その日も、シャロンは待ち時間をロマノフの元できっちりと使い切った。
いつの頃からかは定かではないが、彼女は他の教科の予習を受講しなくなってしまった。購買部へも顔を出していないらしく、更には最低限必要な授業も可能な限り切り詰め、空いた時間があればロマノフ教師を探し、ひたすら学問の予習復習を繰り返している。
「どうしたのかな…」
最初に異変に気付いたのはアロエだった。
ついこの前までは、こうした授業の間の休み時間には、女子同士集まって噂話恋の話などに花を咲かせていたものだったのだが。
今日もその中にシャロンの姿だけが見当たらなかった。アロエはく、と俯く。大きな瞳が陰りを見せた。
「他の教科も平行して強化してるならわかるけど。ナンチテ」
「そーゆーユリはどうなのよ?フランシス先生のお寒いギャグがクセになってるじゃん」
ルキアがつっつくと、ユリはわかりやすく慌ててみせた。そんなんじゃないと、しどろもどろになりながらも身振り手振りを加えて全力で否定する。
それに追い討ちをかけるルキア。
叫ぶユリ。
そんな二人をやんややんやとかきたてるヤンヤン。クララ。アロエ…
「…いつもなら」
ふ、と
息を吐くようにクララが洩らした。
「いつもなら、こんな時…シャロンさんが宥めてくれましたね」
それを機に、彼女らはしんと静まった。
その場にいる誰もが、いつものやり取りが乾いて聞こえたのだ。
それは例えば、アロエが風邪をひいて休んだ時や、ルキアが誤って魔法を暴発し、寮で謹慎を余儀無くされた日も、同様に虚しいものではあったのだが。
ライバルでもあるが、その前に彼女達は友人だった。そう思っていたのだ、ずっと。
「そうアル、今のシャロンは変アル!世界史言語学数学理化学化け学生物学音楽…そればっかりアル!」
「あたしも、シャロンが勉強してるとこしか見てないし…」
「やっぱり直接訊いてみましょうよ!私達は心の友<friend>!なんだから、それくらいやってもバチ当たんないって!」
「そう、ですね。いいと思います」
「遠慮なんてしてる暇ないアル今すぐ探して問い詰めアルアルアルアル!!!1!!」
「誰を、問い詰めるんですの?」
火が点いた乙女たちにぴしゃりと冷水をかけたのは、やはり噂の渦中にいるシャロン本人だった。
「シャロン!!し、心配したアルヨー!!」
「ていうか、大丈夫なの?寮に戻ってからも寝ないで勉強してるらしいけど」
「え、それ私初耳…」
「シャロンちゃん!ごはん食べてる?ちゃんとお休みしてる??」
「み、みんな、シャロンさんが困ってしまいます…」
「そ、そうですわ。有り難くも思っていますけれど…」
次々と飛び入る質問の矢を去なすように、少し照れながらもシャロンは口を開いた。
「わたくしは、大丈夫ですわ。皆さんと前のようにお話できないのは、す、少し、さびしいですけれど」
「シャロンちゃん、どうして、そんなに勉強してるの?」
アロエは最大の疑問を口にした。子猫のような愛くるしくも純粋な少女をこんなにも悲しませているのを知り、シャロンは胸を締めつけられるような思いをしたが、視線を皆へと戻しこう言った。
「お答えすることはできませんわ」
「どうして?あたし達、友達じゃん」
「ごめんなさい。ただ、健康管理は怠っていませんから、ご心配なさらないで」
ね、と友人達に請うと、シャロンはつかつかと足早に最前列の席へと向かった。そういえば、間もなく試験開始の時刻か。
「いつもは私達の近くだったのになぁ…」
「何がシャロンさんを駆り立てているんでしょうね」
「まさか」
キラリとルキアの眼に閃光が走る。思わず四人は身構えた。こんな時ルキアは決まってあの話をする。
声を潜めて、ルキアは語る。
「恋だったりして!」
「えっ…いや、まさか」
「きっとすっごい紫宝賢者の人なのよ!それであんなに躍起になってるんだわ」
「な、なるほどアル。確かに辻褄は合うアル!」
「そっかーツンデレシャロンも遂に色を知る、かー」
「そんな、シャロンさんに聞こえたら…」
「でも、それってなんかステキだね〜…」
「恋かぁ…」
「恋…♪」
飛躍に飛躍を重ねた話にそれぞれ想いを馳せる乙女たち。
そんな彼女らの様子を、左斜め後ろの席からマラリヤは偵察する。
「…いくら年の差ブームっても、爺様は攻略が難しいかもね……」
*
「…」
モアイの頭上で、シャロンは空を見た。
また三位だった。
