ももこが、好きだ。  
 いつ頃からそうなのかは解からない。その切っ掛けさえも覚えていない。ただ、赤堤ももこという  
存在が胸の内を占める割合は、気付いた時には絶望的なまでに膨れ上がっていた。  
 自分は一応、女。なのに、想いの相手も女の子。しかも親友だ。恋焦がれていい相手ではなかった。  
 当のももこは自他共に認める恋愛中毒者だが、その対象は常に男性。時に劣情や性衝動を持て余して  
自分――多分、手近で手頃な相手なのだろう――に襲い掛かって来る事もあるが、それでも同性相手の  
恋愛など考えた事もないだろう。その点では、親しい同性に惚れる人間などよりも余程健全だと言える。  
 そういった数々の認識が、己の胸中をより一層後ろめたく、臆病なものにした。  
 悶々と渦巻く、この想い。  
 ももこと友達でいたいなら、明日もももこと一緒に居たいのなら、胸に秘めておくしかない。どれだけ  
言い訳を重ねても、相手の方でもそれを求めていない限り、同性の親友に注ぐこの気持ちはやはり  
異常なものでしかないのだ。もし、それを知られでもしたら。  
 忌避される。  
 嫌悪される。  
 軽蔑される。  
 ならば、そんな想いは殺してしまえ。跡形もない程に押し潰し、初めから無かった事にしてしまえば  
いいのだ。そうすれば。  
 非常識だと避けられる事も。  
 気持ち悪いと眉を顰められる事も。  
 異常性癖者だと蔑まれる事も、ない。  
 それに、ももこへの想いを打ち消さなければならない理由は他にもあった。  
 ――みやこ。  
 その名を呟いただけで、温もりと冷たさとが同時に胸を掻き乱す。  
 こんな自分に、何と彼女が出来てしまった。ただでさえ親友への恋慕に思い悩んでいるというのに、  
もう一人の親友と恋仲になってしまったのだ。  
 ももこを想うのと同質のものか否かは解からないが、みやこを好きだという事もまた、嘘偽りの無い  
正直な気持ちだ。恐れはあるが、後悔はない。自分はみやこを好きだし、そのみやこも自分を好きで  
いてくれるのだから、これ以上の幸せはない筈だ。  
 だが、どうしてこんな事になってしまったのだろう、という困惑までは否定出来ない。  
 ももこと過ごす時は、ただ想いを押し殺し。  
 みやこと過ごす時は、ただ求められるままに唇を重ねて。  
 なのに皆でいる時は、屈託無く笑い合う仲良し三人。  
 三つの顔を使い分けるのは辛い。一人になった時、胸の奥に重い疲労感が溜まっている事に気付く。  
 だから、だからせめて、ももこを好きでいる事はやめようと思った。  
 捨ててしまえば――楽になれる。  
 それに、自分はみやこの彼女なのだ。それで他の女の子にいちいち揺れ動いていては、それは浮気と  
いうものだろう。みやこだっていい気はしないに違いない、そう心配し続けていた。  
 ももこは友達。そう決めて、ただみやこだけを想っていればいい。  
 それが一番正しい選択なのだと思った。みやこのためにも、己のためにも。  
 なのに。  
「――ダメです。それだけは絶対にダメですわ。ももこさんの事、諦めないで下さい」  
 なのにみやこは、そんな事を言う。最も苦しい選択を強いるかのようなその言葉に、酷く狼狽する。  
もしや、自分が苦悩する様を楽しんでいるのではないか。そんな疑念が脳裏を過ぎらないでもない。  
   
 みやこが好きだ。  
 みやこを愛している。  
 みやこに求められたなら、それがどんな事であっても応じてみせたい。  
 言葉を交わし、想いを確かめ合い、時に身体を重ね、そうして恋人同士になったのだから。  
 それでも。  
 結局、かおるは。  
 みやこの事が、やっぱりよく解からない。  
   
