幼い頃から背負ってきたもの。
その全てが今の私を形作ってきた。
姉上は言う。失ったものもまた大きかったのだと。
私には解らなかった。
初めから持っていないものを惜しむことなど、出来はしないから。
「伍長、どうした?」
我ら帝国陸軍情報部第3課は戦災復興の任務のため、ある町の民宿で一泊することになった。
早朝からの任務に備え、それぞれに割り当てた部屋で皆早目の休息を取っているはずだ。
……はずなのだが、控え目なノックに答えてドアを開けると、シーツをすっぽりと被った伍長がぽつりと立っていた。
無論、私と伍長の部屋は別に割り当てられているし、時刻は既に深夜と呼べる時間帯だ。
「すみません、こんな時間に起こしてしまって…あの…」
「構わん。何だ?」
大きな図体をぎゅうっと縮こませて、小動物の目で私の様子を窺っている。
かと思うと、ぱっと視線を逸らしてはぐるぐると目を泳がせ始める。明らかに挙動不審だ。
「伍長」
落ち着かせようと、伍長の腕を軽く叩き呼び掛けた。
すると、シーツごと体を抱きしめるようにきつく巻き付けていた腕が少し、緊張を解くのが分かった。
「少尉…あの…あの…」
図体は私の何倍もあるというのに、今目の前にいる男はまるで子犬か何かのようだ。
空気を食むようにぱくぱくと開閉だけを繰り返す伍長の口から言葉が出てくるのを、私は黙ってただ待ってやる。
ようやく、大きく唾を飲み込んでから伍長は言葉を絞り出した。
「俺…お願いがあるんです」
「お願い?」
伍長から私にそんな風に言ってくるのはめったにない。
「今晩だけでいいから……少尉の傍で寝てもいいですか」
「――――何?」
時計の秒針と、空っ風が窓ガラスを叩く音だけが、やけに耳障りに響いていた。
「…伍長……それは添い寝しろということか?」
気まずい沈黙を破り、なんとか言葉にしてみたが予想以上に恥ずかしい響きだった。
心なしか頬が上気する。
「え、…あ、いえ!そっそんなんじゃないんです断じてっ!」
一テンポ遅れた反応で、伍長は首を取れるほど左右に振った。
薄暗い廊下でもはっきりわかるくらいに顔は真っ赤で。
あまりにも必死な行動に私は面喰って少し言葉を失った。
「ただ…!ここ、ここでいいんです。少尉の部屋の前の廊下でいいんです……」
伍長は今自分が立っている地点に目を落とし、またこちらを窺うように目線を上げた。
(といっても私が見上げていることに変わりはないのだが。)
こんな地べたで本気で夜を明かすつもりなのか?こいつは。
半ば呆れて私は首を傾げた。
「ここって…こんなところで寝たら風邪を引くに決まってるだろう」
しかも、何故伍長がそれを要求するのかも全く理解できない。
こんなことは今まで一度もなかったのだ。
とにかく、このままにしておくと本当に廊下に座り込みかねない。
「まず、理由を聞こう。中に入れ、ほら――」
言いながら伍長の腕を掴み、部屋に入るよう促した、その時初めて気づいた。
伍長の腕、いや全身が尋常じゃなく震えていることに。
「そこに座るといい」
自身の軍服を掛けていた一脚を指すと、伍長は黙ったまま素直にそこに腰かけた。
大柄な男が座ると、簡素な椅子はまるでオモチャのそれのようだった。
そして都合のいいことに、立ったままの私と目線が丁度同じくらいの高さになる。
備え付けの丸テーブルには、だいぶ縮まってしまったろうそくがひとつだけ。橙色の炎をちらちらさせている。
その光を頼りに伍長をあらためて見ると、なるほど、明らかにいつもと様子が違っていた。
…それも、よくない方に。
先ほどとはうってかわって、死人の様に顔は青白かった。瞳孔が大きく開き、不安げに揺らめいている。
体を覆うシーツをつかんでいても、手の震えはおさまった様子がない。
…夕刻、別れてそれぞれの部屋に戻った時は、何ら変わった所もなかったというのに、
いったい何が伍長をここまで怖がらせたのだろう。
「いったいどうしたというんだ?何があった?」
伍長は理由を言うべきかどうか迷っているようで、深く黒い瞳が何度も私の顔を探るように見つめた。
