「篠原先生、ちょっと――」  
昼休み。午前の最後の授業を終え教員室へ戻る途中、篠原サツキは後ろから自分を呼び止める声に気  
付いた。振り返ると、そこに立っていたのは浅黒い肌をした彫りの深いエキゾチックな美貌と長身でスラリ  
と伸びた抜群の肢体の持ち主。ちょうど一ヶ月前、新しく赴任してきた保健室のカウンセラーの女性だ。  
名前は――ちょっと珍しい呼び方で――そうそう、確かターレィ・水下。ハーフだったかクオーターらしい。  
「水下先生、何か?」  
サツキの声が、ちょっと強張ったのは水下の声や表情に思いつめたような色を見たからだった。  
(もしかして、生徒の誰かがケガでも?)  
「実は篠原先生に折り入って、内密に相談したいことがありまして――」  
最悪の予想が外れた事に軽く胸を撫で下ろしながら、水下の言葉に首を傾げた。思えば赴任してきた初日、  
教員室に挨拶に来たとき以来、彼女と顔をあわせたことがほとんどない。まともに会話したのは、おそらく今  
回が初めてのはずだ。そんな水下先生が、自分に相談とは何だろう?  
「何でしょう? 私に出来ることでしたら――」  
「それが、ここではちょっと……」  
と、言って周囲を見渡す仕種をする。昼休みの渡り廊下。生徒や他の教員の往来も激しい。内密の話に相応  
しい場所でないことは確かだ。  
「それでしたら、こちらへ」  
サツキは近くの理科準備室へ水下を案内した。ここなら静かだし、この時間他人の来る危険は少ない。  
「それで、ご相談とは?」  
「実は――」  
意を決したという風に、大きく息を吐いてから水下は話し出した。その内容はサツキにとって驚くべき、そして信  
じ難いものだった。  
彼女曰く、サツキの担任である2年B組。そのクラスの生徒の一人がイジメに遭っていて、水下のところへ事実  
を打ち明け相談しに来たというのだ。  
「まさか――」  
あまりに突拍子も無い話に、サツキは笑い出しそうになったが、水下はニコリともしなかった。事態の重大さを認  
識し、血の気が引いていくのが分かる。クラスの子供たち。みんないい子ばかり。一人一人の名前、顔、性格、全  
て把握しているつもりだった。まさか、自分の知らないところで、そんな恐ろしい状況が推移していたなんて――。  
言葉もなく立ち尽くすサツキの両肩を、水下が叱咤するようにポンと叩く。  
「しっかりしてください、篠原先生。あなたがパニクっていたら、解決する問題も解決出来ませんわ。――時間も時  
間ですし、放課後に保健室の方でもう一度話し合いましょう。その時にもう少し具体的な内容もお話しいたしますわ」  
その姿は、迷える子羊に救いの手を差し伸べる聖母のように神々しく頼もしかった。  
「――そう、ですね。わかりました。では、また後ほど。よろしくお願いします。それじゃ……」  
突きつけられた現実の重さに愕然としたまま、サツキは挨拶もそこそこに逃げるように理科準備室を飛び出した。  
(どうしよう。一体、どうしたら?)  
水下の言うように冷静にならなければと思うのだが、疑心、疑念、不安、焦燥……様々な負の感情のノイズが渦巻い  
て、落ち着いてなどいられない。  
サツキは一度も後ろを振り返らなかった。そのため――先程とは打って変わって欲情に瞳をギラつかせ、唇の端を吊  
り上げほくそ笑む、悪鬼のような表情を浮かべて自分を見送る水下の姿に全く気付きもしなかった。  
 
 
 
