新しい一年。  
 元旦。  
 
 つい数分前に、年が明けていた。  
 気付かない内に、明けてしまっていた。  
 
 年越しに興味が無かったわけじゃない。  
 どちらかというと、仲間とワイワイ騒いで新年を迎えたかった方なのだが。  
 …まぁ…仕方ないか。仕事だし。  
 
 ―――大晦日から元旦にかけての、アカデミー校舎の見回り。  
 
 通常、アカデミーの教員が持ち回りで毎晩行う仕事だが、  
 今晩だけは、「バイト」という名目で、俺が就いていた。  
 
 …ピピピ、とメールの着信音。  
 幼女先生からのものだ。  
『レオン君、あけおめー!見回り代わってくれてありがとね!お年玉、期待していいよーっ!』   
 …確か、前回に見回り代わったときは、吉野家の豚丼並盛だった。  
 労力に対して、見返り少ねっす先生。  
 
 
 あらかた校舎は見て回った。  
 後、見ていないのは何処だったか…  
   
 
 …遠くで、元旦を祝う花火の、光と音。  
 アカデミーの廊下を、一瞬だけ照らす…遠い光。  
 思わず、窓から夜空を見上げる。  
   
 ―――華やかな打ち上げ花火を背景に、  
 暗く聳える、高い尖塔。  
 
 ああ…  
 そういえば、あんな場所もあったっけ。  
 
 普段は誰も気に留めないような、  
 アカデミーの片隅にポツンと建つ、古い古い、物見の塔。  
 所々の石は崩れ、ツタが絡み、屋根の一部は剥げ落ちている。  
 もう、誰も寄り付かない、寂れた過去の遺物。  
   
 そこまで行くのも面倒だが…あの塔を見れば、今回の見回りは終了だ。  
   
 よし、もうひと踏ん張り。行くか。  
 冷える身体に喝を入れ、塔へと向かう。   
 
 
 遥か遠くに聞こえる、人々の歓声と、花火の音。  
 
 ―――新年に乗り遅れた俺に、その音は少々…大きすぎる。  
 
 
 雑草の生い茂る塔の周辺をぐるりと回ってから、塔の入り口へ。  
 それなりにしっかりした造りのようで、崩れる心配は無さそうだ。  
   
 塔に入ってすぐ螺旋階段があり、遥か上まで伸びていた。  
    
 ため息を一つ吐いてから、  
 長い階段を、ぐるぐると昇る。    
 
 おとぎ話等では、こういう塔の最上階には、囚われのお姫様なんかが居たりする。  
 で、王子様が助けに来てくれるのを待っている、と。  
 
 …夢のある話だが、  
 大抵の史実では、敵に捕らわれた姫は敵国の王の子を孕むか、誰も助けに来ないまま老いて朽ちるのみ。  
 現実は甘くない。  
 甘くないからこそ、夢を見てしまうのだろう。  
 
 ―――幸せな結末を迎える、姫君の夢を。  
   
   
 螺旋階段を昇りきると、そこには何人も阻むかのような、分厚く大きな鉄の扉。  
 ご丁寧に、錠前まで付いている。  
 本格的だ。  
 
 本当に、お姫様を幽閉する目的で建てられたんじゃないのか、この塔。  
 そう思ってしまうほどに、その扉は、立派で頑丈だった。    
 
 幸い、鍵そのものは掛かっていない。  
 扉と比較して、極端に小さいドアノブに手を掛ける。  
 
 
 …この先の部屋に何も無く、無事に見回りを終えられますように。  
 …幽閉された不幸なお姫様が、助けを求めていたりする事なんか、ありませんように。  
 
 心の中で、そっと祈りつつ。  
 扉を、開けた。  
 
 
 広い部屋。  
 石造りの床と壁。  
 扉の真正面に、大きな繰り抜き窓が一つ。校舎の全景と、遠くの花火を望める。  
   
 何も無い部屋。  
 
 寂れた部屋を照らす、遠くの花火。  
 寂しい部屋を僅かに彩る、遥か彼方の祭の光。  
 
 
 ―――何も無いというのは、語弊があった。  
 
 窓の下に、簡易ベッドが一つ。  
 そこかしこに転がる、ビール等の空き缶。  
 
 そして、  
 
 窓枠に腰掛け、彼方の花火を眺める…  
 
 囚われの、姫君。  
 
 
「…何してるんすか、ミランダ先生」  
 しばしその光景に見入った後、声を掛けた。  
 
 ゆっくりと、こちらを振り返るミランダ先生。  
 長い金の髪が、遠い花火の光を受けて、淡く煌めく。  
 穏やかな顔。  
 でも、どこか…憂いを忍ばせた、顔。  
 
 いつもの先生じゃない。  
 明るく賑やかな顔、  
 生徒を安心させる、弾けた笑顔が…無い。  
 ―――いや、そもそも…  
 お祭り好きのこの人が、  
 元日の祭りに行かず、こんな寂れた塔に、一人。  
 