 跳ねたり、回ったり。  
 およそ必要性のない挙動を忠実に追って、長い髪がふわふわと流れる。浮かれきった鼻歌に合わせて  
踊るももこの後ろ姿を眺めながら、かおるは何度目かの溜息を吐いた。あまりに楽しそうなその仕草も、  
聞き覚えのないメロディの鼻歌も、酷く気に入らない。ももこは小振りのバックの中身を頻りに出し入れ  
して何かの支度をしているようだが、こうして先程から眺める限り、どうも同じ作業を繰り返していると  
しか思えない。  
 誘惑を感じる。見せ付けているのだ。何をそんなに楽しげにしているのか、訊いて欲しいのだろう。  
様子を見れば答えなど訊かなくても解かるのだが、それでも渋々と、かおるは重い口を開いた。  
「……なあ、もも――」  
「あ、ききたい? ききたいの?」  
 待ってました、と言わんばかりに表情を輝かせ、ももこは素早く振り向いた。  
「実はっ! これからデートなのですっ!」  
「……へー」  
 しかも相手はあの! と一人で盛り上がるももこだが、カッコいい事で有名な近隣の高校生だと説明  
されてもかおるには誰の事やら解からない。興味がないのだ。  
「だけどお前、これからデートったって……」  
 言い淀みつつ、窓の外に目を向けた。雨が降っている。  
「こんな天気でどうすんだ。延期ってわけにはいかないのかよ」  
「しょーがないじゃない。彼モテモテだからデートの予約いっぱい入ってて、今日しか時間とれない  
みたいなんだもん。でもね、雨なのに延期も中止もナシなんだから、彼のほうでもあたしと過ごす  
甘ーい時間を望んでるってことなのよぉ!」  
 そこにいない誰かを抱き締めながらくねくねと身を捩るももこ。  
「んっふっふ、今回こそはもらったわ! ついに、ついにあたしにもステキな彼氏がっ…! うふ、うふ、  
どぅふふふふ…」  
「……そうかなぁ」  
 雨天決行でやっつけられてしまうくらいなのだからむしろ望み薄なのではないか、とかおるは思うの  
だが、ももこは妄想に忙しいようなので口出しは控えた。どうせ話の通じる状態ではない。  
 それにしても、と盛大に溜息を吐き出しながら、かおるは窓際に歩み寄った。研究所のいつもの一室、  
その外壁に大きく取られた窓ガラスに片手を預けて外を眺めると、雨に霞んだ街並みの、酷く曖昧な  
景色が見て取れる。  
 幾度となく玉砕を繰り返し、それでも毎回毎回、何故あんなにも楽しそうなのだろう。そしてその  
心底楽しそうな姿を、どうしてわざわざ見せ付けるのだろうか。せめて、せめて目に入らないところで  
済ませてくれたらいいのに。  
 気に入らない。苛々する。つい舌打ちの一つもしたくなるのをグッと抑え、かおるは溜息の代わりに  
呟いた。  
「……行くなよ、デートなんか……」  
「なんで?」  
「うわっ!?」  
 すぐ後ろで聞こえた声に驚き、かおるは機敏に向き直る。聞こえないと思ったからこその呟きだった  
のだが、ももこはいつの間にか側に寄って来ていた。  
「あー、いや、だからさ、雨降ってんだし、濡れて風邪とか引いちまったら良くねェし――」  
 しどろもどろに苦しい言い訳をする。それをじっとりとした目付きで凝視していたももこが、不意に  
優しく微笑んだ。あたふたと振り回すかおるの両手を、ギュッと握り込む。  
「……いいわけしなくてもいいの。かおるのキモチ、あたしちゃーんとわかってるよ……?」  
「え……えぇ!?」  
 至近距離から熱っぽく見つめられ、かおるの身体が引き攣るように凝固した。そのまま迫って来る  
ももこから反射的に離れようとしたが、背後の分厚い窓ガラスに阻まれる。  
「あ……別に俺、そんな……そ、そういうんじゃ――」  
 意味ありげに微笑むももこの顔が近付いて来る。その唇から目が離せなくなり、かおるの足がガクガクと  
震え出した。  
 自分の気持ちを解かってくれている? その上で、こんなふうに身を寄せて来るのなら。  
 きっといつもの悪戯などではなく、本気で――。  
 キスされる、そう思ってギュッと目を瞑ろうとした瞬間。ももこの優しい微笑みが、悪意に歪んだ。  
「しかと見たり、オンナの嫉妬! やっぱかおるも女の子よねー」  
 両手を胸の前で組み、わざとらしく涙ぐむももこ。  
 
「彼氏こそ作らないものの常時モテモテのみやこと、そのうえあたしにまでステキな彼氏ができたり  
しちゃったら……ああっ! ひとり取り残されちゃうかおるってば、なんてカワイソウなの!?」  
「……は?」  
「あ、でも大丈夫! あたしはかおるを見捨てたりなんてしないから! あたしたちの友情は永遠よ!  
そりゃまあいろいろ忙しくなっちゃうだろうから、今まで通りにいつも一緒ってわけにはいかないかも  
しんないけどねー!?」  
 溢れ返る歓喜と小汚い優越感とで泣き出さんばかりの、その笑顔。あまりに明け透けなその様子に、  
かおるは腹を立てる気にもなれない。むしろ“今まで辛かったんだろうなぁ…”としんみりしてしまう。  
「ま、今度こそ上手くいくといいな」  
 ニッコリと、ももこに笑いかける。  
 結果はどうあれ――まず間違いなくダメだとは思うが――現時点では事の成就を確信している様子  
なのだから、何もここで気分を害する事もない。  
 それに万が一、ももこに素敵な彼氏とやらが出来てくれたなら。そうして自分の手の届かない所へ  
行ってしまってくれた方が、何か決着が付きそうな気がする。極度に屈折しながらも、それはかおるの  
本心の一つだった。だから。  
「頑張れよ」  
「うん! ありがと!」  
 咲きこぼれるような笑顔で応えるももこ。かなり露骨な嫌味を浴びせた相手から率直に応援された  
事に、どうやら何の違和感も感じなかったらしい。  
 それだけ上手に、かおるは笑顔を作って見せた。そういう事だろう。  
   
