キルヒ3号を覚えているか、とアリスは言った。
甘い疲労に包まれた体をベッドに投げ出したまま、ランデルは目だけを動かして
隣りのアリスを盗み見た。
今アリスの全身を覆うのは、体に巻きつけた大きなタオルだけだ。剥き出しの腕
や肩、それにすらりと伸びた足が、ベッドの上に投げ出されている。タオルごしに
アリスの体のラインがよくわかる。しかしアリスはそれを気にかけるそぶりもない。
軽く片膝を曲げ、その頂点に肘を当て指先を唇に当てただけだ。
ランデルは自分の足元に広がる夜具を裸の腹まで引き上げながら、さりげなくア
リスの美しい体から視線を逸らした。
「……903CTTの揮発性化学弾頭ですね」
かなり前のことだと思いながらランデルは答えた。アリスはうなずく。
「ちょっと気になって調べてみたのだ。キルヒ3号は――」
アリスはランデルの手を取った。自分の脇にある右手ではなく、なぜかランデル
の裸の胸を越えて、左手を取った。手を取るときにアリスの体を覆うタオルがラン
デルの腹をやわらかく撫でた。ランデルは瞳を閉じる。
と、ランデルの左のてのひらにアリスの指が這った。素早く動くそれは、愛撫で
はない。
「Kirsche、と書く。この綴りはそのまま、ある酒と同じ名なんだ」
「酒?」
「さくらんぼの酒だ」
横になったままランデルが見上げると、アリスはうなずく。
「甘くやわらかい、みずみずしい果実の酒と同じ名だ。皮肉だな」
「それが……何か」
「奴らはキルヒ3号を万能の酒とでも考えていたのだろうか」
ランデルは思わず顔を上げる。
「酒は酒だ。人を酩酊させればそれでよい。だがキルヒ3号はそうはいかん。化学
兵器はやはり、化学兵器だからな」
アリスはためらいがちに呟く。
「化学兵器は化学兵器だ。人を酔わせぬ。キルヒ3号を使ったヴォルフは、あくま
でも人為災害で、奴自身もそう思っていたのだ」
アリスは言葉を切ると、ランデルの手を離す。
不思議に思う間もなく、アリスはランデルの首にきつく抱きつく。息苦しくない
が普段は凛々しいアリスとは対極の姿に、ランデルは目を軽く見開いた。
しかも、タオル越しにアリスのやわらかな胸が当たっている。
アリスは甘い匂いがする。それに脳髄をくらりと揺さぶられるが、理性を総動員
して、ランデルは瞳を閉じた。
ランデルの耳元で、アリスの声が響く。
「今ならわかる。彼らも戦争に蝕まれた者なのだ。――お前と、同じように」
ランデルは耳元にわずかに触れるアリスの唇の感触を喜びと共に受けていた。
「酒に……酔うな」
抱きしめる力が強くなり、ランデルはわずかに瞳をあげた。
「酔うなら平和に酔え。酒など飲むな」
「少尉?」
「お前はずっと、私の側にいるんだ」
アリスはランデルを強く戒めていた腕を放すと、一瞬だけ瞳をあわせた。
大男でありながらどこか弱い、傷だらけの顔。
アリスはランデルの唇を塞ぐ。ぬめる舌が乾いた唇を割り、男の舌を蹂躙する。
いとしい。だがそれ以上に強い支配欲に抱かれ、アリスはさらにランデルの口内を
犯した。
完成されているとは言えない舌技だ。だからこそ、ランデルは快楽を覚える。
アリスはランデルの大きな体を跨ぎ、馬乗りになると、タオルを自ら外した。
均整の取れた美しい体があらわれる。
ランデルは戸惑いながら、アリスの腰に手を回す。互いによく見知った体だが、
何度行為を繰り返しても、飢えを感じる。
それに、ランデルがアリスに望まれ、彼女の純潔を貰い受けた日から、長い時が
過ぎた。
いまさら、離れられるはずがない。
ランデルは自分がアリスを欲しているのを自覚した。固く勃ち上がったものがア
リスの腰に届く。アリスは上気した頬を隠そうともせず、笑う。
「お前という奴は」
「あなたが、いけないんです……」
「生意気な」
困惑するランデルにアリスは覆い被さる。
酒よりも平和。平和よりも何よりも、自分に酔わせてやる。
さくらんぼのように頬を紅くしながら、アリスは楽しそうに、笑った。