こん・こんと、控えめなノックの音が、深夜の室内に響く。
「……開いているわ、どうぞ」
机に向かった部屋の主はそれに答え、招かれた者はおどおどしながら中へと入る。
「来たアルよ……約束の物は――」
「そこよ。……全く、何に使うのかしらね……? ふふ」
「そっ、それは……その、ひ、秘密アル! あ、ありがとネ! 再見!」
ぼそぼそと会話を交わした後、逃げるように去って行った小柄な少女を主は見送り、
「……ふぅ。あの子、興奮剤なんて誰に使う気なのかしら? ……想像出来ないわ」
一人、首を傾げた。
時は春休み真っ只中。
一部の生徒は帰郷し、その他の生徒も下界の街で遊んだり部屋でのんびり過ごしている。
そんな中、静まり返っているはずの食堂に二つの影があった。
「いやいやすいません。こんなお昼過ぎに呼び出してしまって」
片方は、青い長髪を後ろでまとめ、長身を申し訳無さそうに縮めている。
「そ、そんなコト無いアルよ。わたし暇だったからネ」
もう片方は、椅子にちょこんと座り、やや俯き加減で頭のお団子を揺らしている。
つまる所、カイルとヤンヤンである。
「さ、どうでしょうか。結構自信が有ったりするんですけど……」
二人は向かい合ってテーブルに座り、カイルは手にした皿をヤンヤンへと渡す。
その上には、
「うわぁ……」
純白の衣を纏い、真紅の果実を頂いた、シンプルかつゴージャスなその姿――
要するにショートケーキである。
「ほ、ほんとに貰っていいアルか!?」
「勿論、どうぞ?」
しかし、田舎で生まれ育ったヤンヤンにしてみれば、こんなに綺麗な食べ物など初めてである。
恐る恐る、といった様子のまま、小さく震えるフォークで三角形を崩し、それを頬張る。
「…………」
「あの……どう、でしょうか?」
口に含んだ状態で硬直しているヤンヤンを見て、カイルが何か間違えたかな?と表情を曇らせたその瞬間。
「あんまぁぁぁぁぁ――――いいいいいいい!! カイル!? コレは何て食べ物アルか!?」
目をキラキラと輝かせ、至福の表情でヤンヤンは問い掛ける。
「とっても甘くて濃厚な風味、それでいてさっぱりとした後味はまさに万里の長城!! おいしいアル!!」
どこぞのミスター味少年の様な台詞をのたまいつつ、凄まじい勢いでケーキをがっつくヤンヤン。
「は、はは。良かったぁ……塩と砂糖でも間違えてしまったかと思いましたよー」
冷や汗を額に一筋、カイルは目の前の少女に続ける。
「それはですね、ショートケーキ、と言います。本当は他にも種類が有るんですがねー」
たとえばチョコレートケーキとかモンブランとか、と解説を続ける。
「今度は何を作ってきましょうか?」
と、その一言を呟くと同時、ヤンヤンの動きがピタリと止まる。
「……ま、また作って来てくれるアルか……?」
「ええ、勿論ですとも。そんなに美味しそうに食べてくれるのなら、こちらとしても凄く嬉しいですからね♪」
にぱー、と毒気の無い純粋な笑みを浮かべるカイル。
その表情に、
「あ……」
つい、見とれてしまう。
「? 何かついてますか?」
「い、いいいや、なな何でも、何でもないヨ……」
一気に赤くなるヤンヤン。
そのまま急に食べるペースを落とし、小口でもそもそとケーキを食べ終えた。
「ご馳走様でしたアル」
「お粗末さまです」
食後のお茶、という物はこんなにも平和なのか。
一秒が何倍も何十倍も長く感じる程に、二人はリラックスしていた。
「あ、お茶のお代わり持って来ますねー」
ティーポットの中身が無くなったのに気付いたカイルが席を立つ。
(――今アル!!)