毎回毎回、決勝戦までは漕ぎ着けるのだが、どうしても一位をもぎ取ることはできず、そしてその敗因も彼女は知っていた。
やはり必修授業の知識のみでは対処は無理だ。自由時間中の予習でも、満遍なく科目を選択していかなければ、自然と知識は偏る。しかしそれでも、シャロンは学問を選択せざるを得なかった。というよりは、したかった。
「わたくしも、馬鹿ですわね」
嘲るように呟くと、愛用の箒に腰掛け、空を滑った。
*
最初は単なる憧れだと思っていた。今でもシャロンは、果たしてこれが恋かどうか迷うことがある。
ロマノフ先生のあくまでも紳士な接し方に、同年代の男子にはない特別さを感じ、盲信的に、崇めているだけなのかもしれない。
これは一過性のもので、時が経てば消えてしまう、そんな程度の気持ちなのかもしれないのにと。
でも、それでも
ロマノフ先生の授業を受けているだけで、胸が高鳴る。心が躍る。
噂通り厳しい指導ではあるが、それだけに、誉められた時は誇らしくなる。
そしてそれ以上に、頑固一徹なロマノフの――よく注意していないとわからないくらいだが――微笑を拝めることが嬉しい。
長々と伸びた白髪も髭も、数多の戦歴を思わせる皺も、肉が痩せ、うっすらと骨のつくりが見てとれる手も、シャロンは好きだった。
そう…好きだと思った。
きっとこれが、恋なんだと思った。
もっとそばにいたい。見ていたい。だから、そのためならば何だってできた。
「では、今日の授業はこれまで」
「こんな遅くまで見ていただいて、申し訳ありません」
通常授業の後の個人レッスンも、シャロンが直接交渉してやや強引に取り付けたものだ。しかし、今回は長引かせてしまった。
元来ロマノフは多忙の身であろうに。
わがままに付き合わせてしまいすまなく思いながらも、心の片隅で、独占できた喜びを堪能する自分を、シャロンはこっそり苦笑した。
「なに、修練に励む学徒を手助けするのが教師の仕事じゃからの」
「そう言っていただけると助かりますわ…」
普段は狭く思える教室も、たった二人だとこんなにも広い。加えて、夜の迫る校舎はどこかおどろおどろしく見える。
とにかく、資料や書物をせかせかと片付けることにした。
「おぬし、平気か」
「大丈夫ですわ。教室の消灯もわたくしが済ませておきますわよ?」
「そうではない」
…そろそろお説教が来ると思っていましたわ。
シャロンは心でぼやくも、てきぱきと教室を整理する。
「一つの道を極めるのもよいであろう。じゃがおぬしは賢者を目指しておるのなら話は別じゃ」
「他の分野も同様に力を注げとおっしゃりたいのでしょう?」
「自覚しておるのならなぜ矯正せぬ」
「……もう、わかっているのでしょう」
声が震えた。
自分の数倍生きているのだから、悪あがきをしても無駄だというのは解りきっている。知った上で、この人は敢えて今まで触れてこなかったのだ。
この恋は叶わない。
それでも、大勢の生徒の一人としてでも良かったのだ。なのになぜ今自分は畏怖しているのか?
「ぬしはまだ若いのだ」
ロマノフは佇むシャロンの元へ寄ると、照明の電源を落とした。
瞬く間に闇が広がる。
窓からは、学生寮・職員棟の灯りがてんてんと見えた。もう、夜になったんだと、今更ながらに気付かされる。
「これから先、色んな男性と出会うじゃろう。ひょっとすると、数年後にはクラスメートと恋仲になっておるかもしれぬ。レオンやカイル、タイガもなかなか素質はあるしの」
「先生が」
か細くも美しい手が菫色のローブを握り締める。
「貴方がっ、言ってることは、正しいですわ。わたくし…まだ、貴方の歳の半分も、生きていませんもの」
激情がシャロンを襲う。だが、高潔な彼女は平静を装い、少しでもロマノフとフェアであろうとした。かわりに、目からほろほろと涙がほころびでる。
シャロンは、それを見せまいと、俯いた。
「何度も、何度も、考えましたわ。これが本当に恋なのかそうじゃないのか。でもっ…わたくし、貴方の、講義や授業を受けて、幸せでしたの…!」
「…シャロン、おぬしはわしを崇拝しておるだけじゃ。異性としての好きとは、異なる」
「!!…」
悔しさで、涙が一気に溢れ出た。ただただ、悔しい。
なぜ自分はこんなにも遅く生まれたのだろう。もっと早く、この世に生を受けていれば、彼と対等になれたかもしれないのに。
こんな、恋の意味すらろくに理解していないような子供の姿じゃなく、ロマノフにふさわしい女性として彼と出会いたかった。彼と恋がしたかったのに!!