   
 真っ赤な傘を差しながら、ももこが丘を駆け降りて行く。  
 一度も振り返らずに消えてしまったその姿を、それでも追い求めるように、かおるの視線が雨の中を  
泳いだ。雨足は次第に強くなりつつあるようだ。  
「――いいんですか?」  
「いいよ、別に。どうせ俺には関係ないしな」  
 素っ気無い口調で問われ、身体ごと振り向いた。みやこと目が合う。かおるがももこと話している間、  
みやこは黙々とファッション誌などを読んでいたらしい。  
「つーか、聞いてたんならみやこも何か言ってやれば良かったのに。好きだろ、ああいう話」  
「ももこさんのああいう話に付き合ってたら、キリがありませんわ〜」  
 優しげな、しかし苦笑いなみやこの表情に、思わず吹き出す。確かにキリがない。  
「それより……ごめんな、みやこ」  
 笑いの衝動を噛み殺しながら、かおるはみやこに近付いた。すっかりお馴染みな長椅子の、みやこの  
隣りに腰を下ろす。  
 みやこの事だから、ももこのデートに対する鬱屈した感情などはお見通しだろう。そう神妙な顔付きに  
なるかおるに寄りかかり、みやこは歌うように言う。  
「好きな人は一人だけ、だなんて決まりはどこにもありませんわ〜」  
「でも、俺達付き合ってるわけだし――」  
「いいじゃないですか。好きなんですから、仕方ありませんわ」  
 そう言って更に身体をすり寄せて来るみやこ。口振りこそ一歩引いたような感じだが、いや、事実  
それは本心なのだろうが、そんな事を言われる度にかおるは内心ヒヤリとしてしまう。  
 みやこ。芯の強さを匂わせつつも常に穏やかな態度は、かおるの胸の内をくすぐって已まない。だが、  
この細い身体の奥底に秘められた途轍もない暴威を、かおるは身をもって知っている。ベッドに拘束され、  
みやこの思うがままにされてしまったあの日から、それほど時間は経っていないのだ。  
 陵辱だった。  
 今となってはあの日の全てを許せる。それでもあの時、みやこにされた事を言葉にするなら、それは  
やはり陵辱としか言い表せないだろう。いっそ、強姦と言い換えてもいい。  
 つまりは、みやこはじれったいのかもしれない。かおるはそうとも思う。  
 適当に言い包めての行為だけでは飽き足らず、あれ程までに強引な方法で己の気持ちをぶつけて来た  
みやこにとって、己の本音を押し殺すが如き遠慮や恐れは、ただただ歯痒いものなのだろう。  
 たとえ相手が、自分に寄り添って来ないのだとしても。  
 迷いを振り払い、諦めに逃げ込まずに。  
 ――奪ってしまえばいいんです。  
 そんな声が、みやこの笑顔から聞こえて来そうだ。  
 
 しかし。  
 寄りかかるようにして間近で微笑むその顔を、ジッと見つめ返す。  
「……はい?」  
「……う〜ん…」  
 みやこから受けた性的な陵辱は――生まれて初めての衝撃を与えられはしたが――しかし、物理的な  
危害を加えられたというわけでもない。結局下着さえ脱がされないままだったのだ。  
 だが、そのように踏み止まったみやこでさえ、己の行為を深く悔い、距離を置こうとしたのだ。  
 その暴挙の全てを受け容れ、抱き止めていなければ。  
 今頃きっと、みやこはここにはいなかった。  
 しかし、自分の場合はどうだろう。  
 みやこがそうしたように、自分もももこに何某かの実力行使に及んだとしたら、その後はどうなって  
しまうだろうか。それを考える度、かおるは胸の何処か重苦しくなる。  
 負傷を癒すため、離れられないベッドの上で。  
 昨日も、今日も。そして明日も来てはくれないであろうみやこの事を想いながら。  
 己の身体を慰めて過ごすしかなかった夜のような、あの寂しさを。ももこも感じてくれるだろうか。  
 受け容れてくれるだろうか。  
 抱き止めてくれるだろうか。  
 とても――そうは思えない。  
「……なあ。みやこは、さ…」  
「はい?」  
「よくあんな事、出来たよな…?」  
 つい、口に出た。途端に、みやこの顔が伏せられる。  
「ご、ごめんなさい…。そうですよね。かおるさん、やっぱり怒って――」  
「あ、いやいや! 違うって! ごめん、言い方間違えた」  
 かおるには、強引に想いを遂げる度胸もなければ、今の関係を壊してしまう覚悟もない。つまりは  
それが、かおるとみやこの“想いの強さ”の差だ。  
「だからさ、みやこはそれだけ俺の事、その……」  
 ここで“みやこにああいう事されて嬉しい”ぐらいの事は言ってやれたら、とかおるは思うのだが、  
なかなかそうも行かない。代わりに、みやこの細い肩に手を回して軽く抱き寄せた。こてん、と肩に  
みやこの頭が置かれる。  
 こうして二人きりで密着していてもみやこの事だけを考えていられない己が、かおるは悔しい。  
 何か。何かないのか。みやこが喜びそうな、何か。  
 例えば、自分から“誘って”みたら、みやこは喜んでくれるだろうか。  
 みやこの手を取って、胸や太ももの上に導いて。自分から服を脱いでみせるのもいいかもしれない。  
 “あの日”以来、みやこは妙に遠慮がちだ。接吻こそ毎日のように交わしているものの、それ以上  
踏み込んでは来ない。しかし、みやこがその程度で満足していられる筈はないのだ。  
 きっと、みやこは我慢してくれている。なら、そのみやこのために、自分の方から――。  
(……コレってやっぱ、交換条件ってヤツだよな……)  
 そう。みやこを喜ばせたいだけではない。身体を差し出す事で、みやこへ罪悪感を薄めたいだけ  
なのだろう。己の抱える卑しい打算に気付き、かおるは思わず目を細めた。眉間に深いシワが、  
ミリミリと音を立てて寄せられるのが聞こえるようだ。  
「――かおるさん?」  
「ん?」  
 不意に呼ばれ、しかし瞬時に微笑んでみせた。最近、作り笑いに慣れてきたような気がする。  
「…………」  
「…何だよ?」  
 ジッと見つめて来るみやこ。ひょっとして上手く笑えていなかったのか、かおるがそう思い始めた時、  
みやこも柔らかい笑みを見せた。  
「忘れてました。わたし、お弁当作って来たんです」  
「弁当?」  
「はい。せっかくのお休みですから、一緒に食べようと思って」  
 嬉しそうに続けながら、長椅子の陰の荷物を何やら手探るみやこ。そういえば少々空腹だ、とかおるは  
己の腹を撫でた。  
「じゃあ、昼飯時にはちょっと早いけど、ありがたく――」  
「かおるさん」  
 身体を起こしたみやこは、小振りのバスケットと――折り畳み傘を手にしていた。  
「せっかくですから、わたし達もデートしませんか?」  
 
