「少尉、すみません……私」  
彼女は頬を真っ赤に染めると、シーツを引き寄せ、はだけた胸を隠した。  
 あんなに激しく求め合ったのに、終わったとたん恥ずかしがると言うのもお  
かしな話だと思ったが、それだけ彼女が動転しているということだろう。  
 今回の任務では、二人とも死を意識した。  
 傷痍軍人とその妻を演じているこの安アパートに戻ってこられたのは、全く  
の奇跡だと言ってよかった。そんな常軌を逸した体験の後に心と体の興奮も冷  
めやらぬまま、営みに至る事は諜報部員にはよくあることで、自分も駆け出し  
の頃は任務が終わるたびに女を買いに走ったものだ。  
「少尉あの……今夜は一緒に眠ってもらえませんか?」  
 表向きは夫婦を偽装していたが、それぞれ別室のベッドとソファで眠る。そ  
のようにして任務とプライベートを厳密に分けていたのだが、今もまだ小動物  
のように身を震わせ死の恐怖から冷めきっていない彼女に、私は無言で腕を伸  
ばしていた。  
腕を枕にすると、彼女は安心したかのように目を閉じる。  
『少尉と呼ぶのは私だけにしろ』  
ふと、以前彼女に……伍長に言った言葉が脳裏によみがえった。彼女が何故、  
自分以外の男を“少尉”と呼ぶのがそんなに許せなかったのか当時は深く考え  
もしなかったのだが。  
 今やっと気づいた。今日、私は伍長を……自分を信頼してくれる大切な部下  
を命がけで守った。そしてそれと同時に、愛する女を命をかけて守ったのだと。  
 ようやく穏やかになった吐息を聞きながら、私はささやいた。  
「伍長……上官として男として、お前を守るのは私だけだ」  
部下を守りたいと思ったことはある。女を守りたいと思ったこともある。だが、  
そのどちらも合わさった、こんな強い感情を覚えたことは今までなかった。  
 返事はない。彼女はもう眠ってしまったらしい。柔らかな体を引き寄せると  
優しくくちづけた後、私も眠りに落ちた。  
 
 
「すみません……すっかり動揺しちゃって」  
あの夜からどれほどたっただろう。私たちは相変わらず偽装夫婦として暮らし  
ていたが、もう眠るためにソファを使うことはなくなっていた。  
「少尉ったら本当になめらかに嘘をつきますね。さすがエリート諜報員です。  
私はまだまだ」  
アパートの向かいの老人に、子供はまだかい?とたずねられたのだった。彼女  
は赤くなったが、私は戦争が終わったら、と真顔で答えていた。  
「嘘……なんですよね?」  
彼女は片付けをしながらテーブルに話しかけている。私はソファに座り偽りの  
ギプスをはずすのに専念していたので、半ば上の空だった。  
実際どうなんだろう。戦争が終わったら。まずは彼女と平和を楽しみたい。し  
ばらくは二人っきりで楽しんで、子供はその後だ。  
「そう……だな」  
彼女は何も答えない。私は一日中自由を奪っていたギプスをはずし終えてほっ  
と一息ついた。やっと本来の自分に戻れる。  
「伍長、片付けなんか後でいい。……私のとなりにこい」  
 言われるがまま素直にソファに腰掛けたが、いつもにように甘えてこなかった。  
「どうした?」  
「そうですよね……いつまでも少尉、伍長と呼び合う夫婦なんておかしいです  
よね」  
彼女の肩が震え頬に涙がこぼれる。  
「どうしたんだ……?盗聴を心配してるのか?」  
「違います!あの……私は……いつまで伍長なんですか」  
慰めようと私はほっそりした体に腕を回した。涙を流す姿はいつになく可憐で  
胸が締め付けられるように感じた。  
「?……査定の時に声をかけておく」  
震える首筋に舌を這わせた。彼女が曹長になったらそう呼ぶべきなんだろうか。  
でも初めてあった時のように二人きりの場合は伍長と呼びたい。お前はただの  
女ではないのだから。いや、本当は呼び方なんてどうでもよかった。名前なん  
てはかないものだ。任務柄、お互い偽りの名前で呼び合い抱きあった女なんて  
腐るほどいる。  
 
「では……私が少尉を名前で呼んでもいいですか」  
真剣な声だった。彼女が何故こんなつまらないことにこだわるのかよくわから  
ない。  
「私を名前で呼ぶ女なんか腐るほどいるぞ……お前だって、今までの男は名前  
で呼んできたんだろ?……私のことは少尉と呼べ。呼んでくれ」  
こんな抱き合っている時に私を少尉と呼ぶのはお前だけだ。お前だけが特別な  
んだ。  
だってお前は最も信頼のおける部下であり女なのだから。ただの部下でも、た  
だの女でもなく。  
 なおも問いかけてくるのを唇で塞いだ。最初は抗っていたがすぐに大人しく  
なる。  
「伍長……愛してる」  
いつもなら、はい少尉、私もという返事が返ってくるのに、今日はすすり泣き  
が聞こえるだけだった。  
 
 
 
戦争が終結し、私たちの偽装夫婦関係も終わった。停戦とは言え薄氷といわれ  
るようなものだから、二課の任務は少しも楽にならなかったが。  
そんな忙しい最中、彼女が退役を申し出た。しかも上司である私を通さず、直  
接人事課に申し出たのだった。  
彼女からはなんの相談もなく、当然私は許さなかった。話し合いたかったが本  
人はすでに帰郷してしまい、人事課としか連絡を取ろうとしなかった。  
事態はどんどんこじれて行き、やがて私は人事課からとんでもない話を聞いた。  
彼女が、私が階級をたてに関係を強要したと訴えている、というものだった。  
少尉、伍長と階級で呼び合うことを強制しておきながら、男女の関係を結んで  
いたと。  
そういわれれば返す言葉もない。彼女は去り、私には不名誉な噂だけが残った。  
 
……あれから3年が立つが噂は未だにささやかれているらしい。しかし私は  
そのままにしている。  
 今となってはこの風評だけが、私と伍長に残る甘い関係だから。  
 
 

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