春うららかな日の夕刻、日差しもぽかぽかと暖かで大きく開かれた窓からは爽やかな風がふいて来る。  
 水無月家の屋敷の一室、高い高い天井と広々とした部屋の造りは、個人の邸宅のものというよりもどこかしらの学園の談話室という雰囲気である。  
冬の間はパチパチと炎を灯し続けた煉瓦の暖炉も今はただ静かにここに在るだけだ。  
 そこへ重厚な扉を開け、この家の娘であるかれんがサンクルミエールの制服姿で少し疲れたような顔をして入って来た。  
かれんの肩に掛けられていた鞄は、中から薄い書類の束が取り出されワイン色のソファーにすとんと置かれた。  
そして大きく溜息をつきながら、かれんは窓際に置かれたアンティークの安楽椅子に座った。  
安楽椅子からはキィ…キィ…と心地の良い音がゆっくりとテンポよく聞こえて来ている。  
 高い背もたれに体を預け、目を瞑っていると否応なく考えてしまう…。  
学園での怪現象…下水道騒ぎ…あの一、二年生…プリキュア…こまちまで……そんなことがずっとかれんの頭の中でどうどう巡りしていた。  
 
…コンコンッ  
突然扉を軽くノックする音とともに、年配の男性の穏やかな声が響く。  
「お嬢様、紅茶を持って参りました」  
眼鏡を掛けた初老の執事が、ティーセットを乗せた盆を片手に扉を開けた。かれんのじいやである。  
「…ありがとう」  
かれんは瞑っていた目を開けじいやの方を向いて、いつもの平常心を装い出来るだけ優雅に落ち着いて礼を言った。  
それにじいやは、にっこりと笑んで返した。安楽椅子の隣にある小さな丸テーブルにティーセットが置かれた。  
湯気を立てながらティーポットからカップへ紅茶が注がれる。じいやは砂糖入れの蓋に手を掛けながら言った。  
「お砂糖と牛乳は…今日は幾分か多めにいたしましょうか?」  
「…?」  
かれんはじいやを見やった。  
「甘味は疲れを和らげます」  
じいやはいつもと変わらぬ優しい口調で言う。  
かれんは軽く咳払いをして、持っていた書類の束を膝の上でトントンと揃えつつ言葉を濁した。  
「コホンッ…、確かに最近は生徒会での仕事が立て込んでいたから…そのように…見えたのかもしれませんね」  
自分でも慌ててしまっているのが分かったが、じいやは何も言わなかった。  
 
 たっぷりの牛乳と多めの砂糖が入ったミルクティーが丸テーブルにカタリと丁寧と置かれ、かれんに差し出された。  
「お嬢様、どうぞ。…少しばかり甘すぎたでしょうか?」  
じいやの言葉に、かれんはミルクティーを試してみた。  
カップを顔に近付けると甘い香りがより一層強くなる、だがこの香り…嫌いでは無い。  
味もいつもよりは大分と甘いけれど、今日はこれ位の方が落ち着くみたい…そんなことを考えながら、口からカップを離して微笑を浮かべつつ言った。  
「いいえ、そんなこと無いわ。充分に美味しい。時にはこんな甘いミルクティーもいいものね」  
「お口に合いましたか、それは良かったです」  
 それから、じいやと軽い談笑をしながら、かれんは甘いミルクティーの入ったカップを幾度となく口に運んだ。  
予想以上に自分でもこのまろやかな甘さが気に入ったみたいだ、せわしなかった頭の中が徐々に落ち着いて行くのが分かる。  
 じいやはしばらくすると  
「それでは、夕食の知らせの時刻にまた参ります」  
と静かに部屋を出て行った。  
 広い部屋にまた一人になったかれん。しかし、身体も心もゆっくりと揺れる安楽椅子の様に大分と穏やかになっていた。  
 安楽椅子横の開け放たれた窓の白レースのカーテンは、春風によってふわりふわりと波打ち、カーテン越しに夕焼けの陽光が部屋にまで差し込んでいる。  
かれんはその窓の向こう側を、膝にカップセットを置きながら椅子の背に深くもたれかかって少しの間見入っていた。  
 するとカーテンの隙間の窓から、もう元の木も葉桜であろう桜の花びらが、ユラリユラリと風と一緒に入り込んで来てカップの皿に落ち付いた。  
「だけどやっぱり・・・、あの子達と…こまちにも下水道での騒ぎをもっと詳しく聞かないとね…」  
一枚の桜の花びらを見つめながら、そう小さく呟いた。そしてカップに残り少しのミルクティーを、一気に飲み干した。  
 
