結婚して半年。  
俺たちの間に子供はできなかった。  
成瀬川(まだそう呼んでいる)は東京の病院に不妊治療に通っている。  
そもそも、成瀬川は教育に生きがいを見出しつつあるようで、  
子供をつくることにそれほど関心が無いらしい。  
 
ある日の曇った、風の冷たい昼過ぎ、ばあちゃんから電話が掛かってきた。  
「もしもし、景太郎はおるかえ?」  
「あ、ばあちゃん、久しぶり・・・。」  
国際電話らしく微妙なタイムラグと音質の悪さがある。  
「おお、景太郎・・・。元気にしとるか」  
「うん。ばあちゃんは・・・」  
「わしは今南米の方なんじゃが・・・  
 ここらは危なくての。  
 可奈子はこちらをもうすぐ離れてひなた荘で待機するそうじゃ・・・」  
そうか・・・可奈子が帰ってくるのか・・・。  
 
「センパーイ、じゃ行ってきまーす。」  
俺の後ろからしのぶちゃんの声がする。  
「あ、行ってらっしゃい。」  
電話口をふさいで返事をする。  
連休の間、俺以外のひなた荘の住人は銘々の理由(ほとんどは帰省とサークル、  
成瀬川は出張)で出払ってしまう。  
「・・・で、ばあちゃん、可奈子が帰ってくることと・・・他になにかある?」  
「それなんじゃが・・・。」  
と口ごもる。  
「その・・・お前たちはうまく行っておるのかえ?」  
「な・・・」  
一瞬示した迷いの色を打ち消すように俺はまくし立てる。  
「あ、あたりまえだろ!そんなの・・・。」  
「いや、スマン・・・。」  
「ばあちゃん、前にも説明しただろ?成瀬川は・・・。」  
電話の向こうでばあちゃんは溜息をつき南米の空気を吸う。  
「わしだってお前達の結婚に賛成した身じゃ。  
 じゃが・・・浦島の血を絶やさんこととそれはまた別問題じゃ。」  
「だからってそんな急かさなくても・・・。」  
ばあちゃんはまた溜息を吐いた。  
「お前たちは式に親も呼ばんかったようじゃから分からんかもしれんがの・・・。  
 わしの耳には親戚から痛いほど聞こえてきおる。  
 だいたい、浦島の男は一ヶ月もあれば、と相場が決まっておるんじゃ・・・。」  
「な、なんだよそれ!」  
心ない言葉に怒りが煮えたぎる。  
 
「スマン。じゃが分かってくれ。  
 お前に流れておる浦島の血は特別なんじゃ。残さねばならんものじゃ、  
 そのためには二号を取らすのも辞さん。」  
「に、二号ってまさか・・・。」  
俺は動揺を隠せない。  
「そうじゃよ。代々浦島はそうしてきた。  
 今、乙姫の家にも伝令が飛んでおるはずじゃ。」  
実家に呼び出されたと言って帰っていったむつみさんの顔がちらつく。  
「乙姫って・・・むつみさん?!」  
「そうじゃ。もともとあの子はお前の許婚だったんじゃ。  
 乙姫の家は古い分家じゃからの。  
 子が生まれん場合には他から嫁を取る。  
 そういうしきたりじゃ。」  
「うそだろ・・・。」  
「お前たちがその力に逆らって壊したあの別館もそのしきたりの一部なんじゃよ。  
 浦島にはそういう仕組みがあるんじゃ」  
「じゃ、じゃあさ、その仕組みに不妊治療みたいなのもあるんじゃないの?」  
「あの別館じゃよ。」  
「え・・・。」  
俺は絶句した。  
 
「心底びっくりしたわい。  
 久し振りに帰ってみたら自生しておった薬草がことごとく瓦礫に埋まっておるんじゃもの・・・。」  
「・・・」  
俺は面食らっていた。  
「しかもお前はどこの馬の骨とも分からん娘と駆け落ちしておるとくる。  
 じゃが、お前が選んだ娘なのだからそれも良かろうと思ったのじゃ。」  
「・・・」  
成瀬川を馬の骨呼ばわりされたことにも腹を立てていたが  
それよりも少しずつ話の雲行きが怪しくなっていることに俺は神経を張り巡らせた。  
「それからの、これも言いにくいんじゃが・・・。  
 わしがいなくなったらその土地を守れるのはお前しかおらんのじゃよ。  
 他の親戚どももその土地は欲しがっておるからの。  
 しかし、わしが見る限り血を継いでおるのはお前一人じゃ。  
 血と地じゃ。両方が必要なんじゃよ、浦島には・・・。」  
「で、俺にどうしろって言うんだよ・・・。」  
ばあちゃんは電話の向こうで溜息を吐いた。  
「浦島の血が絶えてしまえばその土地も意味を成さん。  
 力も失われる。女子寮をやめてもう一度旅館にでもせんことには・・・。  
 維持費もバカにならんしの。」  
「・・・っ」  
しかし俺には怒鳴ることもできなかった。  
「まあ追って連絡する。  
 わしだってお前にこんな話をするのは辛い。  
 じゃが、分かってくれ。そういうことなんじゃよ。  
 仕方がないんじゃ・・・。」  
「・・・」  
俺が沈黙を保っていると、ばあちゃんは  
「ではの・・・。」  
と言って電話を切った。  
 
