−きゅうぅぅぅ。  
 
 
「あ」  
 
ヴァンは、腹の虫の音に気付いて自分の腹に手を当てた。  
時計を見ると、時刻は夜の10時を指していた。  
 
「…お腹空いたなぁ」  
 
とりあえず食堂に行けば、何か食べるものにありつけるはず。  
そう考えながら、ヴァンは部屋を出て食堂へと向かった。  
食堂に人の姿はなく、しんと静まり返っている。  
電気を点けて中に入ると、ヴァンはおもむろに冷蔵庫を開けた。  
 
 
「ううーん。何もないなぁ」  
 
食材は色々と揃ってはいるものの、すぐに空腹を満たせるようなものがない。  
いつもなら、マリーが作ってくれるお菓子などがストックされているのだが  
こういう時に限って、何一つとして見当たらなかったりするのだ。  
冷蔵庫以外の食糧庫を覗いても、ヴァンの欲求を満たしてくれるようなものは見当たらなかった。  
 
こうなったら自分で何か作ってしまおうと、ヴァンは考えを改める。  
見当たる食材と自分の食欲とを照らし合わせ、作るものを考えていた。  
 
「…そうだ。前にマリーさんが作ってくれたあれがいいな」  
 
ぽん、と手を叩きながら呟くヴァン。  
必要な材料を揃えるため、再び冷蔵庫の扉を開いた。  
 
 
「よし、これだけあればいいかな」  
 
キッチンに小麦粉や牛乳、そして卵を並べ立てると、ヴァンは調理器具を探し始めた。  
フライパンとボウルを用意すると、慣れた手つきで卵を割り入れ、砂糖を加える。  
かしゃかしゃと軽快な音を立て、ヴァンは材料をかき混ぜていた。  
アゲハ辺りが見れば驚きそうなほど、手際良く調理を続けるヴァン。  
マリーには劣るものの、ヴァンの料理の腕は決して悪くないものだった。  
 
ボウルに小麦粉と牛乳を加え、生地を作る。  
あらかじめ加熱しておいたフライパンに生地を流し込む。  
生地を返すと、綺麗な焼き色のついた生地が現れた。  
フライパンから立ち上る、食欲をそそる甘い香りに思わず頬が緩む。  
焼き上がった生地を用意していた皿に乗せ、同じように新たな生地を流し込んだ。  
 
「…出来た!」  
 
混ぜ合わせた生地を全て焼き上げると、ヴァンは顔を輝かせる。  
フライパンとボウルをシンクに放ると、色々と乗せたトレイを抱えてテーブルへと向かった。  
 
 
「…いただきます!」  
 
ぱん、と手を叩き、こんがりと焼き上がったパンケーキにナイフを入れる。  
バターを乗せてたっぷりのメープルシロップをかけたそれを口にすると、  
ヴァンは満足げな笑みを浮かべた。  
 
「あー、美味しい」  
 
五段重ねの生地にナイフを入れ、次々とパンケーキを口の中へ運ぶ。  
もしゃもしゃと咀嚼して、用意しておいた紅茶で喉へと流し込む。  
 
「…初めて作ったにしては上手く出来たけど、やっぱりマリーさんには敵わないなぁ」  
 
一体何が違うのだろうと、フォークに刺したパンケーキを眺める。  
しばらく眺めたそれを口に入れたところで、乱暴にドアを開く音が響き渡った。  
 
 
「あーー!暑いッ!!」  
 
怒声とともに、ぺたぺたという足音がこちらへと近づいて来る。  
口をもぐもぐと動かしながら振り返ると、そこにはフレデリカが立っていた。  
 
「…なんだ、ヴァンじゃない。何してんの?」  
 
「…ひょっほお腹が…ふいてふぁんで」  
「喋るのは飲み込んでからにしなさいよ」  
 
小さく頷いてヴァンはパンケーキを飲み込むと、再び口を開いた。  
 
「ちょっとお腹が空いてたんで、パンケーキを作ってみたんです」  
「へぇー。アンタがわざわざ作るなんて珍しいわね」  
「色々探したんですけど、何もなかったので」  
「そりゃそうでしょうね。昨日あれだけ食い尽くせば」  
 
そう言われて、ヴァンは昨日マリーが作ったお菓子を食べたことを思い出していた。  
自分と同じく甘いものに目がないカイルと二人でほとんど食べつくしてしまい、  
呆然としていたマリーの表情が脳裏に浮かんだ。  
 
