(え…うそでしょう……?)  
ハルの愛車チャリンコは確かに7段変速のついた優れものだったけど、  
さすがに自動操縦なんていう機能は付いていなかったはずだから、  
止めておいた本屋の前からひとりでに姿を消すなんてありえないのだ。  
「盗まれた」という場合を抜きにすれば、絶対!  
「お、おかーさん…!ハルの自転車が…!!」  
我が家が坂の上にあったものだから最悪だ。  
8月、気温35℃の無風の中をハルは、30分歩いたのだ。  
愛車のチャリンコなら10分でスーイスイのところを、30分。30分ですよ。  
やっとの思いで涼しい玄関に倒れこんだら、本屋の袋はもうグシャグシャになっていた。  
脱ぎ捨てたサンダルが裏返しに落ちたのには気づいていたけれど、  
めんどくさいから直さない。  
「なーに騒々しい…自転車がどうしたの?ディーノ君来てるわよ?」  
「自転車が、自転車が盗まれたの!そんでハル歩いて……え?」  
「盗まれた?あの自転車!?だってあれまだ新しかったじゃない!」  
「ちょ、それより誰が来てるって!?」  
「だからディーノ君。ねえそれ被害届出した方がいいんじゃない?」  
「…なんでそれ先に言ってくれないの!!!!」  
「え、なにが?被害届!?」  
ありえないありえないありえなーい!  
慌てて階段を駆け上がる途中2回滑った。  
ドアを開けたら、いた!いた!いた!(膝、痛!)  
「まったく…階段くらいもう少し静かに上がれねぇの?」  
「あ、上がれますよ…失礼な!」  
ハルが一番気に入ってるグラスでオレンジジュース飲んでる。  
ハルが今朝起きたまんまのベッドにもたれてる。  
ハルの部屋のクーラーが18℃に設定されてる。  
 
ディーノさんがいる!  
 
温度低すぎですよ…!ていうかいつ来たんですかなんで来たんですかー!?」  
「日本に来たのは昨日。休暇だから。温度はこれくらいでちょうどいいんだよ」  
「…」  
「他に何か聞きたいことは?」  
「…去年の夏は来なかったですよね」  
「去年はいろいろ忙しかったんだ」  
「…日本に来るなら来るで連絡してくれてもいいんじゃないですか」  
「うん、この部屋に入った瞬間、連絡しなかったの後悔した」  
「え、なんでですか」  
「年頃の娘の部屋とは思えなねーぞ…さっきパンツ落ちてたし」  
「はひぃ!?うそっ!?」  
「嘘」  
「…」  
クーラーの設定温度を24℃に上げたら、ディーノ殿下は、  
「上げるなよー、ハルが入ってきたら急に暑苦しくなったんだから」  
とおっしゃられた。ここ一応ハルの部屋です!  
ちょっとは考えてくださいよ。  
ハルは今、愛車チャリンコが盗まれて、そのせいでこの炎天下を30分も、  
30分も歩いてきたんですよ。水のペットボトルもなしに!誰の愛の手もなしに!  
途中、あのチャリンコが今頃どこの誰の手に渡って、  
どんなことになってるのかを考えて泣きそうになりながら。(オーマイチャリンコ…)  
それを急に来たアナタは暑苦しいとか言って邪険にするわけかね?ハルの部屋なのに!  
「最悪ですよもう…」  
「あっちょっと、それ俺のジュース」  
「ハルのグラスじゃないですか」  
「知らねぇよ…」  
「ハルだって知りませんよ…」  
 
連絡してくれてたら、ハルは本屋なんて行かないで部屋の片付けしてたよ。  
そしたらチャリンコも盗られずに済んで、ハルもこんな汗まみれにならずに済んだんだ。  
なんだ、結局全部ディーノさんが悪いんだ…!薄情者!疫病神!サド!最低!…!  
 
