──せつな…せつな…どこいっちゃったの……?  
 
すすり泣くような声が聞こえる。わたしを呼んでいる。  
声のする方を振り向けば、視線の先にはよく見知った少女。  
ふわふわした癖のある髪を揺らしながら、わたしを探して、あてもなくさまよい歩いている。  
愛くるしい大きな瞳からは涙が溢れ零れ落ち、それを丸めた手で拭いながら、小さな子供のようにしゃくり上げている。  
 
──ラブ…お願いだから泣かないで。わたし、今、すごく幸せよ……?  
 
 
「…ース、イース」  
 
今度は、いたわるような低い声がわたしを呼ぶ。  
目を開けると、そこにはわたしを心配そうに見つめる顔。──わたしの、恋人。  
 
彼の唇が、わたしの目尻に残っていた涙に触れ、舌で舐めとる。  
こめかみに手を当てると、その付近の髪の毛がしっとりと濡れていた。──そして、枕も。   
「やだ…なんだか怖い夢見ちゃったみたい…」  
「ラブ、って言ってたぞ」  
「あ…ごめんなさい……」  
「なんで謝るんだ?ほら…こっち来いよ」  
わたしは彼の硬く逞しい胸に額をつけ、声を押し殺しながら涙を流す。  
 
 
 
──やだよぉ、せつなぁ、帰るなんて言わないで!  
──そうよ、せつなちゃんが居なくなったらわたし達さびしいよ……  
 
わたしが故郷に戻る意思を告げたとき、ラブと祈里はボロボロに泣き崩れ、はじめのうちは手がつけられなかった。  
 
──ラブ、ブッキー、泣いちゃダメよ、せつなが決めたことなんだから……  
 
美希だけは、必死で二人をなだめてくれる。──彼女自身も瞳に涙を溜めながら。  
何度も何度も話し合い、ようやく二人はわたしの決意を泣かずに受け入れてくれるようになった。  
 
その頃から、夜、ラブと一緒に寝ることが増えていった。  
というより、まだ肌寒い季節、二人で布団をかぶりながら話し込んでいるうちに  
いつの間にか眠ってしまっている、といったほうが正しいのだろう。  
話す内容は、本当に取り留めのないことばかりだ。  
学校行事のこと、クラスメイトのこと、家族のこと、ダンスのこと……話が尽きることはなかった。  
 
「ねぇせつな、前から聞こうとしてたんだけど…」  
「なぁにラブ?」  
「せつな、ひょっとしてウエス…隼人のこと好きなの?」  
「…!…ええ、好きよ。…多分、ラブが大輔くんに感じてるのと同じ気持ちだと思う」  
「べ、別にあたしは大輔のことなんか…!」  
「ごめんね、ラブ」  
「へ?なにが?」  
「わたし、みんなの前ではあんな綺麗事言ったけど…本当は自分の我儘でラビリンスに帰りたいだけなの…」  
「いいの!よかった、あたし実はちょっと心配だったんだよねー」  
「心…配?」  
「せつなってさ、人のことばっかり考えて自分のこと後回しにしちゃうところあるじゃん?  
 ラビリンスに帰ったら、自分をギセイにしちゃってヘトヘトになっちゃうんじゃないかと思ってさ。  
 でも、せつなが好きな人と一緒にいたい、ってワガママが言えるんなら大丈夫かなって」  
「ラブ…」  
「それに、ラビリンスの人達を幸せにしたい、っていう気持ちも本当でしょ?」  
「もちろんそうよ。わたしがここで学んだことを、皆にも教えてあげたいの」  
「えへへ、せつならしいね。隼人もせつなのこと大好きだもんねー、あいつにならせつなのこと任せられるよ」  
「もう!ラブったら…」  
「…そっか、せつなが隼人の事…だから前にひどいこと言われてすごく泣いてたんだね」  
「…っ!!そっ、それは……、そう、喧嘩しちゃったのよ、あのとき」  
そんな会話をしたことも、今では懐かしい。  
 
お喋りしているうちに、ふと、ラブが黙り込んでいるのに気づく。  
彼女の様子を窺えば、思ったとおり、眠気に負けてくうくうと愛らしい寝息を立てている。  
わたしは彼女の綿菓子のような髪の毛に指を入れ、優しく梳きながら「おやすみなさい」と囁き、眠りについた。  
 
 
 
