――ももこさんが、死んでしまう。  
 ゆっくりと移り変わるその光景を前に、みやこはぼんやりと思った。当のももこは恐怖でも驚愕でもない、  
呆気にとられたような曖昧な表情のまま、恐ろしい勢いで己に迫り来るものを見上げている。  
 幾つかの大型建築物が繋がりあって動き出した、その人型。鉄筋とコンクリートの歪な巨人。腕のように  
振り上げられたビル一つ分の塊が、路面に立ち竦むももこを叩き潰さんとしていた。  
 助けなければ。助けなければ。ももこさんが。  
 凍り付いたように動かない身体に力を込めながら、みやこはその堂々巡りの呟きを続けた。巨人の腕は  
見ていてじれったくなる程の速度で、ノロノロとももこに迫りつつある。まだ間に合う。今なら間に合うのだ。  
ももこを潰そうとしているあの巨大な腕はあんなに遅いのだから、間に合わぬ筈がない。泡を飛ばして  
クッションにする。或いは直接ももこに泡球を当てて弾き飛ばす。どんな方法でもいい、今すぐにももこを、  
あの死地から救い出す。でないと。  
 しかし思考だけが奔流のように過ぎ去って行くばかりで、ロッドを振り上げようとする腕は一向に持ち  
上がらず、踏み出そうとする足はまるで地面に張り付いてしまったかのようだ。  
 本当は解かっていた。目に映る全てがゆっくりに見えるのは極度の緊張が生んだ一種の覚醒状態で、  
実際にはほんの一瞬の出来事でしかない事を。だから自分はこうして微塵も動けず、同様にももこも  
逃げられずにいる。みやこは己の胸の内が急速に冷えて行くのを感じた。  
 変身している今、その身体能力は常時とは比べ物にもならない程に強化されている。データの蓄積が  
充分でなく、今の自分達の身体がどれだけの衝撃や圧力に耐え得るものかも解かってはいない。しかし、  
この巨人の質量から生み出される圧倒的な力は既知のモンスターのどれよりも凄まじく、その威力が  
ももこ一人の小さな身体に向けられ、叩き込まれるとあっては。  
 助けなければ。そうなる前に。  
 ももこは反射的に腕を上げ、頭部を守ろうとするのが精一杯のようだ。見ているみやこは動けない。  
いや、動くための一瞬の猶予もない。  
 だが。  
「おおおォォォォォッ!!」   
 怒号が聞こえた。いや、それは悲鳴のようでもあったかもしれない。このスローモーションな世界の中、  
ただ一つ、何よりも速く動くもの。凍りついたみやこを追い越して宙を疾走する緑色の光。  
 次の瞬間、大型のダンプカー同士が最高速度で正面衝突したかのような、重くひしゃげた轟音が鳴り響く。  
バターカップ――かおるは突進の勢いのまま、ももこを押し潰しつつある巨腕を蹴り上げたのだ。破片を  
散らしながら跳ね上る腕に引っ張られ、大きく仰け反る巨人。  
「も――ブロッサム!」  
 呪縛が解け、みやこは跳ねるようにももこに駆け寄った。倒れたままでいるその身体を抱き起こす。  
「だ、大丈夫ですか〜!?」  
「あ、うん、大丈夫。あ〜、死んじゃうかとおもった。あはは」  
「笑い事じゃないです〜」  
 ももこの背を支え持つ腕の震えが止まらない。寸前でかおるが巨人の腕を蹴り上げなければ、きっと  
今頃、ももこは。  
 視界の端で、巨人が体勢を立て直すのが見えた。慌ててももこを立たせようとしたが、カクンと脚の力が  
抜け、ももこに寄り添うようにして座り込んでしまった。ももこ――心から愛する大事な親友の死を見出して  
しまった一瞬の、あの衝撃から未だに回復出来ていない。  
 どうする。どうしよう。身体の震えが止まってくれない――。  
 混乱していたのだろう。だからみやこは、再びこちらに迫り来るモンスターと自分達との間を遮るように  
現れたものが何なのか、即座には解からなかった。一瞬の間をおいて、路面に小さなクレーターを穿つ  
勢いで着地したかおるの後ろ姿だという事に気付く。四足獣のように低く構えた四つ這いのままぶるりと  
背中を震わせるかおるの、緑色の生地に包まれた艶やかな尻。その見慣れたものを目の前に突き出され、  
恐慌に陥っていたみやこは瞬時に平静さを取り戻した。  
「バターカップ――」  
 どう戦う。或いは、どう凌ぐ。何かを問おうとした事は間違いないが、肩を震わせてゆっくり立ち上がる  
かおるの背姿に、結局みやこは黙り込んだ。敵を前に、自分とももことを守らんと立ち塞がるその姿が、  
何故か――。  
 