「…せめてシャワーくらい浴びたかったです……」  
「え、やめてくれよ昼間から。そんな元気ないしかなりノーサンキューだから」  
「はひ?!ちょ、やめてくださいよ変な想像するの…!ただ汗流したかったって言ってるだけです!」  
「ならいいけど」  
「そんなのこっちだって願い下げですよ…」  
「…」  
「…イタリアにはかわいい子がいっぱいいるんでしょうし(ぼそ)」  
「なにそれ」  
「別に…」  
「ああ、ヤキモチ?」  
「!ちがいますよバカッ!なんなんですかほんと、  
 帰ってくださいよもう!もうお前帰れほんと!キーッ!」  
「カッカするなよ、暑いから」  
そしてディーノさんは平然とリモコンを手に取り、クーラーの温度を19℃に下げた。  
…さっきより1℃上がっているのは、この人なりの譲歩と見るべきか?  
なんであなたはそんな涼しげな顔してんの。  
ハルはねえ、たった今チャリンコが盗まれてねえ、この暑い中30分も!歩いてきて!  
汗だくになって、けっこう気に入ってるTシャツがべたべた背中に貼り付いてすごく気持ち悪くて、  
そんで来るって言うのに連絡もしてこなかったし、1年以上電話も寄越さないし、  
そのせいで「彼氏はイタリアにいるの!」って言ってもクラスの子に全然信じてもらえなくて、  
すんごい肩身狭い思いして、昨日なんかテレビの録画予約忘れて最悪で、  
飛行機でイタリアまで行ってディーノさんのこと連れて帰ってきて、  
これが彼氏ですって学校中触れて回ろうかなとか思ったくらいなのに、なんですかあなたは。  
約1年半ぶりの彼女を見ても何もなしですか!  
「…」  
「それ汗?涙?」  
「…うるさいんですよ…(ズビー)」  
「うわ〜…(すごい顔)」  
「どうせきもいよねごめんね!じゃあ見ないでください出てってくださいー!」  
「…いー!って言われても…」  
「最悪ですよほんと…」  
 
ほんとしつこく何度も言うようだけど、会うって分かってたら、  
こんな鼻水と涙と汗まみれになる訳なんて全然なかった。  
ハ、ハルにだって、彼女としてのプライドぐらいあるわけですから、  
もっといい服着て、顔もバッチリでニコッとか笑う予定だった…だろうに……  
すごい嫌そうな表情でこっちを見てるディーノさんの顔が手に取るようにわかる。  
何でハルはよりにもよってこんなの好きになって彼女やってんだろな…。  
何が悲しくてほんとに…わ、ほんとにわからなくなってきたぞ…凹  
「ハル」  
「…」  
「…ハル」  
「…なんですか」  
「あのね、ハルより可愛い女なんてそりゃいくらでもいるよイタリアには」  
「…でしょうね」  
「別にわざわざお前みたいなの日本に残して来なくても、浮気も出来たわけだし」  
「……すればいいですよ」  
「…なんかヤな感じだねさっきから」  
「そのセリフそっくりそのままあなたにお返ししますよ…!」  
ディーノさんはこれ見よがしにため息を吐いてどさっとベットにもたれた。  
安いオレンジジュースに浮いていた氷がピシッと音を立てた。  
…惨めだ。普通の男でも愛想つかすよこれは。  
ファミリーをまとめるディーノさんなら尚更ですよこんな鼻水女。  
そりゃ自転車も盗まれますよね!そりゃね…!  
(わたしに降りかかる全ての不幸はディーノさんのせいじゃないのかなあ!?)  
「…ディッジュどっでくだざい」  
「ん」  
「ありがとございます…」  
「…」  
「…」  
「…だから、」  
「…」  
「なんで一年半ぶりに日本に来たすぐツナの所にも寄らないでここへ来てるのかを考えろってことだよ」  
そこまで、息継ぎしないでディーノさんは言った。  
 
…今ハルは機嫌が悪いんですよ。  
自転車盗まれて、暑いし、汗だくだし、部屋汚いし、そういえばさっきぶつけた膝痛いし、  
ハルの飲み物に氷なんか入れてくれないくせに、  
お母さんディーノさんのジュースには氷めっちゃ入れてるし、  
ハルすごい顔だし、あなたは薄情です。もう超やな感じだ。  
 
機嫌悪いんですよ。  
 
 
 
(…でもちょっと直った)  
 
「泣くか笑うかどっちかにしろよ」  
「…じゃあ笑う」  
「おう」  
「ディーノさん、オレンジジュースをもうひとくち」  
「…えー」  
「(だからここハルの家ですって…!)」  
 
結局ディーノさんは笑いながら、一年半ぶりの甘いキスしてきて、  
「めんどい」とか言うんだけれど、ハルのことを嬉しそうに抱きしめてくれた。  
溶けた氷で薄まっていくオレンジジュースを見ながら、  
この夏が終わらなければいいと思いました。マル。  
 

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