午後。幸い、なのか2年B組での授業はなかった。  
(イジメ――まさか、私の担任のクラスで? 信じられない。だけど……一体、何が起きているのか?  
何を見過ごしていたのか? イジメの被害に遭っているのは誰なのか?)  
サツキは、水下から詳しい内容を聞き逃していたことを今更ながらに悔やんだ。落ち着いていたつも  
りだったが、やはりかなり動揺していたらしい。授業どころではない。すぐにでも保健室へ駆け込んで、  
水下から詳しい事情を全て教えてもらいたい気持ちがつのった。  
だけど、私は教師なんだ。と、思いなおす。己の失態を学業に専念する生徒たちに押し付けるような  
行為は許されない。  
――ショックだった。  
自分のクラスでイジメが発生していたこと。自分がそのことに気付いてもいなかったこと。被害者の生  
徒が自分にではなく、新任の保険医に相談していたこと。  
(私って、頼りないって思われてるのかしら……)  
水下先生とは、これまでほとんど面識がなかったがルックスもスタイルもモデル張りで、尚且つ明るく  
気さくな性格で生徒や他の教員からの信頼も高く、評判も良いらしい。  
(嫌だ。私ったら……)  
頭を振って、軽く頬を叩く。醜い感情を消去する。  
(水下先生に嫉妬してる場合じゃない。いまはイジメられてる生徒のことを考えなきゃ。水下先生の言  
ったとおり、私がしっかりしていなかったら解決する問題も解決しない)  
その時、自分の名前を何度も呼ばれていることに気が付いた。  
「えっ?」  
我に返ると、教科書を持った生徒が怪訝な顔つきで立っている。周囲の生徒も一様に同じ表情で自分  
を見つめていた。  
「あの……読み終わりましたけど」  
そうだった。まだ授業中だった。意識が完全に飛んでいた。  
「ご、ごめんなさい。それじゃ、ええと次は……」  
(とにかく、いまは放課後を待つしかない)  
サツキは全力で、教師としての自分に気持ちを切り換えた。  
 
 
待望の放課後。本来ならこれからソフトボール部の指導にあたらなければならないのだが、休み時間  
のうちにキャプテンの泉田に『今日は都合により参加できない』旨を伝えておいた。これで、じっくり水下  
先生と問題について協議できる。  
足早に保健室へ向かう。  
「水下先生、篠原です」  
ドアをノックするのも、もどかしい。待ち構えていたようにドアが開き、水下が出迎えた。  
「ようこそ、篠原先生」  
「それで、あの――」  
聞きたいことは、山ほどある。詰問責めにしようとするサツキを  
「まぁ、篠原先生ったら、ちょっと落ち着いてください」  
と、余裕たっぷりの物腰で制した。  
「そんな、これが落ち着いてなんか――」  
「落ち着きなさい」  
再度、ピシャリと言い放つ。  
「実は、そのイジメの被害に遭っている生徒から、その経緯を書き綴ったノートを預かってますの。それを  
呼んでもらえれば、私が話すよりも容易にお知りになりたいことを全部把握していただけるはずですわ」  
「――わかりました」  
(本当に、私ったら……)  
大事な時に浮き足立って、気持ちばかりが焦っている――教師失格。まるで素人以下だ。それに比べて水  
下先生の貫禄のあること。  
(被害に遭った生徒が私よりも水下先生を選んで相談しても、仕方ない話だわ)  
正直、自分に悩みを打ち明けに相談に来ていたら、ちゃんと対処できたかどうかすら疑わしい。こうして水下  
先生がいてくれなかったら、どうなっていたことか。  
窓際の机。そこに置かれている有り触れた一冊のノート。  
ゴクリと唾を飲む。いまになって事実を知ることに軽い恐れを抱いた。  
(しっかりしなさい、サツキ。あなたがそんなことで、どうするの! 生徒がSOSを発信してる。あなたを必要と  
してるのよ)  
ゆっくりと近付いていく。ノート以外に目に入らなくなる――そのため、水下が自分の背後にまわったことに気  
が付かなかった。  
ノートを手に取り、表紙を捲ろうとした瞬間、突然背後から抱きすくめられ、顔に布のようなものを押し付けられた。  
(――えっ?)  
何が起きたのか分からず、それでも恐怖に駆られ逃れようと足掻いたが、布から染み出る鼻を衝く強烈な刺激  
臭を嗅いだ瞬間、全身から力が抜けて意識が遠のいていく。そして、そのまま昏倒してしまった。  
操り糸を断ち切られたマリオネットのように頽れたサツキを抱きかかえ、水下は会心の笑みを浮かべた。  
「首尾は上々。上手くいったわ」  
窓の外からは、グラウンドで部活動に励む子供たちの声が聞こえる。この部屋の異常な状況とは、まるで別世  
界のよう。  
 
