(一体、何をする気なんだろう…?)
自分の両手首を見て、半ば呆然と、半ば困惑して、彼は思う。
基本的に彼はいつも、彼女の要求を受け入れる。
ある時は笑って、ある時は困りつつ。
彼女がときどき、その従順さに不満を覚えることに、彼は気づいてはいた。
しかし自分が拒んだり何かを要求したりすべき時はいつか。
彼――アスコットにはそれがいまひとつわからず、結局いつも彼女に従うのだ。
――今日も。
彼女――海が不機嫌になっても無理はないと、彼にもわかっていた。
所謂、遠距離恋愛中の彼ら。
その上、アスコットが城から離れた場所で学んでいるため、光や風のように「城に来れば会える」というわけではない。
会える時は限られていた。
海がセフィーロへ、アスコットが施設の外へ、二人共が外出を出来る時。
彼ら自身も驚く程、その機会は少なかった。
さらに困ったことに二人とも、「会えないからお互い自分のペースで生活を」というのが困難なのである。
海の場合は、アスコットが不在とわかっていても、光と風に付き合ってセフィーロに来る必要があり、彼女らが恋人と幸せな時間を過ごす時に自分は恋人と会えず…という状態になる。
そしてアスコットは城から離れた所で学ぶ身、外出は出来ても短時間。そして時折、機会を得て城に戻ってみても、当然海がいるわけもない…という状態になる。
遠距離恋愛とはそういうものなのかもしれないが、当事者達はそう達観出来ない。
だから海はそのフラストレーションを、ようやく会えた恋人にぶつけているわけである。
二人きりになり、ひとしきり不満を口にした後、彼女は大人しく謝る彼に言ったのだ。
「本当に悪いと思ってるなら、今日は好きにさせてよね」
そして――…今に至る。
彼をベッドに横たえて。
上半身だけ裸にして。
そして、両手首を縛って。
軽すぎる程に軽いキスを降らせて。
視線はほとんど彼の顔に固定したまま、手探りで少しずつ、彼の熱を上げていく。
細い茶色の髪。小さなグリーンのピアスがついた耳。首筋。肩。
綺麗な細い指でくすぐるようになぞっていく。
くすぐったいのか、彼が身動きする。
彼女は一度手を離し、彼の右側に寝そべった。
彼の胸に頭を載せて。その体勢のまま、彼女は彼の目を見上げる。
「動いちゃだめじゃない」
咎めるように、というより優しい意地悪。
(動くなっていわれても…)
無言のまま、しかし彼は彼女に対して表情を隠せない。
彼女が少し笑うのが見えた。
「だめよ、動いちゃ」
何かの言葉遊びのように繰り返して、彼女は姿勢を変えないまま、手を彼の胸の上に置いた。
指先を滑らせていく。胸から少しずつ、下へ。
先程と違い、恐ろしく不規則な動き。
何かを描くように、行ったり来たりを繰り返すその行為は、あからさまに彼を焦らすためだ。
それでも、彼には何も言えず、自分の中の何かが上昇していくのを知覚するのみだった。
僅かに、彼がまた身動きした。
彼の髪がシーツと擦れる音がして、彼女は顔を上げた。
上から彼の顔を見下ろして、拗ねたように言う。
無論、演技だ。
こういうときの彼の反応はいつも、彼女を悦ばせる。
そしてそれは、彼も知っていた。
彼女はそれを全て知った上で、演技を続ける。
「なぁに?つまんないの?」
「……………」
無言。演技を見抜いたところで、彼には何をどう言えばいいのかわからない。
とりあえず、首を左右に振る。
「本当に嫌じゃない?」
今度は縦に首を振る。
彼女が小首を傾げてみせる。
視線は彼から外さないまま。彼の視線を絡め取ったまま。
露に濡れる花を連想させる唇が、小さく笑みの形に変わった。
美しい笑顔だが、天使のそれではない。
「――こういうことをしても?」
「……………っ!」
さっきまで彼を焦らすように動いていた彼女の手が、突然「彼」を掴んだのだった。
驚きにグリーンの目を見開いて、呼吸を整える彼を見て、彼女は先程より若干優しい笑顔を見せた。
「もう、脱がせちゃおうか」
彼女が呟くように言うのが聞こえた。
続きをしてほしい気はするが、明るいところで服を脱がされることに少し抵抗があった。
なので結局、何も言えず、彼は彼女の表情を見つめた。
彼女が後ろを向いた。
彼に背を向けて、そろそろと服を脱ぎ始めた。
白い背中が露わになる。
その姿を心底、美しいと思いつつ、彼はひとつ別のものにも注意を向けていた。
彼の手首を縛っているもの。
縛っているとは言っても、ミニスカートに付いていたリボンベルトだ。
素材は柔らかいし、その上、結び目が彼の右手の近くにあった。
いっそのこと、解いてしまおうか?