 どうしたのだろう。  
 何をしているのだろう。  
 
 
「なーんだ、レオン君か……。ちょっと期待したのに…」   
 
 振り返り、しばしぼんやりと俺を眺めていた先生は、  
 何ともつまらなさそうに、そう言った。  
 
「…すいませんね、俺で」  
 自然、不機嫌な顔と口調になってしまう。  
 この辺、まだまだガキなのだろう…俺は。  
 
 先生は、そんな俺の様子を見て、柔らかく笑う。  
 
 ……普段、生徒達に見せている顔では、無い。  
 
 それは……まるで、  
 離れ離れになった恋人が、互いに相手を想う時のような……  
 遥か遠い世界へと向けた、  
 優しく、寂しく、物悲しい、笑顔。  
 
 
「誰か…待ってるんすか」  
 
 俺の問いかけに、先生は答えない。  
 無言で、俺を、穏やかに見つめる。  
 
「っつっても、こんな寂れたへんぴな塔、わざわざ来るような物好きは居ないでしょうけど」  
「ふふ……そうね、物好き君」  
 
 いたずらっぽく俺に言って、笑う先生。  
 
 足元のビール缶が、からんと音を立てて転がる。  
 結構な量を飲んでいるようだ。  
 頬が薄っすら上気している。  
   
「レオン君は、どうしてここに?」  
「バイトです。校舎の見回り」  
「実家には帰らないの?」  
「……先生も知ってるでしょう、うちの事情」  
 
 
 賢者だった親父は、俺が幼い時に家を出て、それっきり。  
 俺は、親父の背中を追い掛け、  
 親父の首根っこ引っ掴んで持ち帰るまで、実家には帰らない。  
 
 いつか、家族全員で、一つ屋根の下に暮らせる事を夢見て。  
 
   
 
 穏やかに、俺を見る先生。  
 その目が、表情が、不意に曇る。  
 笑顔の代わりに覗くのは、憂い。  
 
「―――貴方は、強いわね」  
 
 そう、ぽつりと漏らした。   
 
「私には、真似できない。私は、探しに行く事なんて、できない。  
 私は、私は、ただ、ひたすらに、待つ事しかできない―――」  
 
 石畳の床に視線を落とし、夢にうなされる幼子の様に、言葉を並べる。  
   
 
 
 
「……私ね、人を待っているの」  
 
 ほんの少しだけ自嘲を混ぜて、  
 先生は、静かに言う。  
 
「私の夫。私を置いて…この塔から飛び立っていった、私の夫を」  
 
 
 ―――以前、聞いた事がある。  
 
 まだ若いうちに結婚した、ミランダ先生。    
 相手は、先生と同じく、かなりの実力を持った魔術師。  
 大恋愛の末の、皆に祝福された、幸せな結婚。  
 
 …だが、その結婚生活は、長く続かなかった。  
 
 籍を入れて、結婚式を間近に控えた日。  
 夫に、召集が掛かる。  
 遠方の国で起きた、事故の調査。  
   
 
「私達の結婚式ね、この塔で行う予定だったの」    
   
 遥か彼方の花火を見つめ、遠い日を語る、先生。  
 
「丁度、この塔の下見に来ている時に、召集令状が届いて。  
 ―――あの人は、そのまま、この塔から飛び立った。  
 
 …年明けには戻る、―――そう言って」   
 
 
 何も無い塔。  
 寂れて放置された、塔。  
 それが、  
 この二人が別たれてから、どの位の月日が経っているかを、物語る。  
 
 
「あの人は、帰って来なかった」  
 
 小さな花火が一つ上がり、先生を淡く照らす。  
 長い髪に阻まれて、表情は見えない。  
 
「必ず帰るから、待てと。年明けには必ず帰るから、それまで待っていてくれと、あの人は言ったわ。  
 だから―――」  
 
 
 だから、待つ。  
 夫が戻ってくると言った、この塔で。  
 
 毎年、年明けには、必ずここに来て。  
 夫が戻ってきた時の為の、パーティーの準備をして。  
 真っ白なウェディングドレスを、整えて。  
 
 元日の祭りを、この塔から眺めて。  
 祭りの花火の、その儚い光を、目に焼き付けて…  
 
 
 一人、  
 乾杯をする。   
 
 
 新しい時間と、  
 新しい世界と、  
 戻らない夫と、  
 寂れ行く…自分の為に。  
 
 
「あの人に何があったのか、わからない」  
 
 少し大きな花火が、先生と、部屋と、俺を照らす。  
 遅れてくる、花火の音。  
 
「出向いた先で、事故に巻き込まれたのか」  
 
 花火の残滓を見つめたまま呟く、先生。  
 
「流行り病に冒されたのか」  
「…先生」  
 
 膝の上に乗せている手が、強く、握られていて。  
 
「失態を犯して、拘束されたのか」  
「先生……もう、いいっすから…」  
 
 先生の肩が、小刻みに震えていて。  
 
「それとも、ひょっとして、ひょっとして…」  
「先生、それ以上は―――」  
 
 全ての苦しみを吐き出すように、大きな声で。  
 
「もう、もう…、向こうの国で、誰か、違う、女の人と―――」  
「先生っ!!!」  
 
 
   
 一際、大きな花火が上がる。  
 光が、部屋を、明るく照らす。  
 
 窓辺に腰掛ける、先生。  
 その先生の身体を、  
 強く、強く、抱きしめた。  
 
 
 …光に照らされた先生の頬は、涙に濡れていて。  
 
 
 その身体は、震えたままで。  
 俺は、抱きしめることしか、出来なくて。  
   
 
 
「………怖いの…」  
 
 震える声で、ぽつりと漏らす。  
 
「探しに行くのが、会いに行くのが、怖いの…  
 あの人の、今を知るのが、怖い…  
 とても……とても……  
 だから、私は、ここで、待つしかない……  
 待つ事しか…できない……」  
 
