「…せっかく作ったのに――」
廊下を歩きながら、つぶやく。
バスケットの中には、二切れだけ残ったフルーツケーキ。
つまらなく思う。
みんなに食べてもらいたくて、またケーキを作ってきた。
しかしいつものお茶の席に、思いがけない人物が不在であったのだ。
夕食の時間にも皆が揃ったが、その時も彼は帰ってきていなかった。
それが彼女には、なんだか面白くなかった。
「せっかく作ってきたのに食べてもらえないなんて…」
再びつぶやく。
しかしその自分の言葉に、軽い違和感も感じた。
本当にそういう理由でつまらないのだろうか。
自分の気持ちがうまく把握できず、そのこともまた、彼女を不愉快がらせた。
「ウミ」
女性の声に、振り返る。
金髪のポニーテールの女性だ。
「あ…プレセア…」
(独り言、聞かれちゃったかな)
赤くなってあたふたと慌てる。
「さっきアスコットが帰ってきたわよ。導師とのお話も済んだようだから、もう部屋に戻ったんじゃないかしら」
それを聞いた瞬間、海の顔がぱあっと明るくなる。
(やった、会える…!)
思っていることが筒抜けなその表情を見て、プレセアが微笑んだ。
「ありがとう、プレセア」
プレセアに礼を言い、アスコットの部屋へと駆け出したが、途中で違う方向へ曲がった。
彼女らが泊まる部屋である。
広い部屋には誰もいなかった。
光はランティスの所、風はフェリオの所にでもいるのだろうか。
幸せそうに恋をしている二人を見ていると、嬉しくなる。
しかし、心のどこかで羨ましいとも思うのだ。
「いいな…私も二人みたいになりたい…」
――誰と?
また、答えの出ないもどかしい疑問が頭をよぎる。
(ああもう、またこんなことばっかり!早く用意しないとだめなのに)
気持ちを切り替えるように首を左右に軽く振り、着替えを用意する。
お気に入りのワンピース。
それと部屋に用意されていたタオルを持って、再び部屋を出た。
ケーキ入りのバスケットが、ベッドの上から彼女を見送った。
この城には広い風呂がある。
海のお気に入りの場所の一つだ。
まだ早い時間だからか、誰もいない。
(誰もいない…こんな広いお風呂を貸しきりだなんて贅沢ね)
すっかりご機嫌になって衣服を脱いでたたみ、タオルで体を隠して風呂の一角へと歩く。
そこに立つと斜め上からミストシャワーのように、霧が吹き付けてくる。
それを全身に十分に浴び、湯船に向かう。
普段は光と風、たまにカルディナやプレセアも一緒だ。
そういえば初めてここに入った時は、他国の軍がセフィーロに侵攻していた頃だった。
(そう…確か光の剣が折れた時だったっけ)
あの時と同じように湯の中に入って思い出す。
(なんか途中から胸の大きさの話になったのよね)
ふと、自分の胸を見下ろす。
…それほど大きいとは言えない。
(もう少し大きくないとだめかしら)
バスタオルを離すと手頃な大きさの、形のいい胸が露出する。
下から持ち上げるようにして、優しい動きで揉みしだいた。
声こそ漏らさないが、荒くなる呼吸と水音が風呂中で響く。
それが海を煽り、動きをエスカレートさせた。
胸の先端を軽く摘む。
それだけで、吐息が漏れる。
右手をゆっくり降ろす。
淡い茂みの奥に指先を這わせると、湯とは違うもので濡れていた。
その指で、一番敏感な場所を擦る。
「ん…んっ…」
思わず声が漏れそうになるのを堪えて、花芽を刺激し続けた。
「う…ん…ふぁ…あっ…」
しかし、ある程度続けるとすぐにやめてしまう。
(最後まで…出来たためしがないのよね)
体が勝手に快感から逃げてしまって、それ以上は出来ないのだ。
中に指を入れるのは怖くて試したことがない。
(そろそろ上がらないと…のぼせちゃうわ)
ゆっくりと、湯船から出て体を拭いた。
なんだか頭がぼんやりする。少しのぼせたかも知れない。
服を着て、部屋に戻った。
丁寧に髪を整え、ケーキの入ったバスケットを持って、アスコットの部屋に向かった。
ドアの前で、もう一度手鏡を見る。
鏡に映った自分に、にっこり笑いかける。
手鏡をしまい、ドアをノックした。
返事があり、ドアが開く。
さっき手鏡に向かってしてみせたのと同じ笑顔で言う。
「こんばんわ」
アスコットは少し驚いたようだったが、こんばんわ、と挨拶してからドアを広めに開け、海を通してくれた。
いつもと同じ態度だが、少しいつもと違う。
ほんの少し、疲れているように見える。目を隠していた前髪が、アイホールにかかるぐらいの長さになっている。