「バブルス」  
 激昂している筈のその声は、しかし奇妙なまでに平坦に響いた。  
「バブルス」  
「は、はい!」  
 重ねて呼ばれ、みやこはようやく返事を搾り出した。激しい呼吸に大きく上下していたかおるの肩は既に  
静止していた。肩越しに寄越す視線が、その瞳が、まるで何も写していないかのように澄んでいる。  
 静かに。とても静かに。  
 静か過ぎる程に。  
「バ、バターカップ…」  
 身体に力が戻って来た。萎えかけていた心が、かおるの呼び掛けに応じるかのように盛り返すのを感じる。  
どうしてかおるはあんなに静かでいられるのか、その疑念が胸に突き立っていたが、今は先ず、戦わねば  
ならない。みやこはかおるの背を見上げながらも、まだ僅かに震えの残る脚で立ち上がろうとする。だが。  
「…いい。それより――」  
 ズシズシと足を進め来る巨人に向き直ったかおるに、後ろ手で制される。その時、みやこは恐ろしい事に  
気付いた。  
 脚が。かおるの脚が。先程ももこを救うべく蹴り上げた左脚の形が、ほんの少しだが――。  
「ブロッサムを、頼む」  
 バチバチと爆ぜるような音を立てて、まるで稲妻のように、かおるの身体から白いオーラが立ち昇る。  
そして身体を軽く沈み込ませた次の瞬間、その姿が掻き消えた。かおるの足元の路面からアスファルトの  
破片が飛び散ったのを見てようやく、敵に向かって跳躍したのだと気付く。みやこは顔を跳ね上げ、ビルの  
巨体に突進するかおるの姿を追った。  
 みやこが予期したような雄々しい怒声は聞こえなかった。微かな声も発さぬまま、かおるは中空を  
突っ切って行く。空気を蹴りつけ、敵に向かって、加速、加速、加速――。  
 ドゴォン! と、重い轟音が鳴り響いた。光速の飛礫と化したかおるの右拳を受けた敵の胴部――歪な  
四肢のあるビルの塊を人体に見立てるなら、鳩尾の辺り――の中心から、その巨体に放射状の亀裂が  
走る。そのまま粉々に打ち砕かれながら、敵の巨体は港湾へ向かって吹き飛ばされた。あの勢いなら、  
破片は一つ残らず視界の及ばぬ海の沖合いにまで届くだろう。  
「…はぁ〜…やるわねー…」  
 すぐ隣り、ももこの呟きが聞こえた。無邪気に呆けた顔をしている。その表情を眺めながら、自分は  
もっと別な表情を浮かべているだろう、とみやこは思う。  
 あの時。特攻を仕掛けるかの如く飛び上がる前に見た、かおるの左脚。  
 そしてかおるの右拳が敵を粉砕する瞬間。轟音の最中に確かに聞こえた、何か、もっと別なものが  
潰れ砕ける、生々しい音。  
 それらがどういう事を意味するのかは明確だった。だからこそみやこは、二人の側にゆっくりと着地  
したかおるに目を向けられないでいる。  
 かおるの身に、何が起こったのか。  
 確認する事によって、それが現実のものとなってしまうのが、怖い。  
 しかし。  
「すっごーい! さっすがバターカッ――」  
 嬉々とした賞賛の声を上げかけたももこの表情が凍り付いた。己の口から悲鳴が漏れ出すのを防ごうと  
したのか、或いはただ反射的にそうしただけなのか、両手で自分の口を塞いでいる。  
「――か、かおる…!」  
 大きく、これ以上ない程に大きく見開かれたももこの目から、大粒の涙がこぼれ出す。  
「うそ、やだ…!? かおる、かおる…!」  
 掠れた涙声のももこ。みやこはどうしても、その視線の先を確かめられない。だが、立ち尽くしていた  
かおるがふらりと揺れて崩れ落ちるように座り込み、反射的にそちらを見てしまった。  
「……あ、か、かおるさん…!」  
「…二人とも、名前、名前。今はバターカップだろ?」  
 そう言って力なく笑うかおるの左脚の、関節が一つ多い。脛の辺りで直角に折れ曲がっている。右拳は  
歪に潰れており、指がそれぞれあらぬ方向に向いていた。赤く爆ぜた拳の所々に白く覗くものは、表皮を  
突き破った指の骨の断面だろうか。  
 
「…あー、やっちまったな。道理で痛ェと思った」  
 左脚と右拳を一瞥し、かおるは呟いた。ゆっくりと空を仰ぎ、何処かへ飛び去って行く黒い粉のような  
ものを睨み上げる。  
「……あのヤロウ」  
 憎々しげに吐き捨て、疲れ果てたように目を閉じると、そのままパッタリと倒れ込んだ。  
「あ…」  
 みやこは震える手を伸ばした。が、無残に折れ曲がった脚が目に入り、その手が止まる。  
「…かおるさん……」   
 ギラギラと照り付ける日差しが熱い。  
 博士、博士、とももこが叫ぶように通信しているのが聞こえる。  
「……あの、かおるさん……?」  
 もう一度、呼んでみた。返事はない。  
「……かおる…さん……」  
 かおるは動かない。  
   
