「ねえ、泊まりにこない?」  
 携帯の向こうからそう訊かれて、時計を見る。そういう話を持ち掛けるには少々遅い時間だったが、  
断る理由にはならない。  
「いいけど、何かあったのかよ?」  
「それがね――」  
 ももこの両親は妹を連れて親戚宅に出かけているのだが、そこで父親が酒を勧められてしまったらしく、  
明日が休日である事もあって、帰宅は明日まで見送りとなったそうだ。深酒していては車で帰って来る事も  
出来ない。どこの親もいい加減なのは同じなんだな、とかおるは思った。  
「今夜一晩あたし一人っていうのもさびしいし、ちょっとこわいしね。お願い、遊びにきてよ」  
 こういう時に寂しいだの怖いだのを素直に口に出せるのは、おそらく得な性格なのだろう。これが自分なら  
どうだろうかと思えば、結局意地を張って幾許かの寂寥や不安を抱え込む事になるであろう事はかおるの  
想像にも難くはない。  
「しょーがねぇなぁ、面倒くせぇけど行ってやるよ。何か持って行く物とかあるか?」  
「ううん、特になにも。お菓子いーっぱい用意して待ってるから!」  
 通話を終え、携帯を切った。自然と顔がほころぶ。  
 娘に如何にも女の子らしい女の子の友達が出来た事を、両親は喜んでいるらしい。事情を話せば承諾して  
くれるだろう。問題は何もない。仕方がない、面倒くさい、と呟きながらも、泊り込みの支度をする動作は  
跳ねるように速くなる。  
 ももこの家にお泊り。みやこも呼ばれるだろう。しかも明日は休み、行ってすぐ寝て帰って来るというわけ  
でもないのだ。  
「んじゃ、行ってくる!」  
 見送る父親に手を振り、かおるは駆け出した。  
 楽しい夜になりそうだ。  
   
 松原かおる。  
 顔の造形だけを評するならば美少女と言っても差し支えはない筈だが、その賞賛を先ず否定するのは  
当のかおる本人だろう。綺麗。可愛い。女の子らしい。女の子に対する一般的な褒め言葉の大半を、かおる  
は強く忌み嫌う。  
 とは言っても、別に女である事自体を苦にしているのではない。  
 女である事を押し付けられるから嫌なのだ。  
 もっと女の子らしい格好をしろ。もっと女の子らしい言葉を遣え。おしとやかになれ。  
 女の子だから。女の子なのだから。  
 同性から、異性から、同世代から、大人から。周囲から寄せられる有形無形の圧力。その実、世間が言う  
“女の子らしさ”などに大した実体はなく、ただ単に決まり事だからというだけに過ぎないのだ。他の子は皆  
そうしているのだから、と。  
 だから反発する。乱暴な言葉を選ぶ。ガサツに振る舞う。スカートなど穿かない。  
 女の子らしくない? それが一体何だと言うのだろうか。  
 当然、目立つ。変な奴だと言われる。松原かおるはあれで当たり前、そう認識されるまでに時間が掛かる。  
しかしそれならそれで構わなかったし、別に解って欲しくもなかった。  
 生まれ持った“女の子らしくない”という資質が周囲の常識に牙を剥いた結果、世間一般の女の子とやら  
とは一線を隔てて此処に在る。かおるは己をそう自覚している。  
 であるから、やれステキだのカワイイだのと互いに褒め合って迎合と牽制を両立させる、あの如何にも  
女の子的な友達付き合いを、かおるは好まない。笑いながら嘘を吐くような、何処か不気味な社交辞令。  
上辺だけの空虚な関係。かおる自身、周囲の女の子に人気があるように言われてはいるが、それは飽くまで  
松原かおるという珍種に対しての好奇に因るものに過ぎない、とかおる当人は捉えている。何らかの芸を持つ  
犬や猫がテレビなどで持て囃されたとしてそれに本気で嫉妬する人間などいないように、初めから基準の  
