呪いの茨によって、瀕死の重傷を得た私は、覚束ない足取りで洋館まで辿り着く。  
「スイッチ・オーバー」  
洋館の門の前で、拳を擦り合わせ、唱えた。  
本来の姿である、銀髪、黒衣に戻る。  
「東せつな」の姿で弱っているところをあの二人には見られたくない。  
肩で息をさせながら、重い扉を開けた。  
 
「う…」  
私は思わず眉根を寄せる。  
エントランスの大階段、踊り場の部分に男がどっかりと腰を下ろし、こちらを見ていた。  
「…イース」  
 
こんな最悪の気分のときに、かまってこようとするな。鬱陶しい…  
 
私は彼を無視しようと顔を横にそむける。その途端、ぐらりと目眩がし、その場に座り込んでしまった。  
「大丈夫か!?イース!!」  
男は階段を駆け下り、私の前で膝をつき、私の両肩を掴む。  
「うるさい…平気だ」  
「平気だ、じゃねぇだろうが!そんなにフラフラになって!立ち上がれもしないくせに!!」  
「少し休めば歩ける…大声を出すな、頭に響く」  
私はうんざりしながら怒鳴り声に対応する。  
 
こんなボロボロの姿をあまり見ないで欲しい。とっとと立ち去ってくれ…  
 
「!?」  
急に、私の目線が高くなり、体が宙に浮かんだ。  
男が私の痩せこけた体をその巨躯でひょい、と抱えあげたのだ。  
「ちょ…っ、ウエスター、やめろ…っ、降ろせ…っ!!」  
男は聞く耳も持たずに右腕のみで私の腹部を右肩に乗せ、ずんずんと廊下を歩いていく。  
私は男の背中を叩いて抵抗をする。しかし、痛みと疲労で腕に力が入らない。  
筋肉の鎧に包まれた彼の体にはまったく効かなかった。  
 
そのまま私の部屋へ入ると、男は私をそっとベッドの端へと座らせる。  
「ほら…今日はもう休め」  
いつになく優しい口調に、咄嗟に、情けをかけられた、と感じた。  
 
「あんたに同情されたくなんかないわよ。どうせ腹の底じゃ笑ってるんでしょう?  
 今日もプリキュアを倒せなかったのか、ってね」  
「…!!おまえなぁ…っ!人がせっかく…っ」  
「プリキュアどもに、正体がばれた…というか、ばらした」  
「はあっ!?」  
「そのうちあいつらがここを襲撃してくるかもしれない」  
「なに考えてるんだおまえ?自分から正体ばらすなんて…おまえらしくないぞ」  
「『わたしらしい』!?あんたになにがわかるのよ!!」  
 
力の入らない腕を振り回し、男の胸倉を叩こうとした私は。  
「わかったわかった、いいから興奮するな…落ち着け」  
そう言われると同時にしっかりと抱きすくめられ、男の胸の中にいた。  
 
互いに座りながら体を少しねじらせ、密着させる。  
男は左腕を私の背中に回し、右手で私の後頭部をポンポンと軽く叩く。  
「……子供扱いするな」  
「おまえが落ち着いたらやめてやるよ」  
私は不貞腐れつつ呼吸を整え、冷静になろうとした。  
 
(あたたかい…)  
私の倍近くはあるかと思われる大きな体の体温が徐々に私の体に伝わり、  
疲労しきっていた私は、とろとろとまどろんでしまいそうになる。  
 
「なあイース、いい加減一人で無茶するようなことはやめろ。少しは俺達にも頼れ」  
虫のいい物言いに、私は反抗的な返事をする。  
「…なによ。私の手柄を横取りしようとしていたくせに」  
「そりゃ最初はそうも思ってたさ。でも、今のおまえは痛々しくて見ていられない」  
太い指が、私の二の腕に刻まれた茨の痕をいたわるように撫でる。  
 
「……痛かったら、ちょっとぐらい泣いたっていいんだぞ」  
 
泣く…?私はどんな痛みにも耐えられる。泣いたりなどしない…っ!!!  
 
少しづつ落ち着きを取り戻していた私の心は、その言葉により再び掻き乱された。  
桃色の衣を身に纏った少女に、きつく抱きしめられたときのことを思い出してしまったからだ。  
 
──あなたの心が、泣き叫んでるんでしょう!?──  
 
黙れ、黙れ、黙れ!!!  
私の心に、入り込んでくるな…っ!!!  
 
