バレンタイン・キッス  
 
 
 バレンタインデー! それは恋する女の子にとって大切な勝負の日。  
 ももこも当然、意中の先輩にチョコレートを渡し思いを告白したがあえなく玉砕。  
 その一大イベントが終わってから、お話は始まる。  
 
 東京シティ国際科学研究所。ほどよく暖房のきいたその一室で、大きな赤リボンが  
ぐったりとしおれていた。  
「せんぱい……」  
 未練たっぷりにため息をつく。本編の主人公ももこである。  
「ももこさん、元気だしてください」  
 ソファの隣でなぐさめてくれるみやこの言葉も、むなしく耳を通り抜ける。  
「うん、ありがと……」  
 もはや恒例行事。この感覚に慣れてしまっている自分が、涙が出るほど情けない。  
 ももこはその落ちそうな涙を飲み込むように、ぐっと天井を向いた。  
「よし! もう大丈夫」  
「おっ、立ち直った」  
 すこし離れて様子を見ていたかおるが笑った。  
「まぁ気にすんなって。いつものことだろ」  
「そうね、いつものことね! ってダメじゃん。ダメじゃん私!」  
「あははは」  
 ふたりのやりとりにつられて、みやこも笑う。ちょっぴり部屋の空気が軽くなった。  
 ふと、ももこがソファの横に置いていた紙袋に手をのばした。よいしょと一声あげて  
抱えるように持ち上げる。そうしないと底が抜けてしまいそうな大きな袋だ。  
「なんですか、それ」  
「はい、どうぞ」  
 みやこの問いに答えるかわりに、袋の中からそれをひとつ取って差し出した。  
 チョコレートである。  
「わあ、ありがとうございます」  
「はい、かおるも」  
「なんでだよ。いいよ、おれは」  
 かおるはすでに見知らぬ女の子たちからチョコを渡されていて、なかば反射的に  
ももこのプレゼントに嫌な顔をした。  
「私やっぱり、先輩も好きだけどみやこもかおるも大好きだし」  
 しかし、愚かしいほど素直なももこの言葉が、今はなんだか心地いい。  
「ね?」  
「……わかったよ」  
 照れ隠しに前髪をさわりながら、かわいらしい小箱を受け取るのだった。  
 
「さて、と」  
 ふたりにチョコを渡しても依然としてパンパンの紙袋を前に、ももこがつぶやいた。  
「あのう、まだいっぱい残ってますけど、それは……」  
「自分チョコよ」  
「自分チョコ!?」  
「どんだけ自分大好きなんだおまえは」  
「うるさいわね。食べて忘れるのよ、今日という日を忘れるのよ!」  
 言いながらチョコの包装を乱暴に破るももこ。今しがたのちょい感動的なシーンは  
いったい何だったのか。台無しである。  
「あぁ、甘い! あぁあ、おいしい!」  
 手や口もとをべたべた汚してデカ盛りチョコレート群をかたっぱしから嚥下してゆく。  
かの甘味の女王赤阪も真っ青なその勢いは、誰であろうと止めるべくもない。ふたりは  
もらったチョコレートを舐めながら、ただただ彼女を見守っていた。  
 これがももこなりの、ベストなストレス解消法なのだ。気が済むまで食べればきっと、  
昨日までの元気なももこに戻るだろう。ふたりが顔を見合わせて、笑った。  
 ――明らかな異変があらわれたのは、黒い山が半分ほどなくなった頃だった。  
「うふ、うふふ。あまァい……。おいひー……」  
 言葉がはっきりしなくなり、目がどこを向いているのかわからない。うわごとのように  
みやこやかおるの名を呼んだり、気味の悪い笑い声を発したりする。  
 意識と無意識のはざまでゆらゆらしている、まるで――  
「酔っぱらいみたいだ」  
 ただごとではない様子に、かおるが眉をひそめた。  
「あの〜、ひょっとして、これじゃないでしょうか」  
 みやこが、引き裂かれた包装の切れ端をつまみあげた。  
「ウイスキースピリタスどぶろくボンボン」  
「アルコール凄いのか?」  
「えっと……99度って書いてます」  
「食ったのか!?」  
「カラです!」  
「ももこー!!」  
 あわててふたりが顔を寄せると、ももこの大きな瞳はぼんやりと輝きを鈍らせ、右目と  
左目が絶えず違う方向をグルグル回っていた。ゆるみきった口もとからチョコのまじった  
ほの黒いよだれがこぼれて、スカートの裾からのびるほの赤いふとももに落ちていた。  
「大丈夫ですか!?」  
「ふふふふ、だれ〜? コロネがしゃべってる〜あははは」  
「コロネじゃないです、みやこです!」  
「や〜んおもしろ〜い、たべちゃうぞ〜」  
「きゃっ」  
 ももこがみやこの頭をつかんで立ち上がろうとしたが、足に力が入らずソファに押し倒す  
格好になってしまった。自分も酔わされてしまいそうな甘ったるいももこの息のにおいが、  
みやこの鼻の奥に一気に侵入してきた。  
 それほど近い距離に、ふたりの顔があった。  
 