「適当に座ってね」
テーブルには筆記用具と本、巻物状の紙。
本にも紙にも、細かい文字が多く書かれており、到底子供の持ち物とは思えない。
それを片づけて席を勧めてくれた。
(もしかして、邪魔しちゃったかしら…)
少し、不安になる。
今頃気づいたが、服装が、以前とは全く違う。
黒基調の衣服、機能的なブーツ。長衣の肩には赤いライン。襟には赤と銀の四角いピンバッジのようなもの。帽子は被っていない。
しかし、あどけない笑顔でお茶の用意をしてくれる姿を見て、なんとなく自信に似た気持ちが胸を満たす。
自分の訪問は彼にとっても喜ぶべきものだ、という気持ちになれるのだ。
最近、急速に大人びていくアスコットは、エチケットとして見せる笑顔と、心からのあどけない笑顔を自然に使い分けている。
正確には、本当に嬉しい時や楽しい時にまで、大人びた態度をとれないということなのだろうが。
いつもとの違いを見つけては不安になり、いつもと同じものを見つけては安堵する。
アスコットが海の左側から、そっと音を立てないようにティーカップが置いた。
その動作がまるで、行き届いた給仕のようで、また心が冷える。
自分は、客人に過ぎないのだろうか?
前にこの部屋に来た時にお茶を出された時は、こんな動作ではなかったように思う。
思わず、彼の顔を見つめてしまう。
急に見つめられて、アスコットが困惑したような態度を見せる。
それを見て、海は笑顔を作って言った。
「まるで、給仕するのがお仕事みたいね」
こんなことを言いたいんじゃない。
(だけど、何を言えばいいの?この気持ちが何なのかもわからないのに…)
お茶を口にすることで、表情を隠した。
首を傾げて彼が答えた。
「うーん…似たようなものかも?」
「似たようなものって?」
(気まずくならないようにしなくちゃ)
彼にはなんとなく海が気を遣っているのがわかったが、気づかない振りをして、答えを返した。
「目上の人とかにお茶を出す機会が、最近多いからね」
「目上?」
「遠くから見学に来た人とか?あ、えっと…今はこの城に住んでいなくて、寄宿舎にいるんだ」
「?????」
「セフィーロが実験的に、外国の教育制度を取り入れて作った施設があるんだよ。まだ到底みんなが教育を受けられるって状態じゃないけど…」
「今はそこで勉強しているのね」
「そう、たまにここに来るけど」
最初は二人とも結構気を使っていたが、途中からは海が興味のままに質問してアスコットが答えるという形で話が弾んでいった。
空になったカップに、もう一度お茶を注いでもらった。
良い香りが立ちこめる。
セフィーロで飲むお茶は、紅茶に似ているが、彼の部屋にあるものは少し異なる。
ハーブティーか何かだろうか?少し柑橘類のような香りがする。
「このお茶、いい香りね」
「この城で飲んでる人は少ないけどね」
「どうして?」
「たぶん産地が北方だからじゃない?城は南の方にあるし…」
また、首を傾げて答える。可愛い仕草だと思う。
ごく自然に立ち上がってその頭を抱き、明るい茶色の髪を撫でた。
アスコットが驚いて顔を上げた時、その唇を自分のそれで塞いだ。
唇と頭を抱いた手を離すと、アスコットはそっぽを向いてティーカップに口をつけた。
二重に顔を隠しているわけだが、頬が紅潮しているのが海には見えた。
テーブルの、彼から見てソーサーの向こうに、さりげなく置いた手鏡に映っているのだ。
キスをするのは、これが初めてではなかった。
それなのに赤くなってしまう彼が、可愛くて仕方がない。
海の方をちらっと見た彼が、彼女の視線を辿って手鏡を見つけた。
「……鏡…?」
それを手に取り、アスコットは目をぱちくりさせている。
海が手鏡を置いた目的までは気づかなかったらしい。
「アスコット、すぐそっぽ向いちゃうから」
にっこり笑って言う。
アスコットには小悪魔の笑顔に見えたかも知れないが。
「………」
理由を知った彼が、もうどうしていいかわからない、といった表情を見せた。
無言のまま、海から見てソーサーの向こう、自分が置かれた時と同じ位置に手鏡を置く。
その服の袖から、カモミールのような、しかしそれより癖のない香りがした。
「…いいにおい…」
「え?何の?お茶のじゃなくて?」
「ううん、お花みたいな感じの…」
そこまで言って、ふと考えてしまう。
(もしかして…女の人の香水か何かじゃないわよね?)
