何の変哲もない、ある日の午後。
シャオは、廊下を歩くマリーに気付いて足を止めた。
家事の後始末だろうか、大きなポリバケツを抱えている。
「マリー」
「あ、シャオ君。どうしたの?」
「手伝おうか?」
「……え?」
何故か、ぽかんとした表情を見せるマリー。
しかしシャオがそれに気付いて言葉を発するより先に、マリーは表情を元に戻していた。
「大丈夫」
そう言うと、マリーは柔らかな笑みをシャオへと向ける。
今度はシャオが、ぽかんとした表情を見せていた。
「でも、マリーが持つには重いだろう?」
「ううん、そんなことないよ」
「大変そうじゃないか」
「平気だよ、いざとなったらテレキネシス使えばいいから」
「そこまでしなくてもいいだろう」
「でも、悪いよ。大丈夫だから気にしないで」
「そんなことはないさ、手伝」
「いいよ!」
マリーにしては珍しく、強い口調で遮られる。
シャオが驚いて硬直していると、マリーは眉尻を下げて困惑したような表情を浮かべていた。
「…あ、あのねっ。ごめん、本当に大丈夫だから!」
「……そうか」
「それじゃ、私行くから…。あの、本当にありがとう!」
「………ああ」
顔を赤らめて、ばたばたと立ち去るマリー。
シャオは呆然として、その後姿を見送っていた。
代わりにポリバケツを持ってやろうと差し出した手だけが、虚しく宙を彷徨っていた。
「シャーオー君♪」
「うわあああっ!!?」
背後から飛んで来た、とても愉快そうな声。
慌ててシャオが声の方を振り返ると、ヴァンがこれまた愉快そうな表情でシャオを眺めていた。
「…何をしているんだ」
「見て分かりません?」
「分からないから聞いているんだ」
「シャオ君の真似です」
「?どういう事だ」
「ストーキングをしてみただけです」
「失礼だな!」
「えー、だっていつもマリーさんを覗いてるじゃないですか?」
「人聞きが悪いな!俺はそんなことはしていない!!」
「ああ、どこぞの家政婦ばりにマリーさんを物陰から見守っていると」
「そうだな…、いや待て!結局は一緒じゃないか!!」
「だって、シャオ君はストーカーじゃないですか」
「それが違うと言っているんだ!」
小首を傾げ、シャオが何を言っているのか理解出来ないとでも言いたげな表情を浮かべるヴァン。
その純粋な瞳は「シャオはストーカーである」という説に、何の疑問も抱いてはいないようだった。
「折角勇気を出して声をかけたのに、あんなにバッサリ切り捨てられるなんて可哀相ですよねぇ」
「余計なお世話だ!!!」
これでもヴァンなりに、シャオを励ましているつもりらしい。
しかし憤慨した様子で、ヴァンに背を向けて歩き出すシャオ。
その背中を追い、ヴァンも後について廊下を歩いていた。
「何だよ!!」
「散歩です」
「なら、他所に行けばいいだろ!」
「シャオ君がどこに行くのか気になるんです」
「…図書室だよ」
「ああ、この時間はいつもマリーさんが洗濯物を片付けてますよね」
「…それがどうした」
「図書室の前も、通るんじゃないですか?」
「何でそれを知ってるんだ!?」
「知りませんよ?」
「……何だと?」
「ただ、そうなのかなぁと思っただけなんですけどね」
「な…ッ!?」
慌てて振り返ると、ヴァンは満面の笑みを浮かべてシャオを見上げていた。
それを見て、シャオの顔は更に引き攣る。
ヴァンはそんなシャオの顔を見て、更に嬉しそうな笑顔を向けていた。
その屈託のない笑顔は、さながら天使の微笑みとでも形容したくなるような愛らしさではあったが。
しかしシャオは、そんなヴァンの笑顔に悪魔のような狡猾さを感じずにはいられなかった。
「さて、これ以上怒られるのも嫌ですからボクはこの辺で」
「…どこに行くんだ」
「…そうですねぇ、マリーさんのお手伝いでもしに行きましょうかね」
「んなッ!!?」
「冗談ですよー、そんなに真に受けないで下さいよ」
「人をからかうのもいい加減にしろ…!!」
「からかってませんよ、おちょくってるんです」
「一緒じゃないか!!」
「そんなに怒ってたら血圧上がりますよ?…噂をすれば、あれマリーさんじゃないですか?」
ヴァンが指差す先には、洗濯物を抱えているマリーの姿があった。
マリーも二人に気付いたようで、微笑みながら近付いてくる。
シャオを見て、一瞬だけ先程の困ったような表情を再び浮かべるマリー。
そんな表情を見せられ、シャオはいよいよ落ち込まずにはいられなかった。