   
「……あ〜、まあ、何だ。その……迷惑かけちまって、ごめん」  
 笑っていいのか、それとも神妙にしていた方がいいのか解からないのだろう、苦笑とも恥じらいともつかぬ  
曖昧な表情でかおるは微笑んだ。その左脚は膝から下を、右手は指先から手首までを覆うように、それぞれ  
石膏のギブスで固められている。ベッドに座るその姿は、さながら重傷人だ。  
「なにいってんのよぉ! かおるが謝ることなんて全然ないじゃない!」  
 涙混じりの声を上げるももこ。無事な左拳を両手で握られ、かおるの頬がほんのりと赤くなる。  
 博士によれば、たとえあの時ももこがあのままビルの巨碗に叩き潰されていても、結果として大事には  
至らなかった可能性が極めて高いそうだ。せいぜいが“めちゃくちゃ痛い”という程度、怪我の度合いは  
打ち身がやっと、擦り傷少々。それもケミカルZの影響下においては即時に完治してしまうらしい。もっとも、  
超音速の飛行や大気圏外での活動にも耐えうる事など、単に頑強さや驚異的な治癒力では説明が  
付かぬ点も多々あるが、ケミカルZのおかげで変身中は取りあえず大丈夫、という事らしい。  
 モンスターとの戦闘後も自分達の身体に傷跡一つ残らないのはそういう理由だったのか、とみやこは  
納得しないでもないが、しかし何事にも例外はある。  
「あ、あたしのせいでこんな大ケガ…!」  
「だけどなー、あのままでもお前大丈夫だったみたいだし。俺が焦って勝手にケガしたわけだしさぁ」  
「そういう問題じゃないわよー! あたしがもっとしっかりしてればあんなの避けられたはずだし、  
そうすればかおるだってあんなムチャしなかったでしょ…?」  
 そうなのだ。例えばボクサーがそのパンチ力で己自身の拳を傷めてしまう事があるように、かおるの手足を  
破壊したのはかおる自身の力だったのだろう。自分の肉体が耐え得る限界越えた力を発揮させてしまった  
事の、その結果。  
「大体、何で素手で殴りにいったんだろ、俺。ハンマー喰らわしときゃ良かったんだよな」  
 気が付いたらハンマーを手放していた、とかおるは言う。慌てて取り落としたのか、それとも速度を優先  
させる戦術的な判断を無意識の内に働かせたのか。きっと後者だろう、とみやこは思う。  
「それはそれとして、ここで何日もジッとしてなきゃなんないってのがなぁ。ヒマだぜ」  
「それであんな骨折が治るんだからすごいわよね。普通なら三ヶ月くらいはかかるんじゃないの?」  
 詳しい専門的講釈はどうせ理解出来ないので聞き流したが、博士の説明によれば、この超常的な治癒も  
変身中の負傷であるからだそうだ。変身解除後もそうした影響があるなら日頃の負傷に対してはどうなのか、  
または負傷してから変身したらどうなるか、等々の仮説推論に及んではみやこは一切記憶していない。  
おそらくはももこも、当のケガ人のかおるも同様だろう。  
「とにかく! ここでギブスとれるまでおとなしくしててね。ちょっとだけの辛抱なんだから。学校とかおウチの  
人には市長と校長先生が上手い事説明しといてくれるってさ」  
「あー、そっか。俺達もう普通の病院とか入れないんだよなぁ…」  
 普通に入院してしまっては変身も儘ならないし、万が一、精密検査などで常人との差異が検出されても  
困ってしまう。市長の息のかかった病院などで対応も可能だろうが、専門的なケア等、この研究所で  
治療するのが一番無難なのだろう。不便な事だ、とみやこは思った。現状はとにかく、いずれはPPGZの  
活動を管理運営するための組織だったものが必要になってくるのだろうか。  
「でもこんなの付けたまんまじゃ鬱陶しいぜ。痒くなったらどうすりゃいいんだよ。そんなに簡単に  
治るんならさ、ひょっとしてもうギブス取っちゃっても――」  
「ダメッ! お願いだからムリしないで! ちゃんと治るまで…ね?」  
「お、おう。解かった…」  
 ぐい、とももこに涙ぐんだ顔を寄せられて、再び赤面するかおる。  
 