「……え? デート?」  
「はい〜」  
「今から? 外で?」  
 みやこが抱くように持つ小さな傘を見て、それからかおるは窓の外に目をやった。  
 依然として、雨は強く振り続けている。  
   
   
 ぴったりと身体を寄せ合いながら、雨の中を歩く。  
 分厚い雨のカーテンの中、二人の小さな身体だけをかろうじて守っている小振りの傘は、まるで世界と  
己とを隔てる結界のようだ。そんな事を考えながら、かおるはみやこの首に回した腕に少し力を込めた。  
それに応えるように、かおるの腰に回されたみやこの手が僅かに下がる。  
 デートとはいうものの、昼食付きの散歩程度のものだ。雨の中、いつもとは少し違った風景の中を  
二人で歩き、何処かでみやこの手作り弁当を食べ、暗くなる前に研究所に戻る。そう予定している。  
「……でもなぁ……何かちょっと、人目が気になるっつーか…」  
「大丈夫ですわ、かおるさん。誰も変に思ってませんから」  
 確かに、こうも雨足が強ければ周囲へ目を凝らしている者などいないだろう。人間二人で一つの傘を  
共用しているのだから、双方の身体が密着していても言い訳は立つ。しかし、腰とも尻とも太ももとも  
つかない辺りを撫でられながら歩くというのは、屋外ではさすがに恥ずかしい。  
「あ、そこ曲がりましょう。その先に公園があった筈ですわ」  
 すぐ側、数センチの至近距離でみやこの声が響く。  
「……かおるさん?」  
「う、うん」  
 熱っぽいような、切ないような。みやこと舌を絡め合う時とそっくり同じ感覚が、先程からかおるの  
背筋を這い回っている。  
「ま、曲がるんだよな? うん、解かった」  
 何だろう。何かが変だ。みやこの体温や声の響きの感じが、普通とは幾分違って感じる。雨のせいで、  
衣服や空気が湿っているせいだろうか。  
 人通りも疎らな通りを暫らく進むと、みやこの言う公園に着いた。屋根付きのベンチに並んで腰を  
降ろす。  
「考えてみますと――」  
 苦笑の混じったみやこの声。  
「一応、これが初デートなんですよね。地味過ぎてごめんなさい」  
「ンな事ァないって。結構――」  
 ドキドキしている。何となく、みやこの顔を直視出来ない。ただ一緒に歩くだけでも、それがデート  
だという認識が加わるだけでこんなに気分が変わるものなのだろうか。  
「はい、どうぞ。かおるさん」  
 膝の上に弁当を広げるみやこ。  
「家を出る前に急に思いついたものですから、凄く簡単なお弁当ですけど。今度、もっとちゃんとした  
お弁当を作って来ますわ」  
「いやいや、ちゃんとしてるって。俺こういうの全然ダメだしなぁ」  
 みやこ手製の弁当は、幾つかのおにぎりにサラダとフルーツを添えただけのシンプルなものだったが、  
そもそも何かを調理しようと思う事もないかおるから見れば“凄く簡単”どころではない。  
「じゃ、遠慮なく。いっただっきまーす!」  
 やや小さめなおにぎりを一つ手に取り、大きく齧り付く。  
「へぇ……うなたまって、おにぎりの具にもなるんだなぁ」  
「お味は如何ですか? うなたまのおにぎりは初めてですから、実はあんまり自信がないんです」  
 謙遜というわけでもないのだろう、みやこは不安そうに上目遣いだ。頬張って口ごもりながらも  
美味いと伝えると、頬を赤らめて嬉しそうに笑う。  
 そのみやこの笑顔を見て。  
(あ……)  
 ごくり、と口の中のものを半端に飲み込んで、そのままかおるの動きが止まった。大好物のうなたまに  
逸らされていた気が、再びみやこに集中する。  
 みやこ。すぐ、そこにいる。  
 手を伸ばせば、いや、ほんの少し身体を傾けるだけで触れる程に、近く。  
「……かおるさん?」  
 様子がおかしい事に気付いたみやこが顔を寄せて来るが、それに応える余裕もない。  
 みやこの声。みやこの息遣い。湿った空気に乗って生々しく届く、みやこの体温。  
 