突然の話に俺は受話器を持って立ち尽くしていた。  
「クソッ」  
受話器を叩きつけて、俺は靴を履いて庭に出ると上着を脱いでから  
ジークンドーの型を最初から始めた。ひとつひとつの流れを注意深くゆっくりと追っていく。  
そうやって心を静めようとしても難しかった。  
 
クソッ・・・なんで・・・。俺に何ができるって言うんだ・・・  
俺にどうしろって言うんだよ・・・。  
電話で問い掛けた質問を自分にも投げつけてみる。  
けれど答えは出そうになかった。そこにはなにも無かったのだ。  
 
ふと突き出した拳に何かが触った。  
冷たい・・・雨粒だった。雨が降り出そうとしている。  
上着を取ると俺はひなた荘に駆け込んだ。  
「あーぁ・・・。」  
車で外出するのもためらわれた。気分が重すぎる。  
風呂でも入って部屋で本でも読むか・・・。  
玄関に背を向けて風呂場へ歩こうとすると扉がガラガラと開く音がした。  
振り替えるとキツネさんが外したエプロンをたたみながら立っていた。  
 
「いやーまいった・・・。  
 連休やのに誰もきーひんとは・・・。  
 閉めたとたん雨は降り出すし・・・。」  
「あ、キツネさん・・・。」  
そう言えばキツネさんはひなた荘に残っていたのだった。  
キツネさんの体を見るとシャツが雨で透けて赤い下着が浮かび上がっていた。  
(げ・・・やば・・・。)  
反応しかけた自分が嫌になり背を向けると風呂場へ走った。  
「おーい待ちやー!」  
キツネさんの声が後ろから追ってきたが俺はそれを振り払って走った。  
 
「もーなんやねんあの男は・・・。  
 さっきも難しい顔でトレーニングして・・・」  
走り去っていく景太郎の後ろ姿を眺めてから我に返るとキツネは体を震わせた。  
「うー寒っ。風呂でも入るか・・・。  
 秋の雨は身に染みるわ・・・。」  
そう言うとキツネは風呂場へ歩き始めた。  
 
頭から湯をかぶると俺は溜息を吐いた。  
そして湯船に足からつかる。足の血管がみるみる広がっていく。  
指すような刺激に俺は顔をしかめた。  
そして風呂桶の縁に頭を付けて外の木々を眺めた。ここは二階の俺専用のスペースだ。  
 
俺にはなにもできない・・・。再び思考が鎌首をもたげていた。  
突然言われてその解決には時間が掛かる・・・。  
これほど人を追い詰めることはない。  
ましてや自分にできることが無いとすればそれは最悪の状況だった。  
頭を片手で抱えて風呂桶にもたれかかった。  
成瀬川が帰って来たらなんと説明すればいいのだろう。  
別れてくれ・・・?そんなこと言えるわけがないし、言いたくもなかった。  
じゃあ抵抗してここに居座りつづけるか・・・。  
でも浦島一族の力は強い。他のみんなが出て行く羽目になる。  
ばあちゃんの口振りではこの場所は俺の前に用意されたようなものだったのだ。  
そう仮定するとなぜばあちゃんが突然ひなた荘を俺に譲ったのかも理解できた。  
考えれば考えるほど気が滅入りそうだった。  
成瀬川・・・。  
最近前ほど口をきかなくなっていた。  
仕事の疲れのせいか俺が求めてもしばしば拒まれた。  
しかも本人はまだ子供をつくりたくないらしい。  
そういや最後にしたのはいつだったっけな・・・。はっきりと思い出せない。  
けれどつながっている時の成瀬川の限りなくいやらしい顔を思い出して俺はいきり立とうとしていた。  
 
ガラッ、と扉の開く音がしてそっちに顔を向けるとキツネさんが入ってきていた。  
「あれ、けーたろ」  
キツネさんの裸体を認識した瞬間俺は湯船を飛び出し脱衣所に駆け込んでいた。  
「雨降ってるし、使わしてもらおう思うてきたんやけど・・・っと。」  
キツネは頭を掻いた。  
「なんやあいつは・・・。  
 口もきかんと・・・。  
 ・・・やっぱり居るかどうか確認してから来るべきやったんかな」  
肩をすくめるとキツネは椅子に座って髪を濡らして洗い始めた。  
 
