さて今回は、カレの放った黒い粉による被害のその先を考えてみたい。  
 
 頭上めがけて鉄骨を落とされるという、ガチな殺人行為を運良くかわした  
みやこだったが、夕方研究所から帰宅するなり大きな悲鳴をあげた。  
 彼女のお気に入りの洋服たちがことごとく汚されていたからだ。  
 絶句して壁にかけていたワンピースを確かめてみると、何か白い液体――  
すこし黄色がかったネトネトした液体がそこかしこにかけられている。  
それが何なのかみやこにはわからなかったが、その直感的な汚さと臭さと  
いやらしさは彼女を激しく不快にさせた。  
 泣きそうになりながら祖母に事情を説明しても何も知らないと言う。  
侵入者にはまったく気がつかなかった、と。もしや、おばあちゃまが……  
という考えを彼女はすぐに打ち消した。そんなことする理由がない。  
 いったい誰が、何のために。ハテナだらけで混乱するみやこに、冷蔵庫から  
マヨネーズが消えていると祖母が付け加えた。マヨネーズ? 汚されていた  
あれは、マヨネーズ? 自室にとって返してよく見てみるとマヨネーズの  
ようにも思えるが、やはり違う。質感は例えるならばリンスが一番近いと  
思ったがとにかく決定的に生臭いのである。  
 この服はもう着られない。あの服も。その服もだ。  
 悲しみとか怒りとかよりも「なぜ?」という不安と恐怖が心を占めて、  
ついにその大きな瞳からぽろぽろと涙がこぼれはじめた。  
「どうして……、ひどい……ひどいですわ……」  
 誰に言うでもなく、か細い声でつぶやくことしかできない。そんなみやこの  
ゆがむ視界に一体のぬいぐるみの姿があった。  
「オクティ」  
 みやこはその青いタコのぬいぐるみに声をかけ、ぎゅっと胸に抱きしめた。  
「よかった、無事で……」  
 無残に陵辱されたものの中で、彼だけは幸運にも被害を受けていなかった。  
 ……幸運にも? それは違う。  
 彼だけが無事なのにはしかるべき理由があったのだが、みやこはその点には  
気づくことができなかった。純粋な彼女はただ彼が健在であることを喜んだ。  
 その理由とはつまり、オクティこそがみやこの服を汚した犯人であるという事。  
 正確に言えばオクティにとりついた黒い粉。これが彼を操り、みやこの大事な  
可愛らしいワンピースやジャケットやスカートとか靴下、下着類に至るまで  
汚粘液によってヌルヌルの使い物にならなくしてしまったのだ。  
 そしてオクティは彼女に抱きしめられながら、鈍く赤くその目を光らせていた。  
 いま彼女が身につけているものと、そして彼女自身を汚すために。  
 
「ひゃっ」  
 胸元に生ぬるいものを感じて、みやこは思わず声をあげた。  
 見るとオクティの口のあたりから何か白いものが垂れている。何かしら、と  
みやこが顔を近づけた瞬間、×印の口が開いて大量の粘液が噴出された。それは  
とてつもない、消防車の放水みたいな勢いで、あっという間にみやこの全身を  
包んで覆って吹っ飛ばした。悲鳴は液が壁に叩きつけられる音でかき消された。  
「う、う……、うぶっ」  
 やがてみやこがゴボゴボいいながら粘液の海から姿を現した。いくら時間を  
かけても状況が理解できそうにない。何か大変な事がわが身に起こっている、  
ただその一点だけが彼女に激しい混乱と動悸をもたらしていた。  
 なんとか立ち上がってみようと思ったがとても踏ん張れない。とにかく滑る。  
シュークリームの中に足をつっこんでるみたいな不快感だ。それに苦くて臭い。  
スルメのにおいがする。これは服にかけられていた粘液だとみやこはようやく  
気がついた。おそるおそる目を開けてみると、そこにはスルメではなくタコ……  
オクティがせせら笑うような表情で、もがくみやこを見下ろしているのだった。  
「オクティ……」  
 みやこの呼びかけなど意に介さず八本の足を伸ばすオクティ。それは次から  
次に脚へ、腕へと絡みついてきて、液でぬめる彼女の白い肌が、じっくりと  
タコの這ってゆく感触を鋭敏に背筋に伝える。その不快とも快ともつかない  
未知の感覚にみやこはため息をもらした。抜け出さなきゃ、変身しなきゃ、  
そんな正義を守る者としての意思は、頭の奥を容赦なく突き刺すにおいと  
粘液のこすれ合う音のなかで徐々に薄れていった。  
 抵抗する力が弱まったのを見てオクティはさらなる侵攻をはじめる。本来  
ぬいぐるみである彼には無かったはずの吸盤が無数に現れ、みやこの四肢に  
いっせいに吸い付いた。小さいものは弱く、大きいものは強く、彼女の柔肌を  
吸っては放し、吸っては放し愛撫する。そんな刺激を味わった事のない幼い体は  
戸惑い、おびえ、しかしまた、女としての本能が喜びをも見出そうとしていた。  
 みやこが息を切らしながら、色をおびた声をもらしはじめたのである。  
 顔を紅潮させて切なそうに体をよじるみやこの、スカートの中へとついに、  
オクティはその足を伸ばした。  
「あっ、や……っ」  
 内ももを這って股に入ってきた異物の存在にみやこは驚き、恐怖したが、  
それ以上に興奮し、期待しているということを、彼女の下着の中がはっきりと  
物語っていた。  
 