まさか、と思いながらも息苦しいような不安に襲われる。
記憶を辿っていたアスコットが、香りがついた場所を思い出したらしい。
しかし彼がそれを海に伝えようとした時、彼女がうつむいているのに気づき、声をかけた。
「ウミ…?」
声をかけられたが、顔を上げられない。
彼のことを何も知らない事実に、泣きそうになる。
(他に好きな子がいるかも知れない…)
考えたこともなかった。
彼を可愛いと思っていた。
自分を好きでいてくれているんじゃないかと思うと嬉しかった。
優しくて好ましい男の子だと思っていた。
だが、自分が彼を異性として意識しているとは思っていなかった。
キスを交わしたこともあったが、それでもどこか、可愛い子猫にするような感覚だった。
正直、もう自分のものであるかのような感覚でいたかもしれない。
その妙な自信が、恥ずかしくなる。
何の約束もない関係で、どうしてそんなことを思っていられたのだろう。
現に今、彼には他に好きな人がいるかも知れない。いても不思議はないのだ。
この瞬間の心の痛みと、フルーツケーキを渡すのを忘れていたという事実が、彼女に気づかせる。
(私…アスコットのことが…?)
制御不可能な気持ちが涙になって溢れてくる。
「なんで泣いてるの…?」
アスコットがそっと手を伸ばす。
その声は困惑しているというより、どこか悲しげですらある。
長い髪を壊れものを扱うように梳く彼の指が、優しくて、どこか切ない。
沈黙が重かったのだろう、しばらくその状態が続いた後でアスコットが口を開いた。
「…思い出したんだけど…言ってもいい…?」
その言葉の意味が分からないまま、うなずく。
「今日の薬草学で使った薬草」
(――え?)
「薬草…?」
アスコットが立ち上がって、海が部屋に入ってきた時に片づけた本を取り出した。
その場で立ったままページをぱらぱらとめくっていった。
なんだか彼がテーブルの所へ戻ってくるまで待てなくて、海が彼の方へ歩いていった。
歩み寄ってきた海に、本の一ページに小さく描かれている花を指さして見せた。
「これの香りが付いたんだと思う」
幼さの残る笑顔で言う。
海もつられて笑顔になる。
アスコットが本を片づけ、再び髪を撫でてくれた。
別にその香りが他の女の子からの移り香でなくても、彼に好きな人がいないことにはならない。
それはわかっていたが、心が軽くなった。
「…ねえ、私のこと好き?」
見上げる。
改めて言うのが照れくさかったのか、返事の代わりに、キスが降ってきた。
その温かさが幸せで、離れるのが惜しいとすら思う。
「もっと…して」
優しく抱きしめられて、軽いキスを繰り返す。
いつから、どちらからキスを深くしていったのかは覚えていない。
息苦しくなるまで続けて離れた時、透明な糸が一瞬、二人の唇を繋ぎ、消えた。
「ねえ、次に会えるのはいつ?」
「年に10回、外出許可を出してもらえるみたいだけど」
(単純に考えても、次に会うのは一か月以上も先ってこと?)