「クソッ・・・」  
やはり溜まっているのだろうか・・・。  
俺は布団の中で毒づきながら思った。  
こんな時は本を読むに限る。作品の世界に飛べばその間はなにもかもを忘れていられる。  
枕元に積まれた文庫本に手を伸ばして村上春樹の「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」  
を手に取ると俺は続きを読み進めた。  
まもなく主人公が妻と離婚していたことを知って俺が溜息を吐いたころ、  
部屋の戸をノックする音がした。  
「けーたろ、入ってええかー?」  
「どうぞ。」  
と俺は体を起こしながら言った。  
戸が引かれてキツネさんがビールの缶を2つ下げて入ってきた。  
白いワイシャツとジーンズという格好だった。  
「どうしたんですか?何の用です?」  
「いや、一緒に飲もうかな、思うて・・・。」  
「真っ昼間ですよ?」  
「あ、まあそうやけど・・・」  
とキツネさんが頭を掻く。  
「・・・やっぱ邪魔したかな?一人で飲むか・・・」  
そう言いながら部屋から出て行こうとする。  
 
「ちょっと、待って。」  
俺はキツネさんを呼び止めた。  
「ビール一缶なら。」  
「よっしゃ、そう来んと。」  
キツネさんが俺の枕元まで来てビールの缶を手渡す。  
キツネさんは机にビールの缶を置くとプシッと威勢よくタブを引いた。  
そしてそのまま喉に勢いよく流し込む。  
くーっ、と唸ると上を向いてぷはっと息をついた。  
「やっぱり風呂上がりの一服が最高やね!」  
まったくこのヒトはどこまでオヤジなんだ・・・。と首を振りつつ俺はタブを引く。  
そして喉に流し込む。キツネさんと同じリアクションを取りそうになって、やめた。  
そして手に持ったビールの缶に目を落として  
「おいしいや・・・。はは・・・」と力無く笑った。  
そんな俺の様子を見ていたキツネさんが呟いた。  
「・・・なんかあったんか?」  
「えっ・・・」  
ギクッとして目を向けるとキツネさんが俺の目を見ていた。  
「いや・・・さっきも難しい顔しとったし・・・  
 話してみんか?ウチが相談に乗れることやったら・・・。」  
「いや、いいですよ・・・。」  
これは俺の問題だ。他のみんなには関係の無い話だ。  
 
キツネさんが少し顔をしかめて呟いた。  
「なるのことか・・・。」  
「え・・・。」  
相変わらずの鋭さ。このまま行くと隠そうとしてもいずれバレてしまうかもしれない。  
キツネさんになら話してもいいだろうか・・・と俺は少し思ってしまった。  
「あの・・・」  
「ん?なんや・・・?」  
「実は・・・」  
俺は床に目を落として話し始めた。  
子供ができないこと。成瀬川は欲しがっていないであろうこと。  
ここまでなら良かった。けれど促されるまま俺は浦島家のしきたりのことも、  
むつみさんのことも全て話してしまった。  
「・・・そ、そうかー、アハハハ・・・ハ・・・」  
話が終わって顔を上げるとキツネさんはもじもじと、少し恥ずかしそうに顔を赤くして  
正座して聞いていた。  
その顔を見て俺も思い出したように赤くなり、あわてて謝った。  
「す、すいません、キツネさん、こんな話して・・・。」  
「・・・ええよええよ、話聞くて言いだしたのはウチやし・・・。」  
「すみません・・・。」  
頭を掻きながら俺を視線を落とした。  
 
「・・・なぁ、けーたろ、子供作るのは誰でもえーんか?」  
「え・・・多分・・・。」  
「・・・・・・・・・ウチ・・・けーたろの子供やったら生んでもええで。」  
「は・・・・・・ええ?!」  
ナハハと笑ってからキツネさんは続けた。  
「いや、な・・・どうせひなた荘離れな行かんなったらウチも行くところ無いんや。  
 喫茶やって巻き込まれるに決まってるし・・・。  
 それに乙姫のねーちゃんの気持ちも今は分からんしな・・・。」  
確かにむつみさんの気持ちは分からなかった。今ではもう彼氏もいるのかもしれない。  
彼女に無理矢理手伝わせるのは酷かもしれなかった。  
やはり同意を得られていた方が・・・と少し思ってしまった。  
「それにな、あんたAB型やろ?ウチはB型なんや。  
 ほんでなるがA型・・・。生まれてくる子供は血液型では区別がつかん。  
 きっと戸籍もごまかせるはずや。生まれた子供はなるとけーたろが引き取ってくれたらええ。  
 これで一件落着や。」  
俺は目が丸くなった。凄い、計算ずくだった。  
「え・・・でキツネさんはそれでいいんですか?」  
「あー、ウチのことは気にせんでええ。一度は子供も生んでみたいと思うとったところや。」  
顔を真っ赤にしながら笑ってみせるキツネさんを前にして俺の気持ちはグラついた。  
久し振りに女性に自分の存在を受け入れられたという感覚があったからだ。  
それにキツネさんを確かに体が求めていた。  
 
這ってゆっくりとキツネさんに近付く。  
そっと真っ赤な頬に手を触れる。凄く熱い。  
キツネさんがぎゅっと目をつぶる。少し震えていた。  
 

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