ちく…び、を…アッ!? それ、やめッ、やめッ、アァッ!」  
 ピンと張り詰めた乳頭を摘んだままの指先が小刻みに振動し、息が詰まるような感覚に背が仰け反る。  
それが終わる頃には首が据わらなくなり、みやこの小さな肩にぐったりと頭を預けた。僅かに頭を起こす  
だけの力すら入らず、涙でぼやけた天井を眺める事しか出来ない。  
 指が。みやこの細い指が。  
 胸にあるほんの小さな部分に過ぎない乳頭を弄ぶたび、その一点を中心として全身に走り巡る甘い痺れ。  
まるでみやこの指が胸部の肉に潜り込み、直接心臓を愛撫されているかのように。  
「はぁ、はぁぁ、み、みやこぉ、もう、ダメ……ダメだよぉ…」  
「でも〜、ここでやめたら痴漢のももこさんは撃退できませんわ〜」  
 頬と頬とをすり合せながら、みやこがやや弾んだ声で言った。  
 そんな事は、もういい。荒く息をつきながら、かおるは思った。  
 自分で触ってもくすぐったいだけなのに、どうして。  
 どうしてみやこの指だと、こんなに。  
 こんなにも。  
「みやこぉ…。お願いだから、もう……もう、俺…」  
 全身は汗で濡れていて、目に溜まった涙は今にも溢れてしまいそうだ。だが。  
「まだまだですわ〜。もしこれがももこさんなら、このくらいじゃやめっこありませんから〜」  
 みやこの、あまりにも楽しそうな声。  
「さあ〜、わたしの手をももこさんの手だと思って、頑張って我慢してくださいね〜?」  
「え――」  
 再び動き出そうとする手を、ギュッと握って制した。快感と困惑とで濁りきった頭で、のろのろと  
考え出す。  
 ももこだと思って。この指を、自分をどうしようもなく蹂躙するこの指先を、ももこのものだと思って。  
「…かおるさん?」  
「…無理だよぉ…」  
「でも〜」  
「そうじゃなくて…そうじゃなくってさぁ…」  
 だって、これはみやこだ。  
 この執拗な指先も。  
 背中に感じる暖かさも。  
密やかに響く息遣いも。  
 すべて、すべてみやこのものなのだから。  
 それを。  
「…ももこのだって思うのは、無理…っていうか、やだよぉ…」  
 それはとても。  
「やだよ、そんな…。みやこなんだから…ももこだと思うだなんて、ダメだよぉ…」  
 自分でも何を言っているか解からない。まるで熱に浮かされたうわ言のようだった。しかし、だからこそ、  
それは本心なのだろう。理性の及ばないような奥底から浮かび上がった、未整理の気持ち。  
 
