マルヴィン家のメイドは公女の帰りを驚きをもって迎えた。  
 
アリスは朝食の席につく。朝日は窓から横向きに差し込んでくる。  
早朝だ。  
邸内の広大な庭に植えた木の向こうで、朝日が雲を照らしている。それを見てアリ  
スはわずかにほほ笑み、グラスの水を飲んだ。  
つい先ほどまで愛馬ピーロに乗り遠出をしていた。朝日の上がる前、市井のものは  
どのように朝を迎えているのか、無性に気になったからだ。  
そして、アリスは意外なものを見てしまい、持ち帰った。  
「さて、先ほどの話の続きだが」  
バターナイフ片手に、アリスは持ち帰ったものに対し問う。  
「何故あのような場所で寝泊りをしていたのか、今こそ聞かせてもらいたいものだな  
――伍長?」  
問われ、正面に座ったランデルは居心地悪そうにうつむいた。  
メイド達のきつい視線が気になる。  
本来、部下とはいえ自分が13貴族であるマルヴィン家の屋敷に入り込んでいいは  
ずが無い。それにアリスに聞いたところによると、主人であるマルヴィン公は留守だ。  
その非常識さももとより、アリスには婚約者がいるはずだ。自分のような男を連れ  
込むのはかなりの問題だ。  
それにランデルは今ぼろぼろの古い服を着ている。まるで浮浪者だ。これもやはり  
マルヴィン家に立ち入るにはふさわしくない。  
これがマルヴィン公に知られたらと考えると恐ろしい。  
落ち着かなくうつむくランデルに、アリスの声が響いた。  
「何故今まで自分の部屋がないと私に言わなかった。仮にも軍人ともあろう者が、あの  
ような場所で寝泊りするとは、あまりに無防備。だいたい、食事はどうしていたのだ?」  
「食事は炊き出しがありました」  
「それを利用していたというのか。貴重品はどうしていたのだ? 金庫か?」  
「いえ、いつも持ち歩いていました」  
ランデルはうつむきがちにほほ笑みながら、おずおずと清潔なテーブルの上に乗った  
ロールパンを手にし、半分に割った。  
「いただきます」  
猫にもあげたい。そう考えたのが伝わったか、アリスが不審そうに眉根を寄せた。  
「お前、毎朝、食事をとれていたのか?」  
 
アリスの質問にランデルはうなずきを返し、誤魔化す。  
「……そうでもないようだな」  
アリスはほほ笑んだ。  
「よし、決めたぞ」  
「はい?」  
「伍長、お前はここに住め」  
「……はい?」  
それは一体どういう意味なのか。ランデルは考えこんだ。  
ここに住むということは、共に3課に行き、共に帰り、共に食事をとるということでは  
ないだろうか。そして共に夜を過ごし、共に眠りにつく――ひょっとすると、同じベッ  
ドで。  
ひょっとして、自分がアリスの枕になるのだろうか。それも腹枕ならまだいい、腕枕だっ  
たらどうすればいいのだろう。  
アリスは理性と戦うなと言うだろうか。美しくやわらかな体をさらけ出し、ほほ笑んで、  
自分を抱きしめ、全てをゆだねてくるのだろうか。  
ランデルは一瞬のうちに妄想し顔を真っ赤に染めあげた。  
慌てるランデルに釣られ、なぜかアリスも頬を染めた。  
「か、勘違いするな!」  
照れ隠しにアリスは叫ぶ。  
「私もたまには今朝のように市井のものの暮らしを見たい。その時、お前に護衛を依頼  
したいのだ。それには、お前に来てもらうより、ここに住んだほうが早いだろう? そ、  
それだけのことだ!」  
「で、でも、少尉」  
「そ、それともなにか? 私の屋敷に住むのはごめんこうむる、とでも言うのか?」  
「そんなことは! ……あ、いえ、その、でも」  
ごにょごにょと口の中で言い訳を続ける姿は、とても無様だ。  
「でも、やはりいけません」  
きっぱりとした口調はランデルのもの。顔を上げると、ランデルはまっすぐにアリスを  
見つめていた。  
しかしいまだ頬は紅く、口は丸くすぼめられたまま、言うべき言葉を失っている。  
「こ――ここここここ、こ、こ」  
鶏のように繰り返すランデルを見て、辛抱強く、アリスは待った。  
 