「あぁ、そう言えばそんなこともありましたねー」  
「あったわよ!もう忘れてるってのはどういうこと!?」  
「まぁまぁ、そんなこともありますよ」  
「アタシだってもっと食べたかったのに、アンタ達がほとんど食べちゃったんじゃない!」  
「まぁまぁ、食べれなかったシャオさんよりはマシじゃないですか」  
「だから食べ尽くしたアンタがそういうこと言わないの!」  
 
「大体シャオさんは、甘いものは苦手じゃなかったですか?」  
「そりゃそうだけど…。マリーのお手製だったら吐くほど甘くたって食べるわよ、きっと」  
「要は、マリーさんにいいところを見せようってことですね?」  
「それ以外に何があるってのよ」  
「なら、無理して食べずに済んで良かったんじゃないですか?」  
「だからアンタがそういうこと言わないの!!」  
 
「…まったく、もうっ!」  
「まぁまぁ、あんまり怒ると身体に毒ですよ」  
「だからッ!!」  
 
 
−バァン!!  
 
 
怒りが頂点に達し、テーブルを全力で叩くフレデリカ。  
テーブルに乗った食器が、その衝撃でかたかたと揺れた。  
 
「…で、こんな時間にどうしたんですか?」  
「…お風呂入ってたのよ」  
 
テーブルを叩いても、全く動じる様子のないヴァン。  
その態度に半ば呆れながらも、フレデリカは質問に答えていた。  
もぐもぐと口を動かしながら、フレデリカの姿に目をやる。  
上気した肌に、ラフなワンピースとスリッパ姿。  
それ以上の感想を抱くこともなく、新たなパンケーキを口へと運んだ。  
 
「ねぇ、それ一口ちょうだいよ」  
「嫌です」  
「…あっそ」  
 
にべもない言葉は想定内だったのか、特に反論もせずキッチンに向かうフレデリカ。  
コップ片手に冷蔵庫を開け、冷えた水を注ぐと一気に飲み干す。  
ぷは、と小さく息を吐くと、コップをそのままシンクへと置いた。  
 
「ねぇ、ヴァン。アンタ片付けしてないじゃない」  
「…お腹空いてたんですよ」  
「まぁいいわ。ついでにアタシのコップも一緒に洗っといてよ」  
「了解です」  
 
ぺたぺたという足音と共にテーブルへと戻ると、そのまま自分の席へと腰掛けるフレデリカ。  
スリッパを脱ぎ、そのまま足をテーブルの上へと投げ出していた。  
 
「…行儀悪いですよ」  
「いいじゃない別に。ババ様が居るわけじゃないんだし」  
 
「…ぱんつ見えてますよ」  
「だから?」  
 
全くもって動じる様子も恥じらう様子も見せないフレデリカに、ヴァンは呆れたような溜息を吐く。  
山盛りだったパンケーキは、大半がヴァンの胃袋に納まっていた。  
 
「…ねぇ」  
「何ですか?」  
「付いてるわよ」  
「え?」  
「食べカスとか、シロップ」  
「あ、本当だ」  
 
食べることになると、夢中になってしまう癖は未だに直らないらしく。  
ヴァンの口元には、パンケーキの食べカスが大量に付いていた。  
 
「じっとしてなさい。…取ってあげるから」  
 
そう言ってフレデリカはテーブルから足を下ろす。  
椅子の上を這って渡るようにして、間にあるシャオの席を乗り越える。  
そのままヴァンの頬に触れ、指で掬うとそのまま自分への口へと運んだ。  
指のシロップを丁寧に舐め取る。  
赤い舌が、白い指の上を這っていた。  
 
 
「……んっ」  
 
 
パンケーキを口に運ぶ手を止め、フレデリカの口元に目を奪われる。  
シロップや食べカスを舐め取るその様は妙に煽情的で、ヴァンは僅かに顔を赤らめた。  
 
 
「…ちょっと甘すぎない?」  
「………」  
「ヴァン?」  
 
間近で声を掛けられ、その顔の近さに動揺する。  
持っていたフォークを取り落とし、食器とぶつかって金属音が響いた。  
 
 
「…シロップのせいじゃないんですか」  
「そーぉ?…まぁカイルなら、これでも足りないでしょうけど」  
「そうですね。この上から蜂蜜くらいは掛けそうですね」  
「…うぇ。」  
 
見かけに寄らず、カイルは昔から大の甘党だった。  
シロップの上から蜂蜜もたっぷり掛ける様が容易に想像出来て、フレデリカは舌を出した。  
 
 
「ね、やっぱりちょうだいよ」  
 
そう言ってヴァンの前にある皿へ手を伸ばすと、フォークを掴む。  
ヴァンが制するより早く、皿の上のパンケーキを突き刺すと。  
それをそのまま口の中へと放り込んでいた。  
 