 かおるは浅い溜息を吐いた。みやこは息を呑む。そのまま、数瞬の沈黙。  
「………か」  
 かすれたような声と共に、かおるを背後から抱き締めるみやこの腕に力が込められた。  
「かおるさん…」  
「…みやこ?」  
 両腕に込められた尋常でない力と、呼ぶ声の震え。背筋がゾクゾクと引き攣るのをおぼろげに感じた。  
 違う。さっきまでのみやこじゃない――。  
「かおるさぁん…」  
 服の上からねっとりと揉み解していた右手が、下へ下へと、腰まで這い降りた。そのまま服の裾を探り  
当てると、かおるの肌に直に触れた右手は、服の中をじわじわと撫で進む。  
 左手と同様、未発達の乳房目指して、ではなく。更に、下方へ。  
「やッ――!?」  
 反射的に、かおるはみやこの手を引き上げようとした。彼我の腕力は本来比べ物にならない筈だが、殆ど  
力を込められないかおるの抵抗を、みやこの手は少しずつ引き剥がして行く。  
 下へ。もっと下へ。  
「み、みやこ、やだぁッ…!」  
 僅かな、しかし出来得る限りの力を込めて、みやこの手を握る。ようやく拮抗し、みやこの指先は下着の  
縁を潜った辺りで停止した。  
「そっちは、そっちは、だめッ…」  
「かおるさん…」  
 すぐ耳元でみやこの声がした。甘く、柔らかく、しかし地の底から響くような、煮えたぎった声。  
「かおるさん………触らせて……」  
「や…」  
「かおるさん、お願い……。わたし、かおるさんのに触りたい…」  
「やだぁぁぁ!」  
「どうして…?」  
「だって、汚い…から…」  
「汚くないです…」  
「ほ、ホントに、汚いから……あまり、あまり洗ってない、から…」  
 自らそう言わねばならない羞恥に、ついに涙が溢れ出した。  
 この場を凌ぐ嘘、というわけではなかった。事実、最近のかおるは入浴の際にもそこに触れるのを避けて  
いる。以前なら何を意識するでもなく、雑に扱えばヒリヒリと痛む事もある、というだけの箇所が、近頃は妙に  
恥ずかしいのだ。  
 洗う、ただそれだけの行為の筈が、そこに触れた途端に。  
 ももこの吐息の温かさが。  
 みやこの舌の熱いぬめりが。  
 鮮明に思い浮かぶそれらの感触が、すべて、己の指が触れているそこから湧き上がって来ているような  
気がして、激しく動揺してしまうのだ。  
 だから、己のその――ぬるぬるといやらしい――部分には指一本触れたくない。時にどうしようもなく我慢が  
効かない、あの自慰の真似事に付き纏う罪悪感や自己嫌悪にも似たその懊悩を、入浴する度に感じるのは  
あまりにも嫌だった。  
「だから…ごめん、だからホントに汚いんだ、そこ…」  
 気が付けば、みやこの手を握り締めるのをやめていた。しかしみやこの手はそれ以上下着の中へ侵入  
しようとはせず、逆に。  
「あッ…?」  
 スッと手が引かれたかと思うと、背中に密着していたみやこの暖かさも消えた。支えを失い、かおるは  
自身の体重に引かれて仰向けに倒れ込む。  
 何が起きたか解からぬままでいる内に、腰の辺りに柔らかな重みを感じた。みやこがかおるを跨ぐように  
して、その腰の上に座り込んだのだ。  
「みやこ…?」  
 無言のままのみやこに上から両肩を押さえ込まれ、思わずギュッと目を瞑った。  
 怒られる。かおるはそう思った。  
 みやこが本気で触りたがっていたのに、拒んでしまったから。  
 触らせられないくらいに、汚くしていたから。  
 だから、みやこはこんなに怒って――。  
 
「かおるさん……」  
 そっと囁かれ、目を開けた。真上から見下ろすみやこが、微笑んでいる。  
 怒ってはいない。だが。  
「かおるさん……かおるさぁん……」  
 うっとりと目を細め、しかし瞳から注がれる何かは微塵も和らぎもせず。  
 かおるが唯一、みやこに恐れを感じる、その微笑。  
「み…みやこぉ……」   
「かおるさん、カワイイ…」  
「か…カワイくないよぉ…」  
 蕩けきった心に、それでも反感の棘がチクリと突き立つ。  
 可愛い、だなんて言われたくないのだ。可愛い筈がないのだから。  
「カワイイですよぉ…恥ずかしくてしっかり洗えない、だなんて…。ちゃんと洗わないとダメですよ?」  
「だって――」  
 みやこのせいだ。  
 人の気も知らずに無遠慮なももこと、理由を付けては執拗に迫って来るみやこのせいで。  
 自分は、心も身体も、こんなに。  
 かおるはやっとの事で顔を背ける。晒け出されたその首筋に、みやこの視線が焼け付くようだ。  
「カワイイ。カワイイです。カワイくて、カワイくて、カワイくて、もう――」  
 捕食獣の微笑み。  
「――残さず食べて尽くしてしまいたいくらい」  
「あッ……!」   
 首筋に、みやこの小さな歯が軽く食い込んだ瞬間。  
 接吻の高揚とも、胸を愛撫される感覚とも、みやこに感じる微かな恐怖とも異なる、何かが。  
 かおるの身体を、染めるように、満たすように、引き裂くように。  
 その奇妙な感覚がどうにも出来ず、かおるは両肩を押さえられているのも構わずに。  
 みやこを、きつく、きつく抱き締めて――  
   
「たっだいまー!」  
 リボンを手に揚々と帰還したももこを、しかしかおるは出迎える事が出来なかった。ももこが部屋に現れた  
瞬間、自分でも意外な程の反応速度で長椅子の陰に隠れたからだ。  
「もー、金時堂の方まで飛んでいくんだもん。でも考えてみれば変身してから探しにいった方が楽だった  
わよねぇ。…あれ? 二人とも、どこ?」  
 室内をキョロキョロと見回すももこ。  
「…ど、どうしよう…?」  
 かおるは慄然と呟いた。みやこと二人、長椅子の陰などではすぐに見つかってしまう。ももこの前に  
出て行くにしても、何とかして状況を立て直さなければならない。でないと、詳細はとにかくとして  
“二人で人には言えないような事をしていた”という事くらいは感付かれてしまうだろう。何しろ衣服は乱れに  
乱れ、顔も涙で濡れたままなのだ。  
 