「あんまり、会えないのね」
寂しくて仕方ない。
アスコットも何も言えないでいる。
「お願いがあるの」
「何でも叶えるよ」
会えないことを申し訳なく思っているのか、即答である。
その言葉が、「好き」の一言よりも嬉しい。
「会えなくても平気でいられるようにして」
言葉の意味が一瞬わからなかったようだが、強く抱きつき、さらに言った。
「明日までずっと、ここにいさせて」
海にはこれ以上の言葉は、恥ずかしすぎて言えない。
しかし、アスコットにはなんとなく意味はわかったようだった。
本気で言っているのか、確かめるように瞳を直視される。
彼らは今、ベッドの足元にある二つ並んだ本棚の前にいる。
一つは、重厚な本――学術書だろう、さっきアスコットは薬草学の本をここに片づけた――ばかりの本棚。
もう一つの、厚さや大きさや装丁がさまざまな本が大量に収まった本棚を、海が見上げて言う。
「本棚って、机の横に置いた方が便利なんじゃない?」
「寝れない時とかに本を読みたいからここでいいんだよ。本当は枕元に置きたかったぐらい」
「本、好きなのね。枕元に置かなかったのはどうして?」
「まだ今みたいに平和じゃなかった時にカルディナに『地震来たら本に埋まって死ぬで?』って言われたからやめただけ」
拗ねたような口調で言う。
それを聞いて海がくすくす笑う。
(言われたからってちゃんと足元に置くあたり素直よね)
そう思いながら、ベッドまで歩き――ほんの数歩だ――、ベッドにちょこんと座る。
アスコットの方を見、座れという代わりに、隣をぽんぽんと手のひらで叩く。
おとなしく彼が座ったので、ご褒美をあげるように頬にキスをする。
どちらからともなく、抱き合ってキスを交わした。
海はアスコットの首に腕を回したまま、後ろに倒れ込んだ。
意外に勢い良く倒れたが、頭を打つことはなかった。
頭の下に、アスコットの手があった。
頭を打たないように、片手でとっさに庇ってくれたらしい。
(わざわざ庇ってくれたの…?)
「手、痛くない?」
嬉しさと心配が混ざった気持ちのまま尋ねた。
「大丈夫、痛くないよ」
それを聞いて海は軽く頭を持ち上げて、アスコットが手を自由にできるようにした。
その手を手にとって、口づける。
しばし、見つめあう。
鮮やかなグリーンの、特徴的な瞳。
目立つほどではないが、整った顔立ちをしている。
どこかでまだ、彼は海の真意を測りかねているようだ。
(本気でしてほしいって言ってるのにな)
この状況になっても、自分から抱いて欲しいとは言えなかった。
「…アスコット…」
その代わりに名前を呼び、目を閉じてキスをせがむ。
触れる程度のキス。しかし繰り返すうちに体が少しずつ熱を帯びてくる。
もどかしくなって自分から舌を入れた。
アスコットはそれに応える。
(私ばっかり、焦ってる…)
そう思いはしたが、自分の気持ちに気づいた以上はそれに従いたかった。
独占したい。
離れていても、何の不安も感じないほどに。
触れたい、触れられたい。
離れている時間、彼の体温を思い出せるほどに。
心のどこかで怖いとは思っていたが、後戻りしようとは思わなかった。
海は少しだけ体の向きを変え、自分の後ろ側に手をやった。首のあたりにあるホックをはずして、ゆっくりと背中のファスナーを下げ始めた。
しかし緊張しているせいか、中途半端に横向きになっている体勢のせいか、スムーズにいかない。
もたついているところを見られて、余計に焦る。
(不器用だと思われるかな)
それを見てアスコットが、途中まで降りた状態のファスナーを下まで降ろしてくれた。
いったん起きあがり、膝立ちになる。
「…脱がせて」
アスコットが海の肩からワンピースを滑り落とす。
すでにファスナーの開いていたそれは、するりと膝の位置まで落ちた。
完全に脱ぎきっていないその状態のまま、彼に抱きつく。
布越しに感じる体温が心地よい。
上着だけでも脱がせたくて彼の衣服に手をのだが、服の構造自体がわからない。
その手をアスコットが止め、自分で上着を脱いだ。
左腕に、中に着ている服の上から、革のベルト付きポーチをつけている。
腕時計などよりも太いそのベルトを、右手だけで器用に外す。
煙草程度のサイズのポーチに、いったい何が入っているのだろう?
