「どうしたの?」  
「いや、いま確かに動物の鳴き声みたいな音が、すぐ近くでした気がしたんだけど・・・」  
 
(おしまいだ。おしまいだ。おしまいだ。おしまいだ・・・)  
水下の虜囚となって以来、何度も味わった絶望。しかし、この瞬間ほど切羽詰った思いはしたことが  
なかった。窓はカーテンで塞がれているとはいえ、ほんの少し扉を開けば全ては露見してしまう。教師  
が教師に陵辱されている不道徳極まりない行為など、どう筋道立てて弁解しようにも言い訳にすらならない。  
(私の教師生命・・・いや、これまで築き上げてきたもの全てがおしまいだ・・・)  
この危機的状況にも関わらず、水下は相変わらず動じることがない。生徒に発見されれば、サツキとと  
もに彼女だってタダでは済まない事くらい分かっている筈なのに。いや、神出鬼没のこの魔女のことだ  
から、サツキを置き去りにして自分だけ姿を消すことくらいわけないのかもしれなかった。急いでどこか  
に身を潜めたかったが、身体をがっちり羽交い絞めにされているせいで、それすらも適わない。  
(神様・・・たすけて)  
他にどうすることも出来ず、藁にも縋る気持ちで祈ったその時、視界の隅で何かが動いた。あれは・・・ゴリアテ!  
(はああああああああああああああああ・・・・・・凄い! 凄い! 凄いいいいいいいいい!))  
息を呑んだ。一切の思考が脇へと追い遣られ、それ以外のものは目に入らなくなる。処女喪失時以来、  
『個人診療』のシメには必ずゴリアテが用いられた。始めはただ恐ろしくおぞましい異形の怪物でしかなか  
ったそれは、いまのサツキにとって無くてはならない愛しいものへと変貌していた。確かに体内に挿入され  
陵辱を受けている間は苦しくつらく、親から戴いた身体をキズモノにされているという屈辱に打ちひしがれね  
ばならない。しかし、それら全てを乗り越えたとき、凄まじいほどの快楽が約束されているのだ。熱く甘い陶  
酔感。肉体ドロドロに溶け落ちてしまいそうな愉悦。脳天まで痺れ雲の上を漂い彷徨うような浮揚感。魂ま  
で捧げても厭わないほどの喜悦。  
脚が自然に開いていく。ズボンが邪魔で仕方がない。いっそのこと、ズボンごと刺し貫かれても構わない、と思った。  
(どうせ、バレてしまうなら・・・我慢してるなんて馬鹿らしい。早く、欲しい!)  
そんな捨て鉢な気持ちになる。喉の渇きが限界を迎えた人間は、泥水だって啜れる。ゴリアテを前にしては、  
あの快感を味わえるならサツキはプライドを放棄して何だってすることが出来た。両手で、そっと掴んでみる。  
熱く激しく脈打ち、ヌメリとした感触は相変わらずだ。見ているだけでも分かるが、実際に触れてみて改めてそ  
れの逞しさ、雄々しさ、迫力に圧倒された。ゴリアテの先端が頬を擽る。舌を延ばし舐め上げた。  
 
「あなたたち、何してるの! 早く手伝って!」  
「あっ、すいませーん。いま行きます!」  
 
遠ざかる足音。生徒たちが行ってしまったらしい。それとともにサツキの教師生命の危機も、しばらくは遠のい  
たようだ。  
だが、いまのサツキにはそれよりも、自分が手にしている物の方が重要だった。舌での奉仕を続けるうちに、ゴリ  
アテが更に硬く逞しくなっていった気がする。それが何より嬉しかった。  
 