後ろを向いた彼のカップ内部に、ヤンヤンは懐から取り出した粉末を少量振り掛ける。
それはカップの底にほんの少し残っていたお茶と混ざるが、決して香りや色合いを変化させたりはしない。
(さ、流石マラリヤ謹製アルね。……ごめんネ、カイル。わたし、もう手段は選んでいられないヨ)
心中で謝りつつ、その時を待つ。
「はい、どうぞ」
目の前で波打つ茶色の水面。
それに映る自分の顔は、情けなく眉を下げ、申し訳ない表情を印していた。
「あ、ありがとうアル……」
挨拶の後、鏡像を掻き消す様に、内心を落ち着かせる様に、温めのお茶を飲む。
美味しい。
美味しい筈なのに、それはまるで泥の様に自分の喉へと絡み――
「ヤンヤンさん?」
「へ、はひゃ!? なななな何アルか!?」
目の前10センチ程までに接近していたカイルに顔を覗き込まれ、ヤンヤンは慌てて仰け反る。
「いや、何だか思い詰めた表情だったので……」
「い、いや、その、うんと……」
心を見透かされた様で、とても。
とても、申し訳ない。
「……? 僕で良ければ、何でも言って下さいね?」
そう言って、彼はカップへと手を伸ばし、
(何をわたしはこんなに躊躇っているカ?)
縁に口をつけ、
(何でわたしはこんなに戸惑っているカ?)
中身を含む、その瞬間。
「カ、カイル!!」
「!?」
ヤンヤンは、カイルのカップを横からひったくっていた。
「ご、ごめんアル! わたし、喉が渇いて渇いてしょうがないからカイルの分も貰っちゃうアルね!!」
そう言うが速いか、一気に中身を飲み干す。
(あーもーっ!! どうなっても知らないアルよ!!)
自分で自分を叱りつけ、椅子にどさりと勢いよく座り込む。
「あ……あの……僕、何か悪い事でも……」
相手のスピードについて行けず、呆然としていたカイルがようやく、それだけ呟いた。
「何でも、無い、アルよ。カイルは、何、も――!?」
胃の辺りから心臓へ、お茶の温かさだけではない、何か違うモノが滑り込む。
それをヤンヤンが自覚した瞬間、
「あ、うくっ……!? くあっ……!?」
彼女の身体は床へと転げ落ちていた。
意識が遠のき、暗く堕ちるその一歩手前で。
いつも弓の様な細い目をした彼が、その奥の蒼い瞳で自分の顔を見ているのに、気付いた。
「……たみ……ね。……イル君、……と表に出て……貰え……ら……?」
「い……すい……ん、本……に」
薄く目を開けると、そんな会話が耳に入って来た。
パタン、とドアを開けて誰かが出て行く。
ぼんやりと天井を眺めていると、
「やっと起きたわね……全く」
見知った女子生徒の顔が目前に現れた。
そこでやっと、彼女のエンジンが掛かる。
「ひゃわっ!? マラリヤがなんでココに居るアル……って、あれ?」
「……此処は貴方の部屋。私は貴方の様子を見に来たの」
――落ち着いてもう一度見てみると、そういえば確かにココは自分の部屋だ。
「……血相を変えたカイル君が私の部屋に来るものだから驚いてしまったわ。それで、結局失敗したのね? ヤンヤン」
核心を突かれ、ヤンヤンは苦ーい顔付きになる。
「そうね……隙を突いてお茶にアレを入れたはいいけど、結局後ろめたさに負けて自分で一気飲みでもしたって所かしら……?」
「何で、そこまで分かるアルかね……」
妖しく微笑み、彼女は続ける。
「やっぱり貴方、根が素直すぎるわね……嘘とか顔に出るタイプだもの。それじゃあこういう事は無理よ……」
ごそごそ自分のカバンを漁るマラリヤ。
「しかもアレは結構強力な薬だから……貴方みたいな小柄な人が飲んだら、そうなるのも当然ね……」
「知ってて渡したアルか!?」
反論するも、
「勿論。……結局出来ないだろうなぁ、と思っていたから。正直、貴方が此処までやったのは賞賛に値するわ」
切って落とされる。
「マラリヤひどいネ……」
「ふふ。……あったわ。はい、どうぞ」
「え? コレ、何アルか?」
「液体の軽興奮剤と、痛み止め。……何故そんな顔をするのかしら? カイル君と一発決めるんじゃ「マ、マラリヤ!!」
突然の大声に、相手も出した本人も動きが止まる。
一拍置いてヤンヤンは告げる。
「……その、ごめんヨ。これは貰えないアル。わたしは、わたしの力で頑張りたあいたぁっ!?」
まらりや の のうてんちょっぷ が さくれつ !