頬の紅いランデルを見てメイド達はどう思うのか――アリス自身も頬を染めながら思った  
頃、ようやく男に変化が現れた。グラスの水を飲み干し、顔をわずかに赤くしながらも、  
ランデルはきっぱりと言う。  
「恋人同士じゃないんですから、いけません」  
「な……お前は、なにを意識しているのだ……!」  
アリスの頬がさらに赤くなる。と同時に、食堂の扉が開かれた。  
エリスが美しい箱を小脇に抱えてうれしそうに乱入する。  
「アリス! 新しいドレスを買ってきたわ……よ……」  
しかし、エリスは中の様子を見て絶句する。  
振り返ったアリスの向こう、正面の席に座っているのは、大男だ。大男は腰を上げ、ぺこ  
りと頭を下げた。礼儀はわきまえているようだ。  
が、あらぬ想像をしたエリスに一瞬のうちに駆け寄られ、ランデルは頬をはたかれた。  
姉妹揃って平手打ちの上手い――ランデルの思索はあらぬ方向に飛んだ。エリスは叫ぶ  
「あんた! アリスになにをした???!」  
「姉上!」  
アリスは頬を押さえ目を白黒させる伍長をかばうように間に立った。その態度にエリスは  
怒りを新たにし、アリスの頭上を越え再びランデルの頬をぴしゃりと叩いた。  
「あ、あんたまさか、いえ、そんなこと考えたくないし、口に出すのもおぞましいけど――  
あんた、まさか、まさかアリスを!!!」  
「あ、え……?」  
「なにを馬鹿な事を! 姉上!」  
一斉に答えられ、エリスは激昂した。  
「なんで2人して顔真っ赤にしてるのよ! 馬鹿アリス! こんな朝早くに男を連れ込ん  
で……、まったく、あんたって子は!」  
「ですから、話をお聞きください!」  
騒がしくなった食堂で、ランデルは自分の手に残る熱を思い返す。  
共にピーロに騎乗した際、かすかに触れた、アリスのやわらかな体。  
猫などとは比べ物にもならないやわらかさを思い返し、ランデルは一人こっそりと頬を染  
め、それを見咎めたエリスに、また、叩かれる羽目となった。  
 
 
エリスが走らせた早馬に応え、ソリスが実家であるマルヴィン家を訪れたのは、陽が高く  
なった頃だった。  
「あらあら、アリスちゃん」  
いつものように黒いドレスに身を包んだソリスはまるで母親のように微笑んだ。  
対するアリスは、軍服に身を包んだまま困ったようにソリスを見上げた。  
「姉上。ようこそおいでくださいました……」  
姉妹のキスを交わすとアリスはやはりソリスを見上げた。  
同室の奥には、険しい顔をしたエリスと、その隣りで巨体をちじこませている気弱そうな  
男がいた。  
「エリスちゃん」  
ソリスはエリスをこっちこっちと手招くとやはりキスを交わし、声をひそめた。  
「いつかの男よね?」  
エリスはうなずく。ソリスはアリスを盗み見、次に男を見た。  
朴訥そうな、アリスの部下の大男だ。  
しかし愛する妹、アリスは彼をエリスの平手から守ろうとしたそうだ。  
エリスはソリスを呼び寄せ、その間に手を打ってアリスとランデルの両名に無理やり休暇  
を取らせた。  
それもこれも、アリスが男をこの屋敷に住まわせると言ったため。  
「アリスは『橋の下で暮らしてたのでかわいそうだから』と言ってるんだけど、そんなの  
許せるわけ無いじゃない」  
「そうね。婚約者様もいらっしゃるのだし」  
「そうでなくても! 独身の男女が同じ屋根の下で暮らすなんて、ふしだらよ」  
吐き捨てるエリスの顔は真っ赤だ。  
自分のかわいい妹が、誰かの手に渡ることを恐れているのだろう。  
それはソリスも同じだった。マルヴィン家の次期当主として暮らすアリスには男っ気が無  
い。心配していたら、いきなり部下がやってきた。エリスに納得がいくわけが無い。  
――納得がいかないのは、ソリスも同じだった。  
ソリスは妹達の名を呼ぶ。  
「アリス、エリス。私は彼に話を聞きたいの。2人にさせてくれないかしら?」  
とまどう2人にほほ笑みかけ、ソリスは壁際に沿って立つ者にも告げた。  
「あなたたちもよ。外して頂戴な」  
メイド達は顔を見合わせながらも指示に従い次々と部屋を出て行く。  
アリスは物言いたげな視線を、ソリスではなくランデルに向けながら、エリスに背を押さ  
れ出て行く。  
中に残ったのは、ソリスとランデル、その2名だけだった。  
 