が、その夢のようなひと時は唐突に終焉を迎えた。ゴリアテが手の中を擦り抜けて水下の体内に戻っ  
ていってしまった。それとともに乳房と股間への指戯も止まった。情欲の昂ぶりと火照りを途中放棄さ  
れ、サツキは戸惑った。何が起きたのか分からなかった。お気に入りのおやつを、突然取り上げられた  
子供のように戸惑う。  
(ええっ、そんな!・・・どうしてぇ?)  
身を捩り、腰を揺すって無言のおねだりをしてみるが、その願いは応えられることはなかった。  
「イキたいの?」  
耳元で囁く水下の問いに、何度も頷いた。  
「中に入れて欲しいの?」  
また頷く。  
「駄目よ。もう、何もしてあげない」  
非情な宣言とともに前に突き飛ばされ、教室の床にへたり込む。ただただ、いい様に弄ばれ涙がこぼ  
れそうになる。しかし、全身を駆け巡る疼き。淫靡の火が燃え上がっているうちは、どうすることも出来  
ない。おまけに、冷酷に突き放されることによりマゾ的な悦びが芽生え、再び股間が熱くなってきた。  
最早、自分が普通の人間でなくなってしまったことを痛切に思い知らされる。  
しかし、これで終わったわけではなかった。サツキに告げられた水下の要求は、更に過酷を極めた。  
「あの・・・いま、なんて?」  
耳に届いた言葉の意味がすぐには呑み込めず、サツキは水下を仰ぎ見た。その肩に組んだ両脚が振  
り下ろされ、衝撃で床に顔を打ち付けそうになった。  
「何度も同じことを言わせるんじゃないの。『オナニーしなさい』って言ったのよ。簡単でしょ?」  
「いま・・・ここでですか?」  
「そうよ。大体、そのままじゃ欲求不満の不完全燃焼で部活の指導どころじゃないでしょ。自分でヌイて  
すっきりしていきなさい。さっ、余計な物は全部脱ぎ脱ぎしましょ」  
引き起こされ、衣服を剥がされる。下着のないTシャツとトレーニングパンツのみなので、あっという間に  
裸に剥かれた。  
「ただオナニーするだけじゃ、つまらないから制限時間を設けましょ。三分でイキなさい。もし、オーバーし  
たら、また罰をあげる。さぁ、始めなさい」  
不安になって、訊いた。  
「あの・・・罰って?」  
「その格好のまま、外に放り出してあげる。ほら、時間を無駄にしない。もう三十秒経っちゃたわよ」  
自分が受け持っているクラスで、裸になって自分を慰めてみせなければならない。惨めな気持ちでいっぱ  
いになったが、水下に命令されたからには従わなければならない。それに『裸のまま外へ放り出す』という  
言葉が重く圧し掛かってくる。彼女なら本気でやりかねない。そうなったら、今度こそ全てが終わってしまう。  
(やれるだろうか?・・・でも、やるしかないのね)  
床に身を横たえ見慣れた教室の天井を見上げる。目を閉じて指を乳房と股間へ這わせる。先程まで水下に  
嬲られていたそこは、まだ余韻が残っており気持ちを昂ぶらせていくのは案外容易だった。  
グラウンドの方から子供たちの声が聞こえる。暑い最中、一生懸命に青春の情熱を燃やして励んでいる彼ら  
と薄暗い教室に篭り自慰にふけっている己との落差に今更ながら愕然とした。  
 
(みんな・・・ごめんね)  
耳を塞いでしまいたい。子供たちの声が届くたびに、胸が締め付けられるような思いが募る。神聖な  
学び舎で破廉恥な行為を繰り返す自分を非難し、責め立てる怒声に聞こえた。  
だが、無論そんなことは出来ない。いま、手を乳房と股間から離してしまうわけには。目は閉じたまま  
だったが、水下が凝視しているのがはっきりと感じられた。きっと時間を計測しながらサツキの狂態を  
じっくりと観察しているに違いない。一秒も無駄にするわけにはいかなかった。もし、愚図愚図している  
うちに三分経過してしまったら、その後は・・・考えたくも無い。今は何より一国も早く気をやってしまわな  
ければならなかった。  
程なくして身体の奥底から甘い痺れと熱が同時に全身を伝わり駆け抜けていった。水下の視線も子供  
たちの声も遠くに消えて気にならなくなっていく。固い床の上に横たわっているはずなのに、ふわふわと  
広大な海の上に浮かんでいるような奇妙な解放感に酔いしれた。  
 