「……あの〜、もしかして、変な味しました?」  
「あ、いや――」  
 やっとの事でそれだけ答えたが、そうしてみやこの顔を間近に見てしまうと、もうそれで限界だった。  
みやこの小さな唇に目が吸い寄せられ、離せなくなる。  
 あの艶々とした唇の中にある、みやこの舌。  
 耳を、首筋を、瞼や頬を、柔らかく這い回る粘液質の温もり。  
 胸の先端を舌先で弄ばれた時の感覚は、一体どう表現すればいいのだろう。  
 そして何より、舌同士が触れ合った時の。  
 粘膜が擦れ合い、溶け合って、何処までが己の舌なのかも解からなくなってしまうような、あの――。  
「かおるさ――んむっ!?」  
 一瞬の後、自分でも良く解からない内に、みやこと唇を重ね合わせていた。  
 両手でみやこの頭を――いつもみやこがかおるにそうするように――しっかりと抱え、強引に舌を  
ねじ入れる。  
「ンッ! ……んふ……」  
 一瞬だけ身を固くしたみやこだったが、すぐに脱力し、手だけをかおるの両脇にそっと添える。より  
一層深い接吻を欲して、かおるは闇雲に舌先をくねらせた。歯の並びを撫で擦り、その合わさり目が  
開かれるのも待たずに舌先でこじ開ける。その先に隠されていたみやこの舌の暖かなぬめりに、  
かおるは己の血液が瞬時に沸騰するのを感じた。  
 ――違う。全然違う。  
 ただみやこに翻弄されるばかりの日頃の接吻と、自ら求めてのそれとは、こうも感覚が異なるもの  
なのか。今の自分達がいつ、誰に見られないとも限らない場所にいるという事すら忘れ、かおるは  
みやこの口腔の甘さに没頭した。  
 互いの唇は落ち着きなく付いては離れ、その度に軽くぶつかり合う前歯がカチカチと音を立てる。  
どう動かせばいいのかも解からないまま舌先を暴れさせると、みやこの細い身体がピクン、と跳ねた。  
 ――みやこ。みやこみやこみやこ。  
 胸の中で繰り返し、みやこの名を呼ぶ。それに応えるように、みやこの両腕がかおるの背中にしっかりと  
回された。  
 ――こんな。こんなに。  
 脳裏の片隅に微かに残る理性で、かおるはぼんやりと考えた。  
 こんなにも激しい衝動に、今までみやこも突き動かされて来たというのなら。  
 病に寝入ったところを、密かに悪戯されても。  
 口先で言い包められて、身体を弄ばれても。  
 拘束され、その想いを一方的に押し付けられても。  
 全て、仕方のない事のように思える。  
 こんなにも、欲しくなってしまうのなら。  
 欲しくて欲しくて、どうにもならなくなってしまうものならば。  
 だったら、もう――。  
「んッ……んぅ…ッ」  
「んぁ……」  
 指先に優しく絡む、みやこの髪。  
 可憐な、しかしねっとりと熱い、みやこの舌。  
 そしてその口の中に点々と触れる小さな粒は、おそらく先程まで頬張っていたおにぎりの――。  
(え……あ!?)  
 一瞬の驚愕と共に我に帰り、かおるは慌てて唇を引き離す。ちゅぱッ…と微かな音を立てて、唾液の  
糸が細く伸びて消えた。  
 未だとろりとしたままでいるみやこの口の端に、米粒が一つ付着している。半開きのままの口内にも、  
白い米粒が点在しているのが見て取れた。確かみやこはまだおにぎりを口にしていなかった筈だから、  
これがどういう事なのかは考えるまでもない。  
「あ、ご、ごめん! そういうつもりじゃ――」  
 そうだ。衝動に任せて接吻になだれ込む前、口一杯におにぎりを詰め込んでいたのだ。それを半端に  
飲み下しただけでみやこに濃密な接吻をしてしまったのなら、当然――。  
「あ、あー、えっと…」  
 ハンカチ。ちり紙。酷く狼狽しながら、己の衣服をあちこち手探る。が、元々そういったものを持ち  
歩くエチケットなどとは無縁なかおるなので、お目当てのものは当然見つからない。やや錯乱しながら、  
両の手のひらを受け皿のようにしてみやこの口元に差し出す。  
「だ、出せ! ペッてしろ! な!?」  
 飲み物ならまだしも、形のある固形物を口移し。とんでもない事をしてしまった、と頭を抱えたい  
衝動に駆られながら、かおるはみやこが口の中のものを吐き出してくれるのを待った。だが、己の  
唇の端に付いた米粒をぺろりと舐め取ると、みやこは吐き出すどころか顎を小さく動かし始めた。  
 