 その白く小さな下着にかぶさるような形で、オクティの足先がみやこの  
秘部を覆った。布の向こう側ですでに充血している敏感な突起に吸盤が  
きゅうきゅうと、母犬の乳に群がる子犬のように吸い付いた。  
「ひあぁ」  
 普段からモテるものの、キスだって未経験な彼女はその衝撃に耐えられない。  
出したことのない声を出しながら、みやこの体が弾けるように反り曲がった。  
剥き出しの内臓をこすられるような痛み。熱さ。すぐにそれが快楽に変わる。  
 自分がとろけてドロドロ粘液になってしまいそうな気持ちよさ。  
 みやこはうつろな目で、空いているオクティの足を一本とって強く抱いた。  
何かにつかまっていないと自分が無くなってしまいそうな感覚に襲われていた。  
それを契機に、他の空いていた足がシャツの裾からみやこの腹部、胸部へと  
入り込みヘソや脇、乳房と呼べるほどには発育していない胸にも粘液を絡め  
じゅるじゅる下品な音を立てて吸いはじめる。  
 もうみやこの全身が彼の愛撫を受けていた。  
 不規則なリズムで与えられる快感がどこからどう来るのかわからない。  
内ももが気持ちいいと思ったら次は脇のあたりで、次は乳首で、ヘソで、  
くすぐられるたびに体をふるわせ仔猫のようにあえぐ。  
 理性の処理能力が限界を超えて、やがてみやこは考えることをやめた。  
 彼女はただ本能のあるがままに陵辱されるだけの肉体となってしまった。  
「お、く……ティ……、もっ……と……」  
 八本の触手に絡めとられ、粘液にまみれて恍惚の表情をうかべるみやこ。  
 その姿はまるで、子供にもてあそばれる少女のぬいぐるみだった。  
 