異なるものを上位に置いたとて、それで自分の価値が下がるわけでもないのだ。女の子とは、本能的に他の  
女の子に価値を認めない生き物なのではないか、とさえ思った。  
 だから、“その瞬間”はかおるにとって衝撃的に過ぎるものだった。  
 危うく足元にまで届いてしまいそうな程の、長い髪。陽の光を受けて艶々と輝くその髪が軽やかに跳ね動く  
様を初めて目にした時、かおるは激しく動揺した。  
 綺麗だった。  
 思わず立ち竦んでしまう程、その女の子の髪は綺麗だった。  
 我に返ったかおるが先ず取った行動は、その時被っていた帽子を更に深く被り直した事だった。己の  
ボサボサと収まりが悪いだけの頭髪が、酷く恥ずかしいものに思えたのだ。ああ、あれが女の子の髪と  
いうものなら、あれこそが女の子らしいという事なら、それに比して自分の女の子らしくなさは、それは  
みっともないものだろう。その時はそう思った。  
 
 ところがその美髪の持ち主、赤堤ももこはと言えば。  
 大口を開けて笑っていたり。  
 大口を開けて盛大に居眠りしていたり。  
 大口を開けて実に下らない事を喚いていたり。  
 大口を開けて如何にも甘そうな菓子に喰い付いていたり。  
 同じ学校の、長くて綺麗な髪の女の子、というももこへの評価は、知り合って数日でいとも容易く  
“アホな奴だ”という率直な感想に塗り替えられた。  
 しかしそんな相手だからこそ、かおるにとっては好ましい。毎日毎日飽きもせず共通の友人への陰口で  
盛り上がり、その口も乾かぬ内に陰口の相手へ軽やかに挨拶するような輩と、そんなものには目もくれず、  
鏡に向かっては真剣な顔で何かの特撮ヒーローのポーズを真似ているバカ、話し相手としてどちらを選ぶか  
と問われれば圧倒的に後者なのだ。  
 だから、ももこといるのは楽しい。明け透けで、率直で、ある種無防備なまでに己に正直なももこを  
見ていると、自分も今のままで良いのだ、という気になる。  
 自信をくれる。心の支えになる。己の側にいる事に何ら違和感のない友達。親友。  
 しかし、そのももこへの感じ方もそう長くは続かなかった。  
 あの髪が風に揺れる度に。  
 あの眼差しが自分を見据える度に。  
 言葉。体温。匂い。  
 聞きたい。触れたい。感じたい。  
 ももこを構成するおよそ全てのものが向けられる度、胸の奥底で蠢き出す怪しい情動。  
 その酷く執着めいたものを、しかしかおるは“友情”だと解釈した。傍から見ていて怪訝に感じる程の、  
ももことみやこの肉体的接触――喜びを分かち合うように手を取り合ったり、互いを慰めあうように抱き  
合ったりしている――と同様に、それが女の子同士の付き合い方なのだ、と。  
 しかし、ならばもう一人、同様の親友であるみやこにも同じ感覚が湧いてくる道理だが、今のところそれは  
ない。三人でいる時にはあまり意識しないが、ももこと二人でいる時にどうしようもなく湧き上がるその情動  
――もっと近くにいたいという気持ち――を、かおるはあまり正確には理解出来ないでいる。進んで理解しよう  
とも思わない。それは何処か空恐ろしい結論に繋がるような気がするからだ。  
 いずれにしろ、三人一緒がいい。最近のみやこは何やら二人でいるのが怖いような気がするし、ももこと  
二人というのも酷く気恥ずかしい。だから。  
「え? 俺らだけ?」  
「うん。みやこもう寝ちゃってるんだって。さすがに起こしてまではねー」  
 玄関先で迎えたももこにそう言われた時、かおるは一瞬、心の何処かがゾクリと波立つのを感じた。  
 ももこと、一晩中。  
 二人きり。  
   
 入浴くらい済ませてくるべきだった。かおるは間近に揺れる水面に視線を落としながらそう思った。しかし、  