 
 
 
 ―――おとぎ話の姫君は……  
 
 
 高い、高い、塔の上、  
 切ない涙に震えながら、  
 遠い、遠い、王子を望む―――  
 
 
「……嬉しかった…」  
 
 俺の腕の中、静かに言う、先生。  
 
「…あの人が居なくなってから、初めて、扉が開いたの」  
 
 遠い花火の音にかき消されそうな、そんな、か細い声。  
 
「初めて、階段に足音がして、  
 初めて、扉が開いて…。  
 
 ―――夢を、見ることが出来た。  
 
 あの人が、戻ってきたんじゃないかって。  
 あの人が、扉を開けて、  
 私を、迎えに来てくれたんじゃないかって。  
 幸せな夢を、一瞬でも、見ることが出来た。  
 
 ―――嬉しかった…」  
 
 
 そう言って、  
 姫君の扉を開けた、俺の腕の中で…  
 
 先生は、泣いた。  
 
 
 ―――現実は、甘くない。  
 ―――甘くないからこそ、夢を見てしまうのだろう。  
 
 ―――幸せな結末を迎える……姫君の夢を。  
 
 
 
 
 次々に光る、花火。  
 先生と俺を、様々な色に、染めてゆく。  
 遅れて来る、音、音、音。  
 人々の、歓声。  
 静かな部屋の中に、木霊する。  
   
 先生の涙は、その光と音に溶け込み、消えてゆく。  
 
 
 足元で、また一つ、  
 空き缶が、からり、と音を立てた。  
 
 先生の身体が、冷たい。  
 震える、先生の身体。  
 それが、悲しみだけでは無く、寒さからも来ている事に気付いて。  
 足元の簡易ベッドから、毛布を引っ張り出して、  
 先生と俺の身体を、包んだ。   
 
 
 ―――さっきは、無我夢中で気付かなかった。  
   
 先生が、この寒空の下、  
 いつも学校で着ている、あの薄手の服しか纏っていないという事に。  
 それだけ、酔っていたのだろうか。  
 寒さを忘れるほど、酔いが回っていたのだろうか。  
 
 毛布に包まれた、腕の中の先生。  
 依然、震えたまま。  
 
 その白い吐息には、かなりのアルコールの匂い。  
   
 先生の様子と、足元の空き缶の数を見る。  
 ―――もう、とっくに許容量を超えている様に、思う。  
   
   
「―――あったかい…」  
 
 腕の中の先生が、ぽつりと言う。  
 同時に、俺の背中に腕を回し、俺の身体を抱きしめる。  
 
 さっきよりも、先生の身体が、さらに密着する。  
 
 先生の腕が、先生の腿が、先生の腰が、…規格外の胸が、  
 俺の身体に、当たる。  
 
 コートを着込んだ上からでも分かる、  
 先生の、柔らかさ。  
 
 ちらりと、下を見る。  
 薄手の衣服の中、俺の身体に密着し、俺の身体の通りに形を変える、胸。  
 先生の、白い胸元。  
 先生の、白いうなじ。  
   
 目線を、上に向ける。  
 目の前に、薄紅色の唇。  
 
 先生の目は閉じられていて、  
 長い睫毛が、涙に濡れていた。  
 
 
 ……俺の胸が、締め付けられる。  
 
 こんなにも、美しい。  
 
 こんなにも、優しい。     
 こんなにも、穏やかで、  
 こんなにも、いとおしい。  
 
 こんな、こんな、素敵な人を、   
 ずっと、ずっと、悲しませたままだというのか。  
 この人の、夫という男は、、  
 こんな素敵な妻を、ずっとずっと……放ったままだと、いうのか。   
 
 遠くで光る、花火の様に、  
 胸の中で、何かが弾ける。  
 
 …それは、  
 俺の生涯の中で、そう何度も感じる事の無いであろう、  
 猛烈な―――怒り。  
 
 
 
 この人を、救いたい。  
 この、高い高い塔に閉じ込められた、姫君を、救いたい。  
 だが、俺には、  
 この人の心を、気持ちを、この塔から連れ出すことが、出来ない。  
 
 悔しい。  
 腹立たしい。  
 俺には、この姫君を救う事が、出来ない。  
 救えるのは、王子だけ。  
 この人が求める、この人が助けを望む、王子様だけ。  
 俺には、  
 目の前で悲しい涙を流す、この人を助け出す事が、出来ない…  
 
 ―――許せない。  
 
 こんな自分が、許せない。  
 何も出来ない自分に、  
 人一人救えない自分に、  
 猛烈に、猛烈に、腹が立って。  
 
 何故か、目の前がぼんやりと霞んでいて。  
 
 …自分が、涙を流している事に、気付いて。  
 拳を、強く強く、握り締めていて。  
 自分の唇を、強く噛んでいて。  
 
 唇からは、血が流れていて。  
 顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃで。   
 
 ―――本当に悲しいのは、目の前の、この人なのに。  
 その人よりも、自分が大泣きしていることが、情けなくて。  
 それがまた、腹立たしくて。  
 だからまた、涙が止まらなくて。  
 
 
 