「それ、何なの?」
海が尋ねるとアスコットが答えた。
「中身?傷に塗る薬と、解毒剤と、小さいナイフ――護身用のね」
そして体育座りのような座り方をして待っていた海の、膝の位置にあったワンピースを完全に脱がせてくれた。
見上げて、微笑んで言う。
「私が守ってあげるのに」
その言葉にアスコットが笑って、言った。
「じゃあ、外しても大丈夫だね」
そしてベッドサイドにあるナイトテーブルの引き出しにそれを放り込んだ。
下着は自分で脱がないと。彼がブラのはずし方を知っているとは思えない。
(服が違うって、こういう場面で不便ね)
実際は同じ世界の男の子でも、下着を脱がせるのには意外に苦労したりするものなのだが、彼女はそのことを知らない。
下着にかけた左右の手と同時に、肩胛骨を寄せるようにしてホックをはずす。
水色のブラが白い肌から離れるのを、なんとなく直視出来なくて、アスコットが目をそらした。
そういう姿を見て、可愛いと思う。
近寄って、頬にキスをする。それから、軽く驚いてこちらを向いた唇に。
上着を脱いだだけのアスコットと、ブラもしていない状態の海。
それに気づいて、彼の衣服――幸い、セフィーロの人がよく着ているただのタートルネックだ――を脱がせることにした。
しかし、慣れないせいか、結構難しい。
結局、アスコット一人で脱いだら数秒で済む服を、二人がかりで脱ぐ羽目になった。
服から抜け出した頭を、髪が乱れて鬱陶しいのか、ぷるぷる左右に振る。
子供っぽいその動作を見て海が笑った。
「犬か猫が濡れちゃった時みたい」
「イヌ?ネコ?」
セフィーロには犬や猫はいない。似たような動物がいても、名前は違うだろう。
それに気づいて、海が説明する。
「私たちの世界で人間がよく飼ったりする動物よ。光は犬を飼っているわ」
「……………」
とりあえず、彼女の話は理解したが、動作が似てると言われても反応に困るようだ。
何を言えば分からない様子の彼の、明るい茶色の髪を指で梳く。
見つめ合う。
もう一度キスを交わす。
アスコットが幅広のヘアバンドを、外してくれたのを感じた。
ヘアバンドを外してくれたその手を捕まえ、もう一度横たわる。
捕まえた手を、彼女は自分の胸元に持っていく。
一瞬、彼が手を引っ込めかけたが、捕まっているため出来ない。
彼女の手を振り解くような真似は、彼には出来ないのだ。
空いている右手を伸ばす。
彼女が手を伸ばしたところで、座った状態の彼に届かないのだが、その距離は彼が近づくことで0になる。
物理的な距離だけでなく、心の距離も同じように埋まったようで、嬉しかった。
首に両腕を回し、抱きつく。
いよいよこれから行為が始まるのだ。
(やっぱり、ちょっと緊張するかも…)
何かに期待していることは自覚していたが、何に対してなのかはわからない。
アスコットが頬に触れる。
抱きついた腕に力を込めて、引き寄せる。
キスをしながら、彼の手が頬から首へ、首から肩、そして胸へと移動するのを感じた。
目を閉じ、それを受け入れる。
自分でするよりも優しい感触が、嬉しくもあり、もどかしくもある。
「…ん…もっと…」
少しずつ、強くなっていく動きに吐息混じりの声が漏れる。
次第に固くなっていく先端が彼の手に触れる度に、体が痺れる。
「…あ…あっ…」
自分の手とは違い、予測の出来ない動き。
すでに理性などなかった。
「はぁ…あ…っね…くちでも…して?」
言われるままに、アスコットがそこに口をつける。
「あっ…あ…んんっ…!」
自分の手では絶対に得られない感覚に、全身が慄える。
いつの間にか、胸元にある頭を抱きしめていた。
胸に押しつけられる形になっていたため、苦しいのか、彼が顔を上げる。
顔を上げたことにより、海の姿が目に入る。
耳まで赤く染まった顔、乱れた髪、潤んだ瞳。呼吸を弾ませている。
それを見て彼が赤くなって目をそらそうとしたが、抱きついてそれを止めた。
