「先生…」  
放課後、学校内三階、廊下。  
紫髪の少女に背後から声を掛けられ、整った顔立ちの男はくるりと振り返った。  
少女と同じく長く伸ばした紫色の、しかし此方は少し青色が入った髪が揺れる。  
「私に何か用かい?」  
「あの…私、芸能関連の設問が苦手で…」  
そう切り出した少女――マラリヤを目の前にして、ほんの少しばかりフランシスは思考を巡らせる。  
確かにマラリヤは正答率があまり良くないと思った記憶がある。弱点は直しておくべきだろう。  
それが教師の務めだと思う。フランシスはすぐに微笑して言った。  
「それなら私は今ちょうど手が空いているから、個人レッスンというのはどうだ?」  
「…お願いします」  
少しだけマラリヤは頭を下げた。ほんの少しだけ。  
周囲を見回したフランシスの目に、この時間誰も使う予定のない教室が目に入る。  
「じゃ、この空き教室でいいかな」  
「はい」  
 
「…ピアノやオルガンは鍵盤楽器ってさっき言ったよな?」  
「あ…ごめんなさい…」  
二人が空き教室に入ってから小一時間が経とうかとしていたが、  
フランシスにはひとつ分かったことがあった。それはマラリヤの芸能関係に対する実力は  
相当悲惨なものである、ということ、フランシスは思わず頭を抱えたくなった。  
いや、半分抱えているかもしれない。自分から相談に来たのも頷ける。  
よくもまあ今までやってこれたものだ、この生徒は。感動さえ覚える。  
白いタクトを握りながら、息をゆっくり吐きながら、フランシスはノートに向かって無表情で  
鉛筆を走らせるマラリヤを改めて見つめた。艶があり鮮やかな紫色の長髪。  
今までに見たこともないような目がさめるような美しさだが何処か陰のあるその顔。  
小柄にしては大き目の胸とそれを感じさせない細い胴、すらりと伸びた四肢。  
そして、潤いのある落ち着いた声と仕草。それは溜め息をつきたくなるような、  
一種芸術品に近いような完成度。もしも、もしもだが、あの唇に口付けのひとつでもしたら?  
その身体にそっと刺激を与えたら?この少女はどのような声を発するのだろうか。  
その口からどのような旋律を紡ぐのか。そんなことを思っていたら、いつの間にか  
マラリヤは問題を総て解いていたらしい。  
細かい文字が書き込まれたノートはすっとフランシスに向けられていた。  
 
「…先生?」  
「あ…ああ。お疲れ様。さてと――」  
頬杖をつきながら微妙に怪訝な顔をするマラリヤのゆるい視線を  
感じながら書き連ねられた文字群を読んでいく、  
そのフランシスの顔はみるみるうちに引きつっていった。  
「何度言ったら分かるんだ…ピアノは木管楽器じゃないぞ。ピアノは木でできてるのかい?それと――」  
 
「…ごめんなさい…」  
一通りの説明を終えたフランシスに消え入りそうな声でマラリヤは呟く。  
はあ、とフランシスは溜め息をついた。もう、らちがあかない。  
「…今日はこれくらいにしておこうか。また予習しておきたまえ」  
「はい…」  
がたりと椅子を引いてマラリヤは立ち上がる。その音に合わせてフランシスも席を立ち、  
教室の照明を落とした。部屋が薄暗くなる。窓からはやわらかい日差しが射し込んでいた。  
片づけをしているマラリヤより先にフランシスはドアの前に立つ。その足が止まった。  
「先生?」  
あの愁いを帯びた声が静かな教室内に通る。  
それが引き金になって、フランシスの手は無意識なのかどうなのか、ドアの鍵に伸びていた。  
かちゃん。  
冷たい金属音が部屋に響く。フランシスは先刻、マラリヤに声を掛けられたときのように振り返った。  
――デジャヴュ。そんな言葉がふと頭を過ぎったのはマラリヤ。しかし、今回は声を掛けていない。  
何故フランシスは振り返る?そして今の聞き慣れない金属音は一体――  
かつかつ、と靴音を立ててフランシスはマラリヤに近づく、マラリヤもフランシスに向かって歩く。  
程なくして両者足が止まった。至近距離で向かい合う。無表情の中のしっとりした、  
髪と同じ紫色の瞳でフランシスを見つめるマラリヤ、そして同じく無表情で、  
いや何かと微かに葛藤しているかのようなフランシス。マラリヤはその表情の意図が読めない。  
これから一体何がある?先生は何をしようとしている?分からない。こんな夢、昨日は見なかった。  
 
「せん――」  
マラリヤは、先生、とフランシスのことを呼ぼうとした。  
「!」  
しかし、その言葉は途切れた。少女の目が見開かれる。  
小柄なマラリヤの身体は、フランシスの腕の中に納まっていた。  
まるで最初からその場所にあったかのように、それは具合が良かった、とても。  
「……せ…」  
「…マラリヤ」  
「…な…」  
細くて長い指を持つ、しかししっかりとした綺麗な手がマラリヤの両肩にそれぞれ添えられる。  
ああ、これ、は。次に何があるか、それぐらいは分かる。拒絶することもできるだろう。  
その手を振り払って大声を上げることもできるだろう。しかし、マラリヤはそうしなかった。  
黙って静かに目を閉じる、そして唇は重ねられ、マラリヤの手からノートと筆記具が滑り落ちた。  
 
おしまい  
 

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