正直、この不自由な状態をなんとかしたかった。
「まだ解いてあげない」
服を脱ぎ捨てた彼女が、彼を見下ろして言った。
既に熱を持った彼のものを、服の上から触りながら。
「今日は、私の好きにさせてもらうんだから」
そう言って、そっと彼の衣服を脱がせた。
羞恥からか、彼が少し顔をそむけた。
彼女はそれに構わず、部屋の空気にさらされた彼のものを、手で包み込むようにして撫でる。
声こそ上げないが、時折吐息が震える。
それに気付き、彼女は手での行為をやめ、今度は口を使い始めた。
「……ん……っ…」
まだそう何度も経験していない感覚に、何度も声をあげそうになる。
彼女は上目遣いでちらちらと彼の顔を見ていたが、次第に行為に没頭していった。
動きが早く、激しくなってくる。
頭が痺れるような感覚に捕らわれる。
その頭を、このままでは彼女の顔を汚しかねないという考えがよぎって焦る。
「…ウミ……も…やめ…」
彼女は彼の言葉が聞こえたにもかかわらず、目線すら上げずに、口で彼を責め続ける。
彼が縛られたままの手で、軽く彼女の頭を押しやろうとしたが、その手を掴まれてしまった。
彼女が彼のものから口を離し、掴んだその指先を口に含む。
指先に男性器にするのと同じ口技をする彼女。
エロティックな眺めだ。
イカされる心配がなくなった安堵と、寸止めされたことによる生理的な満たされなさ。眼前の美しい恋人の行為。
見られてもいないのに、表情の選択に困る。
彼女の整った顔に、長い髪がかかる。
それを払いたいが、彼女の口にある左手と、右手が繋がっていてうまくいかない。
彼女の行為を妨げないように、そっと指先でベルトを解こうとする。
――しかし。
「だめよ」
顔を上げた彼女に制止されてしまう。
「…いつまで?」
真顔で彼が問う。
怒った振りをして彼女を困らせない、笑って余裕を見せもしない。
そこが彼の可愛いところだ、と彼女は密かに思う。
「可愛い」が彼にとって褒め言葉にならないのを知っているので、決して口にはしない。
自然に笑みがこぼれたが、何も言わない。
無言のまま、微笑みを口元にたたえたまま、彼女が彼のものを自らの秘所にあてがった。
驚いて制止しようとする彼の顔を見ることなく、そのまま腰を落として中に導く。
既に充分過ぎる程に濡れているそこは、スムーズに彼を受け入れたが、それでも準備をしなかったためか、多少痛む。
いつの間にか閉じていた目を開けると、気遣わし気な彼の表情がそこにあった。
(まるで初めての時みたいね)
そう思いながら彼女がゆっくりと動く。
二人に少しずつ快感が押し寄せてくる。
「…はぁ…あ……」
彼女が動きながらも、背を反らせて快感に高い声をあげる。
「…ん、あ、はぁ…あ…」
何かに急かされるように、性急な律動。
加減もせずに昇り詰めて行く。
そのまま果てるまで続けるように見えたが、突然動きが止まった。
「…ウミ…?」
彼が驚いて声をかけた。
動くのをやめたことにではなく、彼女の表情に。
彼女は泣きそうにも見える、切羽詰まった表情を浮かべていた。
表情はそのまま、飛びつくように、慌てて捕まるように、彼女が彼の縛られたま
まの両手首に手を伸ばした。
もどかしげに手首を縛るベルトを解こうとする。
結び目がなかなか解けず、彼女がさらに泣きそうになる。
その姿を見て、彼がそっと、短く軽いキスをした。
「…え…?」
この日初めて――逆は何度もあるが――彼女が少し驚く。
彼が動かしにくい手で結び目を緩めていく。
スムーズには出来なかったが、それでもベルトは解け、ベッドの上に落ちた。
自由になった彼に彼女が抱きつく。
「ね、抱きしめて?」
ほどなくその願いが叶った。
「…さっきからずっとこうして欲しかったの」
抱きついたまま、心底幸せそうに彼女が言う。
「ちょっと手が冷たくなっちゃってるわね」
その言葉に、抱きしめていた手を離し、彼が自分の両手を見た。
「そう?」
「強く縛り過ぎたかな?ごめんね」
ふるふると茶色の髪を揺らし、彼が頭を横に振った。
その様子に微笑して、彼女が両手を前に差し出した。
「…何…?」
彼には彼女の行動の意味がわからない。
「今度はアスコットが縛ってもいいわよ」
もう一度、彼は首を横に振った。
「どうして?」
彼が彼女の華奢な身体を抱きしめる。
「こっちの方がいいから」
顔は見えなかったが、彼女が幸せそうにくすくす笑うのが聞こえた。
「でもこれじゃ、動けるわよ?」
「そう?」
「…ほら、ね?」
彼女が抱きしめ返す。
二人で顔を見合わせて笑った。
繋がったまま、自分達は一体何をしているのだろう?