「…なあ、ももこ。本当にさ、あんま気にすんなよ? 結果的に大した事なかったんだしさ」  
「だって〜」  
「じゃあ…さ、もし俺が本当に危ない時があったら。その時はももこに助けてもらうから。な?」  
「うん! 絶対! ……あ! アンタね、もしその時になって“俺にかまわず逃げろー”とかいったら、  
あたし本ッ気で怒るんだからね!?」  
「…うん」  
 そのまま暫し、無言で見つめ合うももことかおる。その光景を、少し離れてみやこは黙って眺めた。  
今ここに自分の存在する余地などはない、そんな気分になる。  
「…じゃ、あたし帰らなきゃ。ホントは泊り込みでついてたいんだけど。ね、ごはんとかトイレとか大丈夫?」  
「大丈夫だよ。片手片足は無事なんだし、自分の面倒は自分でみれるって」  
「そうね…じゃあ、また明日」  
 幾分名残惜しそうにしながらも、ももこは部屋を出て行った。暫らくの間、ももこの姿が消えた戸口を  
眺め続けるかおる。その視線がようやく、ようやくの事で返って来る。  
「……何だよ、みやこまで大人しくなっちまって。コレは俺のミスなんだから、もしみやこが責任感じて  
るんなら――」  
「いえ、そういう事ではありませんわ〜」  
 とは言ったものの、自分でも説明が付かない。この、妙に塞いだ気分は何なのだろう。  
「…あの、かおるさ――」  
 俯いていた顔を見上げて、みやこは己の言葉を呑み込んだ。  
 いつの間にか、かおるが泣き出していた。ジッと俯いて堪えながらも涙をこぼしている。  
「ど、どうしたんですか? 傷が痛むなら――」  
「いや、大丈夫、大丈夫だよ。そうじゃなくてさ…」  
「かおるさん…?」  
 少し迷ってから、かおるに寄り添うようにベッドに座った。肩に触れると、微かな震えが伝わって来る。  
「ごめん、何か急に…今更、怖くなっちまって……。は、ははっ」  
 無理に笑って見せようとしているようだが、その表情は笑顔とは程遠い。  
「俺さ……あの時、ももこが死んじゃうかと思って……俺、間に合わないと思ったから……一瞬だけ、  
間に合わないんだって思っちまった、から……」  
 左手で己の顔を掴むようにして、嗚咽を漏らし始める。初めて耳にする、かおるの悲痛な呻き声。  
「良かった……ももこ、何ともなくって……良かったよぉッ……」  
 やはりかおるも、緊張の極みにあったのだろう。結果的には全くの杞憂だったとはいえ、あの時の  
“ももこの死”という可能性は三人にとって現実のものだったのだ。しかも、思考停止や茫然自失に  
陥っていたももことみやこに比べ、判断し行動するだけの意思を保っていたかおるは、起こり得たかも  
しれない一瞬先の結末を最も色濃く見取ってしまった。結果、実はそれ程深刻な話でもなかった、という  
気の抜ける顛末を迎えてなお、かおるは平常には戻り切れないでいたのだ。その緊張が今、解けた。  
 だが、そんなかおるの心情が解かっていても、みやこは宥める言葉一つかけられない。それどころか。  
「……では、わたしもこれで失礼しますわ〜」  
「え…?」  
 かおるが泣き止むのも待たず、抑揚に欠ける声で言った。虚を突かれて顔を上げるかおるに微笑みかけ、  
早々に立ち去ろうとする。  
「では、また明日」  
「…うん、また明日…」  
 部屋を出る一瞬、少しだけ振り向く。呆然と見送るかおるの視線を遮るように、ドアを閉じた。  
   
   
 研究所を出ると、既に日が傾いていた。夕日色に染まり始めた丘を、少し背を丸めて降りる。  
 部屋を後にする時の、かおるの意外そうな顔を思い出した。それはそうだろう。こんなにあっさりと帰って  
しまう事が、自分自身でも意外に思う。しかしその一方で、かおるから離れたくなった理由も解からない  
わけではなかった。  
 胸が。  
 胸が痛む。  
 それはかおる一人を大ケガさせてしまった事への後悔でもなければ、嗚咽を漏らして泣くかおるへの  
悲哀でもない。もっと別の、棘のある感情。  
 丘を降り切ると、アスファルトの硬さが足に痛むように感じた。僅かにふらつきながら、家に向かう。  
 ももこを救った時の、かおる。あの凄惨さを思い出し、みやこは足を止めた。  
   
 キレる、という言葉がある。感情の振幅が激し過ぎて常識や思慮が歯止めにならぬまま、ただ感情の  
奔流に任せて動く。結果、言動は極めて荒れたものとなり、時には支離滅裂な行動を取ったりもする。  
 しかしみやこの思うところでは、それは違う。キレた、と自ら声高らかに宣言して暴れ出す者などは、  
キレるという概念を口実に、単に鬱憤を吐き散らしているだけなのではないのか。  
 本当にキレてしまったのなら。本当に理性と感性とが切り離されてしまったのなら。  
 ならば、もはや思考と感情の衝突や葛藤は起こり得ない。そしてその時、己の目的が明確なものである  
ならば、人は荒れ狂うよりもむしろ、静かに狂うのではないのだろうか。  
 何がどうなろうと構わないのだ。たとえ、決して行うべきではない行動を取ったとしても。  
 やってはいけない事だと冷静に判断しながら、それを気にかける事はない。  
 やってはならない事をやる、その矛盾を押し切るために感情を解き放ち、勢いに任せる必要もない。  
 感じた事と考えた結論とを結び付ける糸は、もう切れてしまっているのだから。  
 だから迷わない。  
 だから惑わない。  
 理性も判断も寄せ付けず、微塵も揺れる事のない――純粋な情動。  
 錯乱して暴れるわけでなく。あらゆる代償を覚悟しての事でもなく。  
 如何なる心の欲求であれ、ただ、従う。  
 それが“キレる”という事だと、みやこは思う。  
 あの時のかおるもそうだったのだろう。  
 ももこの死を予見した、恐怖。  
 間に合わぬと諦めた、絶望。  
 間一髪でももこを救えた、安堵。  
 そしてこの世で一番大事なものを奪わんとした敵への、憤怒。  
 それらの感情が暴風となって、かおるは一種の自我崩壊に達し――キレた。  
 だからあの時、みやこを振り向いたかおるの瞳には何も映っておらず、己を鼓舞するように声を張り  
上げる事もなかったのだ。  
 ただ、敵を。ももこを殺そうとした、敵を。  
 壊す壊す壊す壊す壊す壊す壊す壊す壊す壊す壊す壊す殺す。  
 ――しかし実際はどうだろう。かおるの心中がどのようなものであったのか。それはかおる自身にしか  
解からない事だ。“キレる”という概念への考察も含め、それらは勝手な想像でしかない事はみやこも  
充分に自覚している。  
 ただ、あの時のかおるを思い出すと、震えが止まらない。  
 怖かった。あんなかおるは見た事がなかった。  
 あんなかおるなど、知らない。  
 それにあの、己の身体をも破壊する程の――自己を守らんとする生物の本能をも凌駕した――打撃。  
 ももこのために、己を捨てて。  
 ももこのために、本能という人間の枠組みをも打ち壊して。  
 ももこの喪失という衝撃が、たとえ一時とはいえ、かおるをああも崩壊させたのなら。  
 ならばかおるという存在は、ももこに依って出来ていると言っていい。  
 かおるをかおるたらしめているのは、ももこだ。  
 ももこだったのだ。自分では、なく。  
 ドクンッ、と、唐突に胸の鼓動が跳ね上がった。みやこは己の胸を押さえ、弱々しい足取りで歩き出す。  
目の前の街並みの風景が消え去り、数日前に見た、とある光景が網膜に浮かび上がり始めた。  
   