それからしばらくして、わたしは四ツ葉町をあとにし、かつての故郷へと舞い戻った。  
 
わたし個人にあてがわれた部屋で、荷物の整理をしているうちに、  
形容しがたい感情が心の中に渦巻いていき、居てもたってもいられなくなった。  
 
「イース?どうした?」  
 
気がついたら、彼の部屋のドアの前で開閉用のパスワードを押していた。  
大きな手が、こわれものを扱うようにそっとわたしの頬に触れる。  
自分で選んだ道なのだから、絶対に泣いたりしないと決心したはずなのに、  
二人きりになった途端、涙が堰を切ったように溢れだし、止められなくなった。  
彼は少々慌てたそぶりを見せたものの、それ以上問うことはせずに、強い力でわたしを抱き締めてくれた。  
 
もう泣くな、いや、こういう時は思いっ切り泣いたほうがいいのかな?  
…とにかく、心配するな、これからはあいつらの代わりに俺達がついてるから、  
大丈夫だ、俺がおまえを守るから、絶対にだ、愛してる、イース……  
 
彼の言葉に、縋った。  
 
そのあとのことは実はよく覚えていない。……詳細を思い出すと、恥ずかしさのあまり身悶えしてしまいそうになるから、  
意識的に記憶を押さえつけているだけなのだが。  
わたしはいつも以上に乱れ、彼にしがみつき求め続け、幾度も高みに昇りつめ、  
彼も数え切れないくらいにわたしの中に愛欲を注ぎ込んで……と、このくらいにしておこう。  
 
そうしてわたしは自然とそのまま彼の部屋で寝起きするようになって───  
 
「君のために部屋を一つ空けておいたのに、無駄だったようだね、イース?」  
もう一人の同僚に嫌味を言われ、思わず頬を熱くさせてしまったこともあった。  
 
 
あれから月日が流れ、相も変わらず多忙な日々が続いている。  
覚悟はしていたが、とても「ちょっと四ツ葉町に遊びに行こう」などと考える余裕など持てなかった。  
あの要領の良いもう一人の同僚は、それでもちょくちょくあの街に出かけていたようだが、それを責めるつもりはない。  
自分の恋する女性に逢いたい、という一途な想いを、どうしてわたしが咎められようか。  
わたしには既にいつもこんなに近くに恋人が居てくれているのだ。それ以上のことを求めるのはただの我儘だ──  
 
そう、わたしは我儘で贅沢だ。平穏な生活(復興活動に奔走してはいるが)優しい恋人、両方を手に  
入れておきながら、事あるごとにもう一つの故郷に思いを馳せ、親友に逢うことばかり考えてしまっている。  
みんなに逢いたい、また四人でドーナツカフェに行ってお喋りがしたい、ダンスがしたい、  
おとうさんの作った肉じゃがを、おかあさんの作ったコロッケを食べたい、ラブと一緒にハンバーグを作りたい……  
だめ、甘えたことばかり考えては。復興の目処が立つまではあっちには帰らないと決めたじゃない……  
 
厚い胸板に体を寄せ、背中をポンポンと軽く叩かれるのに身を任せていたら、頭の上から低く穏やかな声が降りそそいだ。  
 
「おまえなぁ、いいかげん意地張るなよ、あいつらに逢いたいんだろ、気にしないで行ってこいよ」  
「だって、まだまだこっちでやらなきゃいけないことが山積みだし…全然予定通りに進んでないじゃない」  
「確かにそうだけどよ、あくまで予定は予定じゃねえか?俺達はさ、何にもわからない状態で、手探りで  
 復興を進めてるんだから、上手くいかなかったりするのも仕方ないと思わねえか」  
 
彼はわたしの頬を両手で挟み、わたしの目を碧い瞳で見据え、わたしを説き伏せようと熱心に語りかける。  
 
「おまえは俺達の中で一番年下なんだから、もうちょっと遊んだりすることも考えろ。  
 あいつらももうすぐ夏休みなんだろ?一週間ぐらい里帰りしてきてもいいじゃないか」  
「でも…ラブは今年高校受験で大変だろうし、あの子のことだからきっとダンスの練習も続けてるだろうし、  
 美希もモデルの仕事があるし、ブッキーだって病院の手伝いがあるし、忙しいんじゃないかって……」  
「い、い、か、ら、行って来い」  
「……はい」   
「おまえ、そういう一人で何でも抱え込もうとするとこ、全然変わってねえなぁ」  
そう言いながら苦笑いする彼に、  
「……そうね」  
短く返事をし、つられて口の端を上げた。  
 