「………!!!」  
「むぐ…、ん…」  
 
もぐもぐと口を動かし、しばらくして飲み下すフレデリカ。  
その様子を、ヴァンは呆然とした表情で眺めていた。  
 
「甘さはちょうどいいじゃない…って、どうかした?」  
「…どうかした、じゃありません」  
「何よ?」  
 
「最後の一切れを、食べましたね…!?」  
 
 
フレデリカにそのつもりは無かったのだが、勢い余ってフォークを突き刺してしまったらしい。  
皿の上は、空っぽになっていた。  
ヴァンの「食べ物に対する執着心」を充分に知っているだけに、  
フレデリカはバツの悪そうな表情を見せる。  
 
 
「わ、悪かったわよ…」  
「いーえ許せません。最後の一切れですよ?それがどういうことだか分かってるんですか!?」  
「だから、悪かったって言ってるじゃない!」  
「返してください!!」  
「じゃ、じゃあアタシが作って…」  
「それは結構です」  
「なッ…!」  
 
ぴしゃりと言い放つヴァンに、フレデリカは目を丸くする。  
そんなフレデリカの様子に気付かず、ヴァンは言葉を続けた。  
 
「フレデリカさんが作ったら、消し炭が出来るんじゃないですか?」  
「………」  
「ボクだって命は惜しいんです」  
「……………」  
 
「フレデリカさんの手作りを食べるくらいなら、そこのシロップ一気飲みした方がマシですよ」  
「…言ってくれるじゃない」  
 
 
怒りに身を震わせ、引き攣った笑みを見せるフレデリカ。  
しかしその瞳は笑っておらず、ヴァンを見据える瞳は怒りに満ちていた。  
 
 
「そんなに食べたいなら、食べさせてあげるわよ」  
 
乱暴な仕草でテーブルに手を伸ばす。  
メープルシロップの入った容器を掴むと、それをそのまま引き寄せた。  
自分の席に戻り、間にあるシャオの席に足を乗せる。  
 
呆気に取られたままのヴァンを無視して、自分の足にシロップを垂らす。  
白い足の上を茶色のシロップが這い、てらてらと光っている。  
伸ばされたフレデリカの右足は、すぐにシロップに塗れた。  
 
 
「フレデリカ…さん?」  
「…さぁ、お舐めなさい」  
 
 
そう言って笑うフレデリカの口元は、愉悦で歪んでいた。  
 
 
「…………」  
「どうしたの?もしかして聞こえなかった?」  
 
 
ヴァンは、呆気に取られた表情を浮かべていた。  
フレデリカの顔と、右足とを交互に眺める。  
目の前の光景と、先程のフレデリカの言葉。  
それが全く、結び付かなかった。  
 
 
「すみません、言ってる意味が理解出来なかったんですけど」  
「理解もクソもないわよ。舐めろって言ってんのよ」  
 
そう言って、シロップ塗れの右足を突き出す。  
足を伝ったシロップは、ふくらはぎを伝ってぽたぽたとシャオの席に落ちていた。  
 
「…………」  
 
ヴァンは、あからさまに困惑した表情を見せる。  
どう切り返せば良いのかを推し量るように、沈黙を続けた。  
そんなヴァンの表情を見て、フレデリカの背筋にぞくぞくと快感が走る。  
 
怒りにまかせて足にシロップをぶちまけたのは、流石にやり過ぎだと自分でも思った。  
どちらかといえば、自分に原因があることを考えれば尚更。  
それでもフレデリカは、自ら謝罪することが出来なかった。  
勢い任せの行動は、状況を覆すだけでなくヴァンを困惑さえさせていた。  
普段飄々としているヴァンの表情を崩したことで、フレデリカは奇妙な満足感に浸っていた。  
 
 
(…そろそろ許してあげてもいいかしらね)  
 
 
フレデリカも、本気で舐めさせようとしていた訳ではない。  
ヴァンの様子を充分に楽しんだことで、怒りは大分収まっていた。  
沈黙の続くこの場を打破しようと、口を開こうとした。  
 