   
 嫌な予感がした。  
 その日の放課後、済ませなければならない用事があったみやこは、二人にその旨を告げて家に帰った  
のだが、しかし、どうにも落ち着かない。  
 ――かおるさん。  
 思考は乱れて定まらず、身体はそわそわと浮ついた。常日頃かおるを想う時に訪れる、胸を締め付ける  
ような思慕の情でもなく、胸を蕩かすような淫靡な夢想でもない、胸の内を掻き乱す焦燥感。結局用事も  
そこそこに切り上げて、みやこは研究所に向かって駆け出した。  
 何かが起ころうとしている。  
 何かが失われようとしている。  
 かおるの身に襲い来る、取り返しのつかないような何か。  
 研究所に足を踏み入れた途端、予感は確信に変わった。湿ったような、熱のような、微かな気配が空気を  
満たしているのを感じる。  
 かおるの汗。かおるの吐息。嗅覚よりも皮膚で感じる、嗅ぎ慣れたかおるの匂い。  
 足音を殺して、そこに近付く。普段はあまり足を踏み入れる事のない、狭く込み入った区画。かおるの  
匂いが次第に濃くなって――みやこはそっと、通路の角を覗き込んだ。  
 かおるがいた。ももこも一緒だ。半ば、こちらに背中を向けている。  
 かおるは身体をくの字に折り曲げるようにして腰を引き、じっと立っている。その背中や腰にぴったりと  
張り付くももこの手が、かおるの脚の付け根辺りに深く差し込まれているようだ。  
 二人とも動かない。いや、ももこの手元だけが妖しく動いているように見える。狭い通路の壁面に反響して、  
二人の密やかな声がよく聞こえて来る。  
「――ねぇ、抵抗しないの? いつもはすぐ怒るのに、なんで抵抗しないの?」  
「だ、だって…あッ、やめ…」  
 ぴくん、とかおるが顎を仰け反らせた。まるで力のない、涙の混じった声。  
 細部はよく見えないが、それでも事は明確だった。ももこがかおるを触っているのだ。みやこが未だ  
触れられずにいる、奥深く秘められた部分に。  
「だって、お前が俺に触るのって…ぁ……俺が怒ったり嫌がったりするのが、ン、ンッ! …お、面白いから  
なんだろ…? だから…」  
 それはみやこが言った事だ。かおるの身体に対するももこの悪戯を止めさせるには、という口実で  
かおるに触れるための戯れ言。かおるに自覚があるかどうかは解からないが、今こうして、それはかおる  
自身がももこに身体を許す口実ともなり得た。  
「…だから今日は無抵抗だったの? …あのねぇ、あたしそんなにイジワルじゃないわよ。こうやって  
かおるにさわりたいから、そうしてるだけだもん」  
 ももこの声が湿った響きを増す。  
「アンタがあたしをエッチなキモチにさせるから、こうなるの。責任とりなさいよね?」  
「そんなの、ンッ…んあっ…や、やめろよぉ…」  
 今すぐ飛び出してやめさせたい、という気持ちはある。逆に、困惑のあまりここから逃げ出したいような  
気もする。その上、あんなに気持ちよさそうなかおるの声を聞くに、ももことの秘め事を妨げてはならない  
ような迷いも加わって、結局みやこはどうすることも出来ずにいた。  
「あッ…なぁ、もういいだろぉ…? 大体お前、いっつも男にデレデレしてんのに…あ、あぁッ! お、お、  
女の身体触って、楽しいのかよぉッ…」  
「まあまあ、気楽に気楽に。男の子はどうだかしらないけど、女の子の間じゃこんな遊びも別に珍しい  
事じゃ――あ、でも安心して? スケベ心と恋心は別腹なんだから。女の子同士で恋愛だとかなんだとか、  
そういうキモチわるいことはいわないから、かおるもそう構えなくっていいのよ?」  
 無邪気な笑いを含んだその言葉が、毒を伴って胸に突き刺さったような気がした。隠れ覗いて聞いた  
自分ですらそうなのだから、かおるは今の言葉をどう受け止めたのだろうか。みやこは少しだけ身を  
乗り出して、かおるの表情を窺った。すると。  
「…………気持ち…悪い…?」  
 ぽろぽろと。充分に潤っていたその目から、ついに幾筋もの涙が溢れ出す。だが、あれは己の身体の  
中心を――きっと、他の誰よりも望んでいた者の指先で――愛撫された悦びゆえの涙ではない筈だ。  
「……ははっ、そうだよな。やっぱ、普通はそうだよな……」  
「…え? なに?」  
「……放せ」  
 涙に震える声で、甘い響きを失った声で、かおるが唸る。  
 