戸惑いと、恐怖と、どこか懺悔し贖罪を求めるような悲しい色で。
何とかしなければ、と私は自身を奮い立たせた。
今何とか出来るのは私だけだ。どこかそんな自負のようなものもあった。
「伍長、少しずつでいい。話してくれないか。吐き出せば少しは楽になる」
触れられているだけでも人を落ち着かせる効果があると聞く。
私は伍長の怯えるような眼から視線を外さないようにしながら、両肩に手を置いた。
一時の沈黙。
伍長は一度、固く眼を閉じて、そのまま頭の中を辿るようにしながら語り始めた。
「こんなこと、笑われるかもしれませんが……さっき俺、夢を見たんです」
「夢?」
「はじめはいつもの夢でした。たくさん手が生えてきて、俺を引きずりこもうとする夢」
私はただ黙って続きを促す。触れた肩から尋常ではない震えが伝わり出した。
「ここまではいつものだから……逃げてはいけないものだから、よかったんです。でも
……少尉が。少尉が出てきて、目の前でそいつらに飲み込まれそうになって――」
フッと浅く息をつくと、伍長は突然頭をぐっとうつむかせ、大きな両手で顔を覆った。
反動で私の腕は振り払われる。
「駄目だ!っと思って……っ。お、俺、の、過ちに少尉を巻き込んだらっ駄目だって…必死に助け出そうとしたんです。
…少尉の手をつかみ損なったところで、目が覚めました」
そこで一旦大きく深く息をつくと、幾分か落ち着いた口調で伍長は続けた。
「目が覚めてからも、つかめなかった手が心配で、本当に少尉が大丈夫かどうか確かめたくて……
ここに来ちゃったんです。すいません…こんな、くだらないことで遅くに起こしてしまって」
未だ顔を上げようとしない伍長。私は、そっと奴の後ろに回り込み、背中と向き合った。
静かすぎるこの部屋に、軍靴が床を鳴らす音が短く響いた。
「何故、くだらないんだ?」
ぴくりと伍長の頭が揺れる。
「少なくとも私は伍長の夢の話がくだらないとは思わない。笑いもしないぞ。それに
お前だってくだらないと思ってはいないんだ。だから来たんだろう?」
私は戦争を知らない。
伍長は知っている。
私には解らない痛みを背負っている。
戦後復興と銘打って駆け回っていれば否応なく目にすることになる、目に見えない痛み。
それは戦災だ。
幾度となく悪夢を見、精神を侵される、そのような人々と出会ってきた。
しかし戦争の中にいたことのない私にはどうすることも出来なかった。
取り去ってやることも、和らげてやることも。
きっと私のようなものにしか出来ないこともある、だからそれを全うしよう、そう誓った。
だがそれは、彼らを見なかったことにするという意味ではなく――。
「くだらなくなんかない」
立ち向かわなければならないのだ。伍長も、私も。我々は帝国陸軍情報部第3課なのだから。
「少尉……?」
後ろに立つ私の様子を窺おうと、顔を上げた伍長。その頭を、私はやんわりと抱く。
「しょっ……!?」
「正確に、どうしたらいいかはわからないんだ」
被災者と同じ立場には立てない。でもそれでいい。以前そう私に諭した男が目の前にいる。
「でも悪夢を見たときに、私はよく姉上達の傍に行っていた――ずっと小さい頃の話だ」
後ろから、私の両腕に目隠しされたような状態のまま、伍長はじっと動かない。
昔話なんてあまりしたことがなかったから、驚いただろうか?何故か今は聞いてほしいとさえ思っている、自分がいた。
「こうやって姉上に抱きしめられていると、不安がすっと消えていった…気がする。
同じ効果があるか分からないが、ちょっとはマシになったか?」
返事はない。ただ身じろぎしたときに伍長の髪が、首やら顎やらに触れて少しくすぐったい。
「伍長?」
「……えっ…あ、はいっ!いい匂いが」
「は?」
浮ついた口調で不思議な返答が返ってきた。
「あ、あ、いえ!何でもないです!!」
何だか先ほどより落ち着くがなくなったのは気のせいだろうか。
とにかくいつもの伍長の調子に戻ったのでほっと肩をなでおろす。