かたく閉じていた膝を、ゆっくり開く。
温かい手が、膝に触れる。
下着の上からも触れているにも関わらず、そこからはかすかな水音がした。
恥ずかしさのあまり、海が顔を背けた。
布地越しの感触がもどかしい。
甘い疼きを感じながらも、薄く目を開ける。
目が合う。
アスコットが手を止めた。
グリーンの瞳を熱に浮かされたような気分で見つめ、ささやくように言った。
「…脱がせて」
彼の手が下着にかかった時、海は自ら腰を少し浮かせた。
ブラと同じ、水色の下着から、華奢な脚が抜けた。
アスコットが海の表情を伺いながら、爪先から膝へ、膝から内股へとくすぐるように、指先を滑らせていく。
蜜が溢れるそこに指の感触を感じた時、思わずぎゅっと目を瞑った。
その様子を見て、彼が手を離した。
「あ…だいじょうぶだから、続けて…」
慌てて言ったが、その慌てように自分が驚いた。
(なんだか…ものすごくして欲しいみたいで恥ずかしいな…)
これ以上赤くなりようがない頬が、さらに熱くなったような気がする。
その頬にキスをして、そっと指先を秘所に這わせる。
「…っ…あ…」
濡れた指先の触れる場所に、血が集まったような感覚。
「ここも…して…」
彼の指を、一番敏感な場所に導く。
アスコットは言われた通りに、そこをなぞる。
「あぁっ…ん、っく、あ、あっ…」
声が止まらない。
何度か自分でしたことはあったが、いつも途中で刺激に耐えられなくなり、手を止めてしまっていた。
「…はぁ、あ、ん、っ、あぁっ…」
だが今は指と体の所有者が異なるため、耐えられなくなっても止まらない――やめてと言わない限り――。
自分でしていたのなら、間違いなくもうやめている。
頭の中が白濁していく。
無意識に快感から逃れようとして、首を時折左右に振る。
そうしているうちに、彼女を責め立てる感覚が、少しずつ変わっていった。
(な…に?変な感じ…)
限界が近い。
声をあげるが、先程までのあえぎ声と違って、うわずった呼吸音に近い声だった。
息を吸う度に、快感の水位が増すような気がする。
その波に、爪先から頭まで飲み込まれた瞬間、頭の中の白濁が閃光に変わった。
「―――――――っ!!」
声すら出ない。
体が小刻みに震える。
アスコットの指にもそれが伝わり、彼は手を止めた。
海の長い髪が乱れ、目からは涙がこぼれていた。
アスコットが丁重なまでの優しい仕草で、顔にかかった髪を整え、涙をぬぐってくれた。
生まれて初めての絶頂に身体はかなり疲れていた。息はまだ整わない。
だが彼女は続きを、さらに求めた。
「おねがい…もう…」
拭われたはずの涙が、また瞳に溜まる。
事の重大さも、今ならまだ止められることも、アスコットにはわかっていた。
しかし本能的な部分が、後戻りは出来ないと、彼に告げる。
一瞬の逡巡が、グリーンの瞳に映る。
それでも、海は彼を求めて、手を伸ばした。
その手の甲に、アスコットがキスをしてくれた。。
まるで、キリスト教徒がロザリオに口づけているような動作。
彼にとって、自分がなんなのかをぼんやりとした頭で理解した。
嬉しくもあり、切なくもある。
もっと、求めて欲しい。生身の女性として愛されたい。
しかし、そう思っても、彼女には求めることしか出来なかった。
求めさせる術を、知らない。
回らない頭が際限のない思考に囚われそうだったその時、唇に軽いキスをされた。
「本当に、構わない?」
「…して…」
そう答えた次の瞬間、入り口に異物感を感じた。
一瞬混乱したが、すぐに理解した。
アスコットがそっと、指を挿れたのだ。
ゆっくりと奥へ入ってくる。
一度奥まで入ってしまうと、異物感は消えた。
中を探るように、内壁を緩やかに擦る。
「ん…ふあ…あ…」
初めての感覚に声をあげる。
花芽に触られた時の体を突き抜けるような感覚と違って、滲み出てくるような感覚。
「…っ…あっ…」
