鬱蒼とした森の中、枝を払い藪を踏み越えつつ進む一つの人影。  
「なんて事…ついこの間までは、こんなじゃなかったのに」  
日の光を覆い隠す程に勝手気ままに成長する草木。今はそれに加えて空気がおかしい。  
森全体に漂う一種の瘴気が植生を狂わせ、この世ならざる者の跋扈を許す。  
一呼吸ごとに、自らの精神までもが少しづつ侵されてゆく、そんな気すらする。  
後悔。現状の把握が遅れ、いつもの調子で生徒をクエストに送り込んでしまった不覚。  
「本当にこんな森の奥深くへ…?」  
しかし彼女が手にしている杖は、その先端から淡い光を一定の方向へ指し示し続けている。  
 
 
ルキアが「闇の森」で消息を絶ってひと月。誰もが生存の望みを失いかけていた時。  
「遺品」を整理するため寮の個室を開けた担任のエリーザは、一つの発見をする。  
愛用の杖が光っている。あの日に限って置き忘れて行った大きな樫の杖。  
その光は一つの方角を指していた。ルキアが姿を消したあの森を。互いを呼び合うように。  
「…あの人の直感は、本物だったのかもしれないわね…」  
 
新学期。就任当日、杖を携えたルキアを初めて見た彼女の驚きはただ事ではなかった。  
「何故あなたがこれを!?この杖は…」  
「昔通りがかりの賢者様がくれたんです。これはお主と共にあるべきだ、とか言って。何の事か解らないけど」  
「そう…」  
その通りがかりの賢者を、彼女は知っていた。かつてアカデミーで教鞭を執った先生。彼女はその生徒だった。  
あの時先生は、この杖を「伝説の五賢者が創り上げた特別な魔道具」と教えた。  
「迂闊に他人の手に渡って悪用されたら大変な事になる、適切な護り人が必要だ」とも。  
それほどの代物を、初対面の小娘に簡単に渡してしまえるものだろうか? それともこの子が…?  
「…エリーザ先生?この杖の事、何か知ってるんですか?」  
「これは、あなたが思っているよりも、もっとずっと大切なものなの。絶対に手放してはダメよ」  
「は、はい…(そんな睨まなくたって…この先生、ちょっと怖いかも…)」  
 
 
本来なら、こんな場所で今まで無事に生き延びているなどあり得ない。  
でも…あるいは…ひょっとしたら…。 一縷の望みを胸にエリーザは歩みを進める。  
杖の反応が強くなった。光の明滅が激しく…そして微かに杖自身が震えている。  
この向こうに!? 目の前に生い茂る草の壁を掻き分けた。  
 
そこが光の終着点。草木のない広間のような空き地の真ん中に横たわっていたもの。  
期待は絶望へ、やがて怒りへと変わってゆく。  
ルキアは生きていた。いや生かされていた。この森の物の怪によって。  
かろうじて人の形を保ってはいたものの、その全身は彼らにいたぶられ蝕まれ、  
果ては彼らの生態に合わせて改造し尽くされたのは明らかだった。  
駆け寄り、ルキアの上半身を抱き寄せ、その名を呼びかける。返事はない。  
見開いた目は瞳孔が拡散したままで、目の前のエリーザを認識すらしていないようだった。  
「なんて…事を……っ!」  
 
地中ではあの触手が、新たな獲物の登場に心躍らせながら、しかし慎重に隙を窺っていた。  
不安と激情の中にあっても、自らの周囲に張った球状の障壁を崩さない。今までの獲物よりは手強そうだ。  
「隠れていないで出て来なさい。私が相手になります」  
ゆっくりと立ち上がり、禍々しい気配の只中へ向き直るエリーザ。  
同時に、地面を割って無数の触手が生え出る。彼女の周囲を完全に取り囲み退路を塞ぐ。  
一瞬の対峙。次の瞬間全ての触手が一斉に彼女に襲い掛かった。障壁に巻きつき力づくで締め上げる。  
たかが空気の障壁、数で一気に押し破ればこっちのもの。あのエルフもそうやって堕としたのだ。  
締め上げられた障壁はゴム風船のように頼りなく姿を変え、あっけなく握り潰される…かに思えた。  
 
「…これはルキアの嘆き」  
呟きと共に、杖を静かにかざす。  
目に見えない空気の障壁が、少しずつ光を帯び始めた。  
巻きついていた触手が次々と音を立てて膨張し、爛れ、沸騰しながら剥がれ落ちる。  
障壁が高熱を発している。鈍い橙色から黄色、やがて青白く光の色を変えながら。  
予想外の展開。相手が悪いと見るや、触手達は攻勢を解き撤退を始める。しかし遅すぎた。  
「そしてこれは杖の怒り!滅しなさい!」  
エリーザとルキアを中心にした光の球が、一気にその直径を増し周囲を飲み込んでゆく。  
地中深くへ退避した触手すら、その裁きから逃れる事はできない。  
障壁に触れたそばから、もがく間も無く炭化、そして蒸散。痕跡すら残さない完膚なき殲滅。  
 