「ああもう! 暑いわねここっ」  
 上半身を起こして薄手のセーターを手早く脱ぎ捨てると、ももこの肌は胸から腹から  
背中まで紅潮していて、湯気が見えそうなくらい激しくほてっていた。勢いでブラまで  
はずそうとするも、手もとがおぼつかなくてうまくいかない。そのうちあきらめて、  
うなり声をあげながらみやこに重なるように倒れこんだ。  
「こらももこ、離れろっ! 服着ろっ」  
 かおるが後ろ髪をひんづかみ、ももこを引っぱり上げようとする。しかし完全に弛緩した  
人体は思いのほか重い。髪の毛がまとめてちぎれてしまいそうな不安を感じてどうしても  
躊躇してしまう。  
「みやこ、なんとかひっぺがせっ」  
「むっ、無理です……」  
 ももこの頭の下から弱々しい声が聞こえた。  
「ももこさんっ、しっかりして……」  
「う〜〜む……じゅるじゅる」  
 ももこが容赦なく、みやこの細い体に体重をまかせてくる。本来はしっとりもちもちした  
彼女の肌はひどく上気し汗が吹き出ている。小さな胸が精いっぱい波打ち、苦しそうに  
鼓動して、それに合わせて甘い息がどんどん吐き出される。  
 その甘くて熱い息を、みやこは首筋で感じていた。  
「ん〜っ……、ころね……」  
 真夏の子犬のようにハアハア舌を出すと、そこにはみやこの首がある。冷たくて気持ちが  
いいのだろうか、白い肌にゆっくりと舌を這わせているうちに、その細い首はももこのよだれで  
しだいに汚れ、熱におかされていった。  
「ももこさん……っ」  
 大事なところを愛撫されて、脈動の昂ぶりが自分でもわかりすぎるほどわかる。  
 頚動脈の鼓動が全身をめぐって、指の先まで感覚をしびれさせる。ぴりぴりと、ふわふわと、  
宙に浮かんでいるような水に潜っているような、優しくなめらかな快感に包みこまれる。  
 ももこが唇全体で首筋をくわえて、強く吸いこんだ。  
「んんっ」  
 バンパイアに血を吸われる乙女のように恍惚として、みやこはソファの上で背を反らせた。  
 体が熱くて、なにもかも脱ぎ捨ててしまいたい。ももこの素肌と自分の素肌を合わせたい。  
ぴったり合わさってこの甘い空気の中でチョコみたいに溶けてひとつになってしまいたい。  
 自分ももう、酔っているのかもしれない。それでもいいとみやこは思った。  
 
「だめだー! みやこーっ」  
 その時。かおるがみやこの口にキラキラ光るものを放り込んだ。  
 冷凍庫からとってきた氷である。  
「んむっ!」  
「熱した時は冷やすのが一番だぜ」  
 キンキン冷えた氷によって口内から一気に冷やされて、意識が覚醒してくる。  
「かおる……さん……」  
「どうだ? 戻ってきたか?」  
「はい……」  
「んじゃ、こっちにも」  
 かおるが製氷機ごと持ってきた氷をありったけ、ももこの背中に落とした。  
「ひゃあっひゅふっ!」  
 突然の刺激に体を跳ねさせたももこが、ソファからもんどりうって転げ落ちる。  
 ごんっ、と何かを激しく打ちつける鈍い音が響いた。  
「助かりました……」  
 解放されたみやこが、乱れた髪を直しながら息をついた。  
「やれやれ」  
 ももこの頭と同じくらい大きなタンコブを見下ろして、かおるがつぶやいた。  
「とんだバレンタインだなぁ」  
 ふと、ももこからもらったチョコのことを思い出し、まさかアレじゃないだろうなと  
あわててカバンを開けて確かめるのだった。  
 
 後日、ももこはこの騒動をまったく覚えてなくて、食べて忘れるという当初の目標は  
一応達成できたことになったが……しばらく猛烈な後頭部の痛みに悩まされたという。  
 
(おわり)  
 

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