その水面下で見え隠れするももこの裸体に気付き、慌てて目を逸らす。  
 乙女二人の長夜は恋話、そう強く主張されて延々繰り出される個人的恋愛譚を聞き流している内に、アンタ  
ちょっと汗臭くない? などと指摘され、かおるは入浴を薦められた。お言葉に甘えて浴室に入り、ザッと身を  
流した辺りでももこに闖入され慌てて湯船に飛び込み、こうして向かい合わせで湯に身を沈めているに至る。  
「ゴメンね、うちのおフロせまいから」  
「ああ、まあ…俺んちもこんなもんだけどな」  
 不自然に顔を背けながら応じる。床、天井、換気窓、タイルの壁面。ももこの裸身を見まいと意識する余り、  
かおるの視線は浴室の何処にも定まらない。  
「なによ、キョロキョロして。あ、ひょっとして…」  
 ももこの顔が意地の悪い笑みに歪む。かおるにとって最も歓迎出来ない、ももこの表情。  
「恥ずかしい? 恥ずかしいの?」  
「だ、だってよー…」  
 考えてみれば、同年代の女の子と一緒に入浴するのは始めての体験である。しかも、相手は日頃何かと  
意識する事の多いももこだ。見てはいけないという畏れがあり、見られたくないという羞恥もある。  
「ま、気持ちはわかるけどねー。プロポーションに差がついてると恥ずかしいとか思うし」  
「いや、そういう…あ、まあ、そうかな…」  
 そういう事を気にしているのではない、と指摘するのは止めておいた。ももこの言う事の方が一般的な意識  
であり、自分のこの動揺の方が普通ではないのだ、という事はかおるにも自覚出来ている。  
 裸のももこがすぐそばにいる。兎にも角にも、ただその事が頭から離れない。  
「よーし! こうなったら、ももこお姉さんが一肌脱いであげましょう! もう脱いでるけど!」  
「え?」  
 何かわけの解からぬ事を言ったかと思いきや、不意にももこが立ち上がった。水面下に見え隠れしていた  
身体が露わになる。  
 
「堂々としてればいいのよ、堂々と! 女の子同士なんだから!」  
 手は腰に、足は肩幅に開き、かおるを見下ろしながら仁王立ちになる。水滴と下ろした髪とを纏わり  
付かせたももこの裸体が、見上げるかおるの目の前にあった。  
 丸みを帯びた肩。ふくよかな感のある二の腕。申し訳程度に膨らんだ胸に、菓子食い放題の影響だろうか、  
今ひとつくびれの目立たない腰周り。それから。  
「…!」  
 先ず目を惹いたのは、緩やかな二つの膨らみのそれぞれに微かに色付いた、小さな乳頭。濡れて艶々と  
光って見える。そして自然に――かおる自身、抗えない何かに促されて――下ろした視線の先に、やはり  
肉付きよくぷっくりとした――。  
「…ゴメン、やっぱりなんだか恥ずかしい」  
 全てを曝け出していたのは数瞬の事で、ももこはおずおずと座り込んだ。バツの悪そうな笑顔だ。が、  
かおるの方は笑顔どころではなかった。  
「……うわー、顔真っ赤っか…」  
「う、うるせぇな」  
「ってゆうかさー…」  
 かおると同様、ももこも顔を赤らめながら、それでも余裕のある意地悪顔で笑いかける。  
「なぁーんかかおる、一部分だけ凝視してたような…? ひょっとしてアンタ――」  
 ずい、と身を乗り出してかおるを追い詰め、ももこはわざとらしく声をひそめて囁いた。  
「あたしのアソコ…見たかったの?」  
「バ、バ、バ、バッカじゃねーの!? んなワケねぇだろッ!?」  
 迫って来たももこを押し退け、わざわざ両腕を組んで顔を背ける。  
「お前のなんか見たがってどうすんだよ! 自分にだって同じモン付いてんだからよ」  
 とは言うものの、かおるの頭は先程の光景が離れないままでいる。  
 見てしまった。見てしまった。あんな目の前で、足も開き気味で。  
 ぷっくりと柔らかそうな、ももこの。  