気がつくと私は、彼の腕の中で暴れだし、そのぬくもりから逃れようとしていた。  
手の先が、ヒュッと男の頬をかすめ、うっすらと赤い線がつく。  
「うわっ!なんだよ?暴れる…な…っ」  
赤い腕飾りの付いた両の手首を掴まれ、はずみで夜具の上に押し倒された。  
そのまま男の顔が近づき、そっと唇を触れ合わせる。  
 
いつもの噛みつくような荒々しいキスではない、触れるだけのキス。  
目を虚ろに開き、男の唇を受けながら、私はぼんやりと考えた。  
(ああ、そういえば最近相手してなかったわね)  
呪いのカードを手に入れてから、私はプリキュアを倒すことのみに執心し、『任務』にかまけている余裕などなかった。  
この男が時折ちょっかいをかけてきても、私はその都度彼の手を振り払い、拒否をする。  
 
彼の行動の目的を理解し、私はうすら笑いをした。  
「なんだ…妙に親切にしてくると思ったら…やりたかったのね」  
「な…っ!?」  
「別にいいけど、さっさと済ませてよね。疲れてるから」  
わざとらしく溜息をつきながら言い捨てると、男は声を荒げる。  
「ふざけるな!そんなつもりでここにいるわけじゃないぞ!」  
「そんなつもりじゃない?なに言ってんのよ。たった今、私のことを欲望のはけ口にしようとしたくせに」  
「ちがう!そうじゃない!俺は、おまえをっ…」  
男はそのあとの言葉がうまく見つからないといった様子で目を泳がせ、  
「心配、してるだけだ」  
なんとか言葉を捜し出し、低く呟く。  
「心配…?はっ、そんな言い訳しなくてもいいじゃないの。正直になりなさいよ」  
私の手首を掴むの力がわずかに弱まった隙を狙って、男の手を振りほどき、胸元のダイヤの下のホックを外した。  
節くれだった右手を、胸のふくらみへと直接いざなう。  
「ほら…したいんでしょ?今私は抵抗できないから、好き放題できるわよ」  
 
こんなふうに男の手が触れるのは久しぶりだった。  
少しざらざらした手のひらが、ふくらみの頂点を擦った瞬間、体の奥がわずかに潤ったのを感じた。  
(ふん…こんな満身創痍の体でも、反応するものなんだな…)  
くだらない。こんなのは、刺激に対する反射でしかない。  
何度も何度も玩具のように扱われているうちに、敏感になってしまっただけだ。  
私は顔を思い切り歪め、自分自身をあざ笑う。   
 
『任務』という名目で、男二人にさんざん弄ばれてきた女。  
たくさんの人間に囲まれ、いつもいつも馬鹿みたいに笑っている少女。  
私とあの娘の立場の違いを顧み、胸の奥が、何故かチリチリと痛んだ。  
 
「…!!そんなんじゃねえって言ってんだろっ!!馬鹿野郎!!!」   
突然の耳をつんざくような怒声に、私の肩がビクリと動いた。  
男はふくらみを覆っていた自らの手を引き剥がし、その手で拳を握り、わなわなと震わせた。  
「…静かにしてっていってるでしょ」  
驚いてしまったことを誤魔化すように、私は男をじろりとねめつける。  
睨み返す男。歯を食いしばり、怒りに耐えているように見えた。  
 
「おまえなんぞ、もう知らん!……勝手に、しろっ…!!」  
吐き捨てるように言うと、男は拳を開き、その手で夜具を掴み、バサッと乱暴に私の上半身に掛ける。  
ドカドカと足音を立て、男は部屋から出ていった。  
 
残された私は、身動きひとつせずにじっと天井を見る。目の焦点がだんだん合わなくなってくる。  
あたたかい液体が、目尻からこめかみを通ってシーツに零れた。  
(あいつに見られずに済んで良かった…)  
なぜ涙が出たのだろう。わからない。  
なぜあいつはあんなに怒っていたのだろう。考える気力は、もう無い。  
 
まぶたがゆるゆると閉じていく。私は、そのまま意識を失った。  
 
 
甲高い、奇妙な声が聞こえてくる。  
 
──可哀想に。自分が一人ぼっちだと思っているのね?  
 
(おまえは…何者?)  
 
私の周りを、くるくるとせわしなく回る、…物体?生物?  
羽の付いた、赤い、鍵のような……この鍵が喋っているのか?  
甲高い声に、優しげな女の声が重なっていく。  
 
──そんなに悲しまないで。近い将来、あなたのことを、かけがえの無い友達として、大切な子供として、  
  そしてひとりの女性としてそれぞれ想ってくれるひとが現れるわ。  
  いいえ、そのひと達はすでにあなたのそばにいる。あなたが気付いていないだけ。  
 
(馬鹿な…私はずっと一人でも平気だった。悲しんでなどいない。そんなもの、必要ない…)  
 
──素直に…自分の気持ちに正直になって?そうすれば、きっと、あなたは幸せになれる……  
 
赤い鍵のようなものが、私を離れ飛んでいく。その先に、見知らぬ一人の女の後ろ姿があった。  
桜色の豊かな髪。真っ赤なロングスカート。腰についた黒いリボンと四角いケース。四葉のクローバーのマーク。  
女が振り返る。柔和な微笑み。光を受けて輝く緋い瞳。  
 
(あれは……私?)  
 
