「さぁ君達、今日は特別にここで休憩といこう。トーナメントの続きは2時間後だ」
「イェィッ!」「よっしゃあ!」「わーい、先生大好き!」
ここは大陸の外れの小さな海岸。沖の海底神殿が決勝会場だ。
アカデミーが地上に降りて以来、時々トーナメントの合間にこうした休憩を挟むのが
半ば通例になっていた。
特にこの時期海岸行きを希望する生徒は多く、あらかじめ水着を着込んでいたり、
麦わら帽やゴーグル持参で授業に臨む者までいる。
当初風紀の乱れを懸念する向きもあったが、空中の校舎と寮のみに生活圏を縛られる
従来のあり方への反省が優先された。
世間から離れて魔術の修練にいそしむばかりが賢者への道ではない、ということだ。
長年空の上で呑気に最高学府を気取っているうちに、あの瘴気が再び地上に蔓延し始めている。
地上の実態に肌で触れ、瘴気に正面から立ち向かえる賢者の育成を急がねばならない。
この美しい海と、大地と、空がまだあるうちに。
そんなお題目を忘れさせる程に、今日の海は穏やかで、空はどこまでも澄み渡っている。
思い思いの夏の装いに身を包み、浜辺で戯れる生徒達。平和な昼下がり。
フランシス先生まで監視役の職務そっちのけで寝そべっている。海パン一丁で。
今年こそ小麦色の肌を手に入れ、イメージチェンジを図ろうと必死らしい。
「ふっ、タンニングで、もっと愛される担任を目指すのさ。ナンチテ」
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「先生!先生起きて下さい!大変です!」
「ん…カイル君か…しまった寝過ごしたか!? 汝、今何時だ?」
「(起きざまにダジャレですか…無視)マラリヤさんがいないんです!」
「マラリヤ君が? …どこかに隠れてないか?砂の中とか」
「貝じゃないんですから。難破船の中まで捜したんですが」
「箒でアカデミーに戻ったとか?」
「それなら誰か気付くはず…まさか!?」
二人はほぼ同時にピンと来た。
「浮き輪!」
確かマラリヤは水着と浮き輪を持参していた。
浮き輪姿の彼女をラスクがさんざん茶化していたから間違いない。
「ラスク君!マラリヤさんを最後に見たのはいつですか!」
「浮き輪の事をからかったら、何も言わずに海に入ってって…それから見てない」
「…ヤバイぞ…」
「ヤバイって。流されたとしても、そんなに遠くへは」
「カイル君。ここが何故 "セイレーン・コースト" と呼ばれるか知っているかね?
潮の流れが早くて、捕まったら簡単には抜け出せない難破の名所だからさ」
「俺もよぉナンパに使うとるけどな」
「つまらん。自重したまえタイガ君」
他人のギャグには滅法厳しいフランシス先生である。
「そ、それじゃあマラリヤさんは」
「うむ。相当なスピードで沖へ流されたな。泳いでは到底戻って来れまい。
私は空から彼女を探す。カイル君はすぐアカデミーへ連絡してくれ!」
「わかりました!」
「まったくあの撥ねっ返りは…! いつだって僕を困らせてくれるよ」
フランシス先生は海流の先、東を目指して飛ぶ。海パン一丁で。
「さぁて…どうしよう、かな…」
もう陸地も見えない。ちょっと遠出のつもりが、予想外の勢いで沖まで押し流された。
普段の冷静を装ってはいるが、このまま助けなど来ないのでは、とも思い始めている。
「………」
目を閉じる。不安を払いたくて、マラリヤは別の考え事に耽ることにした。
自力で戻る術はないが、きっとそのうち誰かが探し出してくれるだろう。
アカデミーが空にあった頃、浮遊島の圏内は常に魔力が満ちていた。
浮遊島下部の球形の構造物、あれが魔力のジェネレーター。
かつて伝説の五賢者が創り上げ、古の大戦の趨勢を決したと言われる超魔術の集大成。
数万トンの岩塊を空に持ち上げ、時間の流れすら変えてしまう圧倒的な力場。
何せアカデミーの「一学期」が、地上の一年余りに相当するのだ。
更なる魔術の心得次第で、何十年でも若い肉体を維持する事さえ可能だという。
…誰とは言わないが。
マラリヤは知っている。アカデミーが地上に降りた本当の理由を。
先学期あたりから、急に先生たちの動きが慌しくなった。連日深夜に及ぶ職員会議。
ある日職員室のダンボール箱に身を隠して、その内情を嗅ぎつけた。
ジェネレーターの出力が年々低下している。例の瘴気の作用だろうか。