グリーンの瞳を見上げて、彼女が言った。
「続き、してくれる?」
彼はそれにキスで答えた。
そっと体勢を変えて、正常位になった。
彼がゆっくりと動く。
「…っ…あっ…あ…」
規則的な抽送。
先程までの自分の動きとは違う、言い表せない安心感を彼女は感じた。
繋がっている部分が、「温かい」とも「熱い」とも言えない熱を持っているのを二人とも感じていた。
感覚を共有する幸福。
「…あ、はぁ、あぁっ、んんっ…」
快感から逃れようと、身体を無意識に動かす。
しかしその動きによって、内部の予想しなかった場所が刺激されてしまう。
「きゃ、あ…っ」
快感と。逃れることで与えられる刺激と。幸福感と。
彼女の内側が次第に溶けそうに熱く、きつくなっていく。
それによって彼も少しずつ限界に近づいていった。
意識が遠ざかるような気がする。
結合部を擦り合わせるだけの行為が、どうしてこんな快感を生むのだろう。
そこから伝わる感覚だけが、やけにクリアだ。
「あっ…ん、っく、はぁ、あっ…」
彼女の声が限界を知らせる。
少しだけ動きを早めた。
首に絡められていた彼女の細い腕に、いつの間にか強い力が込められていた。
裏返りそうな高い声、自分に抱きつく腕、彼女の中の収縮。
全てに、囚われていく。
「あ…あっ、んんっ、…ああっ…!」
腕から力が抜けたと同時に、自分が強い力で抱きしめられたのと、内側が熱いもので満たされるのを彼女はぼんやりと感じた。
――果てた後もしばらく繋がったままでいた二人だったが、アスコットの手が自由にならないという理由でようやく離れた。
ベッドに入って向かい合って、お互いの体温を感じるだけの時間。
二人とも相手を抱きしめる側になろうとして譲らない。
期せずして無言の無邪気な戦いが繰り広げられたが、引き分けに終わった。
結果、額をくっつけあうような体勢になってしまった。
自分達の姿に――さっきまでの行為との落差に――ついつい苦笑してしまう。
くっついた額はそのままに、彼女が呟いた。
「もうすぐ夏休みなの…楽しみ」
「ナツヤスミ?」
「40日ぐらいお休みなのよ」
彼は何も言わなかったが、彼女は彼が少しだけ笑ったのに気づいた。
自分と同じ期待をしていることに。
“その期間はもう少し、こんなふうに過ごせる”
彼のいる街まで出かけて数時間だけ、という慌ただしいデートではなく。
共通の期待を抱きつつ、どちらからともなく眠りに落ちた。
彼女が目を覚ますと、彼は額を彼女の額にくっつけたまま眠っていた。
ふと、気づく。
(…抱きしめる方がいいって言ってたくせに)
彼女の手が拘束されていたのだ。
ベルトではなく、彼の両手によって。
(解けないじゃない…そんなふうに幸せそうな寝顔見せられちゃったら)
彼女の両手を握ったまま穏やかに眠る彼の顔を見ながら、彼女も再び幸福なまどろみに身を任せた。
**********fin