「なあ、さっき、どんな夢見たんだ?」  
なぜ彼がそんな質問をするのか、深く考えずに素直に答えた。  
「うん?あのね、ラブが泣きながらわたしのこと探してて…それを見てたらなんだか悲しくなってきちゃって……」  
「そうか…いいな、あいつ、おまえにそんなふうに夢に見てもらえて」  
「???」  
奇妙な発言をする彼に驚いたわたしは、きっと、ぽかんと間抜けな顔つきになっていただろう。  
「うらやましい、って、なんか変だな。俺、ちょっとだけあいつにヤキモチやいてるんだ」  
精悍な大男らしからぬ、可愛らしい嫉妬心に、わたしは思わず微笑んだ。  
「ヤキモチ?ラブに?ふふっ、どして?わたしはいつだってあなたのものなのに」  
すると彼は急に真顔になり、じっとわたしを見つめたのち、  
「すまん、イース、もう一回いいか?なんか、今ので勃った」  
「ええっ!?なに、わたし、今、変なこと言った…?……ぁ、ああっ」  
先程放たれた彼の精が残る秘壷を指で責められ、わたしは淫らな呻き声を上げた。  
 
彼と晴れて恋人同士になれたその日から、わたしは「薬」の服用を再開した。  
(この国の高度な医療システムが変わらず機能していたのは幸いだった)  
彼は残念がっていたが、今後復興活動に忙殺されるであろうこの時期に、  
身動きがとれなくなることを懸念し、よくよく相談したのちに結論を出した。  
 
それに、これは彼にも言ってはいないが──  
もう少しのあいだ、この蜜月を堪能したいと思ったのだ。  
はしたない、と思う。けれど、わたしは彼の体に溺れてしまっている──  
仕方のないことだ。兵士として心を閉ざしていた頃ですら、この男に与えられる快楽を否定するのに苦心してきたのだ。  
心のタガがはずれてしまった今現在、愛撫に翻弄される自分自身を抑えることは不可能に近い。  
 
「イース…ここ、気持ちいいか?」  
「う…ん、あ……は…あっ、ん、ウエスタ…ぁ…それ、すき……きもち、いい……」  
「痛くないか?辛かったらすぐ言うんだぞ」  
 
わたしが故郷に戻って我を忘れたあの夜、ほんの少しだけ出血してしまい、彼はひどく焦ってわたしに謝り続けた。  
どうも彼は、敵対していた頃に、わたしの体を傷付けてきたことを気に病んでいるようだった。  
お互い様なんだから気にしないでと、何度宥め慰めても、未だ彼の心は晴れない。  
 
「だいじょうぶ、よ…心配性ね、わたし、そんなにヤワじゃないわ…」  
「だってよ、どうしたって俺のほうが体もでかいし、いつも無理させてるんじゃないかって…」  
「平気……ね、おねがい」  
わたしは挑発するような視線を彼に投げかけ、できるかぎり艶のある声になるように意識し、  
「もっと、乱暴に、し、て……?」  
甘く囁き、彼の嗜虐心に火を点けた。  
 
理性を失った彼の腕の中に居ると、自分の体が、まるで濁流にのまれる小枝のようにちっぽけに感じられ、心細くなる。  
食べられてしまうのではないかと錯覚するほど激しく唇を貪られる。  
彼の所有物であるという証の刻印をからだのあちこちに押される。  
猛り狂った熱い塊がからだを引き裂く快感をもっと味わいたくて、わたしは脚を絡みつかせて奥へ奥へと彼をいざなう。  
わたしと彼の動きが奏でる卑猥な音色がしんと静まりかえった夜の部屋に響く。  
 
いやらしくてはずかしくてうれしくてきもちよくて、わけがわからなくなってくる。  
 
酸素の供給が追いつかなくなり、頭の中が痺れ、視界が霞んでくる。  
死の恐怖にも似た感覚がわたしを襲い、藁を掴む溺者の如く、彼の首に腕をまとわりつかせ、短い髪に指を入れて握る。  
 
──大丈夫、こわくない、わたしがどこに堕ちても、きっと彼が手を差し伸べてくれる、必ず助けてくれる……  
 
「……あ、あ、や、ぁっ、うえす、たぁ…あ、いっ、いく、いく、い……あああああ────っ!!!」  
 
薄れていく意識の中で、わたしの名を呼ぶ声が聞こえた。いつくしむような、優しい声。  
慈愛に満ちた響きでこの名を呼ぶのは、昔も今も、唯一人、彼だけだった。  
 
──そう、わたしは彼に名を囁かれるのが好きだった…昔も、今も………  
 
 
ぽたり、と頬に水滴が落ちる感触で目を覚ました。  
彼の額から吹き出た汗が、頬を通って顎まで伝い、ぽたぽたと滴り落ちている。  
 
「よかった…生きてるか」  
随分大げさね、と口にしようとしてもまだ上手く喉から声が出せず、わたしは緩慢に唇を動かす。  
そこに彼の唇が降りてきた。わたしの唇を覆いつくし、ぬるり、と温かい舌を挿れ、口腔を舐める。  
彼の舌を甘噛みする度に、まだわたしの中にいる彼自身が、ぴくりぴくりと反応する。  
まだ手足を動かせない代わりに、その感触を愉しんでいたら、  
「───も、もういい…これ以上は…」  
心なしか慌てた様子の彼に、急に唇を離され、彼自身もわたしの中から去っていってしまった。  
「…もうちょっと、中にいて欲しかったのに……」  
弱々しい声で彼に不満をぶつけると、  
「だめだ。明日起き上がれなくなるぞ」  
ぴしゃりとはねつけられ、わたしはわざとらしくむくれて見せた。  
 