 一方その頃松原家でも、かおるが大変な事になっていた。  
 
 
 マンホールを利用した落とし穴を運良くかわしたかおるだったが、夕方  
研究所から帰宅するなり大きな悲鳴をあげた。  
 覆面レスラーの父が、ピンクのスカート片手に猛然と迫ってきたからだ。  
「かおるー! かおるーっ!」  
 鼻息荒く目を血走らせた父は変態以外の何物でもない様相を呈している。  
「かおる! 今すぐこれをはけっ」  
 どうやらスカートはかおるのために用意したものらしい。それが苦手な  
かおるはもちろん即座に反発した。  
「何いってんだいきなり! やだよ!」  
「お前は今この瞬間から女の子らしく生きるのだ! さあ!」  
「おれがスカート嫌いなの知ってるだろ!」  
「その乱暴な言葉づかいをやめろ! かおるちゃん!」  
「かおるちゃん言うなー!」  
 なんという暴挙。父はかおるにヒラヒラスカートの着用を強要するばかりか、  
かおるをかおるたらしめている一人称「おれ」禁止令を出したのである。  
「おれ」一回ごとにお小遣い100円減額、とご丁寧に罰則付きだ。  
 豪気な父や兄に囲まれて、物心ついた頃から自分のことをおれと言っていた。  
一日何回言ってるか数えたことなんてない。このままでは普通に話してるだけで  
小遣いゼロ円どころか借金生活突入ブラックリストまっしぐらである。  
「横暴だ! 言葉狩りだー!」  
 声をかぎりに訴えるも……かおるが父にかなうはずがないことは本人もよく  
わかっている。ウーウーうなりながら眉をひそめてスカートを受け取った。  
「よし、さあ早くはけ!」  
「こっこんなとこで着替えられるかよっ! 部屋行く!」  
「ようしいいぞ、その羞恥心が乙女への第一歩だ。あっはっはっ」  
「くっ……」  
 しかしなぜ父は突然こんなことを? 自室に戻ってもたもたとズボンを  
脱ぎながらかおるは考えた。今日の父はどこかおかしい。  
 実は父は、黒い粉のとりついた覆面によって操られていたのである。父を  
使ってかおるのアイデンティティを破壊しようという精神作戦なのだ。  
 そんなことはつゆ知らず、慣れない手つきでスカートのホックを留めるかおる。  
「う〜ん……」  
 パワパフZのコスチュームで大分慣れたつもりでいたが、やっぱりキツイ。  
 かおるは裾のヒラヒラを両手でつまみながら、心底困った声をあげた。  
 
「かおる! 着替えたかっ」  
「ひゃあ!」  
 父がいきなりドアを開けて入ってきたもんだから、かおるは何とかその  
恥ずかしすぎる下半身を隠そうとスカートの裾をぎゅっと絞ってみたり  
してみたが、可愛らしいピンク色とそこからのぞく健康的な太ももは  
どうにもしようがなく、結局ばつが悪そうにうつむいて顔を赤らめた。  
「あ……あんまり見るなよう」  
「可愛いじゃないか。よく似合ってる」  
 元気で活発なスポーツ少女とヒラヒラスカートのマッチングの妙よ。  
いつものように動き回ったら簡単にパンツが見えてしまうだろう、その  
危うさと緊張感がすらりと伸びた脚をいっそう美しく見せる。  
「そう……少女は己の可憐さを意識した時、女に変わるのだ」  
 何だかよくわからない事を言いながら、父は、もじもじとスカートの裾を  
押さえているかおるの両手をとってグイと上げた。  
「わっ」  
「これからおまえに、女の何たるかを教えてやる!」  
 次の瞬間だった。手を見上げたかおるの隙だらけの足元を豪快に払い、  
宙に舞ったかおるは、ぐわんと大きく視界が揺らいで天井を見たのち  
鈍い音とともに床に叩き倒された。  
「ぐうっ!」  
 なにしろ巨漢の父である。厚く出っ張った胸板に顔面を押しつぶされる  
格好になって、苦しいのと痛いのとで身もだえするかおる。父はそんな娘を  
気づかう様子もなく右手で乱暴にスカートの中をまさぐりはじめた。  
「何……してん……」  
 頭を打ったせいだろうか言葉がうまく出てこない。左手で父の侵入を  
なんとか阻止しようとしても簡単に払いのけられてしまう。ごつごつとした  
男の手がかおるの女の部分を包み、そのぬくもりは、激しい嫌悪感とともに  
ある種の安心感ともいえる不思議な感情を彼女にもたらしていた。  
「かおるちゃんが女であることを確かめようじゃないか」  
 父が覆面の奥に笑みを浮かべながら、かおるの色気のない下着に手をかけ  
するりと膝元まで下ろした。かおるは何年か振りに、自分の大事なところを  
父の前にさらすこととなったのである。  
 