「かおるさん」  
「え?」  
 みやこの囁き声。  
「わたしが時間を稼ぎますから、その間に服装を整えてくださいね〜」  
「あ、うん」  
 見れば己と違って少しも乱れた様子のないみやこに少々得心は付かないが、かおるは素直に頷いた。  
タイミングを合わせるべく、みやこの行動に備えて待つ。  
 ももこの目が長椅子の辺りから離れた瞬間。  
「ももこさん、危ないですわ〜! えいっ!」  
「え――わぶっ!?」  
 みやこの身体ごとのスイングで充分な遠心力の乗った水色のマットレスが、ももこを押し包むように  
命中した。一呼吸置いてから、ももこに張り付いていたマットレスが床に落ちる。  
「……ちょ、ちょっとちょっとちょっとぉ! なにすんのよぉッ!?」  
「何と言われても、どうしてマットレスがももこさんに飛んで行ったのか、わたしにはさっぱり〜」  
「あんた今、えいっていったでしょ! えいって!」  
「そんな事言ってませんわ〜。あ、それよりももこさん、そのリボン、ももこさんのじゃないみたい  
ですけど〜」  
「え!? …いやいや、あたしのリボンだってば。毎日コレつけてるんだもん、間違えっこないわよ」  
「でも〜、色が少し違うような〜」  
「…ん? んん〜? そ、そういわれると、確かにちょっと違うような…。え! じゃあコレ誰の!?  
あたしのリボンはどこいっちゃったのよぉ!?」  
「いや、それももこのだよ。よく見ろって」  
 服を直し、顔を拭いて、すべて元通りにしてから、かおるはももこに声をかけた。慌てまくるその様子が  
少々哀れになったのだ。  
「そ、そうよね。どこからどうみてもあたしのよね、コレ。ちょっとみやこ! 適当なこといわないでよぉ!」  
「ごめんなさい〜、ちょっと違うような気がしたんですけど〜」  
 みやこに喚き続けるももこはさて置いて、かおるは長椅子に沈むように座った。触られてもいないのに  
下着の中まで濡れた感じがあるのは、きっと汗をかいたから。そう自分に言い聞かせ、今日からはそこも  
丹念に洗おう、と決心した。  
(…そう言えば、さっきは何であんな事になったんだっけ……)  
 まだ喚き足らないももこと、何か適当な事を言って受け流しているみやこを眺める。  
 自分はもう少し、あの二人に対して強気にならないといけないのではないのだろうか。でないと、弱みに  
付け込まれて勝手に身体を弄られたり、適当に言い包められて寄り切られてばかりだ。それが心底嫌な  
わけではないが、あの二人は限度と言うものをあまり考えてはくれない。それが、怖い。  
 こんな俺なんかの、何がそんなに面白いのだろうか。  
 未だ其処彼処の疼きが止まらないような己の身体を抱き締めて、そんな事を考える。  
 それにしても。  
(…食べたいくらいにカワイイ、だなんて…)  
 実際に言う奴なんてもういないのではないか、という程に陳腐な表現だが、まさか自分が言われる事に  
なるとは考えてもみなかった。  
 むず痒い気がして首筋に手をやると、微かな窪みが列を成している。みやこの咬み跡だ。思いの外強めに  
咬まれている辺り、食べたいというのも全くの比喩ではないのかもしれない。  
 みやこに首筋を咬まれた時の、あの感覚。悪寒とも快感ともつかない、何か。  
 あれは何だったのだろう。自分の何処から沸いて出たものなのだろうか。  
 指先が僅かに濡れて光っている。咬み跡に残っていた、みやこの唾液だ。何となく舌で舐め取ると、ふと、  
ある情景が脳裏に浮かんだ。   
   
 食べてしまいたい、そう言って抱き付いて来るみやこ。  
 躊躇なく開かれた口には、小さく並んだ歯が白く光っていて。  
 そして、頭からつま先まで、全部を。一息も付かず、欠片も残さずに。  
 それは現実的に想像すれば、怖気の立つ光景であるには違いなく。  
 けれど、満足そうにお腹を撫でながら唇を一舐めするみやこの微笑みすら浮かんで。  
 それがとても、恐ろしいような。  
 ――嬉しい、ような。  
                                                       終わり  
 
 

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