「放せよ……もういいだろ、放せよぉッ!」  
「わ、ちょっ…なによ、急に…」  
 肘を突っ張って、ももこを自分の背中から押し剥がそうとするかおる。だが。  
「放せ! 触んな! はな――あァッ!?」  
 びくんッ、と背を仰け反らせたっきり、かおるの動きが止まった。思わず駆け寄りそうになるのを、みやこは  
通路の角を掴んで耐える。  
「あ……あぁ…も、ももこ……な、何…して…?」  
「…ダメよ、いまさら抵抗したって。だって――」  
 ねっとりと、ももこの囁き。あんなに淫猥に響くももこの声を、みやこは初めて聞いた。  
「もう、こんなに奥まで入っちゃってるんだもん……」  
 ガクガクと、かおるの脚が震えている。その背中をしっかりと抱きかかえるももこ。  
「ね? ほら…わかる? いま、かおるの中で動いてるの……あたしの指よ…?」  
「あ、はあぁッ……や、え…? うそぉ……?」  
 すっかり蕩けてしまった声で己の困惑を告げるかおる。その動揺が、みやこにも感染した。  
 やめて。そんな中まで触らないで。わたしだってまだ、そこには触ってないのに。  
 今まで幾度となく手を伸ばし、届かずにいる場所。唇を開き、乳房を預け、それでも未だに許しては  
くれない秘部。なのにももこの指は、優しく、しかし無遠慮に潜り込んでいる。  
「ほら、ね? 動かしてるの、わかるでしょ? ね?」  
「だッ、だめぇッ…」  
「指一本ぜぇ〜んぶ入っちゃった。 ね、ね、痛くない? 痛くないよね? かおるのココってあたしのより少し  
入り口広いみたいだし。やっぱアレかな? 普段からしっかり運動してる子のは自然に広がっちゃうって、  
ホントなのかなぁ…?」  
「あ、やだ、やだよ、ももこぉ…!」  
 頭を下げ、腹と膝がくっつく程に身体を縮めるかおる。だが、ももこの言う通り、そんな抵抗は既に何の  
意味も持たなかった。どれだけ身を折り、脚をきつく閉じても、ももこの腕を抱え込むばかりだ。  
「あは、すごい…かおるの中、なんか動いてる…」  
「あ、あ、やッ、やめッ」  
「ほらぁ、ここ。ここがね、キュウッて。あたしの指、キュウ〜ッて…」  
「やぁッ、やぁだぁぁぁッ…!」  
 最早、かおるの抵抗は口だけだ。みやこが身を潜める通路の角からでも、かおるの身体の力が抜けて  
いくのがよく解かる。縮こまったかおると、それに覆い被さるように抱くももこ。びくん、びくんとかおるが  
身を震わせる他に動きは無いように見えるが、見えないところ――かおるの中――ではももこの貪欲な  
指先が間断無く蠢いているのだろう。  
 どうしよう。どうしたらいい。みやこはまだ、何も出来ずにいる。  
 崩れ落ちるように、かおるが座り込んだ。それを逃がさず、ももこも自ら腰を下ろす。その指先は未だに  
かおるを解放してはいない。それどころか、ももこの背に遮られてよくは見えないが、先程まできつく  
閉じられていたかおるの脚が座り込んだ拍子でやや開いてしまっている。そして。  
「ね、いいの? 足閉じなくていいの?」  
「あ、ああぁッ…?」  
 音が。くちゅ、ぷちゅ、と、粘り気のある音が、離れたみやこの耳にまで届いて来る。脚の締め付けでの  
束縛を逃れたももこの手が妖しく前後し、充分に潤った柔肉の内壁を掻き鳴らす音だ。  
 怖気のような小波が、みやこの身体の中心を走り抜けた。少しずつ慣らし、最近ようやく中指が入る  
ようになったばかりの自分には未だ快く感じられない感覚――膣の内部への愛撫――に、かおるが  
あんなにも気持ちよさそうに喘いでいる。   
「あ…あァ……ンッ……は、はぁ…ぁ…」  
「かおる……キモチいい…? キモチいいよね…? ねぇ、かおるぅ……」  
「あン…も、ももこぉ…」  
 荒い息遣いと、その合間に呼び合う声。途切れる事のない粘液質の音。脚の力が抜けそうになるのを  
必死で堪えながら、みやこは固まったようにその光景を覗き見ていた。  
「あァ…う、ンッ…あ…? あ、あッ……あぁあッ、やぁッ…!?」  
 唐突に、かおるの喘ぎ声に切迫したものが混ざり始めた。  
「あ、あ、や、やだッ…!? 何か、何か変ッ! へ、変だよォッ!?」  
 蛙のように這った姿勢のまま完全に弛緩していた身体が、それでもももこの下から逃れようとする。  
「あ…! ひょっとしてかおる……イッた事、ないの?」  
 ももこの声。角の陰でみやこもギクリと身を竦めた。  
 