「貴方、アリスの何?」  
質問にランデルはうつむき頭をかいた。その頬は紅い。ソリスはわずかに、エリスの苛立  
ちを理解した。  
表情が全てを物語るなど、この大男には予想もつかないのだろう。  
ソリスは足音も高くランデルに歩み寄る。  
ランデルは戸惑いながらソリスを見下ろした。  
2人の距離、わずか数センチ。胸元の開いたドレスからは、アリスよりも大きな胸のふく  
らみが見てとれる。  
 
ランデルは慌て、一歩引いた。それを追ってソリスが一歩踏み込み、またランデルが逃げ  
る。数歩と行かぬうちに、ランデルは壁に追い詰められた。壁を振り返るとこめかみに  
何か当たった。  
豪奢な枠のついた油絵だった。絵は家族の肖像。椅子に座る老人を中心に、夫婦と3人の  
幼い娘が描かれている。娘のうちの1人、一番幼い娘は老人の膝に甘えるように立っている。  
『少尉?』  
油絵のモデルの幼いアリスに目を奪われた間に、ランデルの太腿ににやわらかいものが当  
たった。  
「?!」  
ソリスのおっぱいが押し当てられていた。  
「ちょっ…あの……」  
「貴方、いい体をしているわね」  
「褒めてくれるのは嬉しいのですが、少し、離れた方がよろしいかと……」  
平民が貴族に物申すのもどうかと思いながらランデルは横に体をずらす。しかし、ランデ  
ルの思惑通りには行かない。ソリスも同様に横にずれた。  
ともすればまろび出そうなおっぱいだ。ボリュームがありやわらかい。  
大きなおっぱいに視線を釘付けにされ、ランデルは平静を装おうとした。  
わずかにソリスの眉目が歪み、手がうごめく。  
「あっ」  
ランデルは思わず声を上げた。ソリスのたおやかな指が、服越しにランデルのペニスを  
強く握ったからだ。しかも握るばかりではない。たおやかでしなやかな指がペニスに沿っ  
て上下する。反応はすぐに現れた。硬度と大きさを増すペニスを、ソリスはさらに撫で  
付ける。竿に沿い指で撫で、奥の袋を布越しに揉む。  
快楽に息を荒くしそうになって、ランデルは慌てて両手で口を押さえる。  
絵の中の幼い少尉が見つめている。彼女の姉に対し、そんな下品な感情を持ってはいけない。  
顔を真っ赤にしてこらえるランデルを、真下からソリスが見つめた。  
「貴方はアリスをどう思っているのかしら?」  
質問にランデルは答えられない。ソリスは指の動きを激しくした。途端にランデルの背中  
がびくりと跳ね上がった。  
「どうしたの?」  
ソリスは手のひらでしっかりと固くなったランデルのペニスを押さえつけながら、涼しい  
顔で聞く。  
「貴方まさか、こんなところで、感じてるわけじゃないわよね?」  
ぶんぶんと首を振る。  
「そうですよね。まさかね。もしそうだとしたら――」  
言葉を切るとソリスはランデルにおっぱいを押し付ける。  
「もし万が一、そんな感情を持ち合わせていたら、アリスにもその思いを……という事に  
なりかねませんものね」  
ランデルはさらに強く首を振った。頬を紅くしたまま、熱く息を吐く。  
「俺に、少尉をどうの、なんて感情…あるはずがありません……」  
唇を引き結び、両手を離す。  
ランデルははるか下の位置にあるソリスの瞳を見つめ返し、言い切った。  
「俺は少尉を尊敬してます。ですから、そんな感情、ありえません……!」  
 