『先生、何をなさってるんですか!?』  
不意に聞こえた咎めるような声に目を開けてみれば、やはりそこは教室で・・・クラスの子供たちが横臥し  
ているサツキをグルリと取り囲み唖然とした顔で見つめている。  
『先生、ここを何処だと思ってるんです。学校ですよ。教室なんですよ。それなのに裸で、そんなことをして  
るなんて・・・』  
『信じられないわ。どういう神経をしてるのかしら?』  
(バレちゃった・・・ああ、とうとうバレちゃったわ・・・)  
来るべきときが来てしまった。いずれは、こうなることは分かっていた。だから、口では嘆いてみても胸の内  
には不思議と哀しみはない。むしろ、ホッと安堵の息をついていた。一番、知られたくない子供たちに知られ  
てしまった。秘密が秘密でなくなった。もう、ビクビクしながら過ごす必要は無い。  
堂々と、いつでも快楽を貪ることが出来るようになったのだ。  
『先生は真面目なふりをしながら、本当はすごくスケベだったんですね』  
『変態っていう奴だな』  
『そのくせ、僕たちの前では教師面して一人前に説教し続けてたんだ』  
『非道いわ。許せない』  
『先生・・・いや、もうこんな奴は先生なんかじゃない。こいつは僕たちに嘘を突き続けてきた裏切り者だ』  
『この前、欠勤したんだって仮病だったのよ』  
『きっと、そうよ。心配して損したわ』  
『信じてたのに。裏切り者!』  
(ごめんなさい。ごめんなさい。みんな、本当にごめんなさい・・・)  
次々と浴びせられる罵詈雑言、侮蔑の眼差し、嘲笑にサツキはただ耐え、謝罪を繰り返す他なかった。彼らの  
いう通りだ。自分は子供たちを裏切り嘘を突き続けながら、偉そうに教師として指導を行ってきたのだ。彼らが憤  
るのも無理はない。許してもらえるとは思えないが、それでもひたすら謝罪を続けた。だが、その間も乳房と股間  
を弄る指の動きが止むことはなく、それは著しく説得力に欠けるものだった。  
学級委員の安藤加代が耳元で囁く。  
『先生、オナニーってそんなに気持ちいいものなの? 人に見られながらでも止められないの? むしろ、見られて  
る方がいいものなの?』  
(ごめんなさい・・・そうよ、どうしても止められないの。だって命令されちゃったんですもの。分かってもらえるとは思  
わないけど、すごく・・・すごく、いいのよ)  
何を思ったか、加代はサツキの乳房に手を伸ばし弄り、揉み始めた。  
『加代、何をしてるの? 汚らわしいわ』  
『そうよ、この女は私達を欺き続けて来た汚い大人の一人なのよ。だったら、私達の手でもっと汚くしてやるの。中途  
半端じゃ済ませないわ。それにね、いやらしいだけあってこの女の身体、とっても柔らかくて気持ちいいのよ。皆も触  
ってみてごらんなさい』  
次に瞬間、あらゆる方向から何十本という手がサツキの身体を弄り出した。冷たい手、熱い手、ザラザラとした手、汗  
で粘ついた手、様々な手が指がサツキを撫で回し、引っ掻き、突付き、弄っていく。まるで巨大な竜巻の中に投げ出さ  
れ、翻弄されているようだ。  
 
そして、その拙いながらも熱心な手の愛撫が、これまでにない快感をもたらしていた。  
(あああああああああああ、凄いわ! こんなの生まれて初めてよ。凄い、凄い、凄い  
いいいいっ!)  
『先生、気持ちいいの? こんなことされても気持ちいいの?』  
誰かが囁く。サツキは何度も頷いた。広がる嘲笑。そのうちに、得体の知れない生温か  
い感触がした。誰かが舌を使っているらしかった。それがやがてサツキの敏感な箇所に  
触れて・・・  
(はああああああああああああああああああああああああああああんんんんんっ!!)  
眩いばかりの閃光が弾け飛んで、頭の中が真っ白になった。  
 