 そうだ。かおるはまだ、“あの感じ”を体験した事がないのだ。だったら。  
「なッ、ない…! あ、あ、ない、よォッ!」  
「……そっか」  
 ぺろり、とかおるの首筋に舌を這わせてから、ももこが囁く。  
「じゃあ、かおるは――」  
 くちゅくちゅと音を立てるペースが早まった。かおるの喘ぎも、やだ、やだ、と悲鳴のように昂る。  
「かおるは、あたしの指が……はじめて、なのね……」  
 そのももこの囁きを、慈愛すら含む程に優しく響いた声を耳にして、みやこの頭の中で何かが弾けた。  
 だめだ。それだけは。いくらももこでも、絶対に――!  
 急速に力を取り戻した身体。それでも僅かに冷静さが残っていたようで、みやこはそのまま飛び出す事  
だけは避けた。足音を立てぬように小走りで通路を戻り、さもたった今この場に現れたかのように、普通の  
歩みで角に向かう。  
 角の向こうで、バタバタと慌てふためくような気配。深呼吸しながら角を曲がると、壁に張り付くようにして  
立つももこと、こちらに背中を向けたまま傾くように座り込むかおるの姿が見えた。  
「……何か声がすると思ったら、こんなところにいたんですね〜」  
「あ、あはは、あれ? みやこ今日は用事があったんじゃ……」  
 引き攣った笑顔でももこが答えた。いつもなら自分が見ている前でも平気でかおるに触れているのに、  
今はこんなに慌てているのなら、今日のこれはももこにとっても悪戯ではなく“秘め事”だったのだろう。  
みやこは微笑み顔を保つのに努力を要した。  
「……ええ、思ったより早く済みまして〜。こんなところで何してたんですか〜?」  
「え、ええとね、その、くすぐりっこしてたら、ちょっと熱中しちゃって。ねえ?」  
 真っ赤になりながら弁解するももこ。同意を求められたであろうかおるは、じっと俯いたまま答えない。  
「あ〜あ、なんかノド渇いちゃった。あっちでお茶にしよっか。ね?」  
 なおも取り成すように明るい声を出すももこ。しかし、かおるは無言のままだ。  
「ね、かおる…? ゴメンね、やりすぎちゃった。ゆるして? ね?」  
「………」  
「ねー、おいしい紅茶煎れてあげるから、機嫌直してよぉ。お砂糖、いれる?」  
「………」  
「ねぇ、かおる………お砂糖…」  
「………………砂糖は、いいよ」  
「あ、うん! みやこはお砂糖いるよね? じゃあ先にいって用意してるから!」  
 やっとの事で返事を貰い、ももこは慌しく走り去って行った。その姿が消えるまで見送ってから、  
かおるの背後に腰を下ろす。  
「かおるさん…?」  
 そっと肩に手を置く。それだけで、かおるの身体がぴくん、と跳ねた。  
「大丈夫ですか? かおるさん」  
「……見てたのか?」  
「あ……はい。ごめんなさい…」  
「いや、いいよ。何か、その……助かった」  
 かおるの身体が、断続的に小さく跳ね続けている。やはり、寸前だったのだ。  
 あと数瞬後には達する筈であった、絶頂。あのどうしようもない程に激しい昂りが、その解放を求め、  
発達し始めたばかりのかおるの身体の中を未だに渦巻いているのだろう。  
「かおるさん…」  
 肩に置いた手を、僅かに滑らせる。その微かな刺激にさえ、あ、と声を上げるかおる。このまま背中を  
抱き締めただけで、危うく踏み止まった残りの一歩を昇りつめてしまうのではないのだろうか。  
 ふぅっ、と生々しい香りが鼻に届く。穿いている衣服に染み出す程に滴り出た、かおるの愛液の匂い。  
 この厄介な状況をどう整理しようか、という意識よりも強く、ムクムクと鎌首をもたげる衝動。  
 抱き締めてしまおうか。  
 いや。それよりも、もっと別の。  
 もっと別のところに触れたら、どうだろう。  
 この震える身体を押さえ付けて。力の抜け切った脚の間に手を入れて。  
 つい先程までももこが弄していたように、あの、熱く甘く潤ったところを。  
 今なら。この指で――。  
 