ソリスは自らの豊かなおっぱいをランデルに押し付けたまま、その瞳の奥を覗き込む。  
朴訥な姿と、純情な瞳。それが今は確かな意思を持っている。  
「――では貴方は、アリスのただの部下だと言うのですね?」  
「はい……」  
ためらいがちの答えだ。きっぱりとした答えを、ソリスは求めた。  
「私たちが。アリスと貴方を信じてもよいと誓えます?」  
「――はい」  
また間が開いた。ソリスは眉根を寄せながら見上げ、最後の質問をした。  
 
「……アリスに、幸多かれ、と」  
「願っています」  
ランデルはうなずく。  
嘘は見えなかった。  
ソリスはランデルに押し付けていたおっぱいを離した。  
やわらかな肉の塊がなくなり、ランデルはわずかに喪失感のようなものを感じる。  
しかし、視線をやれば幼いアリスが油絵の中から見つめてくる。ランデルは快楽を身内に  
抱え込んだまま、うつむいた。  
「嘘つきね」  
「え? …ぃぃっ?!」  
ソリスは最後に充血したペニスをひと撫でする。  
それからようやく、真っ赤な顔をするランデルから、ソリスは全身を離した。  
「いいわ」  
髪を押さえ、息をつく。  
「貴方がここで使用人となるなら、暮らすのを許してあげる」  
「使用人……?」  
「いや?」  
おうむ返しをするランデルを振り返ると、慌ててかぶりを振った。  
「嬉しいのですが、マルヴィン公に知られては……その……」  
「……そう」  
ソリスはうつむき、しかし一瞬後には顔をあげた。  
部屋の扉を開ける。外で聞き耳を立てていた妹達が雪崩れるかのようにたたらを踏み、床  
に折り重なって倒れた。  
愛想笑いを浮かべる妹達を見て、ソリスは呆れ腰に手を当てるが、すぐに宣言した。  
「アリスちゃんが選んだことなら、私は構わないわ」  
「姉様?」  
声を荒げたのはエリスだった。アリスは床からソリスを呆然と見上げている。ランデルは逆  
に、アリスに背中をむけ、猛る雄の処置に困り果てていた。  
エリスの猛攻撃をソリスは静かに微笑んでいなし、ランデルの背中に叫ぶ。  
「そうそう、貴方。夕食の用意はさせますからね?」  
 
告知どおり、ランデルは厨房でじゃがいもの皮むきを手伝わされた。  
その最中、アリスに手招きされ抜け出した先で、  
「夕食後、私の部屋に水を持って来い。――い、いいな? ひとりで来るのだぞ?」  
と目を合わさないまま、指示を受けた。  
果たして、夕食後――。  
銀の盆に水差しとグラスを載せ、ランデルは、アリスの寝室の扉を叩いた。  
 