「二人とも、何してるの?」
「ちょっとした立ち話ですよ。マリーさんは洗濯物の片付けですか?」
「うん、そうだよ」
「ボクも今から部屋に戻るつもりですから、良かったら手伝いますよ」
「そう?じゃあお願いしちゃおうかな」
「任せてください」
そう言ってから、マリーの抱える洗濯物を半分受け取って抱えるヴァン。
二人はシャオに別れを告げてから、並んで廊下を歩いて行く。
後に残されたシャオは、そんな二人の姿を呆然と見送っていた。
「…それで、今日のリクエストは何なの?」
「流石、マリーさんは良く分かってますねー」
「それはそうだよ。だってヴァン君がお手伝いしてくれる時って、私にお菓子を作って欲しい時ばかりだもの」
「マリーさんのお菓子の為なら、手段は厭わないだけですよ。…そうですね、今日はプリンが食べたいです」
「うん、分かった。生クリームは?」
「勿論山盛りでお願いします!」
そんな会話を交わしながらにこにこと微笑んでいる二人。
しかしヴァンのそれには全く別の意味が隠されていることに、マリーが気付くはずもなかった。
「………で?」
「………」
「そのまま図書室行って、本も読まずに落ち込んでたのか?」
「…………」
「お前バカだろ」
「何とでも言えよ…」
その日の夜。
シャオは、カイルの部屋を訪ねていた。
あからさまに落ち込んでいるシャオを前に、カイルは呆れたように溜息を吐く。
「そんなモン考えるまでもねぇだろ。断られても無理矢理取り上げて持ってやればいいんだよ」
「…でも、それでも断られたら」
「そこまでやって断る女なんてそういねぇだろ。大抵はそのまま甘えてくるモンだって」
「…けど、やっぱり無理矢理というのは」
「こういう時は強引なくらいがちょうどいいんだよ。
つーかそんなことも出来ねぇんなら、最初から手伝おうとすんなよな」
今日のカイルは、珍しく非常に機嫌が悪かった。
どうやら修業をしている所にヴァンが乱入してきて、背後で散々騒ぎ立てていたらしい。
何故かやたらとテンションの高いヴァンに邪魔をされ、全く修業にならなかったとあっては
カイルが不機嫌になるのも、無理はない話だった。
そしてカイルの不機嫌の理由は、それだけではない。
露骨に眉間に皺を寄せ、不機嫌の「原因」に厳しい目線を送る。
「…シャオがマリーをストーカーしようが、無駄に前に出て玉砕しようが構わないけどな」
「俺はストーカーじゃないぞ!」
「黙れストーカー。とにかく、玉砕する度にヘコんでオレの所に押しかけて来るなよ!」
「こんな話が出来るのは、カイルしか居ないんだ…」
「あーあーそりゃどーも、頼って貰えて嬉しい限りだなァ」
「………」
「…押しかけて来る回数が多いんだよ!月イチで来るな、欝陶しい!!」
押しかけてくる度に話を聞いてやり、あれやこれやとアドバイスを与えているにも関わらず。
毎度毎度、シャオはロクな結果も出せずに盛大に落ち込んではカイルの部屋に押しかけてくる。
無論のこと、カイルのアドバイスは殆ど実践出来ていない場合が大半であった。
「…なぁ、シャオ」
「何だよ…」
「マリーに片思いし続けてもう何年だ?10年ってレベルじゃねーだろ」
「………」
「10年も経ってこのザマかよ。いい加減にしろよな」
カイルの容赦ない言葉は、グサグサとシャオに突き刺さる。
確かに手厳し過ぎる言葉ではあったが、何年も何年も月イチで部屋に押しかけられてきただけあって
カイルが怒ることも、当然といえば当然のことであった。
寧ろ、これまで辛抱強く付き合い続けたことを褒めるべきなのかもしれない。
それが分かっているからこそ、シャオは何も反論出来ずにいた。
「…だけどな」
「あ?」
「断られた揚句にあんな顔までされたら、俺は…」
「…どういう事だ?」
「実は…」
申し出を断られた時と、その後ヴァンと共に居た時に、困ったような顔をされたことをカイルに告げる。
するとカイルは僅かに考える様子を見せ、ぽつりと呟いた。
「それ、多分違うと思うけどなァ」
「…どういう事だ」
「さぁな、自分で考えろよ」
「やっぱり、俺は…」
「あーもう、欝陶しいな!おいコラ、こんな所で膝抱えんなよッ!!」
「………」
「俯くな!頭抱えんな!そんなにヘコみたきゃ、自分の部屋でやれ!!」
「そこまで言わなくても…いいだろ…」
「だからそれが欝陶しいっつってんだよ!!!」
「………」
「大体、オレが今までどんだけ協力してきたと思ってんだ!