「―――ごめんなさい…」  
 
 
 目の前の、悲しい姫君が、そう呟いて―――  
 
 薄紅色の唇を、  
 
 そっと、俺の唇に、重ねた。  
 
 
 何が起きたのか、一瞬、分からなかった。  
 
 それが、口付けであると気付いた時、  
 先生の唇から伸びた、唾液に濡れた舌が、  
 俺の口の端に流れた血を、掬い取っていた。  
 
 
 強烈な、感覚。  
 唇に当てられた、この世のものとは思えない、柔らかい感覚。  
 口の端に這わされた、ぬらりとした、湿った感覚。  
 
 その感覚が、  
 俺の神経を、貫く。    
 
 
 意識が飛びそうになる。  
 理性が、立ち消えそうになる。  
   
 理性と野生の狭間…針が振り切れるその寸前で、  
 唇が、離れた。  
 
 俺の口と、先生の唇の間に、  
 一本、唾液の糸が伸びる。  
 もう一度、先生が、俺の唇に軽く口付けて、糸を消す。  
 
 
「……お願いが、あるの………」  
 
 その唇が、言葉を紡ぐ。  
 
 
「先生を……、私を、温めて欲しいの…。  
 私に、一時だけ、温もりを…分けて欲しいの…。  
 
 私に…、私に…、一時だけ、夢を、見せて、欲しいの………」  
 
 
 涙に濡れる、目を伏せて。  
 一節一節を、噛み締めるように区切って。  
 先生は、  
 俺に、そう言った。  
 
 
 
 ―――先生の言っている意味が、分かった。  
 
 
 
 一時だけ、  
 あの人の夢を。  
 待ち人の、あの人の夢を。  
 この塔に自分を迎えに来る…王子様の夢を。  
 見させて下さい、と。  
 あの人の温もりを、例え偽りのものでもいい、感じさせて下さいと。  
 先生は、  
 そう、言ったのだ。  
 
 
 ―――俺に出来る事。  
 
 俺が、この人にしてあげられる、唯一の事。  
 ほんの刹那でもいい、  
 この人の孤独を、この人の悲しみを、覆い隠せるのなら。  
 
 …喜んで、俺は、偽者となろう。  
 …喜んで、俺は、夢魔となろう。  
   
 
 遠くで、連続した小さな花火の音。  
 歓声。  
 この静かな塔の部屋に、  
 その音は、少々、大きすぎる。  
 
 ……いや、  
 この俺の、縦横無尽に暴れる胸の鼓動を誤魔化すには、丁度良いかもしれない。  
 
 初めて。  
 
 やり方なんぞ、分かる訳がない。  
 本で読む事はあっても、  
 実際にやるのとは、訳が違う。  
 
 喜んで貰えるだろうか。  
 夢を見て貰えるだろうか。  
 
 考えても…仕方が無い。  
   
 思うがままに……  
 理性と本能の、赴くままに…  
 
 先生を、愛そう。   
 
 
 
 
 ―――先生を、抱きしめる。  
 
 さっきよりも、強く。  
 片手を、先生の背中に。もう片手を、先生の頭に添えて。  
 
 密着する、二人の身体。  
 近づく、二人の距離。  
 お互いの吐息が掛かる。  
 その唇に、もう一度、口付ける。  
 
 お世辞にも、優しくとは言えない。  
 野獣のように。  
 貪るように。  
 先生の柔らかい唇と、赤くぬめる舌と、口腔と、唾液を、味わう。  
 吸い尽くす。  
 嘗め尽くす。  
 …はう……、と、先生の吐息に、甘い色が加わる。  
 それが、さらに俺の本能に火を付ける。   
 
 唇を離す。  
 お互いの唾液で、先生の唇が、淫靡に光る。  
 そのまま、先生の耳に、歯を立てる。  
 びくんと跳ねる、先生の身体。  
 歯を離し、舌で、優しく舐める。  
 先生の吐息が、はぁぁ……はぁぁ……と、苦しそうに、切なそうに、揺らめく。  
 
 愛しい。  
 もっと、鳴かせたい。  
 
 
 首筋に、鼻先を擦り付ける。  
 んっ、と、息の詰まる音。  
 吸血鬼の様に、首に噛り付く。  
「……ああぁっ」    
 大きな声が漏れる。  
 
 もっと。  
 …もっと、聞きたい。  
 
 視線を下へ。  
 申し訳程度の衣服に包まれた、大きく、丸い、二つの隆起。  
 躊躇い無く手を伸ばし、掴む。  
「んぅっ」  
 驚きからか、詰まった声を出す先生。  
 止まらない。  
 手を止められない。  
 掴んだ手を、くにくにと動かす。  
 柔らかい。  
 脳の奥が、ショートする。  
 あまりの柔らかさに、脳髄が、悲鳴を上げる。  
   
 片手じゃ足りない。  
 両手だ。  
 
 両手で、両の乳房を掴む。  
 掴んで、揺り動かす。  
 上下に、左右に、揺さぶり、捏ね、揉む。  
   
 先生の吐息が、徐々に荒くなる。  
 
 手のひらの一箇所に、少しづつ硬くなる感触。  
 …衣服の上からでも、分かる。  
 乳首。  
 乳首が、立っている。  
 自己を、主張する。  
 切ない、と。  
 吸って欲しいと。  
 乳首が、高く、硬く、立ち上がる。  
 
 我慢なんて、出来るわけがない。   
 一気に衣服を引き剥がし、乳房を露わにする。  
 
 薄っすらと汗ばみ、  
 呼吸の度に、ふるふると揺れる、隆起。  
 その先端の、淡い桃色の、突起。  
 ―――乳首。  
 目の前に、乳首がある。  
 今にもはちきれんばかりに尖り、  
 俺の口を誘うように、硬くなる。  
   