その時。  
「!?」  
エリーザの頭の中に飛び込んできた濁流のような映像・声・思念。  
ここの触手が灼け尽きる最後の瞬間、他の場所にいる触手のコロニー(群生)へ危険信号を放った。  
森の各地に点在するコロニーが意識体のネットワークを持ち情報を共有する事で、獲物の発見と確保を容易にしているらしい。  
今コロニー同士で行われている情報のやり取りが、杖を介してエリーザの意識に直接流れ込んでいるのだ。  
そこで彼女は見てしまった。ルキアを追って消息を絶った被害者達の惨状を。  
聞いてしまった。本能のままに教え子と同僚を陵辱する触手達の歓喜の雄叫びを。  
「……………!」  
気丈な彼女を以てしても、その光景はショッキングに過ぎた。 気を失い、その場に倒れ込む。  
 
 
「ここは…教室?」  
気がつくと、エリーザはいつもの教壇に立っていた。  
「先生…」  
目の前には、制服姿のルキアが、あの時のままのあどけない笑顔で。  
「私、エリーザ先生の事誤解してました。少し冷たくて怖い人だって」  
そうか、これはきっと夢の中。  
「でも、先生は私の事、ずっと諦めずに捜し出してくれた…体を張って守ってくれた」  
エリーザとルキアの深層意識が夢という形で繋がったのだ。これも杖の力なのか。  
「先生、ありがとう…ごめんなさい…私に先生みたいな力があったら…」  
「違うわ、本当に強いのはあなたよ、ルキア」  
「えっ…?」  
ひと月もの間触手に体の自由を奪われてなお、自我の最後の領域を明け渡さず守り抜いた精神力。  
だからこうして夢の中で話ができる。絶望と快感の波に溺れて、自我を放棄してしまえば楽だったろうに。  
「あなたは良く闘ったわ。教師として誇りに思います」  
「先生…」  
「誤解していたのは私の方。あの人が見初めた通り、あなたこそ杖の護り人にふさわしい存在だった…」  
「えへ…急にそんな風に言われると、なんだか恥ずかしいな…」  
強くて、でも決して奢らず、少女らしい恥じらいで応えるルキアが、とても愛しい。  
 
「帰りましょう、アカデミーへ。あなたの体、きっと治してみせます」  
手を差し伸べるエリーザ。しかしルキアはその手を取らず首を横に振る。  
「だめ…分かるんです。私の体も心も、もう元には戻らない」  
「ルキア!何を言って…」  
「先生、お願い!私達の体を焼いて下さい、跡形もなく。これ以上みんなを苦しませたくない」  
「…」  
「私…天国で、みんなに…いくらでも、謝る、から…お願い…」  
大粒の涙をポロポロこぼし、自らの焼却を懇願する。  
賢者の夢。護り人の使命。教え子の未来をこんな形で絶たねばならないエリーザの無念は、如何ばかりだったろうか。  
 
「…分かりました。もう終わりにしましょう」  
「せんせい…ありが…と……せん…せ……」  
ルキアの姿が少しづつ消えてゆく。  
精神が完全に崩壊する前に、人として自分の意志を伝える事ができた。それがせめてもの救い。  
「ルキア…あなたの最後の願い、確かに聞き入れたわ」  
誰もいなくなった教室で、エリーザは一人佇んでいた。夢が覚めるまで。  
 
 
どのくらい経ったのだろう。日は西へ傾き、昼なお暗い森が真の闇に包まれようとしていた。  
夢の中でルキアとの接触を果たしたエリーザは、更なる奇跡を目の当たりにする。  
杖が再び光を放っている。今度は一本ではない。幾筋もの光が、森の中の特定のポイントを指し示している。  
先の触手の通信から、仲間達の存在位置を全て割り出したのだ。  
最後の力を使い果たし、廃人同然と化したはずのルキアに、これ程の魔力が秘められていようとは。  
「よくやったわ、ルキア…お手柄よ…」  
言いようのない感情に突き動かされ、エリーザの目に涙が溢れる。しかし泣くのはまだ早い。  
内ポケットから非常用通信機を取り出し、万一に備え用意していた連絡先を呼び出す。  
 
「エリーザよりサンダースへ、聞こえますか」  
「エリーザ教官!ご無事でしたか!」  
「例のもの、用意できてる?今から指示する座標に残らず撃ち込んで」  
「はっ…しかし、本当に学長の許可なしに…」  
「全責任は私が取ります。急ぎなさい。命令です」  
「…イエッサー!」  
最低限の通話の中で、彼なりに今起こっている事態を理解したのだろう、思わず言葉を挟んでしまう。  
「ルキア達は…?」  
「生きていました。でも、もうサンダースの知っている彼女達ではなかったわ…」  
「教官…教官まで、皆と共に死ぬ気ではないでしょうね」  
「作戦中は私情を慎めと何度言ったら!」  
「申し訳ありません教官!直ちに発射準備にかかります!」  
「よろしい」  
「…教官…ご無事を祈ります。帰ってきて下さい!必ず!!」  
 
通信機を地面に置いた。ほどなくアカデミーディフェンスフォースの放ったミサイル群が、全てを灼き尽くし無に帰すだろう。  
それまでの残された時間、エリーザはルキアの側にいる事にした。傍らに座り、そっと上半身を抱き寄せ、膝枕の格好をとる。  
物言わぬルキアの髪を撫でながら、彼女は初めて涙を流し、大声で泣いた。  
「(あの人なら…先生なら、こんな時どうやって乗り切るのだろう…先生、教えて下さい!先生!!)」  
夕闇迫り、静まり返った森の中、彼女の嗚咽だけがいつまでも聞こえていた。  
 
 

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