「やめ……、み……見るなあぁ」  
 必死で抵抗しようとするかおるをよそに、まだまだ大人の女性とはいえない、  
その未発達な割れ目に鼻先を近づける父。鼻息が敏感な部分をくすぐる。覆面が  
足の付け根に触れて、そのなめらかな肌ざわりにかおるは思わず身をよじった。  
「ほら、かおる……おまえの女の子はこんなに美しい」  
 誰にもいじられたことのない、スカートよりも鮮やかなピンクを保っている  
かおるの秘部は、普段の少年ぽい顔立ちや服装や言動とはまったく対称的で、  
いじらしく、いたいけで、可愛らしい……「少女」の姿がそこにはあった。  
「わかったか? おまえは女の子なんだから。女の子らしくしなさい」  
 父はそう言って、耳まで真っ赤にして泣きそうになっているかおるを諭した。  
「わ、わかった。わかったからもう許して……」  
「わかりました、だろ」  
「わかりましたでございます〜!」  
「よし、いいだろう! では最後の仕上げだ」  
 ようやくかおるの体から離れて立ち上がる父。かおるもあわてて立ち上がり  
パンツを直した。ふと見ると父は逆に、パンツを脱いでボロリと一物を出している。  
「あのー……何をしていらっしゃるですかしら」  
「おう、女の幸せを教えてやろうと思って。体で」  
「……え〜と一応聞くけど、女の幸せって何」  
「それはセックスだ。そして妊娠だ! 出産こそ女にしかできない至上の喜び!」  
 正論である。正論であるが、かおるは黙って拳を握った。  
「安心しろ、父さんの精子は凄いぞ。おまえらもみんな一発だったんだから。  
かおるだってすぐに孕ませて――」  
「いい加減にしろっ!!」  
 熱弁する父の剥き出しの股間に、かおる渾身のミドルキックが決まった。  
 声にならない声をあげて卒倒する父。かおるはふぅと息をついて、  
「なんだよ、だらしねえなぁ男のくせに」  
 と、少年のようにいたずらっぽく笑った。  
 
 一方その頃きんとき堂では、ももこが人生の春を謳歌していた。  
 
 信号機の故障により引き起こされた自動車事故には何とか巻き込まれずにすんだ  
ももこだったが、研究所から帰る道で大きな悲鳴をあげた。  
 ナンパして振られたイケメン中学生からまさかの逆転告白……悲鳴といっても  
うれしい方の悲鳴である。信じられなくてホッペタをギュムムとつねってみたが痛い。  
「あ、あの、ちょっとここつねってもらえませんか」  
 確認のため彼にもつねってもらうと、なぜか痛くない。やっぱり夢なのかしら?  
と思ったら彼はももこの頬をやさしく撫でていた。  
「こんなにかわいい君の肌をつねるなんて……僕にはできないよ」  
「ギャーッ」  
 甘すぎる彼の言葉にももこは、中年女性が韓流スターを空港で出迎える時の  
奇声を発して卒倒しそうになった。  
 そういえば自分は、男の人にアタックすることはあっても、こんな風に熱烈に  
思われたことはない。頬に触れる彼の華奢な、あたたかい手のひらを感じながら、  
その慣れない刺激にももこはすっかり頭がまっ白になっているのだった。  
 しかしこれはもちろん黒い粉の陰謀。少年にとりつき、ももこを誘い惑わせて  
骨抜きの色情女にしてやろうという作戦だ。一度にべなく振っておきながら直後に  
この変わりようなんだから、何かおかしいことに気づきそうなものだけれど、  
そこを気づかない素直さ純真さがももこの魅力であると本人は思っている。  
「じゃあ、どこかでお茶しようか」  
「はっハイっ、私いい店知ってます!」  
 きんとき堂でテーブルを囲むふたりを想像し、ももこがとびきりの笑顔になった。  
「そうなんだ。案内してくれる?」  
 言いながら自分の左側に立った彼が、すっと手をとって指を絡ませてきたものだから、  
ももこは思わず息をのんでその左手を持ち上げた。  
「手つなぐの、いや?」  
「あいっ、いや、いや! いや嫌じゃなくて! いやあの、その!」  
 しどろもどろになってもう片方の手をバタつかせるももこ。そのようすに少年が  
やさしいほほえみを返す。  
「ごめんね。びっくりさせちゃったね」  
「いっいえ全然! 全然平気ですから! さー行きましょうっ」  
 照れ隠しのように声をあげて、手をつないだふたりが勢いよく歩きだした。  
 ももこの大きな後ろ髪がうれしそうに跳ねた。  
 