 今し方口にしたように、それ自体は自分の身体にだってある。なのに何故、あんなにも――。  
「じゃ、次はかおるの番ね」  
「…はい?」  
 深い動揺の最中に当たり前のように言われ、一瞬、何の事か本気で解からなかった。  
「だからぁ、次はかおるが見せる番。当たり前でしょ?」  
「…え、えぇ!? い、嫌だよ! 何で当たり前なんだよ!?」  
「だってあたしの、見たじゃない」  
「お前が勝手に見せたんだろーが! 何で俺まで見せなきゃなんねぇんだよ!?」  
「えー? 見せてよー! あたしのはあんなにヤラしい目で見つめてたくせにィ〜」  
「ううう」  
 痛いところを的確に突かれた。  
「……わ、解かったよ! 別にお前に見せたってどうって事ねぇしな! 見たきゃ見ろよ」  
 思い切り良く立ち上がる。顔を真横に背け、両腕を腰の後ろに組んだ。内股になってしまいそうなのを  
耐えるのが精一杯で、ももこのように足を開き気味にする度胸はなかった。  
「……へぇ〜…」  
「……」  
「…ふんふん。ほほぉ…」  
「いちいち唸るなよ! 黙って見ろ!」  
 見られている。一糸纏わぬ身体を、明るいところで。すぐ近くから。  
 親兄弟は別として、こうまでして人に裸を見られるのは当然ながら初めての事だ。それも、初めて見せる  
その相手はももこ。逃げ出したくなる程の羞恥の他、何か熱を帯びた感覚が身体の底から滲み出てくるのが  
はっきりと解かる。  
(…初めて…俺の…)  
 ももこの身体を目の前にして、心臓が破裂するのではないかという程にドキドキした。だが、ももこの方は  
どうだろうか。自分の身体を見て、同じようにドキドキしてくれているだろうか。硬く閉じた目を開いてももこの  
様子を見てみたいが、それ以上に今の状況を目で確かめるのが恥ずかしい。  
(今…どこ…どこ見てる…?)  
 みっともなく赤らめている顔か。最近少し膨らんで来てしまった胸か。或いは、今一番隠したくて隠したくて  
気が狂いそうな程の、あの部分。  
 
「……やっぱりかおるってさぁ」  
 不意に話しかけられ、身体がビクッと震えた。  
「カッコイイ身体つきしてるのよねー…」  
「カッコイイって――にゃぁッ!?」  
 何だよ、と言いかけた言葉が妙な鳴き声になった。腹部に何か柔らかいものを押し付けられ、反射的に  
目を開ける。  
「ほらぁ、腹筋ちゃんと割れてるもん。ほんとスタイルいいわよねー」  
「……!」  
 事もあろうに、腹部に頬擦りしているももこ。目を開けた途端に飛び込んで来た予想外の光景に、身体が  
痺れたように動かなくなる。  
「それになに? このスベスベお肌。やっぱ運動してると美容にいいのねー。あたしもジョギングくらい  
やらなきゃダメかなぁ?」  
 腹に顎をピッタリと張り付かせたまま見上げてくるももこと目が合う。  
「…返事しなさいよー」   
「あ、だって、お前、何…」  
「だってかおるってば目ぇつぶってんだもん。なにかイタズラしたくなっちゃうじゃない」  
「い、イタズラって…」  
「たとえば、このまま下に――」  
「ひゃぁぅッ!?」  
 ももこの顔を押し退け、慌てて座り込む。勢いで湯が跳ね、二人の顔にかかった。  
「や、やめろよッ!」  
「わぷっ!?」  
 湯の中に深く沈めた身体を、更に手を両腿に挟み込んで守る。  
「やめろよぉ…」  
 腹部に押し付けた顔を下げられたら、その先は。  
 濡れた前髪から、生温い水滴がポタポタと垂れ続けている。少しの間、気まずい沈黙が浴室に漂う。  
「…あー、ごめん、かおる。冗談、冗談だから。ね?」  
 取り成すように詫びるももこだったが、それで良しというわけには行かない。たとえももこには冗談でも、  