「――みやこ」  
「は、はいっ!?」  
 今にも背後から組み伏せんとした瞬間、かおるの重々しい声に制された。  
「ももこが、俺の事…気持ち悪いって……」  
「あ……」  
 同性同士での恋愛は気持ちが悪い。先程、ももこが言った事だ。  
「ち、違いますわ! それは……その、ももこさんはかおるさんの気持ちを知らないから……それに、  
ももこさんだって、そういう気持ちがあるからこそ、ああいう……」  
 取り成すように言ったが、果たして実際はどうであろう。ももこはこうも言ったではないか。劣情と  
恋愛感情は全くの別物だと。そういう気持ちはかおるに対しては無い、と。ああもかおるの身体を蹂躙して  
おきながら、ましてやその最中に、口に出来る台詞ではない。しかし、だからこそ、あの言葉はももこの  
嘘偽らざる本心だったのではないのか。  
 おそらくは今日、生まれて初めて。かおるの最も奥深いところに、他者の指が触れた。  
 他の誰でもない、ももこの指が。  
 抵抗はあるだろう。己の性に対する反発も強い。罪悪感だってあるに違いない。  
 それでもかおるは望んでいた筈なのだ。たった今、ここであったような出来事を。  
 羞恥。恐怖。女性の身体、その感覚への嫌悪。  
 それを上回る、歓喜と悦楽。  
 ももこへの想い。  
 複雑に錯綜するそれらに翻弄され無防備となった心と身体に、楔のように打ち込まれた一つの事実。  
 かおるがももこを想うようには、ももこはかおるを想ってはいない。  
 ももこはかおるを、“好き”ではない。恋愛の対象には、成り得ない。  
 “そういう想い”は、気持ちが悪いのだ。  
「……大丈夫、大丈夫です、かおるさん……」   
 ぶるり、と身を震わせ、俄かに湧き上がった熱が冷めていくのをみやこは感じた。あんな状況の最中、  
最も言われてはならない事を、最も言われてはならない相手に、かおるは言われてしまったのだ。  
「大丈夫ですわ、かおるさん。ももこさんは何も、そんなつもりで言ったのでは――」  
「…俺、何か……もう……」  
 かおるの上体がふらりと揺れる。  
「ももこの事とか、お前との事とか、もう……どうしていいか解かんない……」  
「え……?」  
「解かんないよぉ……」  
「………」   
 パタリ、と床に横たわったまま動こうとしないかおるに。  
 触れる事も、言葉をかける事も、出来なかった。  
   
   
 ドクンッ! と再び跳ね上がる鼓動に叩き起こされるように、みやこは長い回想から我に返った。  
いつの間にか、家の近くにまで歩き着いている。悪夢から覚めた瞬間のような湿った緊張感が、生温い  
汗と共に身を苛んでいる。  
 あの日、かおるは泣いていた。ももこのせいで。  
 そして今日、かおるは泣いた。ももこのために。  
   
 ――かおるさんはももこさんが好き。  
   
 解かっていた。それでもいいと思っていた。   
 かおるの想い人が自分ではなくとも、それがももこならば許せた。  
 かおるがももこの事を好きならば、ももこと結ばれるべきなのだ。  
 かおるの隣りにいるのがももこでも、その反対側にだって“隣り”は残されている。そこが自分の  
居場所であればそれでいい。かおるは好きな相手と一緒にいられて、自分はそのかおるの側にいて。  
それが一番良い事だと思った。  
 なぜなら。  
   
 ――かおるさんはももこさんが好き。  
   
 けれど、ももこの方はどうだ。   
 好きでもないくせに、いつもいつも思わせぶりな態度で。  
 好きでもないくせに、その身体に自由に触れて。  
 好きでもないくせに、かおるに想いを寄せられて。  
 ももこのせいで傷付き、ももこのために壊れて、それはかおるにとって苦痛の日々でしかない筈だ。  
 なのに。  
   
 ――かおるさんはももこさんが好き。  
 ――かおるさんはももこさんが好き。  
 ――かおるさんはももこさんが好き。  
 ――かおるさんは。  
   
 ドクンッ! と、三度の叩きつけるような鼓動に、たまらず立ち竦む。道行く人々の怪訝そうな視線を  
気に掛ける余裕もない。  
 かおるがももこを好きなら、それでいい。  
 本気でそう思っていた。  
 だが、“思う事”と“想い”は違う。  
 かおるとももこと己とについて、今まで随分と慎ましい事を思考していた。しかしその裏で、自分は  
一体何を想っていたのか。先程から、いや、ずっと前から胸の内側で渦を巻く、この情動は何なのか。  
 熱く、冷たく。  
 棘があって、粘ついて。  
 泥のように重く、呪いのように黒い。  
 ――ああ、これが。  
 みやこはようやく、気が付いた。  
   
 これが――嫉妬。  
   
 気が付けば既に日は沈みかけていて、夜空が夕闇を駆逐しつつある。どれ程の間、こうして立ち尽くし  
ていたのだろうか。  
 帰ろう。家に帰って、夕食を済ませ、ゆっくりと入浴して。祖母と少し話が出来たら落ち着けるかも  
しれない。その後はもう、早めに寝よう。かおるの事もももこの事も考えず、ただ、眠ろう。  
 そうして、この今日という一日を終わらせてしまおう。明日の放課後にはももこと一緒に研究所に行き、  
学校であった事をかおるに話そう。そうやって、いつもと変わりない日々を送ろう。  
 今日、感じた事が、たとえ何であれ。今日と共に過ぎ去ってしまえば、それで何でもなくなるのだ。  
 しかし。  
 今日をこのまま、終わらせてしまって良いものだろうか。  
 ――かおるさんは。  
 かおるの心は、既にももこのものだ。  
 ――だったら。  
 だったら、それでもいい。そのかわりに、自分にも欲しいものがある。  
 家まであと少しというところで、みやこは踵を返した。  
 俯いて一人、笑う。  
   
 心を、とは言わない。けれど、それ以外のものは自分のものにしたい。  
 かおるの状況と、自分の心情。それらが重なった今日ならば、出来る。  
 卑劣な事だと、そう思う。きっとかおるを傷付けるだろう。  
 それでも、ももこに譲り渡さねばならないものの、その大きさに比べたら。  
 せめて、それくらい――許されたって、いい筈だから。  
                                                   つづく  
 

Gポイントポイ活 Amazon Yahoo 楽天

無料ホームページ 楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] 海外格安航空券 海外旅行保険が無料!