「まずは、第一段階終了っと♪」  
水下が笑った。美しい顔を歪め、瞳は喜悦に満ちて耳もとまで裂けた口からは銀色に輝く細く鋭い牙が覗く。  
――これから始まる楽しい一夜に思いを馳せ、高らかにいつまでも笑い続けた。  
 
 
(――う……ううっ)  
頭痛――それも特大級の――意識を取り戻したとき、真っ先に襲われた感覚。とにかくひどい気分だ  
った。  
(私、どうしちゃたんだろう?)  
瞼が糊付けされたかのように重い。それでも無理矢理にこじ開けて見る。視界がグルグルと廻った。し  
ばらくして、それにも慣れてくると自分がベッドに寝かされていることが分かった。電気は点いているよ  
うだが、ベッドの周囲はレモン色のカーテンで覆われ薄暗い。だけど、どこか見覚えのあるような雰囲  
気。微かに鼻を刺激する薬品の臭い。  
(病院?――違う、保健室。そう、保健室だ!)  
思い出した。担任のクラスで発生しているというイジメの問題について、水下先生と相談するために保  
健室へ出向いたのだった。それから――それから、どうなったのだろう?  
(いま何時かしら? いつから、ベッドに? とにかく水下先生に会って話を……)  
起き上がろうとして――動けない。ガチャリと金属の鳴る音。手首に感じる圧迫感。  
(――?)  
怪訝に思い、手首を見て驚愕した。頑丈そうな革手錠が嵌められそこから伸びた鎖がベッドの柵に繋  
がれていた。手首だけではない、足首も同様だった。確認出来ないが首にも違和感がある。恐らく首輪  
が嵌められているのだろう。まるで生物の授業で行われる解剖用のカエルのように、ベッドに磔にされて  
いるのだった。驚くのは、それだけではなかった。いつの間にか衣服を一切剥ぎ取られ、下着すら身に付  
けていない。恥部を隠す布切れさえない完全な素っ裸にされていた。  
(なに、何なのこれ? 私、目が覚めたつもりで、まだ夢を見ているのかしら?)  
そうだ。きっと、そうに違いない。こんな非常識な現実味の無いことがあるはずが無い。しかし、今尚続く頭  
痛、肌に直接触れる冷気、革手錠の感触、カラカラに渇いた喉のひりつきは夢とは思えないほどリアルだった。  
夢じゃない。これは現実に起きていることなのだ。背筋がゾッとした。  
試しに精一杯力をこめてもがいてみたが、僅かに肘と膝が動く程度でビクともしなかった。首が絞まって息  
が苦しい。激しく咳き込んだ。  
ショックが大き過ぎる反動からか、サツキの心は不思議と落ち着いていた。だからと言って、事態は一向に  
進展しない。  
(私一人じゃ、どうにもならない。誰か助けを呼ばないと)  
ここは校舎内だ。まだ他の教員や生徒が残っているかも知れない。だけど、仮に助けが来たとしても、この  
浅ましい姿を見られるのは、いくらなんでも抵抗があった。自分にさえ理解できていないのに、どうこの状況  
を説明したら良いのだろう?  
サツキが途方にくれていると、カーテンの外でコツコツと足音が響いた。  
(誰かいる!)  
助けてもらえることへの安堵と、裸を見られることへの不安が綯い交ぜになったまま、とにかく  
「たすけて!」  
叫ぼうとした瞬間、サァッとカーテンが開かれた。眩しい光が目を射る。  
「あらあら、ようやくお目覚め?」  
面白がっているような、楽しそうな、およそこの異常な状況下には相応しくない声。  
逆光で姿が見えないが、その声には確かに聞き覚えがあった。  
 