かおるにとってこの状況は既に冗談では済まない。顔を上げられないまま、更に漂う沈黙。  
「……ねぇ、かおる」  
「……」  
「かおるってば」  
 ももこの両手が、かおるの頬を優しく持ち上げた。  
「ねぇ、かおる。あんたのことだから、自分じゃ気がついてないと思うけど…」  
「な、何だよ…?」  
 つい今まで心身を翻弄していた羞恥と動揺とが、新たに生じた警戒心によって抑えられた。ももこの  
顔つきが、先程までのいやらしい意地悪顔とはまるで違っている。  
「かおるってさ…時々すっごいオーラ出てるの…」  
 ゆっくりと顔を近づけるももこ。気圧されて離れようとしたかおるだったが、狭い湯船の中、元より逃げ場は  
何処にもない。  
「なんだかこう…好きにして? って感じのオーラがね…」  
「ふ、ふざけんなよ、そんなの出てるわけねぇだろ!」  
 仰け反った後頭部が背後の壁に当たる。ももこの吐息が鼻先にかかった。熱い。  
「も…ももこ、や…」  
「かおる…ファーストキスのやりなおし、しよっか」  
「え…?」  
「今度はキャンディなしで…ね…?」  
「あ…」  
 はっきりと意識しての事ではなかった。唇が触れる寸前、かおるは顎の力を抜いて口を僅かに開く。  
ももこの唇を間近に感じて取った、条件反射的な反応。  
 ――みやこのせいだ。  
 かおるはそう思う。  
 ここ最近、みやこと。  
 学校で。帰宅路で。研究所で。  
 説き伏せられ、或いは不意を突かれ、執拗に繰り返される密やかな接吻。ももこの目を盗むように、  
二人きりになった瞬間を逃さずに。  
 舌に、唇に、もはや深く刻み込まれてしまった、接吻という行為。みやこの唇の、吐息と熱とを感じた瞬間、  
自分でも気付かない内に受け入れようとしてしまう。  
 みやこの舌を妨げないように。みやこの唾液を啜れるように。舌先が、一瞬でも早く触れ合えるように。  
 
 そう、接吻とは唇を触れ合わせる事ではない。唇と舌を駆使しての、唾液と粘膜の交歓を指し示す  
言葉なのだ。かおるはこの時も、いつものように唇を開いた。だから。  
「あ……」  
 湿った唇を軽く押し付けただけで僅かに顔を離したももこに、つい、追いすがるような視線を送る。  
 どうして。まだももこの舌に触れてないのに。  
 次の瞬間、自分が何を考えているかを自覚し、それを否定するかのように顔を背けた。  
「そうやって…されちゃってから横向くのがいかにもかおるよねぇ…」  
「……」  
「ね、こっちむいて」  
 囁かれて、背けていた顔をももこに向ける。距離が近過ぎて視線が合わない。  
「あは、こっち向いちゃうんだ?」  
「お前が向けって、言ったんだろ…」  
「……かおるぅ…」  
 再び、唇が軽く触れる。そのまま、触れたままの唇で甘く囁かれる。  
「あんたさぁ…イヤならいまここで、あたしを殴り倒してでも抵抗するくらいじゃないと…」  
 軽く反らした背に、ももこの両腕が回される。  
「こんな冗談じゃなくって、本当にあんたの事を狙ってる子がきたら…その子にしたい放題されちゃう日が、  
いつか絶対にくるんだからね…?」  
 ゆっくり、しかしきつく抱き締められる。微かに首を傾げるようにして唇が押し開かれ、今度こそももこの  
舌が差し入れられた。みやこよりもずっと遠慮げな、優しい接吻。  
 こうなる事を、まったく予期――ひょっとして、期待――していなかったわけではない。今夜一晩、ももこと  
自分しかいないのだと聞かされた時、確かに少しは、こんな事も考えたのだ。だがしかし、こんな風にお互い  
裸のままで抱き合って、とまではさすがに想像しなかった。  
 全身の力が抜け、湯船の底で尻が滑った。そのままずるりと水面に沈むかおるを離さずに、ももこも水中に  