 
「…分かりました」  
 
「……え?」  
 
 
最も予想外の言葉に、今度はフレデリカが呆然とした表情を浮かべていた。  
ヴァンは椅子を引くと、その場に跪いてからフレデリカの足へと手を伸ばした。  
 
 
「ちょ、ちょっと!?」  
「…舐めればいいんですよね」  
 
そう言ってフレデリカを見上げるヴァンの瞳は、驚くほど真剣で。  
フレデリカはまるで射すくめられたかのように、身動きをすることも出来なかった。  
そんなフレデリカの様子には構わず、フレデリカの足首を掴むヴァン。  
反射的に払いのけようとしたが、その力は予想以上に強くてヴァンの手の中で僅かに暴れただけだった。  
 
べちゃり、という感触がフレデリカの足を伝う。  
シロップが肌に塗れる不快なその感触は、当然ヴァンにも伝わっているはずなのだが。  
ヴァンはそれを気にする風でもなく、フレデリカの足に舌を這わせた。  
 
 
−ぴちゃ。  
 
 
「………ッ!!」  
 
突然肌を這う生暖かい感触に、フレデリカは思わず息を詰める。  
ヴァンはフレデリカの足を両手で掴み、躊躇うことなく舌を這わせてシロップを舐め取っていた。  
 
「…ん、あッ!!」  
 
足首から膝の方へと、舌を尖らせて舐め上げてくる。  
その突然の刺激に、フレデリカは思わず声を上げる。  
自分の口から発せられた声に艶が混じっていたことに気付き、フレデリカは動揺した。  
 
「…どうかしたんですか?」  
 
フレデリカを見据えて、ヴァンが声を掛ける。  
言われた通りにしているのに、一体何が不満なのか。  
そんなことを言いたげな表情をしていた。  
その口元は、足に触れて移ったらしきシロップで汚れていた。  
 
「…な、何でもない、わよッ!」  
「…そうなんですか?気持ち良さそうな声を出してたみたいですけど」  
「…ッ!そんなワケないでしょ!?さっさと舐めなさいよ!!」  
「言われなくても、そうします」  
 
そうして再び、フレデリカの足に舌を這わせるヴァン。  
フレデリカは、声を出すまいと必死に堪えていた。  
しかしそれを見透かすかのように、ヴァンは時折フレデリカを挑発するように舐め上げる。  
その度にフレデリカは、突然の刺激に身体を震わせていた。  
 
 
(…やだっ!もう、何なの…よぉ!)  
 
 
自分が焚きつけたとはいえ、まさか本当に舐めるとは思ってもいなかった。  
その上、まるで自分の情欲を煽るようなことまでしてみせるヴァン。  
先程とは違う、背筋どころか全身を駆け巡るような快感。  
這う舌の生暖かさや、ざらりとした感触。静かな室内に響く水音。  
それら全てがフレデリカを支配し、心を掻き乱していた。  
 
それでもしばらくは耐えられたが、上へ上へと這っていた舌が下へと降りていく。  
足首より更に下、足の甲にまで及んだ所でフレデリカは反射的に声を上げた。  
 
「ちょっ、ちょっと!?」  
「…もう少し、静かにしてて下さい」  
 
舌は足の甲を越え、指先へと進んでいた。  
指と指の間を舐め取り、そのまま指先を口に含まれる。  
 
 
「…ッあ!…んん!!」  
 
 
その瞬間、フレデリカの我慢は限界を超えた。  
ヴァンの舌や、指先を吸い上げる動きに合わせて嬌声にも似た声を上げる。  
 
「…ねぇっ、ちょっと!汚いわよ…ッ!!」  
「…………」  
 
返事もせずに、指を執拗に責め立てるヴァン。  
フレデリカは気付いていなかったが、それは殆ど愛撫に近いものとなっていた。  
舌で、フレデリカの敏感に反応する箇所を探ってはそこを刺激する。  
 
今まで他人に、それも舌で触れられたことのない場所を責められる。  
それはフレデリカにとって、ある種の屈辱を抱かせる行為だった。  
行為そのものよりも、行為によって快感を覚えている自分自身が。  
この完全に狂った、倒錯した状況を受け入れている。その事実が。  
 
 
しばらくの後、ヴァンはようやくフレデリカの足から身体を離した。  
手を離されたことで、フレデリカはようやく我に返る。  
ヴァンは、跪いたままで自分の手に残ったメープルシロップを舐め取っていた。  
その様子を呆然と眺めていると、残ったシロップを舐め取ったらしいヴァンはフレデリカを見上げる。  
 
「ごちそうさまでした」  
「……ぁ、うん」  
 
予想外の言葉に、フレデリカはだた相槌を返すだけだった。  
解放された今も、激しい鼓動が止むことはない。  
無意識に自分の胸元を掴み、少しでもそれを鎮めようとしていた。  
 