 いつの間にか。  
 何の意識もしないまま、  
 俺の口は、  
 ミランダ先生の乳首を、咥えていた。  
 
「はぁうぅぅ!」  
 
 一際大きな声で鳴く、先生。  
 口の中には、先生の固くしこった乳首。  
 うっすらと、汗の味。  
 しょっぱくて、  
 ―――美味しい。  
 
 もっと、もっと、味わいたい。  
 先生を、味わいたい。  
 無我夢中で、吸う。  
 
 静かな部屋に、  
 ぢゅぱぢゅぱと、湿った音が響く。  
 舌先で、くにくに転がす。  
 ころころと、舌の動きに逆らうように、口の中で暴れる乳首。  
 歯先でかるく噛み、押さえつける。  
 
「きゃっ!……んっ……」  
 
 強い刺激に、身を仰け反らす先生。  
 
 …先生がいけないんです。  
 こんなに、乳首を尖らせるから。  
 こんなに、男を誘うから、いけないんです。  
 
 口を離し、胸を露わにしたままの先生を抱き上げ、簡易ベッドに横たえる。  
 ぎし…と、先生と俺の重みで、ベッドが鳴る。  
 遠くで時折光る花火が、先生の胸を照らす。  
 俺の唾液で、てらてらに光る、乳房。  
 先端の乳首は、充血し、硬く、天を向く。  
 
 濡れた胸をそのままに、  
 手を、さらに下へ這わす。  
 あばらを抜け、へそを通り、下腹部へ。  
 
 下衣に隠された、先生の秘部。  
 躊躇わず、下衣をたくし上げ、覗き込む。  
 
 秘部だけを覆う、白い下着。  
 淡く、濡れている。  
 染みが付き、その染みが、今もその範囲を広げている。  
 
「やぁ……やぁぁ……」  
 
 恥辱に、声を漏らす先生。  
 両手で顔を覆い、俺を、全てを、見ないようにしている。  
 …先生がそうしたいのなら、構わない。  
 でも、俺は、止めない。  
 
 愛しい。  
 この人の声を、もっと聞きたい。  
 この人の身体を、もっと愛でたい。  
 
 もっと、もっと。  
 
 下着に手を伸ばそうとした時、  
 先生が、何事かを、何度も何度も、呟いていた。  
 
 よせばいいのに、聞き耳を立てて、  
 
 先生が、  
 自身の夫の名を、繰り返し呟いていた事に気付き……  
 
 
 胸が、強烈に、締め付けられる。  
 
 
 分かっている。  
 俺は、身代わり。  
 先生の、待ち人の、代わり。  
 一時の夢の中の、幻。  
 
 分かっている……  
   
 
 苦しい胸を誤魔化す様に。  
 乱暴に、下着に手を伸ばす。  
 グッと掴み、  
 引き剥がす。  
 
 そこには、  
 金の茂み。  
 
 茂みの奥に覗く、割れ目。  
 淫らに開き、透明な液をしとどに流す。  
 
 
 ―――じっくり観察する余裕が、無い。  
 
 俺の心臓が、滅茶苦茶に爆ぜる。  
 心が、俺を、急き立てる。  
 
 大きな花火が、連続で上がる。  
 大きな音が、何度も何度も、木霊する。  
 
 早く、早くと、  
 何かを、急き立てる。  
 
 心の焦燥は、静まる気配が無い。  
 
 
 …それは、悪魔の誘い。  
 …それは、夢魔の主張。  
 
 
 ―――染めてしまえと。  
 
 ―――目の前の女性を、俺の色に、染め上げてしまえと。  
 ―――俺のものにしてしまえ、と。  
   
 …悪魔が、そう叫んで、嗤うのだ。  
 
 
 ……眩暈がする。  
 悪魔の嗤いが、脳内を駆け巡る。  
 夢魔の甘い誘いが、俺の心を揺さぶる。  
 俺の防壁を、突き崩そうとする。  
 
 
 目をぎゅっと瞑り、  
 一時、先生から離れる。  
 目頭を押さえ、蹲る。  
 
 いつの間にか、また、涙を流していた。  
   
 …悪魔の嗤いは、止まらない。  
 
 余りにも、情け無い。  
 俺は、どうしてしまったのか。  
 俺は、こんなにも、弱かったのか。   
 
 この人の為に、  
 一時だけ、夢を見せるのではなかったか。  
 この塔に先生を迎えに来る…王子様の夢を、見せるのではなかったか。  
 温もりを、分け与えるのではなかったか。  
 
 
 ―――俺に出来る事。  
 
 俺が、この人にしてあげられる、唯一の事。  
 ほんの刹那でもいい、  
 この人の孤独を、この人の悲しみを、覆い隠せるのなら。  
 
 
 