身体を沈めて行く。耳の中に入った水を通して轟音のように聞こえるのは、早鐘に鳴り響く胸の音だろうか。  
 唇でももこと繋がったまま、かおるはようやく、ももこの背中に腕を回す事が出来た。どうせ息が続かなく  
なればすぐにでも振り払われてしまうのだから、それまでは抱き締めていても構わない筈だ。  
 胸に、自分のものよりもずっと柔らかいももこの乳房の感触。薄く目を開けると、ももこの髪が海草のように  
揺れて漂っていた。それはいつか、夢で見たかも知れない光景。  
 しかしかおるは何処か、頭の片隅で冷たく沈んでいる己を感じていた。   
 嫌なら今ここで、殴り倒してでも。  
 こんな冗談じゃなくて。  
 抵抗出来ないのは、嫌ではないから。心の底から、微塵も、嫌ではないから。  
 待っていたから。  
 望んでいたから。  
 好きだから。  
 なのにももこにとっては、この状況すら偶さか通り過ぎるだけの冗談事でしかないというのなら。  
 だとしたら、それはあまりに。  
 あまりにも。  
   
 唇を通して。舌先から舌先へ。ほんの少しでも構わないから。  
 この気持ちが、伝わればいいのに。  
 
「帰る」  
「ちょっとちょっと、こんな時間に出歩いたら危ないって!」  
「このままお前と一緒の方が危ねぇよ」  
「もうヘンなことしないから!」  
「信用出来ねぇ」  
「あ、ヒドい!? はーい、円滑なチームワークを実現するためにもリーダーの意見には従うべきだと  
思いまーす!」  
「それより、どこぞの自称リーダーは同性同士でもセクハラ罪は成立するという事実を認識すべきだと  
思いまーす」  
「いやー、あれはさすがにあんたが悪いわよ」  
「何でだよ!? ってかそこでそう言い切る精神力はどこから来るんだよ!」  
「だってかおる、カワイイんだもん」  
「か…カワイイとか言うなよ」  
「しかもエロいんだもん」  
「エロいって言うなッ!」  
「あ、ねぇねぇ、エロいっていえばさ。あんたが変身した時のスカート、少ぉしおシリがハミ出し気味なのって  
知ってた?」  
「…えぇッ!?」  
 という遣り取りの後。浴室での出来事は結局有耶無耶になってしまい、二人ともももこの部屋に落ち着いて  
いた。鏡台の前に座るももこの背中を、何となく見つめている。  
 風呂場ではももこと、一体何をやってしまったのだろうか。そう思うとまたぞろ顔が熱くなって来る。唇を  
合わせたまま水中に沈んで行くなどと、まるで不倫カップルの入水心中のようではないか。  
「…毎日そんなに手間かけてるのか? その髪の毛」  
 別に身嗜みに興味はなかったが、それでも一応訊いてみる。先程までの事がまるで嘘だったかのように  
平常でいるももこの姿が恨めしく、黙ったままでいると浴室で感じた奇妙な寂しさを思い出しそうになるのだ。  
「まあねー、ここまで伸ばすと結構面倒なのよね。特にお風呂上りはキチンとしとかないと痛んじゃうし」  
「…大変だなァ。俺なんてザッと拭いたらそのまんまだぞ?」  
「あんたすごい癖っ毛だから、いい加減に扱っても変わらないのよね」  
 ももこの、髪を梳る手馴れた手付き。見ていて飽きない。次第に軽さを取り戻しつつある髪が、まるで  
清らかな水流のようだ。指で触れたら、きっとさらさらと気持ちいいだろう。  
 替わりに、かおるは自分の髪に触れてみる。硬い。  
「…っと、こんなもんね」  
 髪の手入れは終わったらしい。かおるが改めて時計を確認すると、ももこが鏡に向かってから実に  
20分以上が経過していた。  
「さて、もう寝ちゃおっか」  
「そうだな…って、何だそれ?」  
 髪を手入れするももこを眺めている内に強い眠気を感じ始めていたかおるだったが、ももこが自分の  