総員手分けして古文書の解析を進めてはいるが、いまだ有効な解決策は見出せない。
このまま出力低下が続けば、いずれ現状通りの運用は不可能になる。 道は二つ。
校舎の浮遊を停止するか、教師生徒の安全を守る事を放棄するかだ。
何度目かの重い沈黙の中、突然リディア先生が口を開いた。
「さっきから誰かの気配がします」
マラリヤが潜んでいる方角を正確に指差す。
「……!」
完全に気配を殺した筈なのに。エルフのセンシビティ能力を甘く見ていた。
気を乱せばますます気取られ、こっそりこの場を抜け出すチャンスを失ってしまう。
「フン、どこの悪ガキだぁ? 百叩きの上、記憶抹消モンだなこりゃあ」
「以前にもいたのぅ、商業学科にそんな生徒が…」
「かわいそうだけどしょうがないよね。あの子には一生購買部の番をしてもらうわ」
「…僕が見てきましょう」
フランシス先生は席を立ち、その方向へ足を進めた。
窓際に昨日までなかった大きなダンボール箱。多分あの中に…。
「──────────!!」
近づいてくる。もはや無言を保つのが精一杯。冷や汗がにじむ。動悸は早鐘のよう。
逃げなくては。しかし既に恐怖で足がすくんで動かない。それどころか。
プシャアアアアアアア……ッ
制御を失った括約筋をこじ開けて、ありったけの尿が噴き出した。
量と勢いから、それが箱の外まで漏れ出ているのは明らかだった。
もう逃げられない。 マラリヤは覚悟を決めた。どうにでもなさい。
「ここか」
箱の前でフランシス先生は足を止めた。しかし、いきなり箱を取っ払いはせず、
しゃがみ込み、小声で話しかける。
「その探究心は評価するが、程々にしておかないと身を滅ぼすぞ」
「……」
「今回だけは見逃そう。だがおしおきは受けてもらう。その身に刻め」
箱に軽く手を掛け、詠唱を始めた。
「!?(こんな呪文聞いた事ない…私を…どうする気?)」
箱の中が淡い光に照らされた次の瞬間、マラリヤの体に異変が走った。
「っ!! ぅ…ぁぁ…ぁ……ぐ!」
両手で口を押さえ、叫びを必死で堪える。
「よく最初のショックに耐えたな。体の力を抜いて。何も考えるな。じき楽になる」
痛いとか苦しいとか、ありきたりな表現では言い表せない別次元の感覚だった。
全ての内部組織が一旦寸断され、ゴッソリ入れ替え・再接合された様な。
気持ちが悪い。自分の体の在りかも、頭や手足がどう繋がっているかも分からない。
やがて箱の上蓋が開けられた。ニュッと伸びた巨大な手に軽々と掴み上げられ…
いや自分の体が小さくなっているのか…。それを把握するのにも数秒を要した。
どこかへ運ばれている。不快感は大分落ち着いたが、視界がグルグル回って定まらない。
「ニャンと、猫でした」
「猫…ですか」
「思わずキャッと驚くタメゴロー。ナンチテ」
「別に驚きはしませんが(…猫の気配じゃなかったんだけど…?)」
「うわぁ可愛い黒猫ちゃん!ナデナデするのだ!」
「オシッコしてますよ」
「うげ!」
「外へ連れ出してきます」
職員室の扉を出たフランシス先生は、マラリヤを抱き寄せ再び囁きかけた。
「そういう事だ子猫ちゃん。アカデミー創立以来の危機に皆ピリピリしている。
余計な騒ぎを起こさないでくれ。 …それから、今聞いた事は当面内密に頼むぞ」
「ニャー」
「行きたまえ。魔法の効果は数分で切れる。人目のつかない所でジッとしているんだ」
そっと床に下ろし、ジェスチャーで逃げるよう促した。
まだ体が猫の構造に馴染みきっていないが、何とか四つ足で歩く事はできそうだ。
「ニャー…」
振り返ると同時に、扉はパタンと閉じられた。
せめて最後に、助けてくれた礼を言いたかったのに…。ニャーしか言えないけど。
誰もいない夜の校舎の廊下を、マラリヤはヨロヨロと歩き出した。
「あの時…何で先生は私を見逃したんだろう…あんな呪文まで使って」
浮き輪を抱えて、不気味なほど静かな海を漂いながら考える。
答えは出ない。壁に突き当たって考えが先へ進まない。 ずっとそう、もう何度も。
分かった事といえば、あの時以来フランシス先生が、他の先生とは違う存在に
なりつつある、という事くらいか。
「…惚れた? まさか。あんなダジャレ好きのお調子者」
マラリヤは苦笑した。 その時。
ゆらり。
海流とは違う水の揺らぎを足先に感じた。
海面の下に目をやると、ゆっくりと視界を横切る大きな魚の影が。
「…うそ……」