 
 悪魔が、大声で怒鳴る。  
 めちゃめちゃにしてしまえと。  
 奪い去り、染め抜いてしまえと。  
 
 
 …涙が止まらない。  
 …先生を、見られない。  
 
 どんなに格好をつけても、  
 
 俺は、欲望に、勝てない。  
 
 
 俺は、  
 俺は、何と、浅ましい人間なのか―――  
 
 
 不意に、俺の頭を、  
 柔らかい手が、腕が、胸が、包み込む。  
 
「…ごめんね……」  
 
 耳元に、先生の声。  
 切なげな、声。  
 
「…ごめんね……。ごめんね……」  
 
 俺の髪を優しく撫で、繰り返し謝る先生。  
 何で先生が謝るんですか。  
 …俺の弱さが、俺を苛んでいるだけなのに…。  
 
 
 俺の頭を抱きとめたまま、  
 先生は、俺を、ベッドへと誘う。  
 
 
 流れ落ちる涙をそのままに。  
 誘導されるまま、ベッドに横たわる。  
 先生は、俺の下腹部を弄り始めた。  
 
 …何するんですか、先生。  
 
 俺のジッパーを探り当て、引き下ろし。   
 下着の奥、俺のモノを、そっと、取り出す。  
 
 …俺の驚きと不安を他所に。  
 先生は、固く屹立した俺のモノを、しっかと握り締める。  
 
 それだけで、  
 モノが、さらに硬く、長く伸びる。  
 
 ―――そして、  
 先生の唇が、  
 俺のモノの、先端に、触れ、  
 
 深く、咥え込んだ。   
 
 
 初めて、俺以外の人間が、俺のモノに触れた。  
 それどころか、  
 口腔深くに、俺のモノを、咥え込んだ。  
 
 
 それは、  
 俺の中の理性を、  
 俺の中の野生を、  
 俺の中の悪魔を、  
 微塵に、吹き飛ばす。   
 
 頭が、真っ白になる。  
 
 ただただ、ひたすらに。  
 先生の唇が、先生の舌が、  
 俺のモノに、刺激を加える。  
 
 舌先が、先端の裏を這う。  
 唇が、竿を上下し、時折、根元をきつく締め上げる。  
 
 その度に、  
 俺の脳髄を、  
 俺の脊椎を、  
 苛烈な電流が、迸る。  
 
 びくびくと、脈打つ竿。  
 
 まずい、  
 このままでは―――  
 
 
 気を抜いて、放出してしまう寸前。  
 先生が、口を離す。  
   
 俺のモノは、放出一歩手前の、最高潮に膨張したまま。  
 
 
「―――欲しいの」  
 そっと、呟く、先生。  
「貴方の物が、欲しいの―――」  
 
 そう言って、  
 俺に、覆い被さる。  
 
 
 ……先生。  
 
 先生、俺は、もう、  
 これ以上、自分自身を偽る事が……  
 
 そう訴えかけようとした俺の口を、  
 先生の唇が、塞いだ。  
 
 
 先生の泣き腫らした目が、  
 …もう少し、もう少しだけ……と、  
 懇願していた。  
 
 
 何も言えない。  
 そんな目をされたら、  
 何も、言えない。  
 
 
   
 俺に覆い被さる先生の片手が、  
 俺のモノを、掴む。  
 掴んだまま、自身の割れ目―――  
 金の茂みの奥にある、しとどに濡れた秘部へと、誘導する。  
 
「―――」  
 呟く。  
 夫の名を、呟く。  
 
 先端が、触れる。  
 淫らな愛液に塗れた、肉襞に、触れる。  
 今まで感じた事の無い感覚に、  
 俺の腰が、跳ねる。  
   
 先生は、  
 構わず、腰を落とす。  
 ゆっくりと、ゆっくりと。  
 先生の中に、  
 俺が、入り込む。  
 先生の、長く閉じた襞を、  
 俺のモノが、こじ開けてゆく。  
 
 絡みつく肉襞。  
 滑り、溢れる愛液。   
 ぞくりぞくりと、  
 僅かに進む毎、俺の脳髄を、快感が蠢き、のたうつ。  
 
   
 先生の奥に到達し、  
 根元深くまで、先生の秘部が、俺を咥え込む。  
 
 
 はぁぁぁ……、と、  
 長く、長く、  
 息を吐く、先生。  
 
 先生の腰が、  
 ふるふると、震えている。  
 それはきっと、  
 めくるめく、快感から。  
 
「――――――」  
 
 先生が、声を漏らす。  
 夫の名を、呼ぶ。  
 
 そして、  
 静かに、腰を、動かす。  
 上下に。  
 左右に。  
 回す様に。  
 捏ねる様に。  
 
 俺のモノを、隅々まで味わう様に、  
 先生は、ひたすらに、腰を振る。  
 
 腰を動かす度に、石畳の部屋に、じゅぶじゅぶと…滑った音が、響き渡る。  
 同時に、先生の、甘い吐息が漏れる。  
 
「はぁぁ…はぁ…あっ……あっ…あっ」  
 
 謳う様に、  
 踊る様に、  
 先生は、腰を振る。  
 先生は、声を漏らす。  
 
 
 ……一心不乱に。  
 
 ……夢の中の夫と、肌を、重ねる。  
 
 
 ―――先生。  
 
 今、  
 先生は、幸せですか。  
 
 夢の中で、  
 夫と二人、  
 幸せですか。  
 
 
 ―――俺は、  
 
 俺は、辛いです、先生。  
 
 先生にとって、夢の中の幻でも。  
 俺にとって、これは、現実です。  
 
 どんなに強がっても。  
 どんなに、先生の為の、捨石になろうと思っても。  
 現実が、  
 俺を、押し潰すんです。   
 
 
 