「何格好つけてるの。……貴方、処女でしょう?」
あまりにも直接的な言葉に、中華娘は真っ赤に染まる。
「や、それは、その、そう、だけども、こう気とか発剄とか何かそんな二千年パゥワーで攻りゃいたぁっ!? 痛いアル!」
「……どうせずっとやせ我慢でもするつもりなんでしょう。だったら尚更使いなさい。……貫通は我慢して、その後すぐに使うといいわ。
赤ちゃんが産まれる時にはもっと痛いんだから、そこだけは我慢して痛みを覚える所よ」
マラリヤのお薬講座は止まらない。
「これを服用すれば、ある程度まで痛みは抑えられるから。……興奮剤は二人で分けて飲むのもいいわね。効果は十分出ると思う。
間違いなく、生涯最高の思い出になる筈よ……」
「マラリヤ……」
少女は、少女に問う。
「何で、そこまでわたしに親切にしてくれるアルか……? いっつも迷惑かけてばかりなのに……」
少女は、少女に問う。
「親友が意中の相手と添い遂げるのを応援するのは、そんなに悪い事かしら? ……私だって、そこまで野暮じゃないわ」
「ああ、もう……泣いたりしないの。これからまたいっぱい泣かされるんだから」
背中を軽くさすってやりながら、マラリヤは目の前のお団子娘を慰めてやる。
「ひぅ、っく、っう……。ずるいアル。ずるいアルぅぅ」
「ふふ……。じゃあ、私はこれで失礼するわ。――後は貴方次第。頑張ってね、ヤンヤン」
慈母なのか悪魔なのか判別しにくい笑みのまま、彼女は去って行った。
「あ、どど、どうでしたか!? 怪我とか、病気とか」
マラリヤさんが部屋から出てきた時、思わず僕は彼女の肩を掴んでいました。
「何でも無かったわ。ただの疲労って所。……ちょっとナーバスになってるみたいだから、しっかりサポートしてあげるのよ」
と、何だか意味ありげな笑みを浮かべていたけれど……何の事なのか、僕にはさっぱり解りません。
僕もまだまだ、人の気持ちが読めないようです。
「……このまま部屋に戻るのも何だか……ちょっとだけ、挨拶していった方がいいのかな?」
なんて呟きつつ、ノックしてから部屋を覗き込んでみました。
もちろん下心なんてありませんよ。ええ。ないですってば。……ごめんなさいちょっとだけあります。
ベッドに腰掛けているヤンヤンさん。ぱっと見た感じ、顔色もよさそうですね。
「ど、どうもー……大丈夫でしたか、ヤンヤンさん」
「あ……う、うん。大丈夫アルよ」
こっち・こっち・こっち・こっちと、時計だけが変わらず動いています。
何というか、部屋の入り口から半身だけ飛び出してるのも変なのでちょっとお邪魔することにしました。
とはいえ、この重い空気は変わりませんね。どうしましょう。
何か話題……の前に、今日の事を謝っておくのが普通の判断ですよね。
「その、今日はお疲れだったのに呼んでしまって……すいませんでした」
「そんなコト、無いアル……わたしはカイルに呼んでもらって、とても嬉しかったヨ」
あれ?
なんだか。
ちょっと、ドキドキしてますよ? 僕。
「そう、ですか? は、はは。じゃあ、約束通りまた作って来ますね♪」
「うん。楽しみにしてるアル」
あ、まずい。多分顔赤くなってます。
なんだろう。
よく解らないけど……。
「……そ、それじゃあ、もう遅くなって来ちゃいましたし僕はこれで」
「え……あ、そう、だネ……」
ここに居続けたら、
多分僕は、
ヤンヤンさんの事を――
「カ、カイル!」
廊下に出た瞬間、僕の上着の裾をヤンヤンさんが掴んできます。
そしてそのまま、後ろから聞こえてきました。
「…………このまま、カイルの部屋に連れて行って欲しいアル」
僕の人生で、一番長い夜の始まりを告げる言葉が。