ベッドから引っ張り出した細長いものに目を丸くする。  
「抱き枕。最近買ったの。結構イイよ?」  
「あー、これかぁ。実物見るのは初めてだな…」  
 奇妙な曲線を描いた歪な物体。適度に凹凸が付いていて、確かに抱き付きやすそうだ。抱き枕を引っ張り  
出したももこは、しかしそれをベッドの脇に放り投げた。  
「…使わないのかよ?」  
「だって、ジャマだし」  
 そう言ってベッドに潜り込み、かおるに向かって布団を捲って見せる。  
「ホラ、かおる。ここ、ここ」  
「……え? い、一緒に寝るの!?」   
「だって、ベッド一つしかないし」  
「いや、でも…」  
 床に転がった抱き枕に視線を落としてから、改めてももこを見る。  
「最近、抱き枕使ってるんだろ? だったら…」  
 一緒のベッドで寝たりしたら、きっと枕の替わりに抱かれてしまう。そう思うと、浴室でのももこの肌の質感が  
鮮やかに甦って来た。  
 
「だーいじょうぶよ! ヘンなことしないっていったでしょ!」  
 自信満々のももこがシーツをポンポンと叩いている。しかし、起きている時ですら信用出来ないというのに、  
眠った後の行動など到底信じられる筈がない。  
「もぉ! かおるってば意識しすぎ! やらしいわねー」  
「…お前はついさっき自分が何やったかも覚えてねぇのかよ」  
「だーかーらー! さっきのはかおるがあたしをその気にさせたのが原因であって」  
「原因も責任もお前にあるに決まってんだろーが!」  
 暫し、睨み合う。結局、一つのベッドで一緒に寝る事になった。ただし、防御壁として両者の間に抱き枕を  
置くという折中案を採用する。  
「じゃ、おやすみー」  
「おやすみ。触ってくんなよな」  
「ほほーう、それは触ってほしいといってるも同然だってことを知っての発言ですかな?」  
「だからそういう事を言うなっての」  
「…見せッコまでした仲なのにぃ」  
「いいから寝ろ! 殴るぞ!」  
 それっきり、共に黙り込む。暫らくの間警戒していたが、極あっさりと寝息を立て始めたももこに軽く  
拍子抜けする。  
(何だよ…寝るの早ぇな…)  
 寝入りながらに抱き枕を抱き寄せるももこを、半身を起こして眺めた。あまりに無防備な寝顔だ。  
 期待していたのだろうか。浴室であったような事を。  
 いざ、事に及ばれれば酷く狼狽するくせに、何事もなければこうして失意とも寂しさとも知れない  
気分になる。最近ではもう、自分の気持ちが自分ですらよく解からない。  
(抱き枕って、初めてだな…)  
 反対側から、枕をそっと抱いてみる。まるで枕を介してももこと抱き合っているような形になった。  
 同じベッドで一緒に寝て。一つの抱き枕を一緒に抱いて。手と足が触れ合って。  
 ドキドキして眠れないのではないか、とも思ったが、予想に反して深い安らぎが身を包み込んで来る。  
すぐ近くから聞こえて来るももこの寝息を聞きながら、何となく呼吸のタイミングを揃えてみる。  
(…本当だ…結構イイな…抱き枕…)  
 せっかくの二人きりの夜なのに、眠るのは勿体ない気もする。しかし、何しろ同じベッドで眠るのだから、  
夢の中でも会えるかも知れない。  
 ゆっくりと眠りに引き込まれながら、かおるは何となく可笑しくなって、一人笑う。  
   
 もし、夢の中でももこに会えたとしても。  
 こんな風に、抱き合いながら眠っていたりして。  
                                                          終わり  
 

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