「おいバカ、食うなよ!? それ――」  
 俺の口ン中にあったヤツ、とかおるが言い切る前にコクンと飲み下すみやこ。  
「はあぁ〜ッ……とても素敵なキスでした……それに――」  
 切なげに溜息を震わせてから、みやこは両の頬に手を当ててほんわりと笑った。  
「今まで食べたものの中で、一番美味しかったですわ〜」  
「な、何言って……あー、でも、俺がやったのかぁ…」  
 額に手をやり、がっくりと肩を落とす。米粒塗れの舌をみやこの口内に突っ込んだのは、紛れもなく  
この自分なのだ。さすがのみやこも、その瞬間ばかりは驚いた事だろう。顔の皮膚の内側に熱々と  
こもる羞恥を溜息の乗せて吐き出しながら、かおるは思わず下げていた顔を上げた。  
 それにしても、今のみやこといい、以前、自分が舐めていた飴玉を舌と唇とで無理矢理奪い返して  
いったももこといい、どうして自分の周囲にはこう――まさか、類が友を呼んだ結果だと思いたくは  
ないが――エキセントリックな人物ばかりなのだろう。お陰で、いつもいつも引きずり回されてばかり  
でいるような気がする。  
 それとも。  
 人を好きになるという事は、相手自身のみならず、その相手に関わるもの全てを欲するという事なの  
だろうか。人が一度口に入れたものにすら、執着してしまう程に。  
 もっともももこの場合は、単に飴そのものを惜しんでの暴挙だったに違いないが――。  
「かおるさん」  
「え、え?」  
 まだ平常心を取り戻し切れない内に呼び掛けられ、少々慌てながら顔を向けた。みやこはおにぎりを  
手にしながら、思わず見惚れてしまうような微笑みを浮かべている。  
「……………な、何?」  
 かおるが返した笑顔は、取り繕いつつも引き攣りを隠し切れない。  
 みやこが見せる、その表情。  
 堪らず抱き寄せたくなってしまうようなその笑顔を、しかしかおるは知っている。  
 これはみやこが、何か良からぬ事を思いついた時の顔なのだ。  
「かおるさん、わたしも少しおなかが空きましたわ」  
 そう言いつつ、手にしたおにぎりを自分ではなくかおるの口元に差し出して来る。  
 一瞬の戸惑いの後、かおるはみやこの意図を正確に理解した。  
 何しろ。たった今、自分でしでかした事なのだ。  
「……い、いやいやいや! いやちょっと待て! 何だよ!? やだよ!? 何考えてンだよ!?」  
「どうしてですか? たった今、かおるさんの方から食べさせてくれましたのに」  
「だ、だから、さっきのは別に――」  
 わけの解からぬ勢いでやってしまった事だ。もう一度やれ、と言われても困る。  
「お願いします、かおるさん。わたしもう、お腹がすいて死にそうですわ〜」  
「だからって普通そんな事しない……でしょう?」  
「“普通”なんて――」  
 何故か語尾が丁寧になってしまったかおるに向けて、みやこは。  
「――知りません」  
 より一層、笑顔を深めた。  
 これだ。この笑顔。かおるの身体から力が抜けた。  
 この笑顔で、みやこはかおるを屈服させる。宙空を翔け巡り、鉄槌を振りかざし、恐るべき怪物の  
如何なる暴威にも屈しないバターカップが、一人の少女の笑顔には何ら抵抗する術がない。  
 ふと、いつか聞いたケンの言葉を思い出した。  
 神話や寓話に依って言えば。その強大なる力で持って人間に壊滅的な被害を与えるのは、悪魔よりも  
神の側である事が少なくない。では悪魔は何をするかと言うと、暴威の代わりにその魅力でもって、  
甘く、妖しく、人身を掌握するのだという。子供のくせに何を小難しい事を、とも思ったが、今ならば  
よく解かる。  
 悪魔の如き甘美さが、この世で一番恐ろしいのだ。  
「お願いです、かおるさん……」  
「………」  
「かおるさぁん……」  
「……う、うん…」  
 差し出されたおにぎりを、小さく齧り取る。  
 どうしよう。よく噛んだ方がいいのだろうか。それともその逆か。少し悩んだ後、控え目に数回だけ  
咀嚼してから、顔を近づけた。一般常識の遥か範疇外にある行動への畏れと緊張とに震えながら、  
そっと唇を重ねる。いざ口の中のものを移し出そうとすると、己のその行為に対する凄まじい嫌悪感が  
かおるの背筋を駆け抜けた。  
 だが。  
 
「んッ……!」  
 やっぱり止そう、と思う間もなく、無遠慮に侵入して来たみやこの舌に口の中のものを奪い取られて  
しまった。唇を離し、うっとりと目を細めて嚥下するみやこをじっと窺う。  
「……なぁ、ホントに……美味いの?」  
「はい――」  
 間が持たずに口を突いた問いに、響くような即答が返って来た。  
「――とっても」  
 こちらの羞恥や煩悶を楽しんでいるに違いないみやこの、それでも、その心底から嬉しそうな笑顔を  
見て。  
「……そっか」  
 なるべく溜息が混じらないように返事をして、かおるは震えの止まった手でおにぎりを口に運ぶ。  
 ようやく、覚悟が決まったような気がする。  
 みやこが望む事なら、それがどんな事であれ応える。そう決めたのは自分だ。  
 今度はよく噛んで、再度、唇を合わせる。自分から舌を駆使して、半ば液状化したものをみやこの  
口へと流し込んだ。みやこがそれを飲み下す前に、次の一口を用意する。  
 こんな事で。  
 いっそ挑むような思いで、かおるはみやこの満悦顔を真正面から見据えた。  
 こんな、この程度の事で、そうそう怯んではいられない。  
 何故なら、みやこには。  
 自分を魅了して已まない、この悪魔のようなみやこには。  
 覚悟を抱いたこの胸にさえ思いも寄らないような、様々な何かを。  
 もっと。全部。  
 求められるに、決まっているのだから。  
   