私はそこで目を覚ました。  
(いま、なにか、夢を見ていた…?それとも幻…?)  
思い出そうとしても、記憶が頭の隙間から零れ落ちていく。  
私は考えることを諦め、額に手を当てながら起き上がった。  
 
 
 
クラインの手紙が届いたことを、私はサウラーのみに告げ、洋館を出る。  
あの男とは、もう顔を合わせたくなかった。  
 
この胸の痛みは一体何なのか。あの娘との決着をつければその答えが見つかるかもしれない。  
命が尽きる前に、ただ、それだけを知りたかった。  
 
 
────────────────────────  
 
 
────ごめん。  
 
チームワークを否定し、事あるごとに反発したこと。何の説明も無しにラビリンスを、あなたを裏切ったこと。  
『任務』のことが露見するのを恐れて、あなたを無視しつづけたこと。  
 
────でも、ありがとう。  
 
反発するわたしを、心配してくれたこと。裏切りを重ねたわたしを、変わらず『仲間』だと思っていてくれたこと。  
わたしが忌み嫌い、消し去ろうとした存在を、ただ一人忘れず、深く想ってくれたこと。  
 
突っぱねるだけでは、駄目だった。こちらから心を開かなければいけなかったんだ。  
ラビリンスには戻らないと頑なに拒み、過去の自分を否定している間は、彼もわたしの言葉を聞き入れてはくれなかった。  
 
わたしが謝罪と感謝の気持ちを素直に告げたとき。  
彼は初めてわたしに優しい笑顔を見せてくれた。  
 
はじめからこうすれば良かった。こんな簡単なことをわたしは今まで知らなすぎた。  
二人で笑い合えた。すごく幸せだった。そして、本当に伝えたいことを口にしようとした。  
それなのに。  
 
「ウエスター!!」  
「サウラー!!」  
 
廃棄物処理場の扉が、轟音を立てて無情にも閉じていく。  
呆然とするわたしとベリー。  
わたしは、無意識のうちに腰のケースからリンクルンを取り出す。  
「パッション?何をする気!?」  
ベリーがわたしの様子に気付き、驚いた声を上げる。  
「アカルンで…あの中に移動する……」  
「あの中、って…、ダメよ!消去されてしまうんでしょう!?あなたが消えてしまったら元も子もないわ!  
 それに、アカルンだってうまく機能するかわからな……」  
「だって、わたし、彼に何も伝えてない…!やっと、やっと分かり合えたと思ったのに……!!」  
 
伝えようと思った!  
あなたの言葉が、気持ちが嬉しかった。だから体を許したと!  
耳元で囁く声を、荒々しい愛撫を、体の奥深くまで満たす熱い塊の感触を、わたしはまだ覚えている…  
今ならはっきりと言える…わたしもあなたのことを……!  
伝えようと…思ったのに……!!  
 
「う…わあああああああ────っ!!!」  
 
慟哭を抑えることができない。涙が、ぼたぼたと床に落ちていく。  
狭い通路に響き渡る叫びにベリーは息をのみ、わたしの肩に手を触れる。  
「パッション…あなた、もしかして…」  
ベリーが訝るようなような口調でわたしに問いかける。  
その疑念の混じった声を聞いたとき、わたしの心臓がどくんと跳ねた。  
 
──彼女にわたし達のことを知られてしまうのはまずい。  
 
わたしは慌てて涙を止めようとする。  
この期に及んで、そのような機転の利いてしまう自分に嫌気が差す。  
けれど、美希はまだ中学生だ。もしわたし達三人の関係を知るようなことがあったら…  
その重すぎる事実を受け入れることができるだろうか?下手をしたら、彼女の心に傷を残すことにもなりかねない。  
 
頭の中でぐるぐると考えを巡らせたのち、驚くような低い声が、わたしの口から出ていった。  
「…あの二人は、命をかけてわたし達を助けてくれた…その命を無駄にするようなことをしてはダメよね」   
なぜこんな無機質な声が出るんだろう。  
わたしの呟きに何かを察したのか、ベリーは、それ以上問い詰めることはしないでくれた。  
蒼い瞳を涙で潤ませながら頷く。  
「パッション…そうね、一刻も早くシフォンを取り戻さなきゃ…」  
 
そのとき、わたしの耳に甲高い声が入ってきた。  
 
『フタリハ、ブジダキー』  
 
「え?」  
「どうしたの?パッション」  
いつの間にかリンクルンから飛び出していたアカルンが、わたし達の周りをくるくると回っている。  
「ベリー、今、アカルンが…『二人は無事』って…」  
「えっ?本当に?」  
アカルンがわたしの手のひらの上に戻ってくる。わたしの目を見つめ、ニコニコと笑っている。  
わたしとベリーは顔を見合わせる。  
「アカルンが…本当にそう言ったのね?」  
「ええ……そう聞こえたわ」  
「それなら、きっと二人は生きている!アカルンのことを信じよう…!」  
そんな…なんの根拠もないのに…言いかけて、ベリーの顔を見、ハッとする。  
光輝く瞳。希望のプリキュアの名に羞じない、強い意志を持った表情。  
わたしは、その瞳に突き動かされるように口を開いた。  
「わかったわ。わたし達は希望を捨てない、そうよね?」  
 
二人は立ち上がり、処理場の扉を後にして走り出す。  
「とにかく、今はピーチとパインの処へ……!」  
わたしは、もつれてしまいそうになる脚を必死に前へ前へと進ませる。  
 
幸せの赤い鍵の妖精、アカルンの言葉を信じて───  
 

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