「暫くの間、わしの担当教科は休んでも良い。…気持ちの整理がついたら、またいつでも授業をしてやるわい」
ロマノフは両手で、ぐしゃぐしゃのシャロンの顔を、そっとこちらに向けた。
「よいな」
しわがれた声が告げた。
辛いのに、低い響きが心地良い。親にあやされているようだとシャロンは思った。
そんな状況なのに、心臓は相も変わらずドキドキうるさい。
いつもよりずっと近くにある顔は今もなお自分を惹き付ける。皺だらけなのに眼光は鋭く自分を射抜いている…端から見ると、今からキスしますよという体制なのに。
(…キス?)
そこで、シャロンの思考は一回凍った。
いや。
まさかまさか。
今までの自分の気持ちを掘り起こす。そうだ、今まで自分は、ロマノフ先生のそばにいるだけで良かったのだ。それだけ満足だった。
だが今、自分は何を考えた。何を…欲した?
「………わかりましたわ」
「ふむ、ならよろし…」
シャロンは、ロマノフの大きな手を素早く取り払うと、いきなり彼に、くちづけをした。
触れるだけの、幼稚で拙いキスを。
彼の唇は少し厚みがあり乾燥していたが、シャロンは満足だった。
頭の中のパズルがぱちぱちと、早送りでもしているかのように埋まっていく。
が、ロマノフは自分が何をされているかを理解した瞬間、反射的に魔法を繰り出してしまった。…ここ数年、自分が最も行使している魔法を。
「な、何てことするんですのぉーっ!!!」
「それはわしが言いたいわい!!」
聞き慣れたSEと共に落雷が落ちる。少々威力も増しているのだろうか、雷を直に受けて、シャロンはがく、と崩れ落ちた。
だが命に別状はないようだ。意識もある。全身に痺れを残しながらも、彼女は不敵に笑ってこう言った。
「わかったんですのよ。わたくし、ロマノフ先生のことが好きですわ!」
「…なんじゃと」
「わたくし、貴方のことを、男として意識していますの!!」
いいですこと?とよろめきながらシャロンは立ち上がった。
「…単なる憧れではありませんわよ」
「何度も言わせるでない。わしもおぬしのような少女を痛めつけるのは―――」
「少女なんかじゃありませんわ!」
空っぽの教室に彼女の声がよく通る。
「わたくし…あ、あ、あなたに抱かれても良いと思っていますのよ!!」
「なっ…」
そのあまりに率直すぎる言葉を聞き、今度はロマノフが赤面した。シャロンは耳まで赤くしながらもなおも続ける。
「愛していますの!貴方のためなら何だってできますわ!ですから、わたくしとけけ、結婚してくださいませ!!」
「けっ、けっこ、おぬし軽々しくそのようなことを」
「わたくし、本気ですわ」
闇の中でスカイブルーの目が煌めく。
ロマンチックの欠片も感じない告白だ。だが彼女は堂々としている。力強い愛の言葉。
「…でも今のままではダメですわね。せめて賢者にはならなくては」
「シャロン、わしはもう老いぼれだ。少なくともぬしより先に死ぬ」
「そんなの、関係ありませんわ!それに、わたくしはずっと好きでいる自信がありますわよ?」
「違う。わしが言いたいのは…」
「わたくし、絶対賢者になってみせますっ」
シャロンはもう一度、ロマノフの目を見て告げる。
「ロマノフ、先生に…ふさわしい女性になります。あっという間ですわよ」
ふふ、と照れ笑いをする彼女は、美しい。
月の光を反射して、黄金の髪はよりいっそう艶やかに見える。
問題は数多かれど、シャロンは恋をしたのだ。教師ロマノフに魔道の師としての敬意を越えて、恋愛感情を抱いてしまった。
そして、彼を射止めると決めたのだ。
「ごきげんよう先生。また明日」
優雅に会釈をすると、彼女は急いで学生寮へと向かった。
たんたんたん、と廊下を駆ける足音は闇に飲み込まれ、辺りを静寂が包んだ。
ロマノフは、にんともかんともつかない表情のまま立ち尽くしていたが、やがて諦めたかのように、
「油断…したかの」
と一人ごちると、小さな小さな溜め息をついた。