 先生。  
 先生。  
 
 一言でいい。  
 
 俺の名を、呼んでくれませんか。  
 
 たった、一言で、いいんです。  
 
 それさえあれば、  
 俺も、幸せに、なれるんです。  
   
 
 先生、  
 どうか、どうか、  
   
 俺にも、夢を、見させてください。  
 ほんの、一時でいい。  
 
 
 
 先生を愛し、  
 先生に愛される、  
 俺という男の夢を、  
 ……見させてください。  
 
 
 ……先生は、目を瞑ったまま。  
   
 腰を振る。  
 ぐちゅぐちゅと、  
 卑猥な音を立てながら。  
 
 口の端には、唾液が漏れ、  
 つつ…と流れて。  
 
 その口は、  
 その口は…  
   
 繰り返し、  
 繰り返し、  
 
 
 ――――――夫の、名を、呼ぶ。  
 
 
 繰り返し、繰り返し、  
 
 夫の名を、叫ぶ。  
 
 
 
 
 ―――どうだ。  
 
 ―――思い知ったか、  
 俺の中の悪魔よ。  
 ………分かったか、  
 俺の中の、夢魔よ。  
 
 この人の中に、  
 俺が入り込む隙間など、無い。  
 
 俺の名が、微塵も侵入する事は、叶わない。  
 
 この人と、想い人との間に、  
 何人たりとも、入り込む事は………出来ないのだ。  
 
 
 
 
 ………だから、  
 だから、悪魔よ。  
 
 
 ……泣くな。  
 
 
 俺という名の、夢魔よ。  
 
 泣くんじゃない。  
 
 
 俺は、  
 …俺という人間は、  
 ……俺という人間と、肌を重ねた時間は、  
 
 所詮、  
 
 一時の夢の中の、  
 幻なのだから。  
 
 
 ……先生。  
 
 今、この時だけ。  
 この一瞬だけ。  
 吼える事を、許して下さい。  
 
 俺という名の悪魔が、  
 断末魔の叫びを上げる事を、  
 許して下さい。  
 
 
「ぉぉぉおおおぉぉぉおお!!!」  
 
 
 叫ぶ。  
 遠くの花火、歓声、  
 先生の、淫らな声、  
 全てを掻き消す様に、叫ぶ。  
 
 激情に任せ、  
 先生の肩を掴み、ベッドに組み敷く。  
 強引に先生の足を開き、  
 その中に腰を滑り込ませ、  
 秘部を、一気に貫く。  
 
「ぉぉおぉおおおぉお!!」  
 
 叫ぶ。  
 喉が張り裂けんばかりに、叫ぶ。  
 俺の中の、悪魔の死に際を、代弁する様に。  
   
 貫く。  
 滅茶苦茶に、腰を突き動かす。  
 ガンガンと、お互いの腰が砕けるのではないかと思える程に。  
 
 俺の目に、涙。  
 とめどない、涙。  
 俺という、悪魔が流す、涙。  
 この人の、想い人を知りながらも、  
 それでも、この人の心を求めてしまった、  
 俺という悪魔の、涙。  
 
 泣きながら、  
 叫びながら、  
 貫く。  
 
 
 
 ―――現実は、甘くない。  
 ―――甘くないからこそ…夢を見てしまったのだろう。  
 
 ―――幸せな結末を迎える……男女の、夢を。  
 
 
 
「あぁ……ぁぁ…あぁっあっあっあぁぁっ…」  
 
 俺の下。  
 俺の腹の下で、  
 声を上げる、先生。  
 
 俺の腰の動きに合わせ、先生の腰も動く。  
 もっと深くと。  
 もっと強くと。  
   
 部屋の中、  
 二人の声と、二人の音が、重なる。  
 それは、見かけだけの、重奏。  
 心の奥底では、決して交わらない。  
 そんな、音。  
 そんな、悲しい、音。  
 
 
 いつしか、  
 先生の喘ぎに、涙の色が混じっていた。  
 
 虚ろだった……先生の目が、  
 しっかりと、俺を見ていて。  
 
 俺の目を見て、泣いていた。  
 
 ごめんなさいと。  
 ごめんなさいと。  
 繰り返していた。  
 
 繰り返し、俺に、呟いていた。  
 
 
 先生。  
   
 戻らないで下さい。  
 俺という現実に、戻らないで下さい。  
 夢を、夢を、見続けて下さい。  
 俺の事は、もう、気にしないで。  
 幸せな夢を、  
 尊い夢を、見続けて下さい。  
 
 どうか、幸せに―――  
 
 幸せに、幸せに、なって下さい。  
 
 そうすれば、  
 報われるんです。  
 
 俺という男が、  
 俺という悪魔が、  
 
 報われるんです。  
 
 俺という心の、  
 流した涙が、  
 
 救われるんです。   
 
 
 泣きながら、腰を揺り動かす、先生。  
 泣きながら、腰を突き動かす、俺。  
 
 遠くの花火は、最後の大玉を打ち出し、  
 観衆は、花火の行方を見守り、  
 
 俺と、先生の吐息が、早くなり、  
 先生が、俺を抱き寄せ、口付けをし、  
 
 大きな花火が、夜空に弾け、  
 
 一瞬の明るい光が、部屋を照らし、  
 先生が叫び、大きく仰け反り、   
 俺が叫び、腰を引き、  
 
 弾けた花火の残滓が、部屋を包む中、  
 
 俺は、  
 先生の腹に、  
 悲しい悪魔の、白濁の欲望を、  
 たくさん、たくさん、吐き出し……  
   
 果てた―――。  
 
 
 ―――おとぎ話の姫君は……  
 
 
 高い、高い、塔の上、  
 切ない涙に震えながら、  
 遠い、遠い、王子を望む―――  
 
 
 