(行き当たりばったりの思いつきだったけど、やってみて大正解だったねえ)  
水下は半ば呆れ気味の表情を浮かべ、今回の成果に目を瞠る思いがした。最初はいつ  
もの段取り通り、ゴリアテでとどめをさして終わるつもりだった。が、直前になって突然、  
気が変わった。サツキのテリトリーである教室で自分を慰めさせてみて、どんな反応をす  
るか見てみたくなった。正直、たいして期待もしていなかったのだが、まさか、これほどとは・・・  
目の前の床の上に、その結果があった。身体を胎児のように丸め、余韻に浸っているのか  
ヒクヒクと痙攣を繰り返し白目を剥いて横たわるサツキ。何かに憑かれたかのように身を打  
ち震わせ、なまめかしい嬌声をあげながら最後には派手に失禁して果てた。  
見世物としては、これ以上のものはなかった。流石の水下もこみ上げる昂ぶりを押さえきれ  
ずに、サツキを陵辱したい衝動を必死になって堪えなければならなかった。これは、サツキ  
一人にやらせてこそ、意味のあるものなのだから。  
しかも、時間はきっちり三分。こういうところは実に律儀というか微笑ましい。  
「起きなさい、サツキ。いつまでも、そんな格好で寝っ転がってたら風邪引くわよ」  
「ごめ・・・ごめんな・・・さい・・・ご」  
「もう、しょうのない子ね!」  
首根っこを引っつかみ、無理矢理引き起こして頬を軽く打つ。サツキの目がようやく開いた。  
が、まだ半分夢の中にいるような濁った瞳をしている。  
「ほら、しゃっきりしなさい。いい加減にしないと痛い思いをすることになるわよ」  
「ここは?・・・」  
「気持ちよすぎて、脳がイカレちゃったの? あんたは篠原サツキ。この学校の教師。まだ部  
活の途中でしょ。はやく子供たちのところへ行ってあげないとマズいんじゃないの?」  
「子供たち・・・」  
頬を打たれ、覚醒したもののサツキは未だ夢の中を淫夢の中を彷徨っていた。目の前にいる  
女性。怒っているような嘲笑っているような不思議な表情をしている。よく知っている人の筈な  
のに、名前が思い出せない。なにか大声で喚いているが、半分も意味が分からない。しかし、  
一つだけはっきりと伝わってきた単語があった。  
『子供たち』  
そうだ、ここには子供たちがいたはずだ。私の恥ずかしい秘密を知られ、非難され、糾弾され、  
責められた。つい今しがたまで大勢いたはずなのに、みんなどこへ・・・。  
徐々に意識がはっきりしてくる。現実と淫夢の混沌の沼から這い出し、突きつけられた真実。そ  
れは、自分でしてしまったこととはいえ、とても受け入れられる物ではなかった。  
(なんていうことを・・・私は、一体なんていうことをしてしまったのか・・・)  
強制された自慰。切羽詰った成り行きであったが、気持ちを昂ぶらせるために子供たちを利用し  
てしまったのだ。そしてそれは、まんまと功を奏した。わたしは、子供たちをエクスタシーを得るた  
めのエサにしてしまった。  
彼らだけが唯一の希望だった。心の支えだった。それを私は自身の手で汚し、踏みにじってしまっ  
たのだ。  
 
(もう嫌、もう駄目、これ以上は、私・・・もたない)  
涙が頬を伝った。何度も何度も止め処もなく。堪えに堪えていたものが遂に限界を越えてしまった。  
嗚咽を繰り返し、号泣した。床に蹲り肩を震わせ、あらん限りの声を張り上げ泣き崩れた。  
このまま気が狂ってしまうなら、それでも良かった。身体中の水分が涙になって流れ出て干からび  
てしまうのなら、それでも良かった。もう二度と子供たちの前に立たなくて済むのなら。もう彼らに逢  
う訳にはいかない。逢えばその度に思い出さざるを得ない。自分のしでかしてしまった事。あの侮蔑  
の眼差し。非難の声。例えそれが夢の中の出来事だったとしても、生涯拭い去ることの出来ない悪  
夢として悩まされ続けることになるだろう。自分にはとても無理だ。  
 
さすがの水下も、サツキのこの変貌ぶりにほとほと手を焼いていた。つい今しがたまで白痴のように  
薄ぼんやりしていたかと思えば、突然火がついたように泣き出して止まらなくなった。手を触れようと  
すれば嫌々をする様に振り払われ、取り付く島もない有様だ。  
(一体全体、なんだって言うんだい?)  
だが、これは少々マズイ事態だ。サツキの様子は只事ではない。明らかに越えてはならない一線を  
越えようとしている。このまま放っておけば、間違いなく壊れてしまうだろう。いつもならそれなりに気  
をつけてはいるつもりだったが、今回はさじ加減を間違えてしまったらしい。  
(さて、どうしたものか?・・・)  
しばらく考え込んでいたが  
(仕方が無い。イチかバチか・・・)  
サツキの髪を掴み、無理矢理顔を引き起こし、それでも嗚咽を漏らし続けるサツキの唇を強引に唇  
で塞いだ。  
毒物も、使い方次第で立派な薬になる。  
水下は魔族だけが持つ『毒気』を、直接サツキの体内へ注入していった。  
 