 なら。  
 捧げようと思う。  
 捧げたいと思う。  
 心の底から。  
 そう、想う。  
   
 雨は勢いを増すばかりで、最早どしゃ降りの様相だ。横殴りの風まで吹いている。  
 おにぎりを一つ片付ける間に、弁当の残りは吹き込んだ雨で水浸しになってしまっていた。構わず  
食べようとしたが、みやこに止められたので諦める事にした。  
「そろそろ戻った方が良さそうですわ」  
「…そうだなぁ」  
 弁当同様、濡れた衣服のあちこちを摘みながら、かおるはベンチから立ち上がった。こんなに雨が  
降り続いている割には気温は下がらず、特に肌寒さは感じないのだが、こうも全身濡れたままでいて  
風邪など引いては厄介だ。早く研究所に戻り、服を乾かし、ついでにシャワーを借りられたら嬉しい。  
「じゃあ…帰るか」  
「はい」  
 一応、傘を差して歩き出す。  
 来た時とは違い、みやこは必要以上に密着しては来なかった。かおるの様子を窺うように、慎重に  
寄り添うだけでいる。さすがに今日はさすがにやり過ぎた、とでも思っているのだろうか。みやこの  
その態度に、かおるは軽く苦笑した。  
 やってしまってから反省されても困る。まあ、やるだけやって反省の欠片もない某自称リーダーに  
比べれば、遥かにマシというものだが。  
「な、みやこさ」  
 呼ぶと、みやこは恐る恐る目を合わせて来る。やはり様子が気になるようだ。  
 別に怒っちゃいないのにな、とかおるは再び苦笑した。恥ずかしかったし、驚いたが、口で言う程  
嫌だったわけではないという事は、伝えておいた方が良さそうだ。  
「よかったらさ。また作ってくれよ、弁当。そしたら――」  
 不安げなみやこに、笑いかける。  
「――そしたらさ、今度は俺にも……」  
 いや、待て。自分は今、何か奇妙な事を言おうとしている。聞いているみやこだって、軽く目を  
見開いているではないか。  
「俺にも……」  
 一体何を言い出す。そう慌てる自分が、いるにはいる。  
 だが、いま一人の――おそらくは、もっと本心に近いところにいる――自分が、言葉を止める事を  
許さない。  
 
「俺にも、みやこの――」  
 みやこの口から。  
 みやこの口で。  
 お腹いっぱいに――。  
「――うわッ!?」  
 突然、身体のバランスが大きく崩れた。  
 磨耗した表面を存分に雨に濡らし、非常に滑りやすくなった路上のマンホールの蓋。その上に不用意に  
踏み出した足は見事に滑り、反射的に堪えようとしたもう片方の足も、後ろに投げ出された重心を支え  
切れずにガクンと崩れ落ちる。  
「かおるさ――」  
 咄嗟に挿し出されたみやこの手を素早く掴むも、倒れつつあるかおるの体重をみやこに抑えられる  
筈もない。縺れるように、二人して路面に倒れ込んでしまった。  
「いッ……ててて…!」  
 みやこの下敷きに倒れた分、衝撃が大きい。後頭部を硬い路面に打ち付ける事だけは避けたが、その分  
肘や背中が痛い。が、そんな事よりも。  
「ごめん、みやこ! 大丈夫か!?」  
 差していた傘は転倒の勢いで何処かに放り投げてしまったらしく、激しい雨に直接顔を叩かれて目を  
開ける事も出来ない。自分の身体の上に倒れたのだからケガなど負ってはいないだろうが、一人で  
勝手に転んでおいてみやこを巻き込んだ挙句痛い思いでもさせでもしたら、と気が気でないのだ。  
 唐突に、顔に打ち付ける雨が止んだ。みやこが傘を差したのか、と思い、目元を拭ってみると。  
「かおるさん……」  
 すぐ目の前、額が触れるような至近にみやこの顔があった。  
「み――」  
 うろたえながら、素早く周囲を見回す。  
 派手に転んだところから見ていたのであろう、起き上がろうとしない二人を気遣う心配げな視線。  
 雨降る中、路上に横たわって抱き合う女の子二人――少年と少女に見えているかもしれない――に  
見て見ぬ振りで注がれる好奇の視線。  
 色々な意味合いの眼差しが、数少ない通行人から寄せられているのを感じる。  
「と、取り合えず立てって。何か変な目で見られてるし」  
 猛雨の最中とは言え、ここは往来である。人目など幾らでもあるのだ。だが、そんな常識的な意見に、  
ここぞという時程耳を貸さないのがみやこだった。  
「かおるさん、わたし……」  
 みやこはまるで周囲を気にしていない。気付いていないのではなく、どうでもいいのだろう。  
「わたし、大人だったら良かった」  
 一瞬、意味が解からない。ぞくり、と得体の知れない不気味な熱を感じ それでも、かおるは先を  
促した。  
「…何で?」  
「もし、わたしが大人だったら――」  
 真摯な響きを声に乗せ、みやこは静かに告白する。  
   
 もしもわたしが、大人なら。  
 こんな子供などではなく、一人の大人だったなら。  
 何処か、静かなところにお部屋を借りて。  
 そこにあなたを住まわせて。  
 毎日、毎日、お部屋に通う。  
 出かける時は、いつも二人で。  
 ご飯も一緒。お風呂も一緒。  
 もし、どうしてもお部屋に行けない日には。  
 一緒にいられない、そんな日は。  
 他の誰とも、触れさせない。  
 ドアに外から、幾重も幾重も鍵を掛け。  
 そのまま外へは出させない。  
 わたしと一緒でないのなら。  
 外へは一歩も、出させない。  
 出させない。  
   
 本気だ。かおるはそう思った。その口調には躊躇いが。頬には恥じらいが。そしてその瞳には、  
得も知れぬ洞穴のような翳りがあったからだ。  
 みやこが口にしたのは、異常なまでの独占願望。  
 日頃かおるの、ももこへの恋を後押しするような事を言っておきながら――いや、それも偽りない  
本心であればこそ――その想いはみやこの奥底で煮え滾っている。  
 現状、みやこが実行に出ていないのは、それが人道や良識に反するからではなく、社会的な障害を  
潜り抜ける手段を持ち得ないからに過ぎない。仮に、その幾つかの不都合さえ片付いてしまったなら、  
その時、みやこは。  
 身体が戦慄いている事に、かおるは気付いた。降りしきる雨は相変らず生温かく、だからこの震えは  
寒さのせいではない。  
 違う。  
 今まで己が見聞きし、時に思い描いた、如何なる愛情とも違う。  
 こんな、何処に行き着いてしまうかも解からないようなものを、愛や恋と呼んでしまっていいもの  
だろうか。   
「……みや…こ…」  
 呼ぶ声が掠れた。  
 怖い。今すぐ逃げ出せ。  
 己の内側から、そう叫ぶ己自身の声が聞こえる。  
 だが、それ以上に。  
「……うん…」  
 みやこの細首に腕を回し、そっと引き寄せる。  
「そうして……」  
 隙間なく、ぴったりと、みやこの身体を抱き締めた。  
 こんなにも激しく降り注ぐ、雨の一滴すら割り込めない。  
   