 
「――水下先生……」  
 
 
考えてみれば、この部屋の主である水下がいることには何の疑問もない。  
サツキは胸を撫で下ろした。  
訳も分からないまま、一人放り出されていた時に知った顔に出会えた喜び。  
これで助けてもらえる。私が保健室に来てから何があったのか、彼女なら何もかも知っているはずだ。  
一刻も早く、何故自分がこういう状況に陥ってしまったのか、理由が聞きたい。  
同時に懸念も抱いた。  
彼女の態度。  
何故、私を見下ろしたままでいるのだろう? 何故、すぐに助けてくれないのだろう? 何故、この有様  
を見て驚かないのだろう? 何故、彼女は薄ら笑いを浮かべているのだろう?  
「水下先生、わたし……」  
「まぁ篠原先生ったら、汗ビッショリ。怖い夢でもご覧になって?」  
そう言ってポケットからハンカチを取り出し、サツキの額を拭う。まるで何事もないかのように。  
サツキの悪夢は、現在も継続中だった。  
「何してるんですか! これが見えないわけじゃないんでしょう? 早く助けて下さい!」  
思わずカッとなって叫ぶ。しかし、水下は意に介した風も無く  
「フフフッ、そんな勿体ないこと出来ませんわ。革手錠が、とってもお似合いですわよ、篠原先生」  
胸の中で燻っていた不吉な思いが、現実味を帯びてきた。  
「まさか……まさか、水下先生ですか、私をこんな目に遭わせたのは?」  
「ピンポーン♪」  
人差し指を立てて、にこやかに告げる。自分が仕掛けた悪戯が見事に成功した子供のような無邪気さ  
で。サツキの言葉を無くし強張った表情とは好対照だった。  
「そんな――それじゃ!」  
ハッとした。もしかして最初から……  
「またまた正解♪」  
水下が手にしているのは例のノート。サツキに見せるようにページをパラパラと捲る。中味は予想通り、全  
て白紙だった。  
「私を騙したのね! 騙したうえに、こんな事を! あなた、気でも狂ったんですか!? 悪ふざけにもほど  
が……」  
憤りのあまり絶叫するサツキの唇を、水下の手が塞ぐ。  
「どうかお静かに篠原先生。そして、ご安心を。私別に狂ったわけでも、悪ふざけをしているつもりもありませ  
んの。それどころか、私常に真面目で真剣ですわ。――そんなことより、篠原先生。先生の身体って服を着  
てらしても素敵ですけど、素っ裸にして直に触れてみた方が比べ物にならないほど素敵ですわ。フフフッ、た  
まらない」  
そう言って、唇から下顎、首筋から鎖骨、乳房から下腹部へと、水下の冷たい指が掌が無遠慮に這い回る。  
そのおぞましさに鳥肌がたった。  
「やめて……やめなさい!」  
「嫌です」  
いくら声を張り上げ睨みつけても身動き一つ出来ない状態では、この恥辱を止める術がない。サツキは己の愚  
かさを今更ながらに悔やんだ。  
(私がもっと子供たちのことを信じていれば!)  
こんな女の言うことを鵜呑みにして、みすみす狼の巣の中に飛び込んでしまった。自分の企てた罠に、あっさり  
と嵌まっていく私を見て、この悪魔はさぞかし楽しかったろう。嘲笑っていたことだろう。  
それを思うと、ひたすら悔しかった。  
 
 

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