 誰もが忘れた、名も無き塔、  
 
 寂れし塔の、その上に、  
 過去に囚われし、姫君一人。  
 
 誰もが見ない、塔の上、  
 一人、彼方の、王子を想う。  
 
 例え、助けが来なくとも、  
 例え、扉が開かなくとも、  
 姫は、遥かな夢を見る。  
 
 王子の腕に、抱かれる、  
 そんな、叶わぬ想いを抱き、  
 
 隣に寄り添い、寂しく眠る、  
 悪魔の御髪を、撫でながら―――  
 
 
 ……一人、塔にて、涙を流す。  
 
 
 
 ―――いつの間に、眠ってしまっていたのか。  
 
 塔の繰り抜き窓から、光が舞い込んでいた。  
 太陽の光。  
 朝日。  
 ……初日の出。  
 
 俺は、ベッドに横たわっていて。  
 頭だけ、高く持ち上げられていて。  
 枕を敷いていることに、気付く。  
 
 柔らかく、温かい、枕。  
 
 ミランダ先生。  
 ベッドに腰掛けた先生の、膝の上。  
 
 …ずっと、膝枕をしてくれていたのか。  
 
 先生を、見上げる。  
 座ったまま、壁に寄り掛かり、  
 静かな寝息を、立てていた。  
 
 
 
 ……俺は、  
 
 幸せな夢を、見せてあげられただろうか。  
 一時だけ、  
 待ち人の夢を、  
 この塔に、迎えに来た…王子様の夢を、  
 見せて、あげられただろうか。  
 
 温もりを、感じさせてあげられただろうか。   
 
 
 ―――俺に出来る事。  
 
 俺が、この人にしてあげられた、唯一の事。  
 ほんの刹那でもいい、  
 この人の孤独を、この人の悲しみを、  
 覆って、隠してあげること。  
   
 俺に出来る、せめてもの事。  
 
 それを、俺は、してあげられただろうか。  
 
   
 ……答えは、分からない。  
 聞こうとも、思わない。  
 
 答えは、きっと、  
 この人の心に踏み込まないと、分からない。  
 
 固く、重く閉ざされた……  
 この人の心の扉、  
 姫君の扉を、開け放つ事の出来る人間にしか…  
 分からないのだ。  
 
 朝日が昇る。  
 日差しが、先生を、照らす。  
 金の髪が、眩しく、華やかに、輝く。  
 
 ふと。  
 ほんの少しだけ、  
   
 先生が、笑った気が、した。  
 
 幸せな夢を見て眠る、幼い少女の様に―――  
 ほんのりと、穏やかに、  
 
 笑った、気が、した。  
 
 
 十分だ。  
 それで十分だ。  
 
 ほんの、一瞬。  
 その一瞬だけでも、  
 笑顔を見せて、くれたのなら。  
   
 ほんの一瞬だけでも、  
 幸せな夢を、見てくれたのなら。  
 
 それで、  
 十分だ。  
 
 
 
 先生を起こさないように、身を起こし、立ち上がる。  
 
 朝日が、真っ直ぐに俺を照らす。  
 眩しい。  
 新年の、朝日。  
 今年は、何があるだろう。  
 どんな事が、あるのだろう。  
 
 楽しい事は、あるだろうか。  
 嬉しい事は、あるだろうか。  
 
 きっと、ある。  
 
 きっと、  
 先生にも、良い事が、ある。  
 
 必ず、ある。  
 
 ありますよ、先生。  
 
 
 だって、  
 幸せな事、無かった年を探すほうが、難しいんですから。  
 
 
 そっと、先生をベッドに横たえ、  
 毛布を掛ける。  
 
 穏やかな寝息。  
 
 ……次、会うときは、  
 いつもの、  
 普通の、先生と生徒。  
 
 俺の、一時の夢は、終わりました。  
   
 少しでも、先生のお役に立てたのなら、  
 嬉しいです。  
 
 どうか、  
 俺の心の中の、悲しい悪魔の分まで、  
 
 幸せに、なってください。  
 
 
 
 
 携帯電話の、着信履歴。  
 見回りの終了報告を求める、幼女先生のメール。  
 
 
 ―――扉へと、歩く。  
 
 分厚く、大きな、鉄の扉。  
 姫君を閉じ込める、扉。  
 
 扉を、開ける。  
 
 薄暗い、螺旋階段。  
 
 回る。  
 回る。  
 良い事も、悪い事も、  
 螺旋の階段の様に、  
 絡み、廻り、迷い、うねる。  
 
 俺の心も、惑い、うねる。  
 
 少しでも、  
 迷わない様、真っ直ぐに、降りられるよう、  
 
 歩こう。  
 
 
 ―――最後に、振り返る。  
 
 
 ベッドに横たわる、  
 眠り姫。  
 
 
 ―――どうか、  
 
 ―――次にこの扉を開ける者が…  
 
 
 ―――姫君の待つ、王子様でありますように……。  
 
 
 
 心の中で、そっと祈りつつ……  
 
 
 
 
 
 
 ―――扉を、閉めた。  
 
 
 
 
 
 
 
 

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