痺れるような快感に背をそらす。
そんな彼女の様子を見て、彼は指を抜いた。
やめないで、と言おうとしたが、入り口に指とは違う熱いものが触れたのを感じ、目を瞑った。
彼の首に腕を絡ませる。
(そういえば、いつの間に服脱いだんだろ…上半身を脱いだとこまでしか見てないけど…)
どうでもいいことに気づいたが、初めての痛みに全ての思考が飛ぶ。
「―――――――!!」
指が入ってきた時の異物感とは比べものにならない圧迫感に、声も出ない。
「…大丈夫…?」
アスコットが訊いてくれたが、その声がどこか遠い。全ての感覚が痛みに囚われている感じだ。
「つづけて…」
半ば本能的に、そう答えた。
彼女が息を吐くタイミングに合わせて、彼が奥へと侵入してくる。
動きが止まった。
奥までたどり着いた彼に、強く抱きしめられた。
(…え…?)
今まで彼がしてくれた、全ての行為は「海のためにしてあげたいから」だった。少なくとも海にはそう思えた。
だが、この瞬間、彼が自分を抱きしめたのは「彼がそうしたいと思ったから」だと感じた。
幸せのあまり、涙が出そうになる。
「アスコット…もう少しだけ、このままで…」
首に回したままの腕に、力を込める。
――二人の時間の感覚がなくなってきた頃、海が腕の力を緩めて、微笑んで言った。
「もう、いいよ…」
頬にキスを落として、彼がゆっくりと動く。
圧迫感はなくならないが、慣れてきたのか、痛みが和らいでくる。
「…あ…んっ…はぁ…」
繋がっている場所の中の一点から、痺れるような感覚が広がる。
海が慣れてきたのを感じ、アスコットが少しだけ動きを早めた。
「あ…あ…っ…んんっ…」
内壁が締め付け、退く時には襞が絡まって、彼を苛む。
彼にも余裕は全くない。
理性どころか、思考さえも奪われる中で、海の声に艶が混じっていくのを感じた。
なるべく一定のリズムで動いていたのだが、締め付けるだけでなく、海自身がしどけなく動くために、そのリズムも乱れる。
少しずつ、高みへと昇っていく。海にもそれはわかった。
痺れるような感覚が、快感へと変わっていく。
「はぁ、あ…あ、あっ…」
二人が繋がっている場所が、さらにきつく締まる。
海が体を仰け反らせた時、身体の中が熱で満たされるのを感じた。
「ん…く…あ、あああっ…」
「…………っ…!」
自分の声でよくわからなかったが、声にならない声を、アスコットが上げたような気がした。
――意識を失っていたのだろうか。
(えっ…と、ここ、アスコットの部屋よね?)
服は着せられていないが、ちゃんとベッドの中で寝かされている。
隣に、アスコットが寝ている。
あどけない寝顔。
(かわいい…)
その可愛い彼と、さっきまで何をしていたのかを思い出し、赤面する。
アスコットの服が床に落ちてしまっている。
長衣と、中に着ていたタートルネック。
下は穿いているらしい。
(あ、自分だけ服着てる)
軽く頬を膨らませるが、ナイトテーブルの上に海の衣服やヘアバンドがあるのを見つけてご機嫌を直す。
(私のだけ、ちゃんと置いておいてくれたのね)
寝ている彼の額に、そっとキスをした。
「………ん…?」
「あ、ごめん…起こしちゃった…」
グリーンの瞳が、うっすら開いてこちらを見た。
茶色の髪を撫でると、その手を軽く握り、ちらっと時計を見てから目を閉じた。
(相当眠いのかしら?そういえば、今日この部屋に来た時も疲れてたみたいだったな…)
アスコットの手を、そっと布団の中にしまってベッドを出る。
繋がっていた部分が痛む。
下着を身につけ、自分の服ではなく、床に落ちた長衣を羽織ってテーブルまで歩く。
ティーセットと、海のバスケットが置いたままになっている。
(ああ、フルーツケーキ、渡さなきゃ…)
これが目的だったはずなのに、忘れていた。
いや、おそらくそれは自分に対する口実だったのだろう。
会いたかっただけなのだ。
(あれ?)