 
ノックの後にわずかな間があった。ランデルはもう一度アリスの寝室の扉を叩いた。  
「入れ」  
凛とした声に導かれ、扉を開く。  
広い部屋だった。大きな窓があり、天井には美しい細工がなされ、床はふかふかで毛足の  
長いカーペットだ。その中に小さな机と天蓋付きの豪奢なベッドだけがある。書斎は別の  
部屋なのか、本の類は一切無かった。  
人払いを済ませたのか、メイドは1人もいない。  
ランデルは水差しとグラスを載せた銀の盆を持って所在なげに立ち尽くす。  
部屋の主のアリスはベッドの端に座っていた。衣服はシンプルで動きやすい乗馬服。膝の  
上には読書中の本が固い表紙をさらしている。  
ちろりと盗み見られた――とランデルは思ったがすぐに思いなおす。  
そんなのはアリスらしくない。  
「……どうした?机に置いてくれ。自分で飲む」  
「はい……」  
ゆっくりと、少しだけベッドを避けながら、ランデルは机の前に立つ。机には写真立てが  
1つだけ。特に障害もなく、水差しとグラスを置くと、もうすることはなくなった。  
「……あの、少尉……」  
強烈に咽喉が渇くのを感じながら、ランデルはいつもの猫背をさらに丸めた。  
「……、あ――いえ……」  
「どうした」  
「なんでもありません……」  
「なんだ。うじうじとして。どうしたと言うのだ?」  
と言いながらもアリスの口調はいつもと違い、どこか怯えているようだった。  
立ち上がり、ランデルのすぐ後ろに立つ。  
これではもう逃げられない。ランデルはひそかに息をついた。  
「あの――ですね、少尉」  
「なんだ。はっきりと申せ」  
「その――さっきの話なんですけど……」  
「この屋敷に住むという話か?」  
「はい」  
ランデルはもう一度息をつくと、振り返った。アリスの目が気おされた様に一瞬だけ空を泳いだ。  
「あの……すみません。俺、やっぱり断らせていただきます」  
 
アリスは無理に笑った。  
「な、何を言うのだ。あんな橋の下に戻ると言うのか?部屋のことなら気にするな、我が  
屋敷には有り余るほどだ」  
「でも俺、やっぱりここにはいられません」  
「あ――わかったぞ、姉上のことが気にかかっているのだな?心配するな、私が説得してみせる」  
「いえ」  
「……父上か。大丈夫だ。お前のことは私が守ってやるぞ?」  
「少尉」  
ランデルはそれでも、アリスをまっすぐに見つめた。  
「少尉。ご好意は嬉しいんです。でも、すみません」  
アリスはむっと唇を曲げた。そう言われる事は予想もしていなかった。  
「いつも伍長は、私の言葉を、聞いていてくれたではないか……」  
アリスの声が震えている。ランデルは平手を貰う予感を覚えた。  
「私の背中を守ると、言ってくれたではないか。だからお前は、常に私のそばにいなければなら  
ないのに……」  
「少尉?」  
アリスの語尾は蚊が囁くように小さかった。ランデルは首を振り、アリスの瞳を覗き込んだ。とっ  
さにアリスは横を向く。  
「少尉。身分違いとか、婚約者がいらっしゃるとか、異性とか……いろいろありますけど、そう  
じゃないんです……」  
答えないアリスにランデルは思い切って言葉を重ねた。  
「俺はやっぱり、パンプキン・シザーズで、あなたの背中を守りたいんです」  
アリスが目を上げた。その視線に負けぬようにしながら、ランデルは告げる。  
「だから、ここにはいられないんです」  
 