頭の中に鳴り響く「ジョーズのテーマ」。
「どこへ行ったんだ…魔法石も持たずに」
箒で沖へ出て大分経つが、マラリヤは見つからない。
鏡のように凪いだ海面は陽の光を照り返し、フランシス先生の全身を容赦なく灼く。
これ以上肌を晒し続ければ、日焼けどころではなくなってしまう。
「ジェネレーター出力回復の目処が立つまで、校舎と寮を地上へ降ろす」
これがアカデミー教師陣の結論だった。
綿密な降下地点選定の末、新学期の始まりに期日を合わせ、計画は実行に移された。
湖のほとりに、校舎と、それを囲むように五つの寮が静かに降り立ち、
浮遊島と大地の繋ぎ目が魔力で見る間に塞がれ、まるで昔からそこにあったかのような
景観になってゆく様は、生徒達と周辺住民の度肝を抜いた。
寮を校舎の周辺に密集させたのは、一種の結界。各ジェネレーターの及ぼす魔力が
くまなくアカデミー敷地内を覆うように配置されている。
これでとりあえず今まで通りの安全が確保された。 問題は敷地の外。
「これを使ってみるか」
ロマノフ先生が取り出したのは、ある洞窟から産出される特殊な鉱石だった。
これを精錬加工して、魔力を「溜め込んでおける」宝石状の物体にできる事は
古くから知られていた。封じ込めた魔力に応じて輝きを変える様子は美しい。
悪用の危険。正しい魔力の引き出し方を知らぬ者が扱えば大事故にもなりかねない。
しかしアカデミーは全生徒への魔法石の配布を決めた。
生徒の修練度合いに合わせて、行動範囲と魔力の封入量を制限すれば良いだろう。
あとは各自の自制心次第。
博打に近い新カリキュラムへの移行であったが、意外に生徒達の順応は早く、
むしろ楽しんですらいるようだ。 この半年、大きな事件もなかった。
胸をなで下ろす教師陣ではあったが、外出時の魔法石の携行に関しては
常に厳しく義務付けていた。
魔力を持たない魔術士は、ただの人だからだ。
「…見えた!」
遠くに小さな波しぶきを認めた。 目を凝らす。確かにマラリヤだが、様子が変だ。
慌てている。何かに襲われているような。
「鮫か…? だから言わんこっちゃない!」
箒を加速させつつ、印を結び呪文発動の準備をする。
間に合ってくれよ。
「助けて…助けて!」
急ごしらえの魔法障壁で何度か鮫の突撃を凌いできたが、もう限界だ。
体力と引き換えの魔力発動だから、消耗も早い。
魔法石を浜辺に置いてきた事を、マラリヤは心から後悔していた。
こんな筈じゃなかった。ちょっと皆を困らせたかっただけなのに。
誰にも気付かれないまま、海の真ん中で鮫に食われて死ぬなんて。
誰でもいい。私に気付いて。私を助けて!誰か!
海面から突き出た鮫の背びれが勢いをつけて接近してくる。
こちらの体力が尽きたのを見計ったか、悠々と真正面から喰らいつく気だ。
ここまでか。 普段は何でもできるイッパシの魔術士のつもりでいたのに、
一歩外へ出れば、何と無力なんだろう。
子猫の姿で職員室を追い出された、あの日以来の敗北感。
フランシス先生…
「…って、人生最後の瞬間に何であんなダジャレ先生が!」
「悪かったね、あんなダジャレ先生で」
「…へ!?」
気が付けば空の上にいた。遥か下では、餌を見失った鮫がウロウロしている。
「間一髪だったな。間に合ってよかった」
「………はぁぁ…」
何てこと。一度ならず二度までも、フランシス先生に助けられるなんて。
正直、嬉しさより先に脱力感が来た。拍子抜けの余り、溜め息をつく。
先に言うべき言葉があるのに、どうしても切り出せない。
「後ろに乗りたまえ。浜へ戻るぞ」
「……怒らないんですか」
「お説教ならアカデミー査問委員会でいくらでもしてやる。覚悟するんだな」
「………」
ダメ。 今ここで先生が怒ってくれなきゃ、また繰り返しだ。
ありがとうも、ごめんなさいも言えないまま、時だけが過ぎ去ってしまう。
マラリヤは思わずフランシス先生の背中に抱きついた。
「先生っ…!」
「うああああああああああっ!!」
「ひっ!?」
絶叫に飛び退く。背中が異様に熱い。改めて見ると、全身が真っ赤だ。
「…日焼けに失敗しましたね」
「ぅぐぐ…半分は君のせいだぞ…!」
海水で絶叫する程の痛み。これはもう火傷に近い。
早く手を施さねば、体中水ぶくれで、まともに寝起きすらできなくなる。
急いでアカデミーへ戻り、ミランダ先生に治療を頼むか? いやそれよりも…。