「いらっしゃいませえー……っ!?」  
 きんとき堂の看板娘、桜子は信じがたい光景を目の当たりにして言葉を失った。  
「ちょっとちょっと、なによその反応はっ」  
 手ぬぐい片手に固まっている桜子に若干ムッとしたが、隣でほほえむ彼を見たら  
すぐにだらしない笑顔に戻るのが今のももこだ。入ってすぐのテーブルに向かい  
合わせに座ると、彼にじっと見つめられる形になってももこは思わずうつむいた。  
 そこに注文を取りにきた桜子が、彼を見ながらひそひそ声で尋ねた。  
「あのー……遠い親戚のかた?」  
「違うっ、他人よ。これから他人じゃなくなるかもだけど」  
「じゃあ何か壷のようなものをすすめられたりとか……」  
「違うったら。どこに壷を持ってるっていうのよ」  
「最近まっ白な鶴を助けたとか……」  
「どこの恩返しよっ! 人間よっ、私の彼氏!」  
 最初は驚いて、ただただメガネの奥の目を丸くしていた桜子だったが、ふたりの  
醸し出す甘い雰囲気に納得したのか、注文のあんみつを届けてからは何も言わず  
カウンターの向こうから見守るような視線をちらちらと向けるだけだった。  
 そのふたりはお互いのことをあれこれしゃべり合って……甘いものがどうとか、  
戦隊ものがどうとか、何でもない世間話をしているうちに、ももこの緊張も幾分  
解けてあんみつを口に運ぶペースも快調になってきた。  
「ももこちゃんって、すごくおいしそうに食べるね」  
 そんなももこに声をかける彼は、相変わらずのやさしい笑顔だ。  
「なんだか見てるこっちまで幸せな気分になるよ」  
「そ、そうですかぁ? いやあ〜アハハ」  
 うれしさと照れくささの混じった表情で笑うももこ。少年がアイスを食べる手を  
止めて彼女の口もとを指さした。  
「ほら、口のまわりにあんこがついてる」  
「あ……やだぁ私ったら」  
「ちょっと目を閉じて……」  
 自分で拭おうとしたらそう言われて、ももこは素直にまぶたを下ろした。直後、  
唇のすぐ脇に彼の、指とは違うものが触れたのを感じて驚いた。  
 少年が彼の舌と唇で、あんこを拭い取ろうとしたのである。  
「じっとして……」  
 ももこは全身をこわばらせて、彼との接触部分に神経が集中してゆくのを感じた。  
湿り気をおびた彼の舌はこそばゆくて、くすぐったくて、そしてとても熱い。その  
熱さがももこの胸のあたりをどきどきさせて、下腹部のあたりをむずむずさせる。  
彼の吐息がかかったところから支配されてゆくような心地よい脱力感に包まれて、  
ももこはすこし開いた唇から深い息をもらした。  
「……甘いね」  
 やがて、少年がももこから唇を離してささやいた。  
「ね……ももこちゃんは、キスしたことある?」  
 自分のことを好きだと言っている男の人が、自分との肉体的接触を欲している。  
それがこれから何が起こることを意味するのか……はちきれんばかりのももこの胸の  
鼓動が、期待と不安と興奮に揺れながら彼女に教えるのだった。  
 
