その女を前にして、リロイの顔に浮かぶ感情は――困惑だった。
≪白馬のたてがみ亭≫。このアルパスの街でも、それなりに上のランクに位置する宿だ。その一室で、リロイはその女――レナ=ノースライト――と対峙していた。
アシュガンとの死闘を終え、町を離れようとしていたリロイに、レナは言った。
「報酬はいらないの?」
無論、いらないわけがない。リロイは当然、報酬を受け取るつもりであった。レナが暗殺者をやめる、という報酬を。
ところが、レナはその報酬を払うつもりはないと言う。リロイが直接的にレナを助けたわけではないのだから、そちらの報酬を払う義理はない、と。
この論理は詭弁に近いものがあるのだが、レナ相手にリロイが口で勝てるわけがない。レナが言った報酬とは、マナを助けた事に対するもの。つまり、レナの身体だった。
反射的に、リロイはそれを拒否しようとした。今回は共闘もしたとはいえ、レナは、リーナスを殺した張本人だ。それを抱くなんて、できるはずがない。
だが、そこでふと、リロイの思考に入り込むものがあった。
好奇心、だったのかも知れない。
レナが自分の身体をかけるのは、自分が受け取らないと確信しているからではないのか? だったら、ここでYESと言えばどうなるのか。
そんなことを、つい考えてしまったわけだ。
ところが、レナの反応はあっさりしたもので、
「夜に宿へ来なさい」
と、その一言だった。
少しは普段の鉄面皮が崩れるかと思ったが、全くの変化なし。
自分からYESと言った手前、今更断ることもできず、今こうしてレナの部屋に来てしまっている。
「抱くなら早くしてくれないかしら? 私も暇じゃないのよ」
黙然と佇むリロイに、冷たい声が突き刺さる。相変わらず、その表情は何の感情も表さない。ただ氷のように、そこにあるだけだ。
シャワーを浴びたばかりなのか、レナはバスタオルを一枚身体に巻いているだけで、後は何も身に着けていない。
しっとりと濡れた金色の髪が、額や露になった白い肩に薄く張り付いているその姿は、それだけでこの世のどんな美術品をも凌駕するような美しさを秘めていた。
奇しくも、先日この場所へ来た時と、同じ格好だ。
怒りにまかせて部屋に踏み込んだリロイが、それすらも一瞬忘れてしまった、あのなまめかしい姿。
それ故に、リロイは半ば導かれるようにしてレナへと歩み寄っていた。
「……ん」
唇を重ねた瞬間、誰かが小さく、声を漏らした。快感を抑えきれずに、零してしまった感情の断片。
誰のものか――レナの、ものだ。
口付けは、尚も続く。
まるでルージュを引いてあるかのように、赤く熟れたその唇を抉じ開け、リロイの舌が滑り込む。
貪るようにして自分の口の中で蠢くリロイの舌を、レナは黙って受け入れていた。その頬が、ほんの僅かながらも、上気しているように見えるのは、気のせいだろうか。
次第に、レナの方からも舌を動かし始める。互いに求め、貪り合う、ディープキスだ。どれだけ、そうしていただろうか。
しかし、終わりは急にやってきた。
「……っ!」
弾かれる様にして、リロイが口を離した。互いの唇を伝う透明な糸に、赤い色が混ざった。口の中には、苦い鉄の味が広がる。血だ。
レナが、リロイの舌を噛み切ったのだ。そう深いものでもないが、痛みが走らないわけもない。リロイは憤然として、レナを睨めつけた。
対する、レナの反応はない。自分の唇に手を当て、何かに嫌悪するかのように眉を顰めている。
この状況だ。キスにへの不快だと受け取るのが当然だろう。
「あー、くそ、なんなんだよ!」
訳がわからないといった表情で、リロイは乱暴に頭を掻いた。レナが何を考えているかなど、分かった例はほとんどないが、今回は特に意味不明だ。
自分から報酬を指定しておいて、いざキスをしてみれば嫌悪の表情だ。リロイでなくとも、これには困惑せずにはいられないだろう。
いっそこのままこの場を去ろうかと背を向けた時、
「……もう、しないの?」
レナの、声が掛った。
声色は、いつもの通りに冷え切っている。表情も、変わった様子はない。
しかし何故か、リロイは何かに突き動かされるかのようにレナをベッドへ押し倒した。
レナの身体を隠していたバスタオルを剥ぎ取り、その下の裸身を露にさせる。そしてそのまま、白く澄み切ったその肌へ、貪り付いた。
二つの膨らみの真中へ顔を埋め、下から上へと舐め上げる。レナの身体が跳ね上がるのも気にせずに、今度は乳房を鷲掴みにする。
痛みすら感じさせるほどに、乱暴に揉みしだき、その先端へ噛みつく。全身を這いずるリロイの手や舌に、レナは身体を震わせ、耐えきれない快感に抗えず声を漏らす。
そして遂に、リロイの手が下へと伸びた。レナは特に抵抗もせずに、既に火照った身体でそれを受け入れる。そして、その手が秘所へと触れた瞬間、
「――ぁあ!」
一際大きな、それこそ快感に打ちのめされたような喘ぎ声が上がった。
閉じた瞳からは涙が、そして、その表情は、やはり何かを嫌悪していた。
レナは、思い出していた。かつて、カルジアでリロイと交わった時のことを。
あの時も、やはり、こうして自分の意思とは関係なく快感が這い上がってきた。
凍らせたはずの感情が、この男の前では溶かされ、突きつけられてしまう。生きるために凍らせた感情が、溶けるのだ。
それは、レナにとってはとても許容できることではない。それは、死と同義なのだから。
しかしそれでも、溢れ出すこの快感には抗えない。何も知らない、何もできない小娘のように、ただ震えているしかない。
冗談ではなかった。
何故この男の前では、感情的になってしまう?