アリスはわずかに息をついた。  
「わかった。お前はそんなにここにいたくないのだな?」  
「いたくないといえば嘘になります。出来れば俺も少尉と――その、いえ。駄目なんです」  
「わかった。お前は朝自分でなんと言っていた?」  
アリスはくるりと背中を向けた。よそを向いたまま、アリスは言う。  
「恋人同士でないなら一緒に住めない。そう言っていたぞ。ならばお前は、私とは恋人になれ  
ないと言うのだな?」  
「えええええ」  
言われてみればその通りの言葉を突きつけられランデルは慌てた。  
「私はすっかり振られてしまったなぁ」  
「ち、違います!――あ、そういうわけじゃなくて、いえそうでもなくて、あれでもそうなる  
と住めるわけで――いえそんなわけにもいかなくて!そんな!!!!」  
アリスは小さく肩越しに振り返り――慌てて弁解するランデルを見てくすりと微笑んだ。  
「よい。もう何も言うな」  
「はぁ……」  
「正直に言うと、私も少し強引過ぎたかと反省していたところだ。すまぬ」  
「いえ、少尉が謝ることじゃありません……」  
「自分の部屋を早急に用意すれば不問とする。それでいいだろう?」  
「はい……」  
しかしランデルの顔はいまだ釈然としないと表情で告げている。  
何かが引っかかるのだ。アリスの行動の全てがおかしい。  
違和感を覚え、見守る背中がグラスに水を満たした。すぐにグラスを傾け空にする。アリスは  
またグラスに水を満たした。  
「伍長」  
呼ばれ、受け取る。  
ランデルは素直にグラスを傾け、空にした。  
グラスを返そうとして、わずかな汚れに気付いた。  
正確には汚れではない。グラスの縁につく桃色のそれは、口紅だった。  
口紅の三分の一ほどは既に消えている。知らず知らずのうちに唇を重ねたと知り、かぁ、と  
ランデルの頬が熱くなった。  
「……この、馬鹿者」  
聞き取れなかったランデルの間合いにアリスが飛び込み、襟首を掴み引き寄せた。  
一瞬のうちに顔が近付き――。  
今度は本物の唇が重なる。やわらかく、濡れていて、そしてあたたかい。  
『俺――唇、乾いてないかな――』  
気遣いがちらりと脳裏を走るがすぐに消えた。  
あるのは、アリスの唇の感触だけだった。  
しかし、うっとりと目をつむるランデルからすぐに唇が離れた。  
アリスの顔が目の前にある。ランデルは少し照れながら、見つめあった。  
「……馬鹿」  
アリスは軽く首を振り、そのまま足を後ろに下げようとする。  
いなくなってしまう。  
ランデルは焦った。あたたかなぬくもりがどこかに行ってしまいそうで、慌てて手を差し伸べ、  
アリスの手を掴み、細い体を引き寄せ、抱きしめた。  
「ちょっ、伍長…!」  
「行かないで」  
思わず懇願し、自分のみっともなさに顔を紅くする。それでもランデルは、アリスを抱く手を  
離せなかった。  
ランデルは開き直った。  
言わなければ。伝えなければ、意味がない。  
「少尉。――俺、少尉にいい事だけがあればと願ってます」  
震える声にアリスのほうが震えた。胸に抱かれ、自分の体に回った男の手にぞくりとする。これ  
が快楽というのかわからないまま、アリスは自分の中の恐れを振り払おうとした。しかし振り払  
えず、アリスは、男の言葉を、待った。  
「少尉がいつも幸せで、笑っていられればいい。いつも周りに誰かいて、あたたかな輪の中心に  
いてくれれば、俺はそれだけで幸せです」  
アリスは答えない。ランデルの胸の中できつく抱きしめられたまま、圧迫の苦しさに喘いだ。  
「だから……だから俺、ここにいられません。俺とそんなことになったら、少尉は幸せになれな  
い、そんな気がして――いたん、です。いました」  
 