(これ以上、恥と罪を背負い続けて生きていられない・・・)  
牝としての性的衝動と教師としてのプライド。二つの相反するサツキの心の軋轢の深刻さは、水下の予想を超える  
ものであり、それによって追い詰められた理性は、加速度的に崩壊と狂気の淵へ転げ落ちようとしていた。もう、何  
も見えない。何も聞こえない。目からは涙が溢れ、鼓膜には自身の嗚咽が木霊する。突然、呼吸が苦しくなった。こ  
れまでの経験から唇を犯されていることが分かった。しかし、すぐにこれがただの接吻でないことに気付いた。  
・・・寒い! 蒸し風呂のような教室の中なのに、物凄い勢いで体温が低下していく。あり得ないほどに冷たい。恐怖  
のあまり唇を引き剥がそうと抗っても、後頭部をがっちり固定されて動かすことも出来なかった。身体が痺れて、自  
由が利かなくなってきた。重い。動けない。昔、食中毒にあって倒れたことを思い出した。あの感覚に近いのだろうか。  
(私・・・死ぬの? こんな形で。なんて惨めな、なんて滑稽な・・・)  
ほんの今まで、死さえ厭わない気持ちでいたが、こんなわけのわからない苦痛に満ちた死に方はしたくなかった。だ  
が、やはりどうすることも出来ない。全てを諦めそうになった時、唇が解放された。およそ三十秒足らずの短い時間だ  
ったが、永劫のように感じた。  
激しく咳き込み、そして・・・こみ上げて来る凄まじい嘔吐感。身体をくの字に曲げて吐き出そうとするが、今度は口を  
手で塞がれ床に押さえつけられた。目の前には能面のように感情をみせない水下の顔があった。何か言っている。パ  
ニックに陥ったサツキの耳には届かなかったが、何故か意味は通じた。  
『吐くな。我慢しなさい。死ぬ気で堪えろ』  
(そんな・・・無理です!)  
安堵したのも束の間、喉元までせり上がってくる胃の内容物によって気管が詰まって窒息しそうだ。ただでさえ、打ち続  
く疲労によってサツキの体力はとうに限界だった。せっかく助かったと思ったのに、今度こそ本当に駄目らしい。意識が  
遠のいていく。  
・・・目が覚めたとき、自分がどこにいるのか分からなかった。二重写しのような視界の焦点がようやく合えば、やはり教  
室で・・・  
「気が付いたかい?」  
水下の膝を枕にして横たわっていた。水で濡らしたハンカチが額に乗せられている。いつの間にか、ちゃんと服も身に身  
に付けていた。どれくらい、こうしていたのだろうか?  
「あの・・・私・・・」  
慌てて身を起こす。あれほど強烈だった嘔吐感は、さっぱりと消えていた。頭はまだクラクラするが、不思議と気分は悪く  
ない。立ち上がろうとして・・・脚がもつれた。  
「あっ・・・」  
「おっと!」  
思わず、水下に縋りつく格好になる。  
「大丈夫?」  
「す・・・すいません」  
ひどく照れ臭い思いがして、すぐに離れようとしたら、グイッと腕で引き戻され指で顎の下を押し上げられた。そして再び、  
唇を奪われる。先程の寒気と嘔吐感の直後であり、一瞬、身が竦んだが今度はいつものままの、それはそれは素敵な  
キスだった。  
侵入してきた舌を舌で出迎え、唾を飲ませてもらう。絶対の支配者から与えられる甘い陶酔に、ただ身をゆだねるしかな  
い切ないけれど、何物にも変え難いひと時。  
離れようとする唇を、逃がすまいと必死になって追いかける。水下はサツキより頭一つ分背が高いので、こういう時はいつ  
も背伸びをしなければならない。よろめきながらもキスをせがむ可愛らしい姿を面白そうに見ていた水下だったが、やがて  
指でサツキを小突いて呆れた口調でたしなめた。  
「こらこら、こんなんじゃ何時まで経ってもキリがないでしょ。今夜またいつもの時間に保健室へいらっしゃい。もっと可愛が  
ってあげる。それまであなたはお仕事をきちんとやってらっしゃい。ここの後始末はやっておいて上げるから」  
ポンッと尻を叩いて送り出された。これは水下が正しい。『失礼しました』と、頭を下げて教室を後にし、放ったらかしにしてき  
たグラウンドの子供たちのところへ向かう。  
目の端に手を触れると濡れていた。涙を流した跡がある。一体、何故泣いていたのか? ひどく哀しいことがあったような気  
がするのだが、それがどうしても思い出せない。無理に考え込むと、こめかみがキリキリと痛んだ。  
まあ、いい。いまはそれよりも子供たちだ。『教師』から『玩具』への切り替えは容易だが、逆は正直かなり困難だった。  
(私は教師。ソフトボール部の顧問。もうすぐ大切な練習試合がある。子供たちのためにも、私がしっかりしなきゃ・・・)  
懸命に自分に言い聞かせ続けるが、どうしても心は今夜の保健室へ飛んでいってしまう。  
 