トゥルルルル、トゥルルルル……カチャッ  
「はい、水無月でございます」  
静かな屋敷に鳴り響く電話の呼び出し音に、じいやは急いで受話器を取りに行った。  
「あのーもしもし、秋元です。かれんは今そちらにいますか?」  
ゆったりとした口調でこまちが電話の向こうから問い掛けた。じいやは丁寧に  
「はい、お嬢様ですね。少しばかりお待ちを…」  
と答え、受話器を手に持ってかれんの居る部屋に急いだ。  
 
 部屋の前に着くと、じいやは扉をノックしながら少し早口でかれんに呼び掛けた。  
「お嬢様、秋元様からお電話です」  
・・・・・・・  
何も返事が聞こえない、物音一つせずただただ静かである。  
「お嬢様?」  
じいやはそう言いながら、ノックした右手でそのままノブを回し扉をゆっくりと開けた。  
部屋の中は三十分程前にじいやが訪れた時とさほど変わりはなかった。  
変わっていたことといえば、空のカップセットが桜の花びらを飾って丸テーブルに置かれていたことと、後ろに傾いた安楽椅子でかれんが眠ってしまっていることだった…。  
かれんは肘置きに腕を置き、高い背もたれに体を深く預け寝入っていた。  
 なるべく音を立てないよう注意して近付いて、じいやはかれんの顔を見た。  
いつもは凛々しいきりりとしたその顔つきも今は面影を潜め、幼き頃の様な無垢さと愛らしささえ感じられる寝顔だった。  
じいやは妙な懐かしさを感じて笑みが浮かんで来た。そういえば、お嬢様が居眠りをしている姿を前に見たのはいつだったでしょう…そんなことを考えていた。  
 そして手に持っていた受話器を耳にあて直して、じいやは現在のこの状況をかれんを起こさぬ用に出来るだけ小さな声で丁寧に伝え始めた。  
「秋元様?あのう、お嬢様なのですが…」  
「はい?」  
こまちはきょとんとした声で返事をした。  
「実は今…安楽椅子に腰掛け、寝入っておられまして…」  
眠るかれんを見ながら、じいやは微笑みつつ続けた。  
「まぁまぁ。かれんには珍しいですねぇ」  
声の調子からほがらかに少々笑っているのが分かった。じいやも同じように軽く笑いながら  
「そうでございますね」  
と返した。何だか妙な一体感が生まれたようだ。  
「…では、後に起きたお嬢様に秋元様からお電話があったことをお伝えしておきます。きっと今晩中にはお電話出来るかと」  
「はい、宜しくお願いします。それにしても…私もかれんの寝顔見てみたかったなぁ…なんて、ふふふ。かれん、どんな寝顔でした?」  
こまちは好奇心を抑え切れずに尋ねた。その問いに、じいやは意気揚々と少しおどけつつ話した。  
「それはそれは穏やかで安らかで…。私など、幼少の頃の無邪気なお嬢様を思い出してしまって……  
ハハハ、いけませんね、懐かしさで感傷に浸ってしまうなんて」  
 
「あらあらぁ…。そんな愛くるしそうなかれんが見れたなんて、坂本さんが羨ましい」  
そのゆっくりと話すテンポからは裏腹に、声の調子からはどこかうきうきとしたものが感じられた。  
「いやはや、こんな年老いた執事がはしゃいでしまってお恥ずかしい」  
自身を苦笑いしながら、一息ついて更に声量を落としじいやは言葉を続けた。  
「・・・それでは、お嬢様を起こしてもなりませんので…」  
「あ、はい。そうですね、折角の眠りを邪魔してはいけませんものね。  
…それでは、かれんに宜しくお伝え下さい」  
「はい勿論でございます、かしこまりました。それでは…」  
ポチッ…、じいやは通話を切るボタンを押した。  
そして目線を受話器から、かれんにもう一度移してにっこりと微笑むと足音をたてぬよう気を付けて部屋を去った。  
 
 窓枠の中に浮かぶ夕日は水平線に沈みかけ、夜の暗がりがあと少しのところまで迫って来ていた。  
ふき込む風もだんだんと涼しさを帯びて来ている。レースのカーテンは相変わらずふわりふわりと波打っていた。  
 そんな部屋の情景も知らぬまま、かれんはすーすーと微かに息を継ぎながら安楽椅子で気持ち良さそうに眠っていた。  
 

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