   
 雲の隙間から、青い空が覗いている。  
 幾分拍子抜けしたような気分で空を見上げ、かおるは短く笑い声を上げた。  
「いやー、何だか今日は凄かったなー」  
 公園での異様な行為。猛雨の中での異常な告白。改めて、みやこという脅威を思い知らされた。  
「あの〜、何と言うか、今日は色々ごめんなさい……」  
「いや、謝る事ァないけどさ。何だよ、散々やっといて今更気にすンなよな」  
 確実に俯いてしまっているみやこを、軽い調子でからかう。  
 唐突に止んだ雨は、それまで二人を覆い包んでいた濃密な空気をも持ち去ってしまったようだ。  
それが白昼夢ではなかった事を確かめるように、みやこの手をしっかりと握った。  
「でもさ。何年かしたら、一緒に住もうぜ。二人でさ」  
 みやこが顔を上げるのを待ってから、かおるはニンマリと笑みを向けたが。  
「――え?」  
「……って、え? えって何だよ? みやこもそのつもりなんじゃないのかよ!?」  
 みやこに心底意外そうな反応を返され、つい慌ててしまう。  
「そりゃまあ、閉じ込められるのは困るけどさ。でもさっきの話、俺けっこう本気で…!」  
「でも、も――」   
「ももこの事なら!」  
 も、と聞こえた瞬間、咄嗟に割り込んだ。だが。  
「ももこの、事なら……」  
 かおるはその先が続かない。  
 いい加減にしろ、とも思う。確かに、ももこを諦め切れないと思うと言ったのは自分だ。しかしそれ  
以前に、その自分を強引に手中に収めたのはみやこではなかったのか。そのみやこに、ももこへの  
感情を繰り返し促されても困る。何度言えば解かるのか、と苛立ちすら覚える程だ。  
 だが、それを抜け抜けと口に出来る程、かおるは己の気持ちに無自覚ではない。  
 悪いのは自分だ。  
 みやことこうして付き合っていてなおも、ももこを好きだという気持ちは強くなるばかり。  
 そしてそれは、みやこへの想いを上回っているのかも知れない。  
 何度言えば解かる、どころではなく、みやこには最初から全て解かっているのだろう。  
 だが、たとえそうだとしても。  
 
「ももこさん…」  
「だッ……だから、アイツの事はもう――」  
「いえ、そうではなくて。ほら」  
「え?」  
 みやこが指差している方向。少し離れたところに、デート中な筈のももこがいた。  
 どんより沈んだ様子で歩いていたかと思うと、突如、店の立て看板などを蹴り出す。案の定、即座に  
飛び出して来た店員に怒られ、ぺこぺこと頭を下げている。店員の叱責をやり過ごして暫らく呆然と  
していたかと思いきや、突如何かを振り払うかのように大声で笑い出し、その後その場に座り込んだ  
まま動かない。脇を通り過ぎる人の反応から見るに、一人で何やらブツブツ呟いてでもいるようだ。  
「……何やってんだ、アイツ。今回もダメだったのかな。やっぱり」  
「ええ、ダメだったみたいですわ〜。やっぱり」  
「……なぁ、止めてやった方がいいのかな」  
「そうですわね〜」  
「今は関わり合いになりたくないって気もするけど」  
「そうですわ〜……いえ、そういうわけには〜」  
 さすがに放置するわけにもいかない。  
「しょうがねぇなぁ、行ってやるか。何か甘いもんでも食わせりゃ正気に戻るだろ」  
「はい……あっ」  
「あ、痛い?」  
「い、いえ…」  
 みやこの手を握る力を、少しだけ強める。それが意思表示になると、かおるは思った。  
「帰ろうぜ。三人で、一緒に」  
「……はい。そうしましょう」  
 一瞬の沈黙の後、みやこは笑顔を見せてくれた。本心からの笑みだったと、そう思いたい。  
   
 この手を放し、ももこの側に行くべきだった。  
 自分はももこの次で構わないと、みやこがそう言ったように。  
 そうでないなら、みやこと二人でこの場を立ち去るべきだった。  
 誰にも触れさせないと、そう言ったみやこのために。  
 そのどちらも選べない己は、きっと最も愚かなのだろう。  
 だが、それで。優劣も順序もない、当たり前の三人でいられるなら。  
 以前のような、ただ仲良しな三人でいられるのなら。  
 たとえ一時の誤魔化しに過ぎない、欺瞞に満ちたものだとしても。  
 選択の余地は、無い。  
   
 駆け寄る二人に気付いたももこが、泣きべそのまま笑う。  
 猛然と愚痴を吐き出し始めたももこを宥めながら、みやこも笑う。  
 だからかおるも、笑った。  
 今までで一番、上手に笑う事が出来たと。  
 そう、思った。  
                                                  おわり  
 

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