何故この男は、『私』を壊す?
何故この男は、私の弱さを引きずり出そうとするのだ?
あの時、あのカルジアでの別れの時に、フェンリルの言う魂の絆は断ち切ったはずだった。
それで、この男を殺すことができた筈だった。
だというのに、何故!
何故こうも、この男を受け入れるのだ?
――殺したい! 殺さなければ、この男を!
レナの手が、枕の下へと伸びた。習慣として、そこにはナイフを忍ばせてある。それで、この男を刺し殺すのだ。
だが、その手が、ナイフの柄を掴むことはなかった。全身を打ち抜くような快感に襲われ、身体中の力が抜けてしまっていた。
見れば、リロイがレナの股に顔を埋め、そこかしこに舌を這わせている。既にその場が濡れているのは承知しており、なればこそ、より嫌悪に顔を顰める。
だが、それでも漏れていく喘ぎ声までは止められはしない。まるで生娘のように、自分が乱れていくのがわかる。
「……行くぞ」
そんな、リロイの声も、レナにはどこか遠くの事のように聞こえた。今のレナを支配するのは、かつて味わった、あの想い。
強く、それでいて暖かな輝きが、自分を包み込む。胸の奥に凍らせていた、傷だらけの儚い光を包み込み、癒す。
それは紛れもなく、安息。
求めてやまなかった、優しい繋がり。
しかしそれは、自分が一度拒否したもの。それを、それなのにまだ、自分は求めている。そして相手も。
今度は、どうする?
再び拒否するのか、それとも今度は……。
答えは、出てこない。そして出ないまま、一瞬だけ、輝きが交わった。
過去、現在、未来。それらの中での、様々な二人の感情が、混ざり合い、一つになる。
それは、一瞬の出来事に過ぎなかったが、しかしそれで、十分であった。
「……何だ、今のは?」
レナの隣に倒れ込んだリロイが、ポツリと漏らした。茫然として、目の前の空間に漆黒の瞳を彷徨わせている。
そしてレナも、呆けたように、その場に倒れ込んでいた。
――死別、決別、裏切り、そして出会い。
様々な事象が混ざり合い、融けていく。ほんの一部に過ぎないにせよ、それは紛れもなく、リロイの過去。そしてリロイにはおそらく……
「レナ、お前リーナ……」
「……出て行って」
リロイが最後まで口にする前に、レナはそれを遮っていた。
これ以上は、もう、駄目だ。これ以上は、壊れてしまう。
「出て行って……お願い」
打ちひしがれた声で、レナは再び同じ言葉を口にした。ひどく、弱々しい声で。
沈黙が、降りた。
それから、どれほどの時間が経っただろうか。
リロイは、ようようといった様子で身体を起こすと、脱いだ服を身に着け始めた。
会話は、ない。
お互い一瞬、それもほんの一部とはいえ、解り合ってしまった。
その絆は、どれだけ薄く、小さなものであろうと、決して消えることはない。
絆は、繋がったのだ。
それがわかっているからこそ、服を着終えたリロイが部屋を出る間際に、レナは言わずにはいられなかった。
「……殺してやりたいわ、あなたを」
擦れるような声で、絞り出した言葉。
リロイは、そのまま何も言わずに、部屋を出て行ってしまった。
残されたのは、レナ一人。
(……遂に、結んだのだな、魂の絆を)
脳裏に直接響く声は、聞きなれた声。
優しく、大きな声だ。
(……まだ、断ち切れるわ)
ぼんやりと天井を眺めながら、レナは反射的に、そう返していた。
(よすんだ。おまえは一度、その苦しみを味わったはずだろう?)
(それでも、わたしは……)
(少しづつで良いのだ。徐々に、受け入れていけば良い。おまえの今感じている喜びは、本物なのだから)
言葉にならぬ拒絶を想うレナの心に、深く沁み込むように、その声は告げた。
(失ってはならぬ絆を、おまえは手にしたのだ。後は、それを拒絶しなければ良い)
一語一語が、レナを優しく包み込み、安堵させていく。
その声の主が、今どんな表情をしているのか、レナには手に取るようにわかる。
優しい、微笑。
それが、今のレナには無性に、心地良かった。
(魂の絆は、否定できない)
かつて言われた言葉が、今は、やけにすんなりと、心の中に入り込んできた。