「でも今は――少尉と一緒に、いたいです」  
 
アリスは答えず、ランデルを振り返り、見上げた。  
照れながらも自分の複雑な心境を整理しようとする男の不器用な目が自分を見つめていた。  
「今日は帰りますけど……一緒にいたいのは、本当です」  
アリスはくすりと微笑んだ。この男、どうも他者の毒を抜くのに長けているんじゃないだろうか。  
思いながら、アリスはわずかに身じろぐ。ランデルの手がわずかに緩んだ。  
どこかに行ってしまうだろうか。不安に思った大男は、自分の背中に手が回るのを感じた。体が  
密着し、アリスの大きなおっぱいが押し付けられるが、不安なランデルはそれと気付かなかった。  
「……流石に大きいな。手が回りきらん」  
手を離すと今度は厚い胸板にあてる。  
アリスはあたたかそうに微笑み、それを含んだ言葉が続く。  
「もういちど」  
「はい」  
「して欲しいか?」  
何のことを言っているのかすぐにわかり、ランデルは頬を熱くした。  
見上げるアリスの頬も紅い。もぎ取る直前の果実のようだ。  
ランデルは覚悟を決め、うなずいた。  
「はい」  
「……馬鹿者」  
微笑んで、しかしアリスは自分が静かにまぶたを下ろした。  
ランデルの動揺がありありと伝わるが、この一線だけは譲るわけにいかない。アリスは目をつむっ  
たまま、待った。  
迷い、焦り、それでも自身を落ち着けながら、ランデルは身をかがめ、唇を重ねた。  
 
待ち焦がれた唇だ。少し乾いて、大きい。  
夢にまで見た唇だ。やわらかくあたたかく受け入れる。  
互いに唇の震えをわずかに感じ取りながら、二人は抱き合った。互いの弾力を確認しあい、互いを  
待ち、ようやく合わせた唇を、深く味わった。  
先に挑んだのはやはりアリスだった。わずかに唇を動かし、ランデルの唇を挟み込むようにする。  
わずかに逃げるランデルの唇を追い、また軽く挟む。困惑の気配を感じ、アリスは手をランデルの  
後頭部に移す。これでもう逃げられない。  
しかしアリスはすぐに唇を離し、開いた。やわらかな唇の隙間からぬめる舌があらわれ、ランデル  
の乾いた唇に触れる。その体が大きく震えた。  
アリスはくっと笑った。口腔で声が響き、ランデルの背筋を寒気に似たものが駆け抜ける。それが  
快楽とわかるのに時間はかからなかった。  
『少尉』  
愛しくてたまらなくて、自然と腕に力がこもる。  
「ん」  
苦しそうな喘ぎを聞きわずかに腕を緩め――ランデルはおずおずと、唇を開いた。舌が侵入してくる。  
ちろちろと軽く触れながら、歯列を超え、ランデルの舌をつつく。  
舌の遊戯に快楽を覚え、また女性にリードさせる事実に悪気を覚え、ランデルはアリス肩を強く  
抱いた。舌を絡め、逆にアリスの口腔に忍ばせる。唇の内側に舌で触れると今度は逆にアリスが  
震えた。  
「んふ……」  
鼻に抜ける声が響いた。ぞくり、と心が震え、ランデルは行為を続ける。舌を絡め、唇を舐める。  
その度にアリスは喘いだ。  
「ん…んふ……んんぅ」  
時折電気が走るかのようにアリスの背中が引きつる。その度にやわらかく張りのあるおっぱいが  
ランデルの腕に当たった。ランデルはさらに唇を押し付ける。  
『もっと聞かせて欲しい……ああでも』  
ランデルは可愛らしい喘ぎに刺激され、自身のペニスが自己主張をはじめていることに気付いていた。  
昼間にソリスに与えられた熱はなかなか消えない。それに今さら気付き、自身も喘ぎそうになっ  
ていることにも気付いた。  
『少尉』  
頭の中がアリスでいっぱいになる。酔い、溺れてしまいそうになる。  
このまま快楽に身をゆだねたらどんなにいいだろうか。  
ランデルは本気でそう考え――唐突に唇を離した。  
 