10年かけてお前がやってきたことは、ストーカーだけだろうがよ!!」
「だから、俺はストーカーじゃないと言ってるだろう!」
「うるせーよ!100歩譲っても『たまに積極的になって玉砕するストーカー』だろうが!!」
「何だと…!?」
「今までの自分の行動振り返ってみろ!ヘタレなストーカー以外の何者でもねぇんだよ!!!」
「ヘタレな…ストーカー……」
「…オレの部屋で落ち込むなァァ!!もう出てけ、今すぐ出てけッ!!!」
カイルの怒号が、廊下にまで響き渡ったのとほぼ同時刻。
食堂では、マリーとフレデリカが食器を洗って片付けていた。
「ありがとう、フーちゃん」
「いいわよ、だから明日の当番は代わってよね」
「分かってるよ」
フレデリカは、マリーの後片付けを手伝っていた。
しかしそれはヴァン同様、見返りを求めての行為である。
「それにしても、ヴァンだけ生クリーム山盛りなんてズルいわよ!」
「ズルくないよ、そういう約束で手伝って貰ったんだもん」
「…じゃあ、明日はアタシが手伝ってあげるわよ」
「うん、ありがとう。じゃあ明日はフーちゃんの好きなおやつ、作ってあげるね?」
「なら、アップルパイがいいわ」
「分かったよ。フーちゃんの分は、大きめにしてあげるね」
「そんなの、当然のことよね」
「はいはい」
後片付けを終え、食堂から引き上げようとしたその時。
片隅に置かれていた大きな箱に気付き、フレデリカは足を止めていた。
「何よ、この箱」
「あ、それお野菜。今日分けて貰ったばっかりなんだ」
「へぇ。テレキネシスで運んだんでしょ?」
「うん」
「そうよね、こんなに重たそうだし」
「………うん」
フレデリカの言葉に、マリーは昼間のことを思い返していた。
家事を誰よりも良くこなし、尚且つテレキネシスを操るマリー。
そんな彼女が重い荷物を抱えていても、わざわざ手を貸す人間は居ない。
薄情なのではなく、テレキネシスを使うから手伝いの必要自体がないのだ。
寧ろ、声を掛けることでマリーに余計な手間を掛けさせることになるので
単なる重たいものの運搬については、敢えて手助けをしない方が良いと考えられていた。
だからこそ「重いものを持っているから」という理由でシャオが手伝いを申し出てきたことに驚かされた。
それも「マリーが持つには重いだろうから」という理由で。
いきなりのことだったので慌てて断ってしまったのだが、
折角だから行為に甘えておけば良かったな、とマリーは今更ながら残念に思う。
(あんな風に女の子扱いして貰えるなんて、ちょっと嬉しかったなぁ…)
「…ねぇ、マリー?」
「あ、な、何?フーちゃん」
「何じゃないわよ、いきなりニヤついて、どーしたの?」
「…ううん、何でもないの」
「そーお?すっごくいいコトでもあったみたいに見えるわよ?」
「うん、まぁ…そんな感じ、かな?」
「何を照れてるのよ、変なの!」
「えへへ…」
眉尻を下げ、困ったような表情を浮かべながら微笑むマリー。
そんなマリーを見て、フレデリカは怪訝な表情を見せていた。
マリーは、嬉しくて照れると困ったような表情を見せる癖があった。
フレデリカやカイル達はそのことを知っていたが、シャオはそのことを知らない。
何故なら、いつもマリーを遠くから眺めていたからである。
シャオがその「事実」に気付く日はいつになるのか。
それは、誰にも分からない。