『もっと可愛がってあげる』  
あの悩ましい言葉が、頭にこびり付いて離れない。頬が熱く火照る。知らず知らずに股間に手がのびていく。いま  
まで散々、気をやってきたばかりなのに、もうそこはしっとりと湿ってきていた。  
 
 
女の子は噂や内緒話が好きだ。それが、色恋沙汰ともなれば尚更。それに関しては日向 咲とて例外ではなかった。  
放課後。咲がグラウンドで練習前のウォーミングアップをしていると  
「ねえ、咲。ちょっと、ちょっと」  
同じソフトボール部の伊東 仁美がいかにも『ナイショ話ですよ』というオーラを漂わせて話しかけてきた。  
「私さぁ、マジすっごい情報仕入れてきたんだけど、知りたくない?」  
「話を降っておいて、もったいぶらないでよ。一体、何なの?」  
「てへへ、実はさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」  
「ええええええええええええええええええええっ!!! 篠原先生に好きな人がっ・・・ふがっ!」  
「しっ、馬鹿っ! 声が大きいっ!」  
何しろ、噂の当人が同じグラウンドにいるのである。案の定、  
「こら、そこの二人! 騒々しいぞ! 集中しろ!」  
と、怒られる羽目に。  
「はい、すいませんでした! ・・・・でさ、その話本当なの?」  
それでも、話は止めようとしない。それだけ、この噂の内容は魅力的なものだった。  
「いや、私もそこまでは。あくまで噂だから」  
「な〜んだ。喰いついて損した」  
「でも、国語の野村先生があやしいって」  
「野村先生かぁ」  
ハンサムで気さくで、授業も面白いと生徒からも他の先生方からも人気のある先生だ。なるほど、篠原先生とならお似合  
いかもしれない。  
何故だか、突拍子もなく和也さんのことが思い浮かんだ。  
(わたしと和也さんは・・・どうかなぁ?)  
一週間前の練習試合。咲たちは勝ったのだ。あの強豪黒潮中に!  
その応援に和也さんも来てくれていた。最終回、最後の攻撃の場面。バッターボックスに立つ咲。  
双方、譲らず0対0.。全ての期待が咲のバットに込められていた。これで緊張しない方が、どうかしている。その時、視線を  
感じた。遠い観客席。和也さんだ。和也さんと目が合った。  
(頑張れ! 自分を信じて!)  
そう励まされている気がした。  
(はい、和也さん!)  
投げられたボール。思い切りバットを振った。快心の一打。青空に飛んでいく白いボール。轟く歓声。抱き合って喜ぶ一同。  
全てが一瞬の出来事だった。  
その晩は、興奮して眠れなかった。いまでも思い返すたびに身が奮える。血が騒ぐ。  
(和也さんのおかげ・・・だよね)  
「なにニヤニヤしてんの?」  
仁美が訝しげに尋ねるが、  
「ううん、なんでもない」  
と、誤魔化しておく。これはわたしだけの秘密だ。そして篠原先生を見る。先生に本当に好きな人がいるんだとしたら。どうか、  
その人と幸せになって欲しいとねがった。  
彼方の空でゴロゴロと雷鳴がした。今晩から荒れた天候になりそうだと予報では伝えていた。  
 
季節は緩やかに夏から秋へと移行しようとしていた。  
 
 

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