夜も大分更け、お互いクタクタになってはいたが、汗まみれのどろどろの体のまま眠るのはさすがに気が引けた。  
眠気と戦いながら、二人で寄り添うようにシャワールームへ向かう。  
武骨な手が、その見た目に似合わず丁寧な動きで、わたしの体の汗と汚れを清めてくれる。  
一番ぬるぬるに汚れていた部分を、洗ってやる、と言われ、抵抗したけれど……結局、彼に身を委ねた。  
 
 
寝室へ戻ると、わたしはベッドの脇にある棚の上に伏せておいたフォトフレームを手に取った。  
フレームの中では、わたしと「家族」が幸せそうに笑っている。  
いつも行為に及ぶ前に、この写真は必ず伏せている。……なんだか見られているようで恥ずかしいから。  
写真にじっと見入っていると、背後から太い腕が伸びてきて、胸の下に巻きついた。  
わたしは彼の胸に背中をぴったりとつけながら、とすん、とベッドに腰を下ろす。  
しばらく二人で写真を眺めていたら、彼が、ぽつりぽつりと呟きはじめた。  
 
「あ…のさ、イース、今は俺もおまえも忙しいから無理だけど……」  
「うん?なあに?」  
「いつか、俺達にも、『家族』ができたらいいな……」  
「…!ウエスター……」  
「あはは、なんてな!まだまだ先の話だよな!」  
 
彼の笑顔を見ているうちに、胸の奥が、きゅうっと苦しくなって、熱くなって、その熱が喉までこみ上げ──  
「…っておい!泣くな泣くな!俺何も変なこと言ってねえだろ!?」  
知らず知らずのうちに瞳から雫がこぼれ、フォトフレームを濡らしてしまっていた。  
「ううん、違うの…嬉しくて…」  
「なんだ、びっくりした…なんていうか、おまえ、ホントに泣き虫になったよなあ」  
わたしは頬を伝う涙を気に止めもせず、彼の目を見つめて言った。  
「……今まで泣けなかったぶん、まとめて泣いてるのよ」  
 
ベッドに二人で寝転がり、うつらうつらとした状態のまま、中断していた会話を続けた。  
「向こうが、夏休みに入ったら…」  
「ん?」  
「わたし、一週間だけ、『子供』に戻ってもいいかしら…?」  
「ああ、もちろん!おまえは桃園さんちの娘でもあるんだからな」  
「ありがとう、ウエスター……あいしてる」  
普段は照れくさくてなかなか言ってあげられない言葉を口にすると、  
彼は嬉しそうに歯を見せて笑い、わたしの頭をぐしゃぐしゃと乱雑に撫でた。  
わたしはその太陽のような笑顔を瞳に焼き付けながら、ゆっくりと瞼を閉じた。  
 
 
 
──せつなぁ!おかえりなさい!会いたかったよぅ!!  
 
夢の中で、わたしはクローバータウンストリートに居た。  
愛しい少女はわたしを見つけると、満面の笑みで、人目もはばからず、わたしに抱きついてくる。  
 
──せつなちゃん、やっと遊びにきてくれたのね!うれしい!  
──もう、もっと頻繁にこっちに来てよ、寂しかったんだから、せつな…  
 
ブッキー、美希、待ってて、もうすぐあなた達に逢いに行くから。  
 
お土産に、彼と一緒に作ったドーナツを持っていこう。  
カオルちゃんのお店のドーナツと食べ比べてみてもいいかもね。  
 
桃園家に帰ったら、おとうさんとおかあさんに、久々に甘えてみよう。  
ラブと一緒にはしゃぎすぎちゃって、おかあさんに叱られちゃうかもしれないわね。  
おかあさん。わたしの憧れの人。  
わたし、将来、貴女のような女性になれるかしら…?  
大丈夫、だって彼がついていてくれるもの。きっと実現できるわ────  
 
 
彼はずっとわたしの髪を撫でてくれていた。既にわたしは深い眠りに落ちていて、そのことには気づかなかったのだけれど。  
 
 
 
 

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