「…もしかして、これも舐めなきゃ駄目ですか?」  
 
そう言って、ヴァンは目の前を指差す。  
二人の間に挟まれたシャオの席は、フレデリカの足から零れたシロップの残滓で汚れていた。  
てらてらと輝くそれは、どことなく淫靡な雰囲気を漂わせていた。  
 
「…い、いい…」  
「分かりました」  
「…違うわよ!もう舐めなくていいって言ってんの!!」  
 
椅子に舌を這わせようとしたヴァンを制し、声を荒げる。  
大きく息を吐くと、伸ばしたままだった足を引き戻す。  
その様子を見て、ヴァンもようやく立ち上がっていた。  
 
 
「…じゃあ、後はボクが片付けておきますから」  
「……へ?」  
「いくらボクが『綺麗にした』っていっても、やっぱりベタベタするでしょ?」  
「…あ、う、うん」  
 
言葉に含まれたものを感じ取る余裕もなく、フレデリカは言われるままに頷く。  
その様子を尻目に、ヴァンは卓上の食器を片付け始めていた。  
 
「お風呂に戻って、ちゃんと洗った方がいいですよ」  
「…わ、分かったわよ」  
「そうしてください」  
 
椅子を支えに、力の入らない身体を半ば無理矢理に立ち上がらせる。  
まだ乾ききっていない右足は、スリッパを履くと僅かな不快感を伝えた。  
 
「…じゃ、アタシ、戻るわ…」  
「はい、おやすみなさい」  
 
よろよろ、出口に向かうフレデリカ。  
扉を開き、廊下へ出たところでヴァンに呼び止められた。  
 
 
「さっきのフレデリカさん、可愛かったですよ」  
「…なッ!!」  
 
言い返そうとして振り向いたが、ヴァンはキッチンへと姿を消していた。  
それを追いかける気力もなく、フレデリカはそのまま食堂を後にした。  
 
「…何なのよ、一体…」  
 
誰にともなく、小声で呟く。  
足にまとわりつく不快な感触は水で流せても、  
胸に燻るこの感情はそう簡単に消えてくれそうにはなかった。  
 
 
そして翌日。  
フレデリカは落ち着かない様子で、食卓についていた。  
横目で何度かヴァンを見やるが、普段と変わった様子は全く見えない。  
 
昨日のあれは、幻だったんだろうか?  
 
そんなことをぼんやりと考えていると、不意に隣のシャオが言葉を発した。  
そういえば食卓についた瞬間から、様子がおかしかったなと気付かされる。  
 
 
「…どうもオレの席がベタベタするんだけど、誰か何かしたか?」  
 
 
その言葉に、マリーとカイルはきょとんとした表情を見せていた。  
フレデリカは、自分の顔が熱を帯びていくのをはっきりと感じていた。  
 
「…ううん。心当たり、ないけど?」  
「オレも無いぜ。朝食の準備してる時も、何もしてないよなぁ?」  
 
今日の朝食の準備をしていた二人は、顔を見合せて首を傾げている。  
 
「昨日の晩にでも、何かブチ撒けたのかもな?」  
「ん、でも…。昨日は私が片付けたけど、何もなかったよ?」  
「ヴァンは?何か心当たりねぇか?」  
 
ヴァンが名指しされたことで、フレデリカはどきりとした。  
しかしヴァンは全く動揺した様子を見せず、平然と食事を口に運んでいた。  
ようやく飲み込んでから、カイルに向かって言葉を返す。  
 
「ないですね、全然」  
「そっかぁ、一体何なんだろうな?」  
「シャオ君、後で私が掃除しておくよ」  
「ああ、頼むよ」  
 
「しかしシャオさん、何だかツイてないみたいですね?」  
「…どういうことだ」  
「昨日はマリーさんのお菓子を食べ損ねて、今日は椅子がベタベタだなんて♪」  
「あっ、馬鹿…!」  
「あっあっ、ごめんねシャオ君!?今度はもっと沢山作るから…!」  
「…いや、別にいいよ」  
「昨日のケーキは絶品でしたねぇ。美味しくていくらでも食べれましたよ」  
 
「…だから」  
「フーちゃん?」  
 
 
「アンタがそういうこと言うなって、何度も言わせてんじゃないわよォッ!!!!」  
 
 
フレデリカの怒声が、食堂中に響き渡る。  
何のことだか分からない、といった表情をする三人を尻目に、  
ヴァンはおかしくてたまらないといった表情を浮かべていた。  
 

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