わずかに顔に残した不満を一瞬で掃き捨て、アリスは微笑んだ。  
アリスは唇をおさえ姉妹のキスを思い返す。  
友人とのキス、両親とのキス、大好きな大祖父とのキスとも――全てと、違った。  
「好いた者とのキスは違うのだな」  
「は?」  
聞き逃したランデルに首を振って答え、アリスはその腕から逃れた。  
何故か、アリスは晴れ晴れとした気分になる。全てが思い通りになったわけではないが、本心を  
知れたので、それでよいとする。  
アリスは心からそう思い、唐突にエリスが言っていたことを、思い出す。  
「そういえば伍長、姉上が『男は欲望を感じると大変なことになる』と言っていたが本当なのか?」  
「いいいいいぃえそんなことはありません!!!」  
「……怪しいな。私に秘密を持つな。お前が――その、私にだ、欲望を持たなかったら、私も  
さすがに、辛いからな」  
「あああああのその少尉ぃぃぃぃぃぃ!!!」  
どこか拗ねた顔で正直に言われると、言われた方が辛い。ランデルはぶんぶんと首を振った。アリ  
スは逆に残忍に笑んだ。  
「ならば確認させてもらう!」  
「えっ――」  
ためらった隙をついてアリスはランデルに飛び掛かり、素早くマウントポジションに持ち込んだ。  
跳ね除けようにもアリスは小柄すぎて怪我をさせてしまうのではないだろうか。反撃できないラン  
デルの体を、小さな手が這い回る。  
「どうだ?どこかおかしなところはないのか?」  
「あ、ありません!」  
「何故股間を押さえる?――そうか、そこだな?!見せてみろ!」  
「いけません少尉、やめてください!!!」  
「よいではないかよいではないか」  
「だめ――そんな、あ…あぁん!!!」  
ランデルが女のように叫ぶのに驚いてアリスは顔を上げた。  
その視線の先にいたのは、痛む頭を軽く押さえるソリスだった。  
「……姉上、いつから」  
「『確認させてもらう』からよ」  
床に寝る二人の顔が揃って赤くなる。ソリスはため息をついた。  
「アリスちゃん、はしたないことはやめて頂戴ね?」  
はしたないことをしている意識はなかったが、そう言われると急に恥ずかしくなってくる。アリス  
は素直にランデルの上から降りた。ランデルも大きな体を起こし、アリスの隣りに立った。  
 
「アリスちゃんに聞きに来たの」  
「はい」  
「その男を本当に大切と思うなら、年かさの貴族の方に養子縁組して頂いた方がよろしいと思う  
のだけど、どうかしら?」  
「……伍長に、貴族になれ、と?」  
ソリスはうなずく。  
「……あの、姉上。それは」  
「認めるわけじゃないの。一つの提案。……それだけよ」  
静かに漏らす笑みは美しく、一瞬だけランデルを放心させた。  
「姉上、お申し出はありがたいのですが」  
ランデルを我に返らせたのはアリスの凛とした声だった。  
「私達はこのままでいたいと思っています」  
ソリスはわずかに首を傾けた。  
「それでいいの?」  
「はい。私達は、パンプキン・シザーズの仲間ですから」  
答えになっていない答えが力を持つ。  
アリスの瞳はまっすぐにソリスを見つめ、輝いていた。  
ソリスはわずかに、ため息を漏らす。  
「エリスがまたなんと言うか……」  
「ご安心ください」  
「そうです。俺はずっと、少尉のそばにいますから」  
途端にアリスが顔を紅くしてランデルを盗み見る。優しく微笑みを返すランデルをソリスは手招いた。  
アリスをその場に残しランデルはソリスの前に立つ。  
「貴方ね」  
ランデルの巨体でアリスに自分の顔が見えないようにしたソリスが一瞬で美しい般若になる。恐れ  
一歩引くランデルをソリスは追う。  
「アリスに幸多かれと思うのは貴方だけじゃないのよ?」  
途端にランデルの頬が鳴った。  
やっぱり姉妹揃って平手の上手い――ランデルはわずかに思った。  
 
 
 
 
【終】  
 

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