海が部屋に入ってきた時に彼が片づけたはずの筆記用具と、見覚えのない紙が置かれている。
メモパッドと、そこから一枚だけ破った紙。紙には何か書いてある。
(地図?字は読めないな…話す言葉が同じなんだから、字も同じだったらいいのに)
おそらく彼女宛てだろうに。
メモパッドから一枚、紙を拝借した。
そこにメッセージを書いて、バスケットの中からフルーツケーキを出してまとめて置いておき、再びベッドに戻った。
朝、再び目を覚ました時、アスコットがテーブルの所にいた。
お茶を飲みつつ、本を読んでいる。
きちんとワンピースを着て、そちらへ行く。
「おはよう」
にっこり笑って、椅子を勧めてくれた。
お茶が出そうとしてくれたが、それを制止して、アスコットの飲みかけを一口だけもらう。
きょとんとしている彼を見て笑う。
「ねぇ、これって私宛て?」
昨日見たメモ(らしきもの)を指さして訊ねる。
「うん」
「地図、よね?どこの?」
「今住んでる場所の」
「寄宿舎の?」
「20日後からは、その地図に書いてる範囲内だけだけど、僕も許可なしで、開いてる時間に自由に外出出来るから…」
「……?」
「その時は、良かったら会いに来てもらえないかな?数時間しか会えないけど」
それを聞いて嬉しくなって抱きつく。
電話も通じない、手紙も届かない、究極の遠距離恋愛。
たとえ結ばれた後でも、一か月以上会えないのは、どうしても寂しい。不安はないにせよ。
そもそも、彼が外出できる時と自分がセフィーロに来れる時が一致するとは限らないのだ。
数時間でも、会えるだけ幸せというものだ。
しかも、彼からそう言ってくれた。
嬉しくて泣きそうになるが、泣いたら間違いなくアスコットは困惑する。
それがわかっていたから、抱きついて顔を隠したまま、呼吸を整えた。
手を離して、ここに来た時に見せたよりも、魅力的な笑顔を向けて言った。
「絶対に会いに行くわ」
アスコットは一瞬、赤くなって目をそらしたが、すぐに笑顔を向けて言った。
「ありがとう」
可愛いと思うが、なんとなく気を悪くされそうで言えない。
昨夜と同じように優しく彼の頭を抱いて、言った。
「光と風のところに戻るね」
二人きりでいたいが、いつまでもここにいるわけにはいかない。
「一緒に行っていい?すぐに部屋に戻って来ちゃったから、二人に会ってなくて」
その言葉に同じ気持ちを感じて、海は微笑んで頷いた。
空になったバスケット――昨夜取り出したフルーツケーキは、ラッピングもそのままにテーブルの上にあった。
それを指さして、言った。
「これ、手作りなんだからちゃんと食べてね?」
「もちろん」
自然に笑ってそう言ったアスコットが、何かを思い出したようだ。
昨夜海が書いたメモを手にとる。
“For:Ascot 今回もお手製です。頑張って作ったから、ちゃんと食べてね♪”
「これって、何て書いてあるの?」
(さっき「食べてね」って言っちゃったから、意味なくなっちゃったな…最初から直接言えば良かった…)
間の抜けたことをしてしまったな、と思う。頬が紅潮する。
「……………?」
聞かない方が良かったのかな、とアスコットが困惑しているのを横目でちらりと見て、呼吸を整える。
笑顔で――間違いなく小悪魔の笑顔に見えただろうが――答えた。
「大好きって書いたのよ♪」
赤くなりながらも、それにしてはあからさまに長い文面を、彼は困惑して見つめた。
********** fin