「あの、あるっちゃあるっていうか、あるんだけど数えたくないっていうかですね」  
 動揺が伝わるのが恥ずかしいんだけどどうにも隠しようがないももこ。忌まわしき  
記憶をできるだけ呼び起こさないように注意しながら早口でまくしたてた。  
「あるの?」  
「ないことにしましょう! これからが私のはじめてですっ」  
 その言葉を聞いて、彼がぐっとももこの瞳を見つめた。  
「これから?」  
 ももこがはっとして口をつぐむ。  
「これから……するの?」  
「いやあの、わたっ私といたましましては、そうなっちゃうのもアリかなっていうか」  
「してもいいの?」  
「はひっ!?」  
 ももこの反応を楽しむように少年が笑った。その唇……さっきまで自分の頬に  
くっついていた彼の唇が今度は別の場所を狙って、闇夜の猫の目のように何か怪しく  
光っているみたいな気がして、ももこはそこから目を離せずにいた。  
 次の言葉が出てこなくなって、テーブルは沈黙に包まれた。  
 それは世界中がふたりだけになったような浮遊感。椅子に座っていながら上も下も  
わからない視界の中央で彼の手が近づいてくる。湯気があがりそうなまっ赤な頬に  
触れる手はアイスクリームの器でひんやりしていた。  
(き……来たーっ)  
 ぎゅっと身を固くして思わず唾をのみこむももこ。少年がこちらを見つめながら  
顔を寄せてくる。目をつぶるタイミングなんてわからないけれど、彼の瞳に吸い  
こまれるようにして何とかその長い睫毛を下ろす。暗い視界がさらに陰になって、  
彼の顔が眼前に迫っていることを教える。鼻先が交差するのを感じて、あふれそうな  
鼻息を止めなきゃと思った次の瞬間、意識は唇に奪われた。  
(うううわわわわわわ)  
 フニンとした唇から彼のぬくもりが伝わって全身に広がって、それはつまり自分の  
ぬくもりや震えや動悸息切れも彼に伝わってるということで、恥ずかしいのと同時に、  
恥ずかしいのをさらけ出している状況がまたももこを昂揚させる。ふたりの唾液の  
こすれ合うわずかな水音が静かな店内とももこの幼い子宮に響く。ほかに客はいないが  
たぶん桜子は自分たちを見ているだろう、そんなことを思うといっそう胸に熱いものが  
たぎるのを感じる。  
 やがてももこの唇が少年のピンクの舌で、やさしく、しかし男らしい力強さをもって、  
すこしずつ広げられてゆく。  
(うわうわわわ、うわー! うわー!)  
 すっかり「う」と「わ」で埋めつくされてしまったももこは、その未知なる感触に  
とまどいながらも彼の舌を受け入れることしかできなかった。  
 
 自分の舌は意識なんてしたことないのに、他人の舌が口にあるとどうしてこんなに  
熱くってやわらかくって気持ちいいんだろう……ももこはうっとりと目を閉じながら  
ぼんやりした頭で考えていた。彼の舌は別の生き物みたいに自分のと絡み合って  
お砂糖をとかしたような甘い唾液を味わわせてくれる。彼が顔の角度を変えるたび  
鼻先と睫毛と前髪がかるく触れて、唇がこすれ合って、そのすべてが彼との一体感を  
高めてくれる。もっともっと気持ちよくなりたいと、ももこはしだいに自分からも  
舌を動かしたり、彼の舌を音をあげて吸ったりしはじめた。  
 もうどのくらいの時間がたったのか。これからもこの先も永遠に続きそうなくらい  
幸せな満ち足りた感情がももこの全身を包む。  
「……ももこ、好きだよ……」  
 少年がすこし唇を離してささやくと、ももこは続きをねだるように唇を開けて  
舌先を見せた。ヌルリと湿った吐息がもれて、よだれが垂れた。  
「これから僕の家においでよ。続きをしよう」  
「ふぁい……」  
 ゆっくり目をあけると、やさしくほほえむ彼の顔がさっきまでとは違うように  
見えて、ああ愛し合うってこういうことなのね、と思うと急に自分が大人になった  
ような気がしてももこはウフフと笑った。それから、いつのまにか下着が濡れている  
のに気づいて赤面しながらもじもじと脚を動かした。  
「あっ!」  
 次の瞬間、ももこは大変なことに気がついた。  
(今日のパンツ……!)  
 中学生には中学生なりの勝負下着というものがある。今日いきなりこんな電撃的な  
ハプニングが起こるとは思ってもいなかったももこは、自分の中でもっともランクの  
低い、大人とはほど遠い、色気のまったくないお子様パンツをはいていたのである。  
 彼にそんな姿を見られるわけにはいかない。  
「ど、どうしたの」  
 変な汗を流すももこに、少年が心配げに声をかける。ももこは決断した。  
「ごめんなさい、私たちまだ知り合ったばかりだし……まだ早いと思うの」  
 腸を断たれるような表情で言うももこを少年はいぶかしんだが、やがて、  
「そうだね。ごめんね、先走っちゃって」  
 と、うつむいた。どう言葉を返したらいいのかちょっと迷って、  
「……私、あなたが大好きっ!」  
 はじけるような笑顔